永訣の夜明け




 夜が明ける気配がした。車窓から吹き込む風が変わったのだ。夜露の静寂が、朱鷺色に色づく気配。呼吸の気配。葉が、梢が、息吹(いき)をする気配。目醒めの予感。はじまりの予感。
 終わりの予感。


***


 夜行列車に飛び乗って、くだんの村に向かうはずだった。
 だった、とは、今がいつだったか思い出せないからだ。
 痴呆か? 耄碌したのか? と疑いの眼差しを自分に向けると同時に、息子はどうしているだろうかと、そんな心配が心に迫ってきて、そうか、自分はあの子を育てあげた自分だ、と水木は思い出した。あの村に向かう夜行列車に乗って、いつの間にか降りて、虚ろな日々の先で、あの子と出逢った。
 いつ降りたのだろう。考えても分かるわけがない。水木は、最期まで思い出せなかった。最期まで。死ぬまで。そこで更に気が付く。ああ、自分は、死んだのだ。あの子を拾って、育てて、生きて、そうして死んだ。今ここにいる、夜明けの気配を帯びた空の下、列車に揺られる自分は、そういう自分だ。
 泣いてほしくなかったな、と、ひとりごちる。
 嬉しくなかった、といえば嘘になる。今際の際、いなくなる養父を想ってくれた、小さな泣き顔を思い返す。とっくに成人を迎えていても、あの子は少年の容姿からひたと変わることがなかったけれど、だからだろうか、水木は、悲しい顔なんて浮かべてほしくなかった。
 けれど、哀切の涙を、自分に手向けてくれることは、心から嬉しかった。
 ああでも、やっぱり泣いてほしくなかった。

 ──お前には親父殿がいる。ひとりじゃない。そしてきっと、たくさんの縁に結ばれて、これからの長い生を生きていく。そのなかの瞬きでも、一緒に過ごせたことを、俺は誉に思うよ。
 
 そう告げる、老いた自分を想って涙してくれたあの子の優しさが、愛おしかった。
 そうだ、あの子には本当の父親がついている。だから大丈夫だ。だいぶ小さな矮躯ではあるが、というか目玉しかないが、見識と懐の広い立派な父親だ。
 目玉の父親。そうだ、彼も泣いてくれた。
 なぜだろうか、その涙には、嬉しさよりも、どこかむず痒い気持ちになった。
 なんだよ、お前まで泣くのかよと、つい、軽口を叩いてやりたくなってしまう、そんな気安い、気の置けない、むず痒さを覚えるのだ。

「お前は、ずっとずっと泣き虫だったんだなあ」

 ふと、苦笑とともに、まるで懐かしむみたいに、つぶやいていた。言の葉は、勝手に口から滑り出ていた。
 どうしてだろう。
 ひらかれた車窓から、ひとひら、花弁が舞い込む。水木の手のひらに降り立ったそれが、桜色のはずのそれが、一瞬だけ、赤く見えた。
 ──どうしてだろう。
 赤色。
 想い合う比翼のふたりが、赤い湖で抱きしめ合っている。
 脳裡によぎる光景。
 抱きしめられた女性の、慈しみの声。相変わらず、泣き虫ね。
 ──どうして。
 そうだ、お前は、きっとずっと泣き虫だった。
 お前が愛した女性は正しかった。
 ──どうして、忘れてたんだろう。
 水木は、目を瞠った。
 桜の花弁は手のひらから消えていた。
 
 息子を抱く水木を見詰めるとき。
 水木が、名乗らないなら「めだま」と呼ぶぞ、といい加減な声かけをしたとき。
 煙草を分け与えたとき。
 息子が初めてつかまり立ちをしたとき。
 桜が嫌いだと告げたとき。
 息子の榛色の髪を撫でるとき。

 あのときも、このときも、そのときも。数えだしたらきりがない。
 病めるときも、健やかなるときも。悲しい時も、嬉しいときも。
 いつだってお前は、ことあるごとに泣いていた。
 まるで、墓場で呑み交わしたあのときのように。大粒の涙をこぼして。
 お前の愛したひとは、正しくお前を理解してたなあ、と、からかってやれれば良かった。

 懐を探れば、懐かしい、小さな青い小箱に触れた。いつ辞めたかなんて興味もなければ憶えてもいなかったが、今また思い出す。思い至る。
 そうか、お前にやった一本が、最後の一本だったんだな。
 燐寸を擦って、灯す。云十年ぶりの煙を吸い込んで、吐く。
 吐き出された紫煙の向こう、向かい合わせの正面の座席に、いつの間にか、男が座っていた。まるで当たり前のように。
 飄々とした風体、縹色の着物、ほうぼうに伸びたざんぎりの白髪。右の視界を覆う前髪。ぎょろりと瞬く四白眼。
 それを見遣って、水木はつい、口角が上がってしまった。なんだお前、そんな、当然みたいな。どっしりと構えて、人の向かいに座りやがって。
 俺のすぐ隣にいるのが当然みたいな、そんな笑みを浮かべて。

 水木は上がる口角のまま、つい先刻に言葉を交わした仲のように、まるで生まれる前から知っていた間柄のように、気安く言葉を投げかけた。
 
「待たせたな、相棒」
 
 じっとこちらを伺うだけに徹していた男は、相好を崩して笑った。

「待っておったよ」

 きっと、水木が思うよりもずっと、長い長いあいだ待ち続けてくれただろうことも。
 そんなこと、おくびにも出さないような、友に向ける気安い言葉だった。



***


「だから悪かったって」
 水木は困っていた、というより呆れていた。
 先ほどまで飄然とした態度で友に挨拶を寄越してみせた男が、うりゅと大きな目に涙を溜めて、鼻をぐずつかせ始めたからだ。
 涙の堤防は恐らくもう少しで決壊するだろう。
「死ぬまで思い出してやれなかったのは悪かったと思うよ。でも仕方がないだろ」
 水木の言葉に、男は「ちがうわ」と目じりを濡らしてねめつけてくる。
「お主が!お主がぽっくり逝ってしまったことに泣いとるんじゃ!」
「だからそれも悪かったって」
「うそじゃ!」
「なにが」
「お主、たいして悪いと思っておらんじゃろ!」
 さすが、十数年を共に暮らした仲だ。こちらの考えなどお見通しであるらしい。水木は悪びれることなく「九十まで生きたんだぜ、大往生だろ」と返した。すると、男は「生きた年数など関係ないわ」と駄々を返す。
 人間は100年も生きられないと、生前に再三教え続けたというのに、この男は──いや、生前は目玉だったので、この目玉だった男は──まるで理解しないままでいたらしい。いや、理解しているのだろう、ただ認めも受け入れもしなかったのだ。その証拠に、死後の今でも駄々をこねこねしている。
「だから儂は、共にゆこうと言ったのに……、お主が頑固者じゃから……」
 洟をすすりながら、男は恨みがましそうに水木にこぼし続けた。
 水木は「またそれか」と完全にあきれ返る。
 生前、哭倉村の記憶を喪失したままだった水木は、墓場で拾った義息子の鬼太郎と、その実父である目玉の親父と共に十数年を共にした。
 彼らが水木の元から去り、妖怪の世界に居を構えたあとも、家族としての交流は続いていたが、その期間、ことあるごとに目玉が誘いをかけてきたのだ。
 「共に妖怪の世界で、同じ時間を生きないか」と。
 水木は断った。誘われるたびに、ことあるごとに断り続けた。
 目玉はそのたびに切なそうにしていたし、水木が高齢になるにつれ、だんだん逆ギレもした。「なんつう頑固者じゃ!」と飛び跳ねて起こるので、水木はパンケーキを焼いて振る舞い、ごまかした。目玉もごまかされた。
「誘われるたんびに言ったと思うがな、俺は人間として生まれたから、人間として死ぬんだよ」
 水木はさも面倒くさいという表情を隠しもせずに、紫煙を吹かした。
「みずきのがんこもの!いけず!」
 ついに涙腺の堤防を決壊させて男は声を張り上げる。が、水木はまるで聴こえないとばかりに車窓へと視線をやった。
 相変わらず、夜行列車は進み続けている。水木と目の前の泣き虫を乗せて、ガタゴトと車体を一定のリズムで揺らして、どこかしらへと二人を運んでいくようだった。
 改めて車窓の外を眺めれば、そこには「銀河」と形容するしかないほどの、無数の星屑が揺らぎ、またたき、明滅していた。
 銀河に満ちる夜の気配は、夏の匂いを含ませている。だが、夏の夜空、頭上にあるはずの天の川は見つけられなかった。汽車の走る線路のすぐ傍を、河川を思わせる光の筋が並行して流れてゆくので、もしかしたら、あの真っ白な光の流れこそが天の川なのかもしれない、なんてことを考えた。自分にしては些か浪漫チックが過ぎた発想かと、薄く笑みがこぼれる。河岸には、ススキが燐光を放って揺れていた。
「ところで、お前はなんでこの列車に乗ってるんだ? というか、なんで体、戻ってるんだ」
 車窓から視線を向かいの男に戻すと、「今更か」とばかりに男がジト目になった。
 確かに、今更触れるのか、という気がしないでもなかったが、それは、水木が疑問に思う前にぐずって泣き出した目の前の男のせいだろう。どさくさに紛れて失念せざるを得なかった。水木はそう思う。
 しかし、よくよく考えればおかしいのだ。目の前の男は、「男」の姿をしているはずがないのだから。
 水木が記憶を失くしたあの場所で、男は、その身を怨嗟と呪いに焼かれてしまったのだから。
 そうして、目玉ひとつの存在で、現世へと残ったはずなのだから。
「お主、思い出したんじゃろう」
 男は袂で目じりを拭うと、すっと背筋を伸ばして言った。
「儂がこの出で立ちでおるのは、お主の記憶と共に封じられた我が霊力の一部が、水木の死を契機にその枷から逃れたためじゃ」
「もう少し分かりやすく言ってくれ」
 にべもない水木の言葉に、男は憤慨するように「わかりやすいじゃろが!」と地団駄を踏んだ。

 要約すると、こういうことらしかった。
 目玉であった男は、水木の生前、出来得る限りの手段を用いて、自らの肉体を取り戻す試みをしていたらしい。その甲斐あって、男は失った肉体に相当する霊力を取り戻した。
 しかし、彼の躰は戻らなかった。
 取り戻した霊力で肉体を編み上げる。そうして躰を得るつもりだったが、なにかが足りなかった。
 ピースがひとつ嵌らないまま、そのピースが何か判別される前に、相棒である水木はこの世を去った。男は、ついぞ且つての姿では呑み交わせなかったことを深く嘆き、悲しんだ。
 だが、水木の死こそが、足りない何かへの糸口だった。
 水木のなかには、「箱」が在った。この箱とは、具象的ではない、あくまで抽象的なたとえであり、そこには哭倉村で失った一切の事象、体験、経験、記憶が詰め込まれていた。箱は厳重に蓋をされて、存在ごと水木の中に秘匿され続けた。
 そして、箱に封じられた──秘匿されたもののひとつに、男の霊力の一端が在ったのだ。
 「幽霊族の男」は、水木という男に、名を与えられていた。名とは強固な祝福であり、呪いであり、縛りであり、縁(えにし)である。因果を結ぶ糸ともいえる。つまり男と水木のあいだには、存在同士に因果の糸が結ばれた。
 水木には難しい理屈は分からなかったが、結論として、男の霊力──正しくは魂魄の一端らしいが──は、因果の糸を経由し、水木の秘匿した「箱」へと封じられた。
 それが、男が肉体を取り戻すにあたって求めていた、最後のピース──欠片であった。

「俺が死ななければ、お前は躰を取り戻せなかったってことか?」
 水木が若干の気まずさを覚えながら問うと、男はかぶりを振った。
「お主の死が契機とはなったが、本質を云えば、水木の中に在る〝箱〟が開封されることこそが条件であったのじゃろう。必要だったのは死ではなく箱の開封、つまりは〝記憶を取り戻すこと〟じゃ」
 水木はしばし沈黙した。せざるを得なかった。
 つまりは、自分が思い出してやれれば、この目の前の男は、もっと早くに本来の姿を取り戻していたということであり、それが真実なら、あまりにも申し訳が立たない気がしたのだ。
 しかし、男はそのこと自体にはそれほど興味がないとでもいうように、構わず続ける。
「それに、躰は未だ取り戻せたとは云えぬ」
「え?」
 思わず俯かせた視線をあげると、男は顎に指を添え、思案顔で言う。
「このままお主が黄泉道をくだりきれば、今の儂の姿も保たれなくなるじゃろうて」
「な……!」
 聞き捨てならない、とばかりに水木は瞠目する。
「おかしいだろう、俺はお前を思い出したし、箱? とやらも開封されたんだろう!それで戻るんじゃなかったのか?」
「正確には、思い出したのではない。死という事象の先で魂だけの存在となり、伴って箱の封印がほどけた状態となったに過ぎない。蓋そのものは閉じたままじゃ」
 男は滔々と続ける。
「箱は依然、お主の魂のなかに存在しておるし、この夜汽車は黄泉へとくだり、お主の魂を連れてゆく。いずれかの駅で降りたお主の魂は、漱ぎ清められ、それと共に、箱も失われるじゃろう」
「……」
「要するに、お主が黄泉をくだるこの夜汽車のなかでしか、儂はこの姿を保てぬ」
 苦虫を嚙み潰したような心地だった。ぐっと唇を噛んでみても、魂だけの存在だからだろうか、どこか現実感のない痛みが伴うだけだった。血は出そうにない。
「……この夜行列車がどこかに着いちまう前に、おれのなかの箱を開けきったら、なんとかなるのか?」
 唸るような声でこぼすと、意外にもすんなりと男は肯いた。
「箱自体はすでにほどけておるからの。〝そこ〟から儂に必要な欠片を取り出し、手渡してくれれば、儂は現世でも躰を取り戻すことができるじゃろう」
「……つまり、この夜行列車がどこに着いちまう前に、お前になにか渡せばいいんだな?」
 めちゃくちゃ要約するとそうじゃ。男は再び肯く。
 水木はさっそくとばかりにポケットを探った。──そこでふと気が付いたが、自分はどうやら、男と出逢ったときとまったく同じ姿をしているようだった。且つての黒地のスーツに臙脂色のネクタイ、革靴という装い。車窓に映る背格好は三十代前半の若々しさで、髪も黒々として艶がある。そうか、この髪の色で男と再会できたのは、本当に「いま」が初めてなのだと、そんなことに今更実感が湧いてしまった。
 なればこそ、絶対に渡したい。彼に。友がこれからを生きていくために必要な欠片を。
 自身が我が魂の中に秘めて、守り通してしまったものを。
 だが。
「……煙草にハンカチ、腕時計、切符……だけか」
 水木が現在所有しているものを全て椅子上に並べてみるが、それらしきものは見当たらなかった。
「切符は黄泉を往くお主のものじゃ。きちんと持っておれよ」
 男が他人事のような、飄々とした声音でそう言うので、水木は若干苛立った。お前に必要なものを探してるんだろうが、という言葉を飲み込む。齢九十まで生きた水木だったが、穏やかにこそなれど、生来のせっかちな気質も気の短さも、別になくなりはしなかったのだった。
 腕時計は、こう、時間を指すものだからなんとなく魂っぽい気がしないか? などと思案しながら気を揉む水木を、男はしばらくのあいだ、どこか喜色交じりに眺めていた。
 そうして、水木が溜息を吐いたタイミングで、声をかける。
「なあ水木よ、お主、まだひとつ忘れておることがないか?」
「え?」
 意図せぬ声掛けに思わず顔を上げると、男はにこにこと笑んでいた。
 水木は訝しんだ。そして思案した。
 まだ、忘れていること?
 焦りを含んでいた水木の思考は、うまく回らない。
 男は続ける。
「お主は、まだ儂の名を呼んでくれておらん」
「……、……あ」
 名前。
 そうだ、この「男」の、名前。

 ぱっと、車窓の外でまばゆい光が走った。
 それは、天気輪の柱だった。三角標に形を変えて、いくつもの光の柱が通り過ぎていった。
 車内アナウンスがかかる。『──まもなく白鳥の停車場……』
 そのあいだにも、再度、天気輪の柱が通り過ぎる。光が線となって車内を駆け抜ける。薄暗い車内で、真っ白な光が、瞬きのあいだ、男と水木との輪郭を照らし上げて、また暗くなる。
 そのたったひと刹那に浮き彫りになった、目の前の男の、なまえ。水木がもたらしたもの。男が受け取り、受け入れ、我がものと認めたもの。ふたりを結んだ祝福と縛り。水木が死ぬまで、その存在の中に秘匿して、守り続けたもの。
 〝箱〟のなかの宝物。

「──ゲゲ郎」

 呼ばれた男は、うっすらと目じりを濡らして、破顔した。
「やっと呼んでくれたな、友よ」

 何かが割れるような、けれどひび割れる硬質なそれではなくて、まるで卵の殻が破られたような、柔らかで、躍動のようで、静かで、愛しい音がした。
 ああ、ゲゲ郎だ。
 あの夜、共に酌み交わし、悪夢のなかを駆けて、再開を誓った我が友だ。
 やっと会えた。
 やっと思い出せた。
「そうか、──まだ、名前を渡せてなかったんだな」
 そうだ、これだ。
 きっとこれを手渡さなければならなかった。
 これこそが、自分と「ゲゲ郎」とを結ぶ糸だったのだ。
 安堵する心地だった。同時に哀切のようなものがよぎった。
 手渡せた。手渡してしまった。
 ならば、彼が共に乗車し続ける理由もなくなるのだろう。
 あとは水木ひとり、黄泉への旅路を辿るだけだ。
 水木はゲゲ郎をじっと見つめた。彼も見つめ返した。
 また会えて嬉しかった。そう紡ぐために、水木が口を開くよりも少し早く、ゲゲ郎が笑みを象った口で告げた。

「じゃが、もうひとつ足りぬようじゃ」
「……は?」





つづく!



2025.04.29
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