永訣の夜明け ー北十字・プリオシン海岸
『次いで停車します駅は、はくちょうの駅──』
いくつかの光の筋が車内を走り、車輪の廻る音も自然に感じられてしまった頃、車内アナウンスがかかった。
「はくちょうの駅……、北十字か」
水木は、窓辺に頬付きながら、ぽそりとこぼす。
「白鳥が十字架?」
その言葉にゲゲ郎は、こてん、と首を傾げた。
水木は、昨日の夕飯の献立を教えてるような、なんでもないような声音で返した。
「星座だよ。前に鬼太郎と山で星空観察しただろ」
「ああ、星々を繋げてなぞるアレか」
「はくちょう座ってのがあって、その繋げ方が十字架に見えるんだとよ」
北に座す十字架だから、北十字。
「なるほど、あれか」
そういうと、ゲゲ郎は車窓のガラス戸を上に引き上げて、顔を外へのぞかせた。
彼が指をさす先には、小高い丘がみえた。線路沿いの、星屑の河川の向こう。対岸にぽつんと存在する丘が。
丘には、凍った北極の雲を鋳て造ったような、金色の円光を放つ十字架が、すきっとした様子で立っていた。
「なるほど、十字架じゃ」
「はくちょうには見えんよな」
「そうじゃな」
そうして、2人して窓から乗り出して見詰めていると、どこからか、びいどろのような透きとおった歌声が聞こえてきた。
「歌か? ……いや、讃美歌か」
「さんびか……、ああ、異国の神を讃える歌か」
しばし歌に聴き入る。
びいどろが玻璃の上で跳ねるような、凍た氷の断面のような、澄んだソプラノが響く。
「異国の言葉はわからぬが、美しい歌声じゃの」
「まあ、そうだな」
どこか歯切れの悪い水木の応えに、ゲゲ郎は再度、首を傾げた。
水木は続ける。
「美しいとは思うよ。だが、それだけだ」
「それだけ、」
「神さまなんて出鱈目を信じて賛美する気持ちが、俺には分かりかねるってことさ」
水木は、車窓から十字に瞬く光を、丘を見つめ続けた。
その悲しげな横顔を、ゲゲ郎もまた見つめる。
“神様“なんてまやかしだ。いつか、生前に水木が溢したことがあった。
神はいるぞ。ゲゲ郎の応えに、その神様とは違うんだ、と水木は返した。
なるほど、とゲゲ郎は理解した。幽霊族は神を持たないが、人間は違う。“神“を創り、自分たちの信じたいように信じる。信じるために争う。お為ごかしの道具とする。からっぽの傀儡としての、偶像の“神サマ“
横顔は動かない。動かないまま、水木はこぼした。
「人間が嫌いだったって、言ってたよな」
俺もだよ。
十字の光が遠ざかっていく。
耳に輪唱するような、高い歌声が、徐々に果敢なくなっていく。
「俺も、人間が大嫌いだった。あんな愚かで醜悪な生き物は、人間以外に知らないと思うほど、嫌いだった」
「……」
「嫌いだったんだ」
水木が言い終える頃には、もう、歌声は届かない場所に行っていた。
ガタゴト、車輪の静寂だけが、密やかに2人の間を満たした。
「だった、なのじゃな」
いらえはないと分かっている声音で、ゲゲ郎が水木へ語りかけた。水木はやはり黙っていた。ゲゲ郎も分かっていたと、薄く微笑むばかりで、何も言わなかった。答えもいらえも求めなかった。
しばしの静寂が二人を包む。静寂ごと車両は銀河を駆けた。
どれくらいが経ったのか、まるで苦にもならない静寂を共有するままに車両に揺られていると、再び車内アナウンスがかかった。
『プリオシン海岸──』
車両待ち合わせがあるらしく、どうやら次の駅では暫くの停車時間があるらしかった。
車窓に横顔を向けていた水木が思い立ったように話しかける。
「降りるぞ、ゲゲ郎」
「何か心当たりでもあるのか?」
彼が降りると言うことは、友の体を取り戻す契機となる何か手がかりを思い当たったということになる。
だが、水木は首を振った。
「いいや、降りて探すんだよ。心当たりを」
じっとしてたって見つかるとは思えないからな。
「営業マンは足を使ってななんぼなんだよ」
「なるほど、お主は死したのちも働き者じゃな」
皮肉混じりのゲゲ郎の言葉に、水木は小さく足蹴りして返した。
***
車内アナウンスのとおりに、汽車は駅へ停車した。重たい音を立てて車両が停止すると、扉が開いた。プラットホームには、うっすらと青紫にけぶるようなガス灯の光がくゆっていた。
水木が立ち上がり、続いてゲゲ郎も立ち上がる。二人はプラットホームに降り立ち、改札へと向かう。
そこは大きくはないが、質素な美しさのある駅舎だった。待合室は温室のように一面がガラス張りになっており、天井までは2階ほどの高さがあった。ゲゲ郎でも手の届かない高さに張り出窓があり、窓にはステンドグラスがあしらわれていた。月でも出ているのか、ぼんやりとした外からの薄明かりで、室内は光源もないままにうっすらと仄明るさを保っている。
そんな待合室には、誰もいない。ただここにも静寂が満ちているだけだった。
「静かだな」
ぽつりと、水木がこぼした。
ふたりはそのまま駅舎を出ていった。
駅舎の前には、羅針盤のような図形のえがかれた広場があった。そこから、ガス灯の小さな灯りがポツポツと支えながら、1本の道が奥へ奥へと続いていた。その道以外には灯りもなく、駅舎の中を照らしていた月のような大きな光源もなく、どこかのっぺりとした薄暗がりが広がっている。
「道は外れるなよ、水木」
不気味ではなく、だが危うさだけは確信できるその薄暗がりを見つめながら、ゲゲ郎が言った。水木は小さく頷く。そして、道の脇に立つガス灯のひとつに、銅板で拵えられた看板を覗き込んだ。
「この先、プリオシン海岸……」
「どこじゃ、そこは」
「俺が知るかよ。お前の方が詳しいんじゃないのか」
地獄にだって行き放題なんだろ。水木が軽い口振りで言うと、ゲゲ郎は「そんなわけなかろう」と呆れ顔をした。
水木はそうなのか、と意外そうにする。
「だってお前、奥さんに会いに行ったとか言ってなかったか?」
「会ってはおったが、行き放題なわけではない。それ相応の技術と対価を払っておったぞ」
「へえ」
「その生返事はなんじゃ、自分で話を振っておいて」
水木は悪びれもせず「早く行こうぜ」と返してくる。
ゲゲ郎は思う。そういえば“あの水木”はこんなやつだったかもしれん。と。
記憶をなくしたあとの彼も、確かに水木だった。けれど同時に、「ゲゲ郎」と友になった彼ではなかった。あのとき、あの村で、ゲゲ郎に「お前こそ」と約束した彼でも、「奥さん、見つかるといいな」とぽそりと呟いた彼でもなかった。髪の色が抜け落ちた水木は、ある意味憑き物を落としたような諦観と落ち着きを持っていた。生き急ぐような苛烈さを抱えて洞穴を共に走り抜けた焔を、記憶を失くした水木は、どこかに落として来ていた。
それはそれで良いと思っていた。憑き物が落ちることが悪いわけがない。ただ我儘な自分が、「ゲゲ郎」だった自分が、どこかで寂しいと呟いただけだ。
だから、今、「ゲゲ郎」の自分は思う。
嬉しいと。
友がいる。「ゲゲ郎」の友がいる。
「どうした、ゲゲ郎」
水木は暗がりに向かって続く道を進みだしていた。
そこから振り返り、「ゲゲ郎」へと語りかけていた。
名前を呼んでいた。
幽霊族の男を初めて縛った“名前”を。
「今ゆく」
ゲゲ郎は、なんでもない顔をして、友の元へと歩を進めた。
*
ガス灯のけぶるような頼りない燈りに横顔を照らされながら、ふたりは1本道を歩き続けた。
平坦だった道は次第に起伏がおこりはじめた。そして、ある場所を境に、目の前には道を両端に挟んで、大きな岩肌が切り立って起立していた。 どうやら、大きな断崖のなかを、道は突っ切っていこうとしているらしい。崖を作り上げる岩肌は、暗がりのなかでどこか乳白色にほの白く光っている。
「変な岩だな」
「じゃな」
ふたりの感性の中に、その光景を幻想的だと呟く語彙は特には存在していなかったらしい。
そのことに、二人同時に「ほかに言うことはないのか」と笑ってしまった。
ふたりは更に歩を進める。切り立った崖のあいだの一本道を。ただ無言で。
そしてふいに、視界が開けた。
「海だ」
そこには、夜と空と、星の海が広がっていた。
開けた視界一面に、太陽に照らされてもないのに白く淡く発光する砂浜と、夜空一面に織りなされる星の海。それを海面が鏡合わせように映し出して、凪いだ水の中に星空を瞬かせていた。
「ゲゲ郎」
海岸まで辿り着くと、水木がしゃがみこんでゲゲ郎を呼んだ。
「見ろよ」
ゲゲ郎は、水木が手にしたものを覗き込んだ。
彼の手のひらのなかには、水素よりも透き通った海水と、そのなかでちかちかと内部を小さく爆ぜさせる金剛石があった。
「おお、星が燃えておるな」
「へえ、星って燃えるのか」
きょとんとした口ぶりの水木に呆れるようにゲゲ郎が返した。
「お主、鬼太郎と一緒にてれびで観たじゃろう。あぽろが月に行ったとかで、どこもかしこも宇宙や星の話をしておった」
バンパクにも行って、共に月の石を見たじゃろうに。
呆れるような口ぶりのゲゲ郎に、水木は「おぼえてるよ」と慌てたように返した。
「忘れるもんか。あの子とお前との、家族の思い出だぞ」
しらーとした視線を寄越すゲゲ郎に返す水木の手のひらの中で、ひと際おおきな光が爆ぜた。
「え?」
金剛石の内部がいっそう爆ぜて、赤に青に緑に黄に、線香花火のような燐光が小さく飛び散る。
散った光が、水木の手のひらのなかで重なり合って、ひとつの画になった。
それは、一人息子と手をつなぐ水木と、水木の胸ポケットのなかで笑む目玉の姿だった。
おぼえてる、と水木は小さく呟く。
その画は、その光景は、確かにあの日の、1970年の大阪万博に3人で赴いた帰り道のそれだった。
だが、画を形作っていた光はまたたきのあいだに失せて、爆ぜていた金剛石の内部も、静まり返ってしまった。
手のひらのなかには、夜に佇む鉱石が、沈黙と共にあった。
「水木、」
呆然とする水木を、ゲゲ郎が呼ぶ。
水木がそちらへ向くと、彼の手のひらのなかにも、波打ち際から掬いだされたばかりの金剛石があった。
それもまた、線香花火のように小さく爆ぜている。そして、水木とゲゲ郎の視線が石の上で交差すると同時に、赤に青に緑に黄に、ひときわ大きく爆ぜて、また、「画」を生み出した。
それは、あるときに思い立って購入したスーパーカブを玄関先で意気揚々と目玉に見せている水木の姿だった。
おぼえてる、と、また、水木は言葉にならない言葉をこぼす。
卸したてのジャケットを羽織って、慣れないサングラスをかけて、胸ポケットの中の目玉に「行くぞ」と語り掛けた日。
息が白かった。その年は、雪こそ降らないが、いやに空気が冷えて乾燥していたのを覚えている。
その光景も、画も、またたきのあいだに失せて、波打ち際の静けさに溶けてしまった。
「どうやら、この海岸線に転がる金剛石のひとつひとつに、その存在の”思い出”が綴じ込んであるらしいのう」
「思い出……」
どこか茫然としたように、水木はゲゲ郎の言葉を聞いた。
そして、広い海岸線を、右から左まで、なんとはなしにぐるりと見渡した。
夜色に静まり返った波打ち際には、確かに、いたるところに、小さな光を抱えた石が転がっている。かぞえることもばかばかしくなるほど、美しく、静かに、ひそやかに、こまかに。無数に。
この小さな光のひとつひとつが、燃える星のひとつひとつが、自分の思い出を綴じ込んで、明滅しているのか。
水木は静かに息を吐いた。
90年と少し。そうだ、長い人生だった。若いころは想像だにしなかった年月を生きた。
それほどの時間に積み上げて、織り成してった思い出。
それは、これだけの数になるだろう。
大切な家族とのそれなら、これだけの美しさになるだろう。
「長かったな……」
満足するように、水木は小さく笑んだ。そしてこぼした。
ゲゲ郎が振り返り、水木を見遣る。
水木は、その視線に視線を返した。
「長かった。でも、お前たちのおかげで、悪くない人生だったよ」
水木の目じりが、柔らかく皺を寄せるのを、ゲゲ郎は静かな瞳の色で見つめた。
「そうじゃのう。確かに、短くはなかった」
幽霊族のそれに比べれば、あまりに果敢なく短いそれだが。
決して短くもあっという間でもなかった。
「とても濃厚じゃった」
ゲゲ郎は手のひらの中で静まり返る石を見詰め直した。
「この石の──燃える星のように、鮮烈で、苛烈で、またたきのようじゃった。お主との歳月は……」
だからこそ、口惜しい。
ゲゲ郎は、その一言を呑み込んだ。
水木にとっては、長い道のりだったろう。
ゲゲ郎にとっても、短いとは言わない。言えるわけがない。
鮮やかに焼き付く彼との一瞬一瞬が、彗星のように尾を引いて、その尾から出でた星々が、思い出の端々が燃えて、また、ゲゲ郎のなかに焼き付いていく。瞳のなかに、一生忘れられないだろう想いと記憶とを刻み込む。
けれど、彼は彗星のように、もう戻ってはこない。
だから、口惜しい。寂しい。
短いなんて決して思えないのに、鮮やかに燃える彼の青い瞳が、またたきの閃光のように思えてならない。
そして、青い閃耀を抱えて生きるには、 幽霊族の自分の時間は、あまりにも長い。
彼の生涯が短いのではない。
彼を失って生きるこれからが、あまりにも、長すぎるのだ。
「ゲゲ郎?」
訝しむような声音で、水木が問いかける。
ゲゲ郎は、呼びかけに応じて、伏せていた瞳を彼のそれに合わせた。
そこには、確かにあった。水木が。水木の瞳が。
逃げるなよ、という言葉に、お前こそと、いたずらっぽく歪んだ瞳が。
傷を吐露し合った夜に、ゲゲ郎の願いに祈りの言葉を返した静かな瞳が。
世界ではなく、目の前の“友”の命を選び取って燃えていた瞳が。
青の閃耀が、光が、魂を燃して生きる、あの青い瞳が。
もうすぐ、永遠に失われる青が。
「これからも、」
口のなかが乾いていた。
だから、掠れるような声になった。そうに違いなかった。
「共に生きてゆけぬのか」
長さなんてどうでもいい。
長いか短いかなど些末なことだ。
水木にとって長くても、ゲゲ郎にとって短くなくても、
「ゲゲ郎」にとって失われてほしくない色が、目の前にひたと存在している。
それだけが事実なのだ。
水木は一瞬、きょとんとした。そして、ばかだな、とでも言いたげに、眉を寄せて口端をあげた。
そして、意地悪そうに顔を歪ませて、けれど、どこか子供のような喜色まじりに、無邪気に笑った。
「やだね」
意地悪な声音だった。だが、愛しくてたまらないと、瞳で雄弁に語るような、そんな言葉だった。
「……なぜじゃ」
ゲゲ郎はほとんど独り言ちるような、細い声音で返した。
ゲゲ郎の言葉を聞き届けると、水木は静かに、黙って水平線へと視線を移した。
静かな彼の瞳は、なにを思案しているのかわからなかったが、ゲゲ郎も黙ってその瞳を見詰めた。なにか応えてくれるのを待った。
だが、水木は何も言わなかった。
だからゲゲ郎は、彼の視線の先へと、自分の視線を移した。
そこには、鏡合わせの銀河と海とが静かなさざ波と共に在るばかりに思えた。水木が何を見詰めているのか、ゲゲ郎には分からなかった。
自分の言葉に何もいらえず、こたえず。 なにを見詰めているのだろう。
それとも、思案してくれてるのだろうか。
きっと最後の誘いだろう言葉に、この瞬間に、少しでも考えてくれているのだろうか。
黄泉路をくだるのをやめて、共に現世往きの汽車へ乗り換えてくれることを。
「ゲゲ郎」と同じ駅へ降りてくれることを。
ふいにゲゲ郎は、塵芥のように星々が明滅するなかに、ひとつだけ色の違うまたたきを見つけた。
それは赤い光だった。ほかの星々よりもひと際高く明滅する、赤い星だった。
水木は、あの星を見ているのだろうか。あの赤い星を。
ふと視線を感じれば、いつの間にか、水木はゲゲ郎へと視線を戻していた。
そして、また小さく笑う。満足そうに。少し寂しそうに。矛盾したような優しい笑い方をする。
「こういうことだよ」
「……は?」
思わず、といった口ぶりでゲゲ郎が眉間に小さく皺を寄せると、水木が続けた。
「俺が見てたから、お前も見てくれたんだろう」
あの星。先ほどの赤い星を指さして、水木は言う。
ひと際あかるい赤い星と、ゲゲ郎の瞳の赤色とに視線を移しながら言う。
「だから俺は、人間として死ぬべきだし、人間として死にたいんだ」
やさしい声音だった。
ゲゲ郎にとって望ましくないその言葉は、唯一無二の友に、たったひとつの愛を語り掛けるような、厳かな誓いのような響きで満ちていた。
遠くで、汽車の発車時刻を告げる汽笛が鳴り響いた。
「時間だ。行こうぜ、相棒」
ほの白い砂浜のなか。銀河の海の波打ち際。
ゲゲ郎に、水木が笑いかけた。
(続く)