きっともうすぐ、やさしい夜がくる-後




 夢は繰り返さなかった。一度きりの逢瀬だった。それが一層、最期だったことを理解させた。夢のなかでさえ、世界は甘くなかった。
 リヴァイの監察のもと、というお題目は、あってないようなものだった。
 ハンジたちが滞在していたときですら、朝方に、今日はどこへ向かうか報告するだけの簡易なもので済まされ、結果も、経過内容も、リヴァイは別に気にすることもなく、報告も求めなかった。
「学者さまの話なんざ理解できるか」とだけ返されたが、たぶん単純に興味がないのだろうと思った。それか面倒か、どちらかだと。
 エルヴィンが一人となり、調査を継続すると決めてからも、彼の態度はそのままだった。場所の確認だけが為される。
 だから、書簡が届いてからの一週間。
 エルヴィンは同じように朝食を摂り、リヴァイへ所定の土地へ向かう旨だけ伝え、バスに乗り、実地調査に赴き、サンプル採取に取り組み、再度、研究施設にてその分析を行う。屋敷へ戻っては、自室としている客間で分析結果の更なる洗い出しをする。
 その繰り返しを過ごしていた。
 ビザの失効まで、およそ残り一週間。
 期間内に終わらせることはまず不可能だ。ハンジたちの再度の入国予定はまだ遠い。
 それでも、可能な限り続ける以外ないだろう。
 エルヴィンは思考に蓋をした。滅多にする行為ではなかった。

 金属音だった。

 誰が鳴らしている? 現実感のない、おぼろげな感覚のまま呟きかける。
 だが、すぐに、無理やりに思考はこじ開けられた。金属音は直接、頭に響いた。
 なにかが、エルヴィンのこめかみを殴打した。
「ぐっ」
 ベッドに横になっていたはずの身体を、したたかに打ちつける。床はそれほど固くない。感触から、それが客間に敷かれた絨毯だと理解した。
 シリンダーを巻き上げる音がする。映画で聴いたことのある音だ。がちちち。銃弾でも装填されたのだろうか。馬鹿か。呆けた思考を一喝した。
 暗闇の室内を慌てて見渡す。ベッドから殴り落とされた自分のすぐ傍で、男が見下ろしている。
 温い温度がした。こめかみから鉄の匂いがする。血か。男の顔は見えない。
「誰だ」
 細身の黒いシルエットを揺らして、男はくつくつと笑っているようだった。
「誰だはねえだろう誰だは。てめえこそ誰だって話だろうが。なあ? 人様の家でぐーすか寝こけやがって。あ? ママの夢でも見てたのか? 不機嫌そうな顔しちまってよぉ、男前が台無しだぜスミスさんよ」
 下品な笑い方だ。黙ったまま、エルヴィンは状況を整理する。
 恐らく、就寝してしばらく時間が経っている。深夜だろう。家の人間たちは眠っているはずだ。
 ここから見る限り、窓を破られた様子はない。ドアも閉ざされている。
 名前を把握されているのだから、ゆきずりの強盗でもない。明らかに狙われているのは、自分。自分のフルネームを把握しているのは、この家の人間か、入国の際にそれを知ることができるもの。もしくは、それを知らされる者。
「政府の人間か?」
 簡潔なエルヴィンの問いに、男は、次は声を上げて笑いだした。
「こりゃいいな! 傑作だ! どうしてそう思う?」
「人様の家、と発言していただろう。この家にはあと一人、住人がいる。ケニー・アッカーマン。貴方がその人のはずだ」
 男は肯定も否定もせず、上機嫌そうに問い返した。「オイオイオイオイ!」
「その推理はおかしいだろう! 学者さんじゃなかったのか? まだ脳みそはおねんね中か?! この俺がケニー・アッカーマン様だってんなら、てめえの名前なんざ知るわけねえだろうが! 政府の人間である必要もねえ!」
 違うな。
 男の声とはまた別種に、エルヴィンの声が静かに、冷淡に部屋へと響く。
「ここはアッカーマンの家だ。当主であるリヴァイには、国の機密であるだろう調査への監察と許諾が一任されている。つまりこの家は、政府機関の人間が関わる家柄と推測できる。――そうなれば、当然私の存在も名前も、貴方のような人には筒抜けだろう。こうして家のなかに侵入できた理由にもなる。自分の家だと言うのならなおさらだからだ」
 だんだんに、暗闇に慣れてくる。シルエットだけだった男の姿が、ゆっくりとエルヴィンの網膜に届きだす。
 それは、歪めた口で酷薄な笑みを浮かべている、髭を蓄えた黒髪の男だった。
「それに、こうしてこの国で、こうやって襲われる謂われは、私にはひとつしか思いつかない」
 すでに笑みの形で吊り上げていた口の端を。
 男は、まるで三日月のように、さらににんまりと深めて広げた。
「てめえは知りすぎだ、なんて、三文芝居以下の台詞だよなあ? 俺もそう思うぜ」
「そうではないのか?」
「いいや、合っているぜ。正解だ。本来ならもっと早く、こうやってアンタのこめかみを真っ赤にしてやれるはずだったんだがよ……。俺のかわいい甥っ子が、どうやらクソほどアホならしい。こういう危険因子は早々に首を裂いちまうか、バラしちまうかするのが鉄則なんだ。あのクソチビは甘ぇんだよ」
 そもそも、ここの地質なんてもんに興味を示した奴がいた時点で、全員殺っちまえば話は早ぇんだ。
「ウーリも甘ぇ、クソチビも甘ぇ……。だがいちばん甘ぇのは、こういう輩をほいほい入国させて、オレたちにぜんぶ押し付けて満足してやがる上の豚どもだ。やんなっちまうぜ」
 出国しちまった奴までいるらしいじゃねえか! オイオイ勘弁してくれよまったくよぉ!
 ケニーと目する人物は、大袈裟に天を仰ぎ嘆く仕草でまくしたてる。
 かと思えば、ぐるん、そんな勢いのつく動作でエルヴィンに振り返った。
 そして笑顔で、その銃口をエルヴィンの額へ突きつける。
 金属の、冷たい感触が伝わる。皮膚に強く食い込む。
 そこにあるのは、輝くような目だった。男には。老獪な子どものような、無邪気な悪意が見え隠れしていた。
「なあ学者さんよ、そいつらの名前、現住所、職場……なーんでもいい、好きなもんを吐いてくれていいぜ! そうしたら今回は見逃してやる。アンタだけだ。特別に三日以内なら待っててやるからよ」
 この国から出ていくのを。
 エルヴィンは、かぶりを振るでもなく、ただ暗闇に青い目を見据えて答えた。
「殺されると分かっていて、そのような愚かな真似はしない」
 男が黙った。
 長い気がした。けれど恐らく、ただの一瞬の、男の中の呆れただけの、短い沈黙だった。
 引き金にかけた指へ、力の入れる気配。動き。
 死ぬのか。そう悟った。冷静というよりも、とても平静だった。
「そうか。勇敢だな」
 じゃあな。

 目の奥で。
 閉じる必要もない程の、目蓋の裏の、深いそこで。
 かしずいて、こちらを見上げる彼の姿と、
 白い石を光に翳し、ただ目を細める彼の姿とが、
 重なった。
 そして。

「なんのつもりだ? クソチビ」

 男の右手、銃を携えているその手首を、誰かが捻りあげ、拘束していた。

「夜中になんてもん振り回してんだてめえは……。客に失礼だろうが……」
 ガキどもも寝てんだぞ、クソ野郎。
 低い、地を這うような。不機嫌を歪めて極めたような声。言葉。
 だが聞き間違えようもない、その声音。
「オイオイオイ、俺がなんだってこんなお上品とかけ離れたことしてると思ってんだ? お前の尻拭いやってやってんだろうがよ!」
 随分じゃねえか! 俺を泣かせる気か?!
 男は不愉快そうに、だが口元だけはにんまりと、やはり愉快そうに、つまりいびつに笑い、発言し。
 暗闇の客間へ現れた、リヴァイの顔を睨みつけた。
「こいつは殺さねえ。出国した奴らもそうだ。そういう判断だったはずだ」
「豚どもの考えなんて知るかよ」
「ケニー」
 しん、と。
 リヴァイの声だけが、静かに、低く通る。
 反論を許さない、重い響きだけを伴って。
「ウーリはこのことを知っているのか?」
 逡巡のような間が空いた。
 それまでのいびつさを、笑みを、まるで殺して。
 一転して、愉快も不愉快もない、冷徹な瞳で、ケニーと呼ばれた男は、リヴァイを眇め見た。
「まさかこの国のためなんて気色悪ぃこと言いだすなよ?」
「いいや、そのとおりだぜ」
「ちがうな」
 リヴァイは言い切る。
「てめえのためだろう。お前はいつだってそうだ」
 ケニー。
 今度は諭すような、ただ静かなだけの声だった。
「ウーリの判断に従え」
 ケニーは答えなかった。



 
 ビザが切れるまで、五日。
 その日も晴れていた。めいめいに朝食が終わり、各々の一日がはじまった。なんの変わりばえもない、平和な毎日がひとつめくられた。
 後片付けを手伝ったあと、客間へと戻る。荷物はほとんどが整理され終えられていた。あとは数日分の着替えをまとめ直すだけで、いつでも出国できる。
 ただし、その荷物のなかに、この国で行われた研究・調査過程のデータは残されていない。持ち込んだ私物のなかの、パラディ島に関するあらゆる重要書籍も、それに並ぶ複写物もすべて押収された。
 命の代わりだ、安いもんだろう。
 エルヴィンから、ハンジたちが預けた分も含むそれらを受け取り、リヴァイがこぼした。
「安いか。私たちにとっては正に断腸の思いだが」
「……研究者とは、学問のトモガラとはそういう生き物らしいからな。すまないとは思っている」
「いいや、感謝しているよ。君がいなければ、私は今頃死んでいた」
 リヴァイは黙っていた。何も言わなかった。
 それが、あの夜のあとの話だ。

 ケニー・アッカーマンは、リヴァイの言葉のあとには表情を消し、
「なら〝いつもどおり〟はテメエで済ませとけ」
 そう吐き捨てると、さっさと客室から、エルヴィンの傍から去って行った。
 寸刻まで生死の、むしろ死の淵にぎりぎり踏みとどまっていただろう事態を、ようやっと身体で理解したのか、エルヴィンは全身の血が今更引いていくのを感じていた。
 リヴァイは、部屋の灯りをわずかに燈すと、絨毯から立てずにいるエルヴィンへとその手を差し出す。
 触れた瞬間に、こんなに冷たい手でも、わずかな血肉の感触にいやにほっとしてしまったことが、ひどく苦く感じられた。
 情けない。
 負け惜しみのような感情だった。
「いつもどおりとは?」
 立ち上がったエルヴィンの問いに、リヴァイは小さな口を、わずかに開閉して答える。
「〝一定ライン〟を踏み越えた奴には、存在そのものの抹消を。そうでない奴には、適当な理由をつけて脅して、蓄えているだろうこの国に関するすべての研究データ諸々の押収、そして警告を、だ」
 そうか、と。それ以外に何が言えただろうか。

 出国するための手続きを済まさなければならない。
 近隣にそのための役所のようなものは存在するのか、そう尋ねようとしたエルヴィンが探し回って、しかし屋敷のなかにリヴァイの姿はなかった。
 キッチンはいつもどおりに磨かれ、廊下には午前の陽光が美しく射している。
 リビングもまた、きれいに整えられ、庭の木々には水遣りさえ行き届き、露さえ光る。
 朝の日課をすべて済ませ、そのままどこかへ行ったのか。
(店か? 工房か?)
 あり得ない。
 彼は恐らく、「そういった立場の者」の規律に違反している。自分たちを殺させないがために。
 本来なら──いつの段階でだかは定かでないが、〝一定ライン〟とやらを越えてしまっている自分や、ハンジたちも、出国など許さず、ケニーのような人間に知らせて始末してしまうはずだったのだろう。きっと、前例はあったはずだ。
 けれどリヴァイは、報告は行っていても、決定的なことを知らせていなかった。
 それをケニーだけが気付いた。
 だから、彼は来た。独断で。恐らく、彼の主君の意に添わずに。
 リヴァイはそこを突き、彼を追い返した。
 それでも、ケニーが知らせてしまえば終わりだ。リヴァイは役目を放棄した罪に問われる。
 つまり今、エルヴィンの監視をせずにどこかへ出かけるのは、彼にとっては致命的でしかない。
 出国まで、エルヴィンがこれ以上の詮索を行わないよう細心の注意を払い、自分を殺すか、もしくは何も持ち出さないよう出国まで見届けるか。
 そのどちらかのはずだ。
 エルヴィンは屋敷をうろうろと彷徨った。そして、ふとエントランスの階段が目についた。女性が階下へ下りようとしていた。
 クシェルだ。リヴァイの、彼の母親。
 彼女もまた、こちらに気付いた。視線が交わり、リヴァイとよく似た顔が、まるで違うように、柔和な微笑みを浮かべた。
 青白い肌の、柔らかく滑らかな生白さが、その優しい雰囲気を裏切り、背徳的に美しく魅せた。
「おはよう、エルヴィン」
「おはようございます、ミセス・クシェル」
 ミセスなんていいって言ってるのに。クシェルは吹き出した。
 それに曖昧に微笑んで返すと、クシェルはきょろりと周囲を見渡す。
「リヴァイを探しているの?」
「……ええ。そうです」
 なぜお分かりに?
「だって、昨晩、クソ兄貴が来ちゃったんでしょう?」

 面食らった。
 なんだろう、この国に来て、この家に来てから、エルヴィンは衝撃を受けやすくなっている気がしていた。
 柔和な、魅せるほどの微笑みを浮かべる女性から、予想外の単語が飛び出したことにも。
 彼女がなにもかもに気付いている、知っている可能性が充分にあったのだという可能性に、深く考え至っていなかった自分に対しても。
 ただ瞠目するしかないほど、衝撃的だった。
 鳩が豆鉄砲を食らったよう、とは今この瞬間の、自分の顔のことだ。
「ごめんなさいね……。胸糞悪い人だったでしょう? リヴァイが似なくて本当にほっとしてるくらいなの。それに、私もアッカーマンの人間だから……。ある程度のことは把握しているわ。ごめんなさい、こんな家で」
「いえ、それは……」
「リヴァイにも申し訳ないと思ってる」
 クシェルは、白のカーディガンをきゅっと握りしめた。
「こんなこと、あなたで終わりにしたいわ」
 リヴァイなら、たぶん海にいるから。
 言い残して、クシェルはエントランスから去っていった。

 海、とひとことで示されても、土地勘のない自分に果たして分かるのか。
 アッカーマンの屋敷を離れ、街を歩く。足の向くまま移動し、着いたのはリヴァイの店の前で、なかにはエレンだけが居た。
「リヴァイさんがしばらく休みにするって言うんで、今雑用だけ終わらせてるんです」
 エレンはカウンターの奥で帳簿を広げたり、顧客リストの整理を行っていた。
 店内を見ていても構わないか。
 エルヴィンの申し出に、エレンはこれといった余計な気遣いをみせるでもなく、「いいですよ」とだけ返す。集中しているらしい。
 ぐるり。首と、そして体とで、店内を一周し、見渡す。
 店のなかには、何度も訪れたその日のままに、美しいと形容されるもので溢れている。
 そして、そのなかに。
 エルヴィンが達していた仮説を裏付けるだろう、あの指輪たちが。
 まろい白さの、いくつもの繊細な装飾品たちが。
 小柄な玻璃のケースのなかで、控えめに存在を輝かせていた。
「エレン」
 はい? カウンターから返事が届く。
「これをひとつ、売ってくれないか」

 海へと出る道は、案外と早くに見付かった。最初にバスで通り抜けた林の途中、徒歩で脇道に逸れれば良いらしい。
足を進めるごとに、背の高い林がだんだんに低くなり、ついには木洩れ日さえ薄くなって、そうして、唐突なように、それは終わった。
 視界に、青が広がる。
 潮の香り。
 幾度も嗅いだことのあるはずの、香り。

 砂浜をゆく。見通しはよく、海岸線は穏やかに、ゆるやかな弧を描いてつらなる。
 そこに、さざ波が打って寄せて、還っていく。
 エルヴィンの足跡を消していく。
 少し進めば、目的の人物はすぐに見つかった。
 凪いだ海辺に、それでも黒髪は揺すられて、風に絡み取られ、陽光に反射していた。
 小さな頭。小さな身体。
 夢のなかのひと。
「リヴァイ」
 声を掛ける前に、リヴァイは気付いていたようだった。
 隣に寄っても、一瞥をくれるだけで、こちらを振り向くことはない。
「お前は賢いくせに、馬鹿だな」
「……唐突だな」
 エルヴィンは、リヴァイが見詰める方向に、自らも視線を寄越してみる。
 広大な、青い場所が広がっていた。青い向こう側が続いていた。
 そして途切れて、終わっていた。
 水平線の向こうは見えない。
 世界の向こうは決して見えない。
「俺が監視してないと分かっていて、どうして逃げなかった? わざわざ探しにまで来やがって。殺される可能性は、お前が思うほど高いままだぞ」
 さっさと逃げちまえばよかったのに。
 リヴァイは、溜息のような吐息をつく。
「解せないからだ。答えが出ない問いは嫌いなんだ」
 エルヴィンは答える。
 リヴァイは何も言わない。
「どうして、私たちのことを全て報告しなかった? 前後から察するに、君は色々と分かっていたんだろう。調べていたんだろう。どこまで知っているのか、気付き始めているのか。どの程度までの報告をしていたのかは分からないが……、殺すまでには値しないと、そう判断するに留めるよう、君が功策したんだろう。なぜだ?」
 リヴァイは答えない。
「アッカーマンの人間だから……。クシェルさんはそう言っていた。それなら尚のことのはずだ、君は自分の役割を中途に行い、家を、国を、危険に晒すような行為に出ている。私がこのまま本国に戻り、島の秘密を、私のたてた仮説を流布したら、君たちはどうなる?」
 君はそれが分からない程、愚かな人間ではないはずだ。
 リヴァイは何も言わない。
「ただ少し親しくなっただけの人間と、家族や国を天秤にかけた理由はなんだ?」
 またきっと、答えない。
 そんな思いと、潮騒とが絡み、

「聴いていたからだ」

 そしてさざ波が、風が。
 エルヴィンの鼓膜から、失われる。失われた。
 リヴァイは答えた。
「あの夜……、ハンジの部屋にしかけた盗聴器で聴いていた。お前たちは言っていた。『秘密を暴きに来たわけじゃない』と」
 言葉が区切られる。
 慎重に、間違えないように、細心の注意を払って。
 そんな緊張感を伴って。続けられる。
「……歴史の発見も、古代生物の発見も、要するには、『昔の秘密を暴く』って意味でしかない。島に来るような学者どもは、みんなそういう人種の馬鹿ばかりだ。自分の欲望に躍起なだけだ」
 だが。
 リヴァイは、水平線を見据えていた目蓋を、小さな瞳を。
 ゆっくりと下ろして、閉ざした。
「だが、お前たちは、俺たちの暮らしを、今を、これからを、案じてくれた。お前もすぐに気付いた。理解し、認めていた。本当に賢い、聡い奴にしかできねえことだ」
 それに。
 リヴァイは続ける。
「──友人だと、言ってくれた」

 

 俺は、友人を殺したくはない。

 思い返される、夜。
 ベッドサイドのランプだけが燈される空間。ハンジのあっけらかんとした声音。けれど、しっかとした信頼で、細められた瞳のかたち。

 やだなあ、エルヴィン。何言ってるのさ。
 エルヴィンの鼓膜を震わす、声。言葉。
 リヴァイはもう、あなたの友人でもあるでしょうが。
 その言葉に、答えた自分。
 

「そうだな、俺も、彼を良い友人だと思っているよ」

 聞いていたのか。
 友人だと、思ってくれたのか。

「気持ち悪いってんなら、質問には答えよう。報告はしていた。てめえらが散らかした部屋にあるものは、データから紙の資料、何から何まで、大体が複製されて上に提出されてある。余計なもんを故意に省いて、お前らの言動もすべてが記録され、審議にもかけられた。俺は徹頭徹尾、近くにはいなかったが、それなりの手段でお前らの監視をさせてもらっていた」
 車はないのかとか失礼なことをぬかしてたが、この国にもそれなりの技術はある。
 リヴァイはおかしそうに、少し鼻を鳴らした。
「そして、故意に、意図的に、お前らが〝一定ライン〟を越えていないと、上に誤認させていた。理由は、二つあった」
 ひとつは、友人だと言ってくれたから。友人だと、思っているから。
 そしてもうひとつ。
「疲れているんだ。俺の家も、この国も」

 消えてしまったさざ波が、潮騒が戻らなかった。
 リヴァイの声だけがただ聞こえる。
「科学の発展は、止められるもんじゃねえ。こんな小さな島の、おざなりな古い秘密なんて、そのうち暴かれて好き放題調べ尽くされるのは分かり切っていることだ」
 お前らのような奴らが来たのが、いい証拠だ。
 自嘲するような温度。声。
 それに。
「よりによって、一族で守って来た『骨』を加工する技術で、てめえを養うことを覚えちまった」
 エルヴィンは訊く。
 耳で声を、ではなく。
 彼の発する存在を、肌で。空気で。心臓の奥で。
「秘密の隠匿と、『骨』の扱いを一任された一族も、隠し過ぎた過去に、見えてしまっている将来に、未来に疲れきっちまってる。……こんなものを守っていったところで、いつかは暴かれる。壊される。終わりがない。誇りなんぞ欠片も残ってやしねえ」
 だから。
 しらがね色の瞳が、解かれて、開かれた。
 彼をまっすぐに見詰めていたエルヴィンのそれと、彼の視線とが重なる。
「……お前の推測は正しい。アッカーマンは、『巨人の骨』の扱いを任され、管理し、その加工を行う技術を持つ一族だ。そして、『巨人の骨』は、この島そのものだ。全土とはいかねえが……、骨の形状を理解し、その分布について把握しているのも俺たちだ。だから、お前らのような輩の監察は、当主が任されることになっている」
 すべては仕えるべきレイス家のために。
 レイス家の秘匿する、パラディ島の秘密の為に。
 その秘密そのもの、『巨人の骨』のために。
「俺が死んだら、次はミカサだ」
「……彼女や、エレンは」
 知っているのか。
 リヴァイは、目尻に皺を寄せる。
 まるで哀しい笑みのように。
 微笑んでなどいないのに。
「知らない。知らせていない。関わらせないよう努力してきた。だが、それも時間の問題だ」
「リヴァイ、」
「ミカサは、いずれ島を出て、父親の跡を継ぐエレンを追いかけるつもりだ。頭の良い幼馴染も一緒の予定らしい──あいつは島の外を、気に入った奴らと目指しているんだ」
 君は違うのか。
 その一言を、伝える強さがなかった。
「……まあ、まとまりがねえが、つまり俺がおかしいって話なだけだな」
 
 友人を殺されたくない。
 穏やかな生活を、守って来た島を、家族を。
 暴かれたくない。壊されたくない。
 けれどいつか、全部暴かれて終わる。
 疲れと、ジレンマ。

 
 ──おかしくなどない。
 なにも矛盾などしない。

「君は」
 音が還ってくる。
 風が戻ってくる。
 潮騒が鼓膜を、砂を混ぜた風が髪を揺らす。
「……お前は、心からやさしい人間だよ」

 それだけだ。

 小さな瞳だった。無駄にでかいと称されたエルヴィンの瞳よりも、ずっと。
 けれど、いつでも澄んでいた。
 それが、見開かれる。
 こぼれ落ちそうなほどに。
 泣いているみたいに。
 リヴァイは、幼い子どもが傷付いたように、探し出してもらえた安堵のように、
 そのない交ぜの表情を、隠しもせず、無言で瞠目し、今度こそ泣き出しそうな目尻を歪めた。
 小さな口を、音もなく食いしばって。
「……なあ、変なことを言うが、構わないか」
「ああ」
 腕を伸ばされた。
 そしてそれは、そっと、手のひら全体で、エルヴィンの左胸に触れた。
「触ってもいいか」
「もう触っているじゃないか」
 思わず笑みが漏れた。
 瞠目したばかりのくせに、リヴァイは表情を崩さず、「そうだったか」飄々と返す。
 エルヴィンもまた、彼の左胸に触れてみた。
 とく、とく。
 生きている者の、生きている音がした。
 振動が、潮風に冷えた指先を、温くやわく包んだ。
 生きている。
 夢をみたあと、抱いたあの想いと同じ。
「ここは、いい国だな」
「……そうだろうか」
「ああ、やさしい場所だよ」
 本当の言葉だった。
 エルヴィンは知っているのだ。
 恐らく、彼自身が思うよりも、ずっとずっと、彼が愛している景色。
 緑の稜線。風が吹く林。木洩れ日の温度。豊かな恵みが実る畑。
 清潔な、人間らしい営みが続く街並み。
 一族の守ったもので創り上げられた、美しい店内。吹き抜けの窓から射す正午の光。
 それらを反射する、工芸品、装飾品、白くまろく、美しい指輪のすべらかさ。
 磨かれた家具。食器。手入れされたティーカップの繊細な造り。丁寧に淹れられた紅茶の香りが、鼻先に届く楽しみ。
 めいめいに始まる朝食の気配。無言の祈り。オムレツのとろける甘さ。
 無粋でない、孤独を理解したひとびとの、やさしい孤独。その距離の温かさ。居心地の良さ。
 母の笑み。彼女ための花瓶の花。会話の足りない少女が寄越す、視線のお礼。下らない会話を交わす、祖父の声音。真っ直ぐな少年の、真っ直ぐな瞳の虹彩。かたち。
 エルヴィンでさえ知っている。知ってしまった。
 君は、この島を愛しているんだ。
 リヴァイ。

「やさしいよ、リヴァイは」
 だから苦しいんだろう。
 ただ、それだけだよ。
 言葉にさえできない美しい事実。
 そうか。リヴァイは小さく声を落とした。

「ありがとう、エルヴィン」

 お前を殺さずに済んで、よかった。

 さざ波とは違う、水の跳ねるような音だ。
 彼の想いが、エルヴィンの胸に、心臓に。
 その奥の心と呼ばれるものに落ちて跳ねて、小さく波紋を残す音。
 彼に触れた左胸。そのずれた少し中央に、何かが光った。
 『白い夜』だ。彼が首に下げる、ずっと共にある白い石。
 その石ごと。
 彼の身体を、抱き締めていた。
「ここはやさしい場所だ。本当に」
 来られて良かったよ。
 沈黙が、ゆったりと垂れて下りた。緞帳のように下ろされた幕のなかで、海のそばで、エルヴィンもリヴァイも、恐らく同じことを考えていた。
 口にしたのは、リヴァイだった。
「この音を」
 抱き締められたままで、リヴァイはエルヴィンの左胸に、自らの耳を押し当てる。
「この音を、ずっと、聴きたかった気がする」
 心臓の音。
 生きている音。死んでいない証。

 エルヴィンは、腕の中の彼の存在を、その生きてる鼓動を感じながら。
 これが世界でいちばん、聴きたかった音で、
 これが世界でいちばん、信じられる音だと。
 それをきっと、ずっと知っていたのだと。
 
 優しい人のいる優しい島で、言葉にせず、呟いた。



 殺さずに済んで、良かった。
 そう言葉にしたその口で、同じ口で、目の前の男は言った。
「夢を諦めて死んでくれ」
 夢だと知っていても。
 エルヴィンは、彼にこう言わせたことを、少し、悲しんだ。
 けれどまた、ありがとうと微笑んでしまうのだ。



 夢だ。
 およそ二カ月繰り返した、同じ部屋の朝の目覚め。朝陽がちょうどいい角度で差し込む、そこに留まる者の心に配慮された、美しい部屋、寝台の上での目覚め。
 それらを自覚する前に、ただ、あれは夢だと呟いていた。
 だが、なぜか寝台の右手を、陽光の差す窓の方向を見遣ってしまう。
 そこで彼が、椅子に腰かけている。こちらを見詰め、自分の目覚めを待っている。
 そう思考していた。
 だが彼はいない。当たり前だ。音が、だんだんに耳へと届き始める。彼はいつもどおりを繰り返している。穏やかな朝のために、朝食の支度をしている。穏やかな毎日の、幸福のために。
 夢だ。そう、ゆめ。
 だがどうしたって、エルヴィンの胸には、ある言葉ばかりが湧きたって止まらない。
 すまなかった。
 だが、本当に心から、嬉しかった。
「お前をずっと、」
 その先を言うこともできないのに。

 朝食の時間が終わり、リヴァイの手伝いを終えれば、エルヴィンのやることは一つだ。
 出国の準備。
 時間は、ないといえばない。
 リヴァイ曰く、ケニーが報告をし、審議の結果が覆り、すぐにエルヴィンやハンジ、モブリットへの対応が変更とされる可能性は、ここまでの動向を見る限り、だいぶ低くなってきていると見ていいらしいが。
 なぜそう判断できる? 尋ねれば、不服そうな顔で、けれど愉快そうに眉根を歪め、リヴァイは答えた。朝食の後片付けを終え、彼は皿を磨いてはしまう作業を繰り返していた。
「あのクソ野郎は、だいぶイカれてはいるが、ある意味ではまともでもある。頭も回る。あそこで撤退し、尚且つ二十四時間以上が経過したとなれば、恐らく俺の意志や、ウーリの判断を汲んで動くのをやめたんだろう」
 そうでなきゃ、お前が今生きているわけがない。
 ぞっとしない話だった。
「……私たちは本当に、君に命を救われたんだな」
 改めて感謝するよ、リヴァイ。食器棚へ向く、彼の背中に伝える。
「感謝してるんなら、それなりのものを用意して俺に贈るんだな」
 それは冗談を交えて笑い合うような、親しげな、小さな笑みだった。
 横顔でしか見られなかったが、エルヴィンはすぐに「わらった」と呟いていた。
「あ?」
「リヴァイ、もう一度笑ってくれないか」
「は?」
「ちょっと笑ってみてくれ」
「お断りだ」
 なんなんだ突然。リヴァイはまた、あのうさんくさそうなものを見る目をする。
 けれど瞳も、発する雰囲気も、最初とはまるで違う。
 柔らかで、抵抗感がないような。
 懐に入れたものへ対する、安心感を持った表情のような。
 エルヴィンは、自分がなんとも言えない気持ちになっていることにむずむずした。
「分かった。私が笑うから、君もいっしょにやってくれ。それならいいだろう」
「いやなにも良くねえよ……、あとお前の笑顔はあんまり見たくない……」
「失礼じゃないか」
「オイオイオイ待て待て、本当になんなんだ」
 のしのしと、彼のもとへ大股で近づいていく。エルヴィンの意味不明な行動に、リヴァイは珍しく、不機嫌そうにではなく、困ったようにその眉間に皺を寄せた。しかも慌てている。
 その困った顔が。姿が。
 なぜだか物凄く、愛しい。
 食器棚とエルヴィンという、自分よりも十センチ以上の高さのあるものに挟まれ、リヴァイはますます困惑した表情を浮かべた。困った顔がいっそう怖くなるというのがおもしろかったし、また愛しかった。
「近ぇ……」
「リヴァイ、笑ってくれ」
「無理だ」
「どうしてもか」
「どうしてもだ」
 そうか。エルヴィンは肯く。納得しないが、とりあえず理解した。
 リヴァイはエルヴィンによって狭められた小さい空間で、小さな声で「近い」を繰り返している。
「では、代わりに受け取ってくれ。私の要求をのまないのだからいいだろう」
 なにを、と呟きかけるリヴァイに構わず、胸の前でかまえられていたその手をとった。
 左腕の先の、
 左手を。
 そして、ずっと持ち歩いていたあの指輪を、その薬指へ通した。
「意外だ。男性用だったんだな、この指輪。それとも君の指が細いのか?」
「いや……細くはないと思うが」
「私の指には入りそうもないが、あれか、ユニセックスものということだな」
「そういう深い意味もなかったんだが……」
 いやそうじゃねえ!
 左手を握られたままのリヴァイが、ハッと叫ぶ。
「なんだこの指輪は? 俺が作った奴じゃねえか」
「この前寄ったときに買ったんだ」
 そういうことでもねえよ。リヴァイがじとりと睨み上げてくる。
 エルヴィンは、そんなものに物怖じするでもなく答える。
「知っているか。左の薬指は、心臓にいちばん近い場所へと繋がっているんだ」
 しんぞう。幼い子どもの、稚拙な鸚鵡返しのような声が届く。
「そうだ。……この石の、白いリングの部分。これがお前の言う、私が推測していた、『巨人の骨』というものなんだろう。そしてお前が、それを加工した」
 リヴァイは黙っている。
エルヴィンの言わんとしていることを汲もうと、少しの恐れを含んだ瞳でじっと見上げ続ける。
「つまりこれは、君が守り続け、私を守るために壊したものだ。──だが同時に、君が愛しているもの全ての象徴だ」
 これはこの島そのものなのだから。
「そして、この指輪に飾られた石が……、言葉にすると恥ずかしいのだが、……私の瞳の色に似ていると思った」
 波が打ち寄せる場所の色。その頭上の空の色。
 そんな青色の石。
「……」
「傲慢な願いだ。だがどうか、聞き届けてほしい。──お前の愛している全てのものたちと一緒に、俺に似た色の石を、お前の心臓にいちばん近い場所へ、どうか置かせてくれないか」
世界でいちばん信じていた、世界でいちばん聴きたかったそこに。
 どうか、これから先も。
 自分が出国し、君の前に現れることも、もう二度となかったとしても。
「ずっとそばに」
 エルヴィンの言葉を聞き終えて。
 じっと。その表情を、声を、瞳を、言葉の意味を。
 すべてを見上げ、見詰めていたリヴァイは、やがてゆっくりと、小さく首肯した。
 彼の右手が、自身の左手を包み込む。
 壊れそうなものを、壊さないために、
 大切に抱え込むように。
「なら、これをやる」
 そしてそう言って、リヴァイは胸元に下げられていたあの白い石のネックレスを外した。
 『白い夜』。
 彼がずっと身につけていた、彼と共に在り続けたもの。
「いや、それはだめだ。大切な石なんだろう」
「てめえは勝手に指輪よこしておいて、いまさら何をぬかしてるんだ」
 おら屈め。問答無用の雰囲気で、リヴァイは相当な腕力で以て、エルヴィンを近くの椅子へと座らせた。
 着席し、リヴァイよりも目線の低くなったエルヴィンの後ろに回り、彼の背後から、その首へネックレスをかける。
 うなじの辺りで、リヴァイの指が繊細な鎖同士をたぐり、通す仕草が伝わる。
なぜか安心できるのに、けれどそれ以上に、ものすごく気恥ずかしかった。
「知っているか、エルヴィン。その石は、遠い国では本当に守り石とされて有難られてるんそうだ」
 だからあいつも、俺にこんな石を後生だいじに持たせたがったわけだな。
「そうか」
 エルヴィンは微笑む。
「ケニーも、君を大切に思っているんだな」
「イカれてるがな」
 嫌いじゃねえよ。背後から届く声は、穏やかだった。
「ほら、ついたぞ」
「ありがとう。……本当にいいのか?」
「いい。――いや、違うな。お前と一緒だ。ただの俺のわがままだ」
 つけていてくれ。
 そうして欲しいだけなんだ。リヴァイはぽつぽつ、こぼす。
「俺は昔から少し不眠気味でな。ガキの頃には、すでに人の半分ほどしか眠れずにいた。母さんにも心配かけた。いつもなぜか、夜は長くて、そして仄明るかった。だから眠れなかった。いつも、太陽の照るような夜のなかで、ひとりで朝を待ってた」
でも。
「お前が来て、お前がこの石を知ったあたりだったか……。夢を、みたんだ。夜が来る夢だった」
 エルヴィンは振り返らず、耳を傾け続ける。
「高い場所だった。五十メートルくらいあったな。なんにもない地平を、誰かと眺めて、そいつの隣で夜を待っていた。陽が沈んで、夕方になって、――そして夜になった。当たり前の話なんだがな。陽が沈むなんて当然の摂理だろう。……だが、目が覚めたら、もう朝だったんだ」
 眠っていたんだ。ふつうに。
 夜が、あったんだ。
「俺は、そのときに決めた。本当はまだ迷っていた。だが、決めた。選択した。お前も、ハンジもモブリットも、俺は殺さない」
 だからこれは全部、ただの俺のわがままに過ぎなかったんだ。
「意味なんか欠片も分からねえ。支離滅裂だ。でも、やっと取り戻せたと感じた」
 だから、これでよかったんだ。
 背後のリヴァイが、ゆっくりと頭を傾ける。
 エルヴィンの髪に、リヴァイの黒髪が重なる。
 決して体重を預けるでもなく、けれど温度が伝わる距離で、触れられる。
「お前が無事に出国できたあと、俺が罰を受けようと、お前がそのネックレスを外そうと、忘れようと、この島が暴かれようと――後悔はしないんだ」
 悔いのない、選択をしたんだ。
「だからお前は、なにも気にしないでいい」
 はやく帰っちまえ。
 微笑むような気配がした。
「リヴァイ」
 振り返らずに、そっと紡ぐ。
 愛しいと感じる名前。
 いつのまに、なんて、意味の為さない問いだ。きっと最初からだったのだと、そう思ってしまえば、それがもう真実なのだから。
 最初からエルヴィンにとって、彼はきっとずっと愛しい人で、その生きている拍動は、世界でいちばん信じられるものだったのだ。
「また、聴かせてくれないか」
 背後から、リヴァイが腕を伸ばす。首に触れ、肩に触れ、そして胸の前で交差される。
 今度こそ体重が預けられた。生きている温度の、温かな体がエルヴィンの肩に、背に、確かに存在を示した。残した。
 そして背中に、彼の音。鼓動。心臓の証。
 リヴァイの腕は、エルヴィンの胸の前で交差したまま、そして左胸へと触れる。
 きっと彼も聴いているのだろう。

 お互いに、世界でいちばん取り戻したかったものを。
 やっと、取り戻したのだ。



 寝台に横たわっていた。見慣れない部屋だ。ずいぶんと薄暗く、そして傷んでいた。廃屋に近い。
 どうしてこんなところに?
 周囲を確認したかったが、その前に、寝台のかたわらで、リヴァイがこちらを見下ろしていることに気が付いた。
 いつかの夢のように、ボロボロの緑のマントを纏っている。しかし以前以上の負傷を負った姿をしている。全身が血みどろだ。綺麗好きのお前がそんな姿で、大丈夫なのか? エルヴィンは声をかけたかった。口は動かなかった。
 彼は、白い百合の花を手にしていた。
「こんなものしか咲いてなかったが、まあ、わがままは言うなよ」
 別に花にこだわりなどないよ。エルヴィンは答えようとした。舌も動かなかった。
「すまなかったな、俺のエゴに付き合わちまって」
 エゴ? エルヴィンは問い返す。目蓋が開かない。
「俺は……、ただのお前を、守っちまった。本当は、俺は、エルヴィン・スミス団長を、調査兵団第十三代団長を選ぶべきだったのに」
 エルヴィンは、今度はただ聞いた。爪先の感覚はなかった。
 リヴァイは、そこで少し黙った。
 エルヴィンは、同じように黙って、そして窓辺がとても明るいことに気が付いた。
 おかしいな、俺は先ほど彼の家で、彼の用意してくれた客間で眠ったばかりのはずなんだが。
 今は夜のはずなのに。
 明るい。
 夜なのに。眠ったはずなのに。
 太陽の照る夜。
 そこで気が付いた。
 ここは、リヴァイの居る世界だ。
 彼が生きる、夜が死んだ世界だ。
「……生きたかったんだろう? 夢があったんだろう?」
 リヴァイは、顔を歪ませる。初めて見た顔だった。
 地下で出会って、地上へ連れてきて、空を見せて、共に仲間の屍の道をゆき。
 共に海には、並べなかった。
「すまない」
 声が震えていた気がしたが、彼の表情は、先ほどの歪みすら消えていた。表情はどこかへ落とされたまま、失われ、きっと二度とその心に戻らないことを予期させる、諦観と絶望と、そして無力感とで、あのしらがね色の瞳だけが、白い夜の光で瞬いていた。
 うつろなままに。からっぽのままで。
「すまない、それでも大切だったんだ」
 あいしてたんだ、きっと。
 感情はこもっていなかった。魂を削るような思いをして絞り出された言葉だろうに、何をこめても、もうなにも伝わらないと、分かっている声だった。
 エルヴィンは答える。俺もだよ、と。
 そうしたら、気付いてしまった。
 もう死んでいた。



 翌日には、リヴァイが段取りを済ませてくれたおかげで、すぐにでも出国できる手筈が整えられた。もともと持ち物の少なかったエルヴィンだったが、来たときよりも大幅に減ったものと、少しだけ増えたものとがあった。胸元に下がるネックレスは、白いシャツの下に隠されている。
 朝食の席で、滞在中の感謝を述べる。席にはケニー以外のアッカーマン家の家族たちが全員そろって、そしてめいめいにエルヴィンへと声をかけた。
「こちらこそ色々迷惑かけたけど、楽しかったわ。元気でね」「また来なさい」「……来るなら、今度は、育ち盛りのエレンのために、美味しいものを持ってくる。べき」「短いあいだでしたけど、こちらこそ色々お世話になりました」「二度と来るなよ。あと請求書はきちんと受け取れよ」
 エルヴィンは、それぞれにまた一言ずつ返事をしていった。そしてエレンの番になる。
「エレン」
「はい」
 エレンの、変わらず素直で真っ直ぐすぎる瞳が、くりりとエルヴィンを見る。
「君は将来、お父上の跡を継ぐ気だと聞いた。そのために今は、自分自身で資金を貯めているのだとも」
 エレンは驚いたように、目を見開き、照れたようにうしろ頭を掻いた。
 なんて微笑ましい反応だろうか。エルヴィンは笑む。
「もし時が来たなら、私に連絡しなさい。医学部の人間につてはある。他にもいろいろと力になれるだろう。なんなら私のいる大学に推薦状も出すよ」
 頑張りなさい。
 エレンは頬を紅潮させたまま、「はい!」と力強く肯いた。
「エルヴィンさん、その話、社交辞令とか言わないで下さいよ。オレ本気にしましたから。いつか絶対、この島の外にでて、自分のやりたい道に進みますから!」
 だって生きているのだから。
 生きてる以上、自由なのだから。
 なんと雄弁な、未来を向いた瞳なんだろうか。
 輝かしかった。美しい意志だった。
「ああ。約束しよう」
 待っているよ。そう言って、手を差し出す。それをエレンが力強く握る。
 握手を交わすふたりを、ミカサが青褪めた顔で見ていた。
 それを横目で見ていたリヴァイが、「気張れよ根暗」とぼそり、呟く。そしてそれにミカサが睨んで返す。
 それを更に傍目で盗み見し、エルヴィンは破顔した。
 最期までやさしい家の、素敵な朝食だった。

 そうしてエルヴィンは、バスに揺られる。管理局のある海沿いの街まで向かい、そして、出国する。
 バスから眺め見た景色は、初めてこの島に来たときとは少しずつ違っていた。
 雨季を過ぎ、いよいよ初夏に向かって、緑の濃淡はいっそう色濃く深まっている。爽やかな風が吹いていた。畑にも平野にも、なだらかな丘陵にも、青々とした緑が芽吹き、広がり、息をしていた。生きていた。
 街の営みは、人々の営みは、変わらなかった。過度に激しくなく、しかし活気があり、自分の力で生きていくひとりひとりが、地に足をつけて生きている、生きた街の光景が在った。
 変わっていく季節と景色。そのなかの変わらないもの。
 尊いもの。
 これが、リヴァイの愛する光景。守りたかったもの。守ってきたすべて。
 エルヴィンは、それらを瞼の裏に焼き付け、出国した。
 やさしい島を出た。

 ハンジとは、しばらく経ってから連絡をとった。どうやら色々と忙殺されていたらしい。三徹か? エルヴィンが尋ねると「残念四徹でしたー!」と良くない高テンションで答えられた。
 昼間のカフェテリアは全面がガラス張りで、正午の陽光がふんだんに注いでいる。早々に撤退しないとハンジが灰になってしまうな、とエルヴィンはよそ事をした。
「とりあえず、まあ、電話で聞いたことだけど、ちゃんと理解したよ。島のことも、リヴァイのことも。あいつも可愛いところあるじゃないかー。ねえ?」
 私たちと友人だと思われたことがそんなに嬉しかったなんて!
「はー、いいこいいこしたいなあ。リヴァイの小さい頭を今すぐ撫で撫でしてやりたいよ! でも、しばらくは戻れそうもないかなあ」
 事情が事情だもんね。ハンジはアイスコーヒーのストローを噛む。至極残念そうに。
 でもその残念というのは、調査や研究を取り上げられたことではなく。
 リヴァイの頭を今すぐ撫でられないという、そして絶対に浮かべるだろう人を射殺さんばかりの不機嫌な顔をすぐに拝めないのだという、心からそれだけのことを残念がる、そういう感情なのだろう。
 エルヴィンは、ハンジのそんな心がとても好ましかった。
「彼はかわいいな」
「でしょう?! エルヴィンもちゃんと分かったんだねえ。あなたたちは気が合うと思ってたよ」
 研究がだめでもさ。もう少しほとぼりが冷めたら、モブリットも誘って遊びに行こうよ。他の人たちも誘って。
 ハンジが笑う。エルヴィンも笑った。
 その年、エルヴィンがパラディ島の地を踏むことはなかった。



 船に乗るのは久しぶりだった。海外へ渡ると言っても、今は大概が飛行機か、長距離列車の利用がほとんどだ。
 エルヴィンは鞄のなか、折れることのないよう、ファイルに挟み込んだ封書について考える。
 エレンから連絡があったのは、先日のことだ。僅かだが蓄えも増え、帰国した両親の了解も得られた彼は、島の外へゆくための準備を整えているらしい。大学入学資格を得るため、エルディア本国のギナジウム編入手続きの段階にいると、手紙には書かれていた。
 エルヴィンは、それを知ると、すぐに筆をとった。
 エルディア本国首都に在るギナジウムに、編入試験はない。だが、その分査定は厳しい。本人自体の素質もだが、両親の指導環境、それまでの経歴及び、学業に対する姿勢も厳しく審議される。
 そういった事情ならば、自分という「教授」の後ろ盾が、幾分か役にたてるのではと考えたのだ。
 島を訪れ、去り、それから二年が経った。地道ながら、確かな学問への情熱は、エルヴィンの学位を既に「教授」へと押し上げていた。
 二年だ。エレンはどう変わったろうか。あの屋敷の家族は、みな元気だろうか。
 やさしいあの島は、今日も幸福な営みを続けているのだろうか。
 それをなにより愛し、尊んでいた彼は。
 どうしているのか。
 あのしらがね色の、太陽の照る夜の世界の、美しい虹彩の瞳をまたたかせて。
 濡れたような黒髪を揺らして。
 今日も不機嫌そうに、怖い顔をして、やさしい朝食を作ったのだろうか。

 エルヴィンを入国管理局まで出迎えたのは、エレンだった。
 彼とともに、いつかのように街を行き、バスへ乗り、アッカーマンの屋敷へと向かう。彼はその本質は変わらぬままで、しかし少年めいていた骨格は、少しの男性性を思わせる成長をしていた。肩が広くなり、背も伸びていた。
「俺がどんどん大きくなるのを、リヴァイさんがいつもじとーって睨んで抗議してくるんですよね。うちは親父もでかいし、母さんもそれなりに身長がある方だから、これは遺伝で仕方がないんですって言っても聞いてくれねえし。牛乳飲ませてくれなくなっちまったし」
 ときどき無言で蹴ってくるし。
「リヴァイさんが小さいのは俺のせいじゃねえのに、これって理不尽ですよね」
 あけすけに思っていることを思ったまま発言するその様子は、見た目に反しまるで変わりないままなので、エルヴィンはとりあえず嬉しさと懐かしさと、そしてリヴァイへの愛しさとで笑ってしまった。
 目の前の少年を知っても、二年ぶりの街を、景色を、光景を眺めても。
 彼が大切にした、想っていたものは、変わらないものは、きちんと変わらぬままで存在しているようだった。
 心から安堵した。

 屋敷に着き、アッカーマン家のひとびとたちと、久しぶりの再会を果たした。
 冬だったが、手編みだろう厚手のカーディガンを着込んだクシェルも顔色は悪くなく、元気そうだった。ミカサも彼の祖父も健在で、エルヴィンはひととき彼らとの談笑に興じた。
 だが、そこに彼の姿はなかった。
 屋敷にはエレンの両親もいた。談笑もそこそこに、別室をあてがってもらい、挨拶をし、本題に入る。
 本国のギナジウム編入のために、自分が後ろ盾として協力する旨。そのための推薦状を引き受ける旨。
 内容の精査のために、エレンの学績や資質性の見極めをさせて欲しい旨。
 カルラと名乗った母親は、「是非もないです。どうかよろしくお願いします」と深く頭を下げた。夫であるグリシャも、彼女の隣で深々とお辞儀し、同じ意を伝えた。
 エルヴィンは彼らと握手をすると、彼らへと、本心からの言葉を述べた。

「彼のなかの、未来への強い意志を尊重する貴方がたに、深い敬意を」



 この島を去って。
 それから、エルヴィンは一度も、あの夢はみなかった。
 ボロボロの緑のマント。血が沁み込んで、ほとんど黒ずんでいた、彼のマント。
 小さな頭を、顔を、美しい黒髪を血と泥とに染めて、汚して、エルヴィンのかたわら佇む彼。手に握られる、そこだけ馬鹿みたいに美しい、白の、百合の花。
 エルヴィンの言葉はもう彼に届かなかったし、彼の想いも、もう自分には届けらなかった。
 エルヴィン・スミス団長は、あのとき確かに、死んでしまった。
 リヴァイ兵士長の選択で。

 けれど同時に、今は分かっていることがある。
 リヴァイの夜を殺したのも、エルヴィンだった。

 なんだ、お互い殺し合って。初めて会ったときのようじゃないか。

 そう笑い合える相手が、今は生きている。



 冬の海辺でも、大陸の内海にある島だ。それほど白波もたたず、荒れることなく、浜辺も少し風が冷えるくらいで、波自体は静かなものだった。
 落ち葉を踏みしめ、木洩れ日の差さない冬枯れた林を抜けて、エルヴィンは海に辿り着く。
 彼は居た。黒髪を風に撫でられ、揺すられ、ただ立っていた。
 待ってくれていたように感じたのは、きっとエルヴィンのエゴだ。
 それでも己惚れられるくらいには、彼の行動を愛してしまっていた。
「お礼を言いに来たんだ」
 隣に立ち、エルヴィンは呟いた。
 今度は、すぐに振り向いてくれた。
 冬の厚い雲が、海の、島の天井を覆っている。
 それでも彼の黒髪は、艶やかに美しい。陽光などなくとも。
 表情はうかがえない。よく分からない。ただエルヴィンは続ける。彼もまた、それを待ち続ける。
「俺を――エルヴィン・スミスを守ってくれて、ありがとう」
 心から。本当に感謝している。
 リヴァイは少し首を傾げ、「礼ならもう聞いたし、もらった」と返した。
「ちがう」
 努めて穏やかな声で、エルヴィンはそれを否定する。
「第十三代団長であるエルヴィン・スミスではなく……〝ただのエルヴィン〟を守ってくれて、ありがとう、と」
 そう伝えたかったんだ。
 リヴァイの瞳孔が、音でもたてるように、きゅっと縮まるのが、見て取れた気がした。
 沈黙が落ちた。
 前に聞いたさざ波よりも、幾分か硬めの冷たさの残る音が、ふたりのあいだで連なり、重なるり、留まっていく。そのまま堆積していく。
 重たくは、ない。
 ただ、どう埋めていったらいいか分からないだけだ。
 一度殺したものを、失ったものを。そして取り戻して、手放したものを。
 どう触れて、どう受け取って、
 心へと、しまっていいのか。
「……お前は、ばかなのか? 俺は、俺の意志でお前の死を選んだ。お前は俺に選ばれずに死んだ。お礼を言う筋合いはねえだろう。馬鹿すぎやしねえか? お前はやっぱり、賢すぎて逆に馬鹿なんだな。ここまで馬鹿だとは知らなかった」
「一度に四回も馬鹿と言うな」
 馬鹿と言う方が馬鹿だと言う決まり文句を知らないのか?
エルヴィンは呆れたように腕を組む。それを見て、リヴァイもまた、呆れたように歎息する。
「俺は愚かではあるかもしれないが、馬鹿ではないよ。リヴァイ」
 リヴァイは、何を言っても通じないといった、諦めた目を向ける。
 そんな仕草をして、傷つくのはお前自身のくせに。
 エルヴィンは続ける。
「お前が俺の真意を、心から望んでいる願いを、意図を汲み取って、そしてその上で、全てを引き受け、誓いをたて、俺の死を選んでくれたことを……俺はきちんと知っているし、理解している」
 お前を責めたこともないし、恨んだこともない。
「本当に、感謝しているんだ。ありがとうでは足りないんだ。――自らが犯した愚かさの果てで、葛藤と罪悪と、絶望と責任のなかで悪魔になる以外なかった俺のなかの、俺の望みを見抜いて、叶えてくれたのは、……死んでくれと言ってくれたのは、リヴァイ、確かにお前だったんだよ」
 お前だけなんだ。
 リヴァイは俯く。拳が握りしめられる。聞きたくないとでも言うように。
 その左手に、光るものがあることを、エルヴィンはとっくに気が付いている。
「お前が言ってくれたから、選んでくれたから――だから俺は、ありがとう、と。最期に笑えたんだ。人間のまま。ひとのまま」
 腕を伸ばす。指先で、彼の左手に触れる。
 びくり。彼の肩が跳ねる。
「……お前が、リヴァイが……〝エルヴィン・スミス〟を守ってくれたんだよ」
 分かっているんだろう。本当は。知っているんだろう。
けれど許せないんだろう。
お前はやさしいから。
「たとえそれが、調査兵団第十三代団長を殺すことになっても――たとえそれが、リヴァイ兵士長として……人類の英雄として、決定的な間違いだったとしても」
 ただのリヴァイは、
 ただのエルヴィンを守った。
 

(すまない、それでも大切だったんだ)
(きっとあいしてたんだ)

 きっとずっと大切で、愛していたから。

 届けようもない想いの先に、選択した決定的な過ち。
 だれよりもやさしい、残酷な選択。
「ありがとう、リヴァイ」
 分かってくれて。理解してくれて。
 守ってくれて。選んでくれて。
 尊重してくれて。
 白い夜のなかで、ずっと愛し続けてくれて。
 ありがとう。
「今度は、俺がお前の願いを叶えるよ」
 握りしめた左手が、震えていた。
 その震える手の、薬指の、青が光る指輪。
 お前はそれでも、また待っていてくれたんだな。
 エルヴィンは笑んだ。そしてゆっくりと、彼の背中に、両腕を回した。
 空いた隙間をなぞって埋めるように、鼓動を重ねてひとつにするように。
 かき抱いて、包み込む。抱き締める。
「願いを、リヴァイ」
 お前の望みを。
 リヴァイが、小さく吐息を漏らした。
「……望みなんて、ない」
「嘘を吐くな」
「嘘じゃない」
 嘘だな。
 エルヴィンはじっとりとした視線で、胸の中の小さな黒髪を見下ろした。
「嘘じゃねえんだ、本当だ。俺は、俺はただ、俺が大切だと思うから、好きだから、それを守りたいだけだ。そいつの自由や、未来や、大切な何かを、奪われたり、壊されたくないだけなんだ」
 それだけの、ちっぽけな男なんだ。
「そういうのを守って、ただ満足がしたいだけの、どうしようねえクソなだけだ。意外に小せえのは身長だけじゃねえって話だ。俺は器まで小さい」
 身長は意外でもなんでもないぞ。エルヴィンが正直に言うと、ギッ。凶悪な目つきでと睨み返された。
 そんな瞳でそんな風に睨み上げられても、かわいいだけなのに。
 ばかだな。
 エルヴィンの心の呟きなど知る由もなく、睨み上げたままリヴァイは続ける。
「……俺は自己満足を繰り返してるだけだ。自分の望みなんざねえんだ。他人の幸せを自分のものと錯覚してるクソ野郎なだけだ」
 分かったらとっとと島から出ていけ。
 エルヴィンの胸に顔を埋めて、唸るようにリヴァイはこぼす。
「お前ほど自身を理解してない人間も珍しいな」
「……」
「大切だと思う他者の幸福を願い、望み、そのために何かをしたいと思う――それの何が悪い? おかしいんだ?」
 二年前と同じ答えだよ。
 自分の胸に埋ずまる黒髪に、エルヴィンもまた、自分の鼻先を埋めた。
 いとしかった。
「お前は、やさしい人間なんだ。それだけだよ」
 それだけだ。
 なにもおかしくなどない。なにも悪くなどない。
 悪かったのは、そのやさしさを利用した、俺だ。
「だからいいんだ。もういいんだ、リヴァイ。俺は生きているし、お前も俺の胸のなかにいる。お前はもう、夜の死んだ世界になどいない」
 もう、望んでもいいんだ。

 また、沈黙が横たわる。
 けれどそれは、長くはなかった。短くもなかったが、けれど、きっと長かったのだ。絶対に。
エルヴィンが死ぬ前も、死んだあとも、白い夜のなかで待ち続けたあいだも、ずっとずっと繰り返し続けてきた葛藤との、それとの闘いの時間だったのだから。
 リヴァイにとっては、砕けない鎖をほどくための時間だったのだから。
 だから、エルヴィンにとって、それはひどく、愛おしいだけの沈黙と時間だった。
 外気は冷たい。潮風はやはり冷える。
 それでも胸は暖かい。
 生きている彼が温かい。
「……右腕」
 ぽつり。
 やっと絞り出された、声。
「もう、絶対に失くすな」
「……わかった」
「うまいもん、たらふく食え。好きなことばっかやってろ。夢でもなんでも、そういうもの全部叶えていけ。それのことだけ考えていろ。笑っていろ。あの気持ち悪ぃ笑い方でいい。それでドン引きされちまえ」
「引かれるのは、一応これでも辛いんだが」
「うるせえ、知るか。黙って聞け。てめえが言えって言ったんだろうが」
 リヴァイの腕が、エルヴィンの背へと回される。
 羽織っていたコートごと握りしめ、強くかき抱かれる。
「……もう苦しむな。悪魔になんかなってやるな。お前以外になんか、絶対になってやるな。周りぜんぶ放っておけ。やりたいこと思う存分やれ。死ぬまで、ずっと、」
 ずっと。
 喉が詰まるような気配がした。
「……――うそだ、もう死ぬな」
「……」
「俺のこと、置いていくな。分かっている、こんなのはエゴだ、俺の傲慢だ。理解している。俺のことなんか信じるな。俺に選ばせるな」
 ちがう、うそだ。
 きしむほどに、強く。
 もう逃げないでくれと、叫ぶように、
 掻き抱かれる。
「信じさせてくれ。ただ、俺を、許してくれ。――傲慢な、目の前のちっぽけな男を、許してくれ。こんなになんにもできねえ馬鹿で矮小な奴を。許してくれ。……隣に、いてくれ」
 それを望むことを、許してくれ。
「息、していてくれ」
 ただの、ばかでちっぽけな男のとなりで、

 ただ、生きていてくれ。

 その言葉は、涙でにじんで、ほとんどが声とも成れず掠れていた。消えかけていた。
 だからこそきっと、ほんとうのそれだった。
「それが、お前の望みで、願いなんだな」
 こくり。小さな頭が、小さくうなずく。
 鼓動があった。抱き締めてからずっと、彼が自分の願いを吐露してもずっと、ずっと、彼の鼓動が、自分の鼓動が、生きている音が、あった。
 世界でいちばん信じている、
 世界でいちばん愛している音が。
 今この瞬間も、ずっと。
 とくとく、と。
「……お前の本当の願いは、やっぱり大半が『大切な人』の幸福なんだなあ」
「……うぬぼれるな」
 くそっ。涙声で、リヴァイが悪態を吐く。
 そんな風に泣いて、傷ついて。
 それでも、エルヴィンの幸せを。彼が〝ただのエルヴィン〟として、今度こそ彼らしく生きて、死ぬことを。
 なによりも、誰よりも望んでくれる人。
 たったひとりの、唯一無二のひと。
「わかった。叶えよう」
 生きていくよ。お前のとなりで。
 ずびび。鼻を啜る音が、控えめに聞こえた。
 ふふ、エルヴィンは笑み漏らす。
 それはきっと。
 何よりも愛しい人の抱えた寂しさで、やさしさだった。
 だからエルヴィンは笑った。

 お前が守ってくれた、ただのエルヴィン・スミスは。
 ただのエルヴィンとして。
 今度こそ、お前のとなりで。
 好きに生きていくことにするよ。

「リヴァイ」
 声をかければ、涙で目尻を濡らし、眉間に谷をつくり、その上、凶悪に根深い隈のできた顔が、鼻声で、涙目で、じろりと見上げてくる。睨み付けてくる。
 その顔に。
 エルヴィンの幸福ばかり願い、言葉にする口に。
 そっと一度だけ、キスを贈った。
「リヴァイ、ありがとう」
 愛してくれて。
 守ってくれて。
 選んでくれて。
 尊重してくれて。
「死んでくれ」と、言ってくれて。
 理解してくれて。
 生きていてくれて。

 ありがとう。

 心から。
 
 ただ愛しさと、慈しみの、感謝を。
 

 冬枯れた林が、島への入り口で並び立つ。その反対側に、水平線でとぎれる海が在る。
 二年前のあのときと同じようには、陽の光も降らないだろう。
 それでもお前の髪も、瞳も、心も、なにもかも。
 どこにあったって、なにがあったって。
 きっと。世界でいちばん尊くて、やさしくて、美しい。

 お前が死を選択した俺は生きているし、
 俺が殺したお前の夜は、これからきっとずっと、安らかに深くなるのだ。
 だから、

「きっともうすぐ、やさしい夜がくるよ。リヴァイ」

 そうしたら、共に眠って、
 また、朝食を食べよう。

 きっとそれは、幸せな光景だ。




おわり。



2018.04 執筆
2018.5月スパコミにて頒布済み

(以下当時発行した本のあとがきより)

書き残しの部分だけ補足を…。
エルヴィンやハンジさんたちの処遇は、今まで一度もこんなことをしなかったリヴァイの意志を汲んだケニーおいたんが、ウーリさん(パラディ国の王様)にだけ報告し、そしてウーリさん自身も、島の未来を考え続けて物思う所があり、今回のことは様子を見るように指示を出した…という設定でした。

将来、島の秘密もすべてが暴かれます。アッカーマンは役目をなくします。でも、島に越してきて、「巨人の骨」研究の第一人者になってバリバリ好きなことしてるエルヴィンさんの隣で、リヴァイさんは毎日、夜に眠り、美味しい朝ごはんを食べます。ふたりで生活していきます。ハンジさんたちとも遊んで毎日しあわせです。エレンとミカサはアルミンと一緒に海の向こうへ行きます。イエーガー夫妻は息子たちの未来が楽しみです。クシェルさんは、太陽の下で見る花がだいすきです。
みんなにやさしい夜がきます。そして朝がきます。
かけがえのないものとは。そんなものが書けていたらなと思います。

ここまでお読み頂き、ありがとうございました。