きっともうすぐ、やさしい夜がくる-前
夜が死んだ日のことを憶えている。
*
太陽が昇って白く照ったまま、世界を見下ろしていた。死んでくれと告げたのは俺で、そいつは笑ってありがとうと言っていた。
今思っても、考えても、そいつは最期までよく分からない男だった。
死んでくれと言われて、夢を諦めろと頼まれて、それで「ありがとう」だなんて。
きっと馬鹿だったんだろう。恐ろしく頭が良いくせに、そのせいで馬鹿だった。
自分の身体に関しても無頓着で、お粗末な有様で、それで右腕だってどこかに落っことしてきやがった。あげく、自身の人間性とやらも、簡単に捨てられて、悪魔と罵られても、澄ました顔ができてしまって。
馬鹿だから、自分の根っこの夢とかいうものすら、やっと、やっとこんなときになって、思い出してしまって。自覚してしまって。
馬鹿だな。お前は本当に、大馬鹿野郎だった。
あのとき、俺に両足の骨を折られていればよかったのだ。
右腕なんか食われる前に、世界のことなんて語る前に。
一度でも良い、愛した女を選んで、そのやわい躰に包まれて、眠っていれば。
好奇心や、賢い脳みそなんざ、美しかったろう母親の腹の中にでも忘れてきて、ただの鼻たれ小僧に生まれてきて、 ふつうの、こどものまま、金色の髪をやさしく梳いてもらって、青空を綴じこんだその碧眼で、適当に愛やら友やら美しさやらを見詰めてって、しあわせに、ただ、しあわせに。生きて。
生きて。
そうしてりゃ、良かったんだ。お前は本当にばかだよ。
生きていればよかったんだ。生きてるだけで、よかったんだ。
俺にさえ出逢わずに。
それだけで良かったんだ。
ああ、そうか。
俺の言葉なんだな、それ。
生きてればよかったのにな。残念だったな。誰が? 何が? どうして?
生きていてくれれば、それだけで。それだけ、それだけ。
それだけ? なんで?
どうして?
どうして、生きていないんだっけ。
「もう死んだよ」
聴こえたよ。お前は聴こえたか?
お前は死んだらしいぞ。
生きてない、らしいぞ。
……どうしてだっけ。
どうしてこいつは、目の前で、もう空の瞳も覗かせず、笑いかけもせず。
ありがとう、だけ、残して。
思い出せない。ちがう、おぼえてる。
向こうから大きな音がする。瓦礫が崩れる音。選ばれた方の子どもが、生き返る轟音。その仲間の啜り声、泣き声。
そうだったな。
俺が、お前を選ばなかったからだ。
俺が、俺の望みのために、お前を殺したんだ。
夜の死ぬ音が、聴こえた。
***
エルディア地域にぽつねんと存在する島国、パラディ公国。
歴史上、もっともエルディアの王たる資格を有する血縁者、レイス公爵が栄えさせた、小さな内海に存在する、本当に小さな島国だ。
エルディアという大国で、レイス家がなぜその玉座に君臨せず、小さな島国を治めるに留まったのか、歴史学を専攻する本国の人間にとって、通過儀礼のようにぶち当たる課題というのがそれだが、生憎エルヴィンは歴史を学ぶ学徒といっても考古学が専門分野であり、むしろそのゴシップめいた王家の血縁云々のストーリーよりも、かの島国に伝わる民間伝承、成り立ちそのものにこそ興味を惹かれた。
いわく。
かの島は、巨人の骸(むくろ)から生まれた。
そして、その巨人の真実をひたと守り続けるのが、件のレイス家。
そういった伝説。伝承。
「巨人の伝説なんてのは各地であるものさ。珍しいもんじゃない。それこそ北の大地では神話の時代から彼らは存在している。ときに神と等しきものとして、ときに下賤で卑しい、醜い忌み子として。しかし、私がいだき昂らせるこの興奮は、かの島の、件の巨人が決して絵空事めいていない事実に根差す、その根拠を揃え得るかもしれないからなんだよ! 分かるかな、私は今こっちにいるけれど、厳しい管理の元でも分かるくらいなんだよ。この島の岩壁はひどく『白く』『硬く』そして限りなく『美しい』! 実は先日やっと許可が下りてさあ地質調査に乗り出したんだよモブリットも一緒にね! モブリット分かるだろ? この前一緒に飲みに行ったよね? 行ってない? まあいいや、そうその採取したただの海岸沿いのただの岩壁だよ? 岸壁がだよ? ただの岩。その成分の分析表をね今すぐあなたに見てほしくてさあ電話しちゃったんだよ! メールは送ってもすぐに生のライブ感あるリアクションをもらえないのが辛いところだよね。やっぱり感動を分かち合うなら生の肉声と生の言葉とで共感しあえないと! 分かるでしょエルヴィンあなたなら! この分析表が指し示す意味を! 価値を! さあ! 生の! ライブの! 感想を! ハンジさんに届けてくれ!」
ベッド上で。サイドテーブルから伸びた受話器を握りしめながら、エルヴィンは唸っていた。
それは、耳元大音量のハンジの長い講釈への辟易でもあったし、立ち上げたノートパソコン上に表示される、ハンジによる詳細な地質成分の細かな分析表、データ解析結果を見てのリアクションでもあった。
確かに。これは。
「あれ? ライブ感なし? ノーリアクション? 寝てる? もしかして寝てたかいエルヴィン。ごめんそういえば学会で発表がどうのって言ってたねすっかり忘れていたよ、あってないようとはいえ時差も多少はあるしね。今そっちは深夜だったよね申し訳なかったよまあこっちも深夜なんだけどさ!」
あははは! ハンジの深夜テンション(しかしいつも通り)の笑い声が続く。
エルヴィンは、それらを慣れたテンポでスルーし。
「ハンジ」
「なんだい?」
「パラディ公国へのビザはすぐに取れたかな?」
今自分がすべき質問をした。
そうしてエルヴィンは、およそ二週間後、パラディ公国の地を踏みしめていた。
小さな島国だとは知っていたが、空港すらないというのは想定外だった。本国の首都から汽車を乗り継ぎ、海沿いの街を経由し、五日に一度の定期便で海を越え、やっとのことで入国審査をパスし終えた。
入国管理局は、まるで古い学校を使いまわしでもしたような、見事だが古臭い、旧い煉瓦組み造りの建物だった。
壁に蔦がはびこるさまなど、首都でそれなりの利便性を享受しているエルヴィンにはとても新鮮に映った。門の外にも石畳の広場が続き、住宅街の奥、目を凝らした先の路地は、土をならされただけの道も伸びている。
(田舎、というよりは、あえて文明の過度な進みを拒んでいる印象といったところか。いや、観光のためでもあるか? 電柱もない。古い街の外観は良い観光資源となる)
管理局前の広場、住宅地を眺めるたったそのひと刹那で、エルヴィンはさまざまな思考を巡らせた。
歩く少女の髪型、服装から鑑みる、首都との流行性の比較。聴こえる言語のくせ、訛り、特徴。その他もろもろ。
それが何か目的のあり、理由がある思考ならまだいい。だが、エルヴィンのそれには益体もなにもない。ただの悪い癖だった。洞察力ともいえるし、考えすぎる性質でもあり、そして良すぎる頭の無駄遣いで、他人や世界への不躾でもあった。
さて。
エルヴィンは嘆息する。そして腕時計を見遣る。
ある意味予定どおりだったが、迎えを約束したハンジは、その約束の二十分を過ぎても現れなかった。
(……同じ言語だ。言葉は通じる。街の人間の話し声もきちんと理解できている。携帯端末に地図も入れてきた。通貨の換金も済ませてある)
準備は整えてある。
ならば、しばらくは一人での観光に徹するとするか。
エルヴィンは淡々と思考し、そう結論づけると、右手のスーツケースを引いた。
そしてその車輪がひとつ回ったとき。
「……オイ」
低く、不機嫌そうな声音だった。
いつ現れたのか、エルヴィンの左手に小柄な男が立っている。
「アンタが、エルヴィン・スミスさんか?」
「……そのとおりだが」
男はまじまじとエルヴィンを見上げる。
そして、どこか胡乱げな、胡散臭いものでも見るような目つきで、「やけにでけえな、アンタ」と漏らした。
面食らった、というより、なぜかむしろ、その不躾な物言いに興味を引かれた。
警戒するよりも先に、エルヴィンは問い返していた。
「……でかい、というと、どこらへんがだ?」
「ぜんぶだ。強いていうなら目ん玉と眉毛だな。そんなにでかくて困らなくないか?」
虫とか入るだろ。難儀だな。
エルヴィンは、生まれて初めて、瞳のなかに虫が入りやすいだろう推論をたてられていた。そして同時に、同情されていた。
出会って間もない、どこの誰とも知らない小男に。
けれども、まるで当然の決まりきったことのように、腹などたたなかった。
「興味深い指摘だな。そして的を射ている。実は風が強い日なんかはよく塵が入って地味に痛いんだ。子どものころはもっと大きかったから、自転車に乗ると大変だった」
すらすらと。よどみなく言葉は流れ出た。小男は黙って聞いている。
そして頷き、「さすがハンジの友人だな。俺に物怖じもせずよく喋りやがる」
「ハンジ?」
鸚鵡返しによく知る名前を繰り返せば、目の前の男はまたひとつ肯いた。
整えられた短い黒髪が、一筋垂れて揺れた。「リヴァイだ」
「クソメガネとは多少、縁がある。奴が寝坊しやがったので、俺が代理として迎えに来た」
よろしく、スミスさんよ。
パラディ島へようこそ。
ニコリともせず、男は、リヴァイはそう言った。
それから十分ほど。
ふたりは街の中をリヴァイを先頭にして歩いていった。
リヴァイは、本当にただ迎えに来ただけという態度を貫き、大通りを行き交う古い型の馬車や、アンティークのようなガス灯のランプなどを、きょろきょろと忙しげに眺めようとするエルヴィンに構わず、ずんずんと足を進めていった。
しかし、それで臆する男でも、相手の態度に準ずる性格でもないのがエルヴィンだった。
「なあリヴァイ、車はないのか? 走っていないのか? もしそうなら、この島では道路交通法はどういう風に整備されているんだ?」
「あのアーケードの角、あそこは何の店だ? ショーケースのなかにあるのは年代物の化石標本のようだが、値札を見て来ても構わないだろうか」
「リヴァイ、もしかして徒歩で向かうのか?」
「この石畳は通りによって色味が違うようだが、なにか文化的な、伝統的な意味合いが示唆されているのか?」
「良い匂いがするぞ。露店がいくつか立っているようだが、そうだ、この国にこの時期で民族色の濃い祭りなどは存在するか? ぜひ教えてほしいんだが」
「なあリヴァイ、歩くのが速いぞ。あと私の質問に答えていない。少しくらい返答をくれ」
「そうだ、君は黒髪のようだが、街の人間に同じ色素の者は見かけないな。君は移民者か? この国は移民に付いてどんな立場にたっているんだ?」
「聞いているのか、リヴァイ」「おいリヴァイ」「そういえばファミリーネームを聞いていなかったな」「なあリヴァイ」
「リヴァ、」
「うるせえ」
前を競歩ばりに進んでゆくばかりだったリヴァイが、やっと返答、もとい応答した。
ちがう応答したんじゃないさせられたんだ、という不本意と怒気とを隠そうともしない表情を浮かべながら、リヴァイはこちらを振り返る。
身長と小柄な体躯のわりに、顔だけは不機嫌を極めた悪魔のように恐ろしいのだが、エルヴィンはまるで何も構わなかった。むしろ「やっとこちらを向いたな」と、腕組みさえしてみせた。
「君は、今この国を訪れたばかりの、友人の友人を相手にしているんだ。いわばホストだろう。きちんとこちらの問いに答えてもらわなければ困る」
あと本当に足が速いぞ。
いっそ傲慢ともとれる不遜な態度で、声音で、当然のように発言するエルヴィンを見上げても、彼は無言で、「てめえ本気でうるせえな」という視線だけを投げかけた。
そして、また前を向いて歩き出してしまう。
エルヴィンは、そこで少し考え直した。
この態度に、この物言いに、引いてもいない。
肯くわけではないが、無為な否定も反論もしない。
黙々と前を歩き、道を辿る背中は、その歩調をすこし緩めている。
(なるほど)
度胸がある。肝も座っている。
嫌な顔をしても、役目を放りだそうという短絡さもない。
無闇な争いを望む愚かさはなく、相手に気付かせない程度に、その要求に沿わせる器量もある。
どうやら、目の前の黒い小男は、芯のとおったきちんとした人間らしい。
出会って三十分と経たずして、エルヴィンはその嫌味なほどの観察眼でもって、このリヴァイという男を気に入っていた。
そして、そのあとも遠慮なく質問を続けた。
最後には、ついに根負けしたリヴァイが、おざなりに「アレは土産屋だ。たいていが子供向けのパチモンだ」「石畳の色の違いなんて俺が知るか」「車くらいある。あんまり口が滑りすぎるようなら、そのオクチごと轢いてもらうか?」「移民じゃねえよ。生まれも育ちもこのクソ小さい島国だ」など、心底嫌そうに答えはじめた。
どうやら優しい人間でもあるようだ。
さらに彼への認識を深め、エルヴィンはひとり、小さく微笑んだ。
それを目にして、リヴァイはげんなりした顔で、
「気持ち悪い野郎だな……」
ついに言葉にして呟いた。
てっきりそのまま徒歩で、この街のどこか、つまりハンジの滞在先へと案内されるのかと思えば、リヴァイは特に説明することもなく、これまた年代物の古いボンネットバスへと乗車し、管理局のある海沿いの街を離れていくことになった。
街の外には、なだらかな平野と林、そして田園が広がっている。
空が青く続き、その下には更に、まだ青いままの、若い麦畑が連なる。
風に踊り、それらがそよぐさまを、エルヴィンは無言で見詰めた。山は遠かった。
事前の知識では、この島にはそれほどの標高はない。山岳というほどのものも連ならず、山の勾配はなだらかなものばかりで、あるのは少しの丘陵地帯か、そして大半の平野だ。
人口もそれほど多くないから、その平野で作られる作物と海の幸で、国民はほぼ自給自足で賄えている。輸入品に頼ることも少なく、他国と分断されているような印象を与えるのは、恐らくそういうところにも依るのだろう。
エルヴィンは窓の外を眺め、また、益体があるのかないのか分からない、確認作業のような思考をし続けた。職業柄でもあり、そしてそれは、もう昔からの繰り返しだった。幼い頃、父に指摘され、そして周りに嫌がられた癖だった。
ふと、隣をうかがう。バスの最後列。その席で、隣に座っている黒髪の小柄な男。
「さっさと詰めろ」とだけ言って、窓際の席を問答無用で譲った人間。
あれやこれや、質問責めにあって、心底うんざりした顔をして、しかし運賃も勝手に二人分出した人間。
(おもしろいな)
恐らく、あれほどこの国の文化やら風土やらに興味を示してうるさかった相手に、外を見せるための席だ。窓際だ。
そして、自分の友人が不手際で迎えに来れなかった、その詫びの運賃の立替えだ。
つまり、面倒見の良さと、責任感。
こんな怖そうな顔をして、こんなに不機嫌で不本意そうで、不愉快そうな雰囲気をしているくせに。
うんざりとしているくせに。
「リヴァイ」
こちらを振り仰ぐことなく、黒髪のつむじと、黒いシャツの襟首から白いうなじをのぞかせたまま、俯いたまま、リヴァイは応える。「なんだ」
「君はハンジの友人なわけだが、どこで知り合ったんだ?」
「あのクソメガネに友人なんているのか?」
変態のコミュニティなら創ってそうだが、あいにく俺はそんなものには所属していない。
リヴァイはぼそぼそと呟いた。
車体が大きく揺れた。少し肩が触れ合った。
道は、土を固めただけの農道に変わっていた。
「……俺の家が、あいつの興味を引く分野に精通している。何年か前に勝手に来て、勝手に馴染みやがった。以来、何度か勝手に来ては、こうして人に迷惑をかけてくれやがる」
それだけだ。リヴァイはやはり俯きがちのままで、こちらを見ることなくそう言い終える。
「なるほど。お互い馬が合ったんだな」
「……どこをどう解釈したらそうなるんだ?」
こちらを見ることのない彼の黒髪を見詰め、エルヴィンは質問に答えた。
「……君は優しい人間のようだ。初対面の私にさえ、きちんと筋を通そうとしている。しかし、同時に、表現の仕方が至極不器用そうでもある。そういう人間の友好的な表現の仕方というものは、決まって素直とは言いがたいものだ」
がたん。車体が揺れる。今度はどこも触れ合わない。
「筋を通す優しい人間が、好きな友人以外の誰のために、誰とも知らない他人の面倒を、ここまでみられる?」
「……」
リヴァイはゆっくりと、こちらを振り向いた。
エルヴィンを仰ぎ見た。
身長差が、ずいぶんとあった。恐らく頭二つ分だ。そのせいで、座ってもなお、リヴァイの顔は幾分か下にあった。
その顔が、再び胡散臭そうに歪む。隈のついた瞳が細められ、小振りな口が開かれた。
そして。
「本当にお前、気持ち悪ぃな……」
今度ははっきりと呟かれた。告げられた。
おかしかった。エルヴィンは思わず微笑んだ。
そして、彼の瞳が、見たこともない色をしていたことに気が付いた。
それは、凍てた白銀のような虹彩だった。
どこかの国の、太陽の照り続ける夜のような、鈍くやさしい、空の色をしていた。
バスは走り続ける。そのうち、荒い農道がおわり、整備された道へと代わっていった。遠くから青く萌えた林が迫ってきている。
ところで、と。小さな呟きが隣から聴こえた。
「……あんたはなぜ、ここへ? ハンジの同類だからか?」
バスはそのまま林の中を進み始めた。窓から射す光が、淡い木洩れ日となった。
同類か。あえて友人という単語を使わないのが、やけに面白かった。
「そうだな、同じ穴のムジナだ。ハンジとは専攻こそ違うが、興味の引かれ方がよく似ていてね。私は別の大学で非常勤の講師をしているんだが、……ああ、まだ准教授なんだ。彼女の見せてくれた、とあるデータが非常に興味深くてね。飛んできた」
ところでハンジは〝彼女〟で合っているよな? 未だに迷うんだ。
エルヴィンが小声でおどけてみせると、リヴァイは「知らん」とだけ返した。
「まあ、うすうす感じてはいたが、そもそもハンジの友人だってんだからな……、准教授か。頭が無駄に良さそうなツラしてるわけだ」
それは一体どんな「ツラ」なのだろうと、またも明後日の方向に、無駄な頭の良さでエルヴィンは思考を回転させかけた。
しかしそれをぐっとこらえ、「それで?」腰を折ることなく、会話を繋ぐ。
「それで君は、なにを言いたいんだ?」
「……」
ぱっ、と。窓の外が、視界が開けた。
長くない距離で、バスは林を抜けた。前方のフロントガラスには、先ほどまでの街とはまた趣の異なる、しかし人々の営みと活気がきちんと息づいた、清潔な明るさの宿る街並みが見え始めていた。
ここが彼の案内先だろうか。ハンジの滞在先?
「……俺は、ハンジの元へお前を送る、……いや、迎えに行くか? まあそういう役目を代わった。つまり今から俺は、お前をハンジのいる場所へ連れていくことになる。しかし、そのためには、俺には多少……、わりと、あんたという人間の人となりや素性を知っておく必要があった」
「ハンジの友人というだけでは駄目だったか?」
それは、少しの時間、代理の迎えとして関わるだけにしては、やけに物々しい言い様だった。
もしかして、ハンジの身を案じて警戒されているのだろうか。
「私の素性や素行を疑っているのなら、直接君が、きちんとハンジに確認してくれればいい。彼女に危害を加えるような人間ではないし、彼女の研究を邪魔する派閥の人間でもない」
そうじゃねえよ。
リヴァイは神妙な顔つきで、けれど億劫そうに言う。
「あいつの友人、というのなら、こちらもある程度は認められる。素性を疑っているわけでもねえ。あのクソメガネの友人を自ら名乗るなんざ、よっぽどの変人か本物かじゃなきゃ考えねえ……。だが、そこから先の話となれば別だ。俺にも相応の準備が要る」
「準備? なんのことを言っているのか分からないだが……。君は私を送り届けたあと、今後、ほとんど私と関わることはないはずだ。最悪、このまま会うこともないかもしれない。私としても、世話になったとはいえ、突然会ったばかりの人間にしつこく干渉しようとも、されようとも思っていない」
がたがた、ごとん。
バスが街の外門を潜り抜ける。目前に広がる大通り脇のバス停めがけ、大きく、ぐるりと旋回し、停車する。ブレーキがかかる。体が揺すられる。
再び、次はもう少し近く、強く、肩が触れ合い、押しあった。
「それがそうはいかねえんだ。……エルヴィン・スミスさんよ」
至近距離で。
曇り空の光を帯びた、太陽の照る夜の瞳が、エルヴィンをまっすぐに射抜いた。
「あんたがこれから滞在するのは、俺の家だ」
*
呆れた、とエルヴィンは溜息を吐いた。
当初の予定では、エルヴィンはハンジとその助手のモブリットが滞在先としている、研究施設横の、古いアパルトメントの一室を一時的に借りる予定だった。
設備は大家によって整備され、最低限の家具も揃えられているということだったから、必要な研究資材と、数日分の着替え、ノートパソコンくらいしか用意もしていなかった。食事の用意もあると。そのはずだった。
「それが、追い出された、だって?」
寄ってしまう眉間をもみほぐして長い長い溜息を吐くエルヴィンの目の前には、あっけらかんとした顔で「そうなんだよ」とソファで紅茶を飲むハンジが居た。
「まあ詳細は省くんだけどね、要するに異臭問題、騒音問題、あとは、極めつけは爆発だね。我慢できずに台所で実験したのがまずかったよ。しかも深夜だったし。あなたに電話した次の日なんだけどね。すごかったよ。私あんなに未知の異物をみるような、心底冷たい目で見詰められたのは初めてだったかもしれない」
「嘘だろう」
「うん」
そんな目、小さい頃から慣れてるよ。
わはは、とハンジは笑った。
「それで、彼の家に転がり込んだわけか……」
「そうそう」
彼とは、つまり、リヴァイのことだ。
「なんだかんだ言って優しいからね、彼。何回も泊まったことあるし、まあ今更断るのも面倒くせえみたいな顔してたよ!」
あんな怖い顔してさあ。頼まれると断れないんだよね。
けらけら。笑うハンジの笑顔にゆるやかに敗北して、それでもエルヴィンは、そうだな、と心中でひとりごちた。
そんな気がする。彼は、そんな人間のように思えた。
心底めんどくさそうにして、顔を歪ませて、憎まれ口をぶちぶちと垂れながら、綺麗な客間へと通してくれそうな。
「あなただって、なんとなく分かったでしょ? この一時間ちょっとで」
紅茶を飲み終えたハンジが、にんまりとした顔でエルヴィンに問う。
なにが、だなんて決まっている。
「そうだな」
ハンジの気に入る人間であるはずだ。
「とりあえず、紅茶の淹れ方は非常に素晴らしいようだ」
「てめえら……、人の家で心底くつろいでんじゃねえよ……」
低い声が地を這うように紡がれた。ソファーで、向かい合わせのまま会話していた二人の、ハンジの側の背後から、噂の当人が現れた。顔はやはり怖い。
「いいか、ハンジはきちんと大家に話しをつけてこい。滞在中ずっとお守りするなんざごめんだからな。また部屋の一部を焦がされたら、今度こそ俺はお前のうなじをそぎ落とすぞ」
「大丈夫だよ、リヴァイったら。今回はモブリットもいるから、私もそうそう君の家で小火なんて起こさないよ!」
そのモブリットが居ながら、実際に追い出されてんだろうがテメエは!
リヴァイとハンジの言い合いが、やんややんやと続く。
エルヴィンはそれを傍目に、広々としたリビングを見渡した。
小作りで、派手さのない、いい意味で素朴な生活感と清潔感とを想像させる彼の印象と反して、リヴァイの家はあまりにも広く、大きく、そして荘厳な景観の、見事な館だった。
館の外門は重厚で、それだけで既に範疇を越えた驚きに目をしばたかせていたというのに、入ってすぐのエントランスも、吹き抜けで続く階段、その先の二階部分、いくつも連なる部屋の数々、果てはリビングの広さ、揃えられた調度品の静かな艶やかさときたら、エルヴィンとは縁遠い、正しい血筋の、良家のそれにしか思えない代物ばかりだった。
「君の家は資産家か、貴族の名門かなにかなのか?」
頭上、エルヴィンの真上の天井に鎮座する、豪奢ではないが、控えめな美しさを誇るシャンデリアを見上げ、問い掛けてみた。
ハンジの汚れた顔に、濡れた布巾を押し付けた状態で、リヴァイは「あ?」と訝しげに答える。
「貴族だと……? 馬鹿言え、うちはただの小市民だ。財産なんてものも、この古臭い家くらいしかない」
「君が資産家なわけでもなく?」
「俺がそんな知恵の回る賢い人間に見えるのか?」
どうやら嫌味を言われたと思われたらしい。リヴァイの眉間に青筋が増えた。
「リヴァイはね、エルヴィン。街で小さな店を出してるんだよ。そこの商品を、この家の敷地のなかにある工房で生成してるんだ」
そういう家業をしているから、こんなバカでかい家を持ってるんだよ。
ハンジのフォローで、エルヴィンは得心がいった。
「なるほど。代々の家業を継いでいるわけか」
リヴァイはなぜか、ハンジに抗議の目を向けていた。
余計なことは喋るな、と、その瞳が語っているようだった。
そしてそれに気づきはしたが、これから世話になる人間に、突然に不躾な干渉をしようとするほど、エルヴィンも馬鹿ではなかった。
その後、リヴァイの案内で、エルヴィンは自分がこれから滞在させてもらう部屋や、最低限、使用するだろう部屋の説明を受けた。
エントランス、バスルーム、トイレ、リビング。キッチンは主にリヴァイが取り仕切るから入らないこと。ただし、用があるならその限りでなく、冷蔵庫の中身も好きにしてくれて構わない。
客間は一階に充分な数が揃っているし、二階は自分や家族のプライベートの空間なので、基本的な立ち入りは控えること。部屋が足りないなら、さらに用意する旨。
そして、日常のルール。朝、昼、夜。食事はそれぞれが各々に好きにしてくれて構わないが、必要なら事前に連絡を入れること。洗濯物は経済性を優先して、朝に必要な分をすべてこちらに渡すこと。まとめて洗うそうだ。
ハンジは女性だが……、リヴァイが洗うのか? エルヴィンの問いに、げんなりした顔だけでリヴァイは応える。(今日でこの顔を何度見たか分からない気がする)
「大丈夫だよ、私気にしないから」
案内に付いてきていたハンジが、なんの遠慮も気負いもない声音で、あっけらかんと発言した。
「……放っておくと、こいつは四日目にも同じ服を着ていたりする」
俺が耐えられねえ……。
小さく呟く、黒髪の、黒いシャツの小さな男の背中を見て。
エルヴィンは思わず憐憫の目を向けざるを得なかった。
ひと通りの説明と案内が終わったころ。
エントランスを突っ切ろうとした一行に、玄関扉から現れた人間が「え?」と声を漏らした。
「リヴァイさん、お客さんですか?」
それは、年若い少年だった。
茶色の短髪に、精悍な顔つきと大きな瞳を持った、整った容姿。歳は、恐らく十五、六歳の頃だろうか。「エレン」リヴァイの声が通った。
「ハンジの友人だそうだ。クソメガネの愚行のせいで、こいつも暫くうちに居座る事になった。よろしくしてやれ」
リヴァイにそう説明を受け、エレンと呼ばれた少年は、その大きな瞳でじっとエルヴィンを見詰める。ぐりり、視線で穴があくかと思うような、まっすぐな、そいでいて疑いも不審も隠そうともしない、率直な、そして良い意味でも悪い意味でも、素直すぎる視線だった。瞳だった。
「エルヴィン・スミスだ。世話になるよ。ええと」
「……エレンでいいですよ」
「そうか、よろしく頼む、エレン」
社交辞令として、コミュニケーションの基礎としての笑みを浮かべる。潤滑な関係を築くための手段の笑顔。
そしてその笑みを、胡散臭そうに眉根を寄せて見返す少年。
「……エレンはリヴァイの弟かな? よく似ている」
私を非常にめんどうな、うさんくさいものを、胡乱げに見詰めるようなその瞳の形が。
そんな余計なことは勿論口にすることなく、エルヴィンは一部分だけを何気なく発言した。
すると、「そうですかっ?!」
まるで態度を一変させ、先ほどまでの毛を逆立てた猫のような瞳を、くるりと上機嫌に丸ませて、エレンが食いついた。頬が上気している。
「オイ、なんで喜んでんだお前は……。エレンは弟じゃねえよ」
こいつの両親は海外を飛び回る外科医なもんでな、うちに住み込み修行兼、預けられている。
リヴァイがするすると、悪気のない弁解を当然のように語りだすと、しゅんとエレンの肩がうなだれるのが見て取れた。エルヴィンは、おや、と苦笑する。
ずいぶんと懐かれているんだな。
「住み込み修行、というと、先ほどの家業のことかな? エレンが継ぐのかい?」
「……悪いが、家庭の事情になる」
やんわりとした否定の意に、エルヴィンは「そうか」と応えるに留めた。
このときはまだ。
彼の存在が、彼の日常の営みが。
自分にどれほどの価値と意味と、かけがえのないものたちとを、取り戻してくれるのか。
そんなことは、知る由もなかった。
リヴァイの家には、現在、リヴァイ本人と、彼の母親、その兄という男性、つまり伯父と、彼の祖父、はとこに当たる少女、そしてエレンとが居住していることを、そののちエルヴィンは知った。
彼等は二階にそれぞれ自室を持ち、ふだんは屋敷全体が静まり返るほどの静けさとプライベートの区切りとを保っていた。そして食事の時間にはバラバラと姿を現し、言葉少なな団欒を過ごしていた。
リヴァイの母親である女性は、クシェルというらしい。リヴァイと同じ、美しい黒髪と、憂いを帯びた、静かなしらがね色の瞳を持つ、美しい人だった。
(彼の家系の色素なのだろうか)
彼も、その母親も、夜露のしたたるような、見事な黒髪だなとエルヴィンは感じた。
しかしそのうち、屋敷と反比例するようにけたたましいハンジとの議論に紛れて、すぐに霧散させてしまった。
ハンジの送って来たデータは、多少の情報不足感を拭えないながらも、しかしある程度の答えと信憑性とを導き出していた。
ふたりとモブリットは(彼も屋敷に滞在中だ)、屋敷のなか、ハンジに充てられた部屋の一室で、グラフや詳細な対応表にまとめ上げた結果を見比べながら、深夜まで熟考を重ね合わせていた。
「分かっただろう、エルヴィン。あれは伝承とか、四方山話とか、依田話とかの類じゃないんだよ。少なくとも、『この島の土壌に人骨らしきものが含まれている』のは、確かなんだ。それも特定の地域や場所だけじゃない。たまたまそこに、祖先の墓があったわけじゃないんだ。『ただの海沿いの岩壁』が、すでに『ヒトの骨と同じ構造』を持っていたんだから」
そんなところに人を埋め込んだりしないだろう。
ハンジは、ベッドサイドランプの光に、その眼鏡をあやしく光らせた。
「この島が地質的な、なんらかの理由から隆起した際に、災害とともに島民が至るとこに堆積せざるを得なかったという考えは?」
「的外れだね、エルヴィン。分かっていて訊いてるでしょう? 私は土壌そのものが、と言ったんだ。化石が埋まってた、なんて言ってない。このデータも、『ヒト』の痕跡そのものを指し示しているわけでもない。『島ぜんたいに及ぶだろう土壌』に、『ヒトの骨と同じ遺伝子・細胞構造を持った存在』が『含まれる』と言っているんだ」
ハンジがぽつりと漏らす。
ねえ、この島はやっぱり、あなたの言うとおりの存在かもしれないよ。
背後のモブリットが、緊張をにじませる気配がした。
パラディ島での生活がはじまった。
エルヴィンはハンジやモブリットが拠点としてる研究施設と、リヴァイの家とを往復し、彼らの手伝いをする毎日を送り始めた。
朝に起床すると、リヴァイの親族たち――やっと明かしてもらえたが、彼の家はアッカーマンというらしい──と共に朝食をとる。主に食卓には、リヴァイとエレン、そしてはとこであるミカサという少女(彼女もまた、美しい黒髪の見目麗しい少女だった)、リヴァイの祖父、そしてエルヴィンたちが並ぶ。クシェルは身体が弱く、朝は伏せがちなことが多いようで、そして伯父という男性には、一週間が経った今でも、まだ一度も会ったことがなかった。めったに家に帰る人物ではないらしい。
大家族だな。エルヴィンはキッチンに立つリヴァイに笑いかける。
緑色のエプロンをして、小柄な身体で、機敏な動作で料理を仕上げる彼の姿は、早朝から何故かすがすがしい気持ちにさせた。
「食費ならあとから請求するから心配するな」
リヴァイはにこりともせず、プレートにポテトサラダを盛りつけながら答えた。
ハンジたちの根城とする研究施設は、元はこの国の大学機関が所有していたものらしい。
パラディ公国には現在、大学に当たる教育機関はなく、義務教育のための基礎学校がいくつか、大きな街に所在しているだけだ。その後に大学進学を希望する者は、だいたいが国外へ留学する。
昔はあった、けど、今は必要がなくなってしまった。だからこうして、施設だけが残ってる。
「きっとそれって、その言葉以上に様々な思惑とか理念とかが絡んでるんだろうけれどね」
残ってるんなら、こうして有難く使わせてもらおうじゃない。
ふふ、とシャーレのなかを覗き込みながら、ハンジは笑った。
そうだな。エルヴィンも顕微鏡を覗き、頷く。
高度な教育機関が必要とされない理由。しかし、こうして施設だけが、申請を通せば、現役の状態でいつでも利用可能とされている理由。
いくつでも考えられた。島民の人口の減少。子どもの頭数に見合わない、教育施設に充てられる費用の是正。非効率的な施設の配置場所からくる、諸問題への対応策。
いくつでも考えられるのに、それらが、まあどうでもいいかと思わせられてしまう、目の前に提示された魅力あるデータ。
「ハンジ、もっとサンプルが欲しい。次はもっと島の北側の地質を調べよう」
「そうだね。きちんと理論だてるなら、これだけじゃ証拠不十分だ」
けどねえ。珍しく煮え切らない様子で、ハンジは次は試験管を振った。もくり、湯気が立つ。
「言ったっけ? ここの施設を使わせてもらう申請が通った条件。あと、色んな地域に出入りしてサンプル採取オッケーもらった条件」
「いや、聞いていないな。そういえばどうやったんだ?」
リヴァイだよ。
ハンジはエルヴィンの瞳をのぞきこみ、呟いた。
「政府機関から直接……いやまあ回りくどい言い方の書面だったけど、要するに『アッカーマン家当主の監察をこちらが受け入れた場合に限り、当主が承諾した地域のみの立ち入り、調査、研究を許可する』って話だったんだよ」
「アッカーマン家当主……」
「そう。つまり、リヴァイの許可や監視がないと、私たちは自由に動けない」
そうだったのか。エルヴィンは僅かに瞠目した。
「君がリヴァイと親しくなったきっかけは、まさに研究ありきだったんだな」
「まあ平たく言うとそうなるね。でも、彼と親しくなりたかったのは、優位に進めたかったからじゃないよ。私は彼が好きなんだ。おもしろいじゃない、リヴァイ」
やさしいしね。
ハンジはいたずらっぽく笑った。
「君が珍しく億劫そうなのは、それが理由だな?」
エルヴィンが薄く微笑むと、そうなんだよーと間延びした声が返ってくる。
「もちろん、優しいとか情が深そうとか、そんな理由で彼が公私を混同する男ではないのは分かってるよ? けれど、せっかく友人になれた人間じゃない。こうやってビジネスのような駆け引きする立場は、ただのいち研究者の私には向かないんだよ」
むしろ私はリヴァイにも参加してどんどん意見してほしいくらいなんだから!
鼻息荒くハンジは拳を握る。
「現地に住む人間の意見ほど的を得て鋭いものはないよ。彼らはよく理解しているんだ、自分たちがどこに住んでいるのか。なにと生きているのか」
どこで、なにと、生きて。
なにを知っていてなにを知らないのか。
「私はもっと、リヴァイと、彼らと話をしてみたいよ」
研究じゃなくていい。
「だってなんだか、懐かしいんだ」
ハンジは、そっと呟く。
その瞳の奥が、ダークブラウンの虹彩が。
柔らかく深まるのを、エルヴィンは見詰めていた。
懐かしい。ひどく。
心さざめくほどに。
エルヴィンが入国して、二週間が経ったころだった。
*
休もうか。たまには。
エルヴィンがそう言いだしたのは、それから二日ほどしてからだった。
「私は構わないけれど」
ハンジとモブリットも加え、三人で屋敷の応接間を借り、研究結果を組み立て直している最中だった。
「僕も構いませんが、どうかされましたか?」モブリットが思慮深い声で、優しく問う。
「いや、良い思考にはたまの休息も必要かと思ったんだ。ここは自然が豊かだし、私も、君たちなんかはさらに長い時間、根を詰めすぎているきらいがある。少し脳に新鮮な空気でも入れた方が良い」
エルヴィンがゆったりと発言し終えると、ハンジは目を丸くした。
「めっっずらしい……、あなたがそんなことを言いだすなんて、明日は雪が降るよ? まだ初夏にもなってないよ? 大学の研究室にこもりすぎて捜索願を出されたワーカーホリックの言葉じゃないよエルヴィン!」
「それハンジさんの話ですよ」
捜索願を出されたのも、研究室をハムスターの巣みたいにして捜索不能にしたのもあなたですよ。
モブリットが苦笑いもできずに突っ込んだ。
「あれ? そうだっけ? まあどっちでもいいよ、じゃあ雪が降らないうちに島の散策でもしてこようかなあ!」
森に入って珍しい虫みつけようぜモブリット競争だ!
どこから取り出したのか、虫取り網と籠を抱えてハンジが走り出す。一切の躊躇や逡巡のない、みごとな起立と動き出し、スタートダッシュだった。「ハンジさんちゃんと上着と帽子をかぶってください!」モブリットが慌ててその後姿を追いかける。
残されたエルヴィンは、少し機嫌の良さそうな顔で、ハンジの勢い溢れすぎるスタートダッシュで散乱した資料を、ゆっくりと拾い集めた。
「てめえらは黙って話し合いをすることもできないのか?」
ガキでもおままごとくらい静かにやるもんだぞ。
リビングの家具を雑巾で磨きながら、背後に立つエルヴィンへ、リヴァイはそう苦言を呈した。
「応接間を貸してくれて感謝する。まだ少し散らかっているから、片づけたら知らせるよ」
「当たり前だ。借りたもんは倍にきれいにして返すのが礼儀だろうが」
リヴァイは今度は振り向きもせずに言った。
「ところでリヴァイ、君は今日は休暇か?」
「これが休んでるように見えるのか……? 俺は今だいじな掃除の最中だ……」
木製の本棚の側面を磨き上げる彼の目は、いきいきとしていて、そして、深く深く沈み込み、集中し、据わっていた。
エルヴィンは、いっそ狂気的な掃除好きらしい彼のもろもろについては触れず、違うと返した。
「工房や、店の話だ」
「……工房の方は、じじいが腰がいてえと言うから休みだ。店は、これが終わったら様子を見に行く」
そうか。エルヴィンは頷く。
「ではリヴァイ。俺を君の店へ案内してくれないか?」
「……あ?」
リヴァイの家業、というよりアッカーマンの継ぐ家業は、その広い敷地に横たわる工房で生成した工芸品や装飾品を、街の店で売買することらしい。おそらく家業そのものは伝統工芸の継承なのだろうが、何代か前からそれらを応用した土産物や、装飾品を観光者向けに販売し始めたそうだ。いわく、伝統だけでいまどき食べられないだとか。
意外とよく喋るわりに、言葉が足りないリヴァイからそれだけの情報を訊きだすのにおよそ二週間もかかってしまった。(研究に没頭していた時間が多いこともあるが)
もっと彼と、話をしてみたいんだ。
ハンジの言葉が、あれからふとした折に脳裏を掠めていた。
エルヴィンは、ひとめ、逢瀬した時間から、すでに彼のことが気に入っていて、すでに彼を、好ましい人間のひとりに入れていた。
けれどそれは、単純な、世話になる人物へのただの好意ではないのかもしれないと。
ハンジの言葉が掠める度に、そんな思いがひたと、胸に染みるのだ。
懐かしいんだ。
慈しむような、彼女の言葉。
自分にも覚えのある感覚だと、無意識化でさざめいていた。
少し意外なことに、リヴァイは割とすんなり、エルヴィンの申し出に肯いた。
「仕事の邪魔だけはしてくれるなよ」
お前は随分と図体だけは立派なようだから、店のもんも壊さないよう気を付けろ。
屋敷の奥、雑木林のなかにひっそりと佇む工房から、生成の終えられた品だけを大切に車へ積みこんでいく。古い木製のトランクに並べられていく美しい装飾品の数々は、いったいどのような手順で、どのような過程を経て作り上げられたのか。伝統の名を冠する技術なだけあって、みごとなものばかりだった。
なかでも、象牙のような、まろい白さのリングを通り、様々な色の石が飾られた繊細な指輪の数々は、目を見張るものがあった。
「この指輪も君たちが作ったのか?」
するとリヴァイは、ふんと鼻を鳴らす。
「今はもう、じじいはほとんど隠居状態だ。呆けてきたしな。何気ない顔してこっそり人のいる空間で屁なんてこきやがる……ああいう年寄りにだけはなりたくねえ……。掃除をさせようにも、腰がいてえだのなんだの抜かしやがるから、今は俺が掃除も管理も経理も製造も任せられっきりだ。なんて使えねえじじいだと思わねえか? これならまだエレンの方が使える……だがあいつの技術もまだまだだ。発展途上とはいえ、なってねえ」
リヴァイは、一度口火を切ると、そのワンブレスから先が割と長い。意外と長い。
折れ曲がって途中に要らぬエピソードも交えるので、エルヴィンはその調子に慣れる前は、少し面食らったりしていた。
しかし、今はさすがにそれほど気にならない。エルヴィンは順応性が高い方なのだ。
ええと、と一拍置き、「つまり」
「君は今はほとんどの店の品を任されていて、これらも君が作ったんだな?」
「そうだ」
そうか。エルヴィンはいかにも得心いきましたという風に頷いた。リヴァイはそんな姿にはおかまいなしに、荷を積み終える。
小さな小型トラックの荷台には、まだまだスペースが余っていた。
「後ろに乗れ」
後ろ。
ただの荷運び用の小型トラックに、後部座席はない。
つまり荷台に乗れと。
「助手席はだめなのか」
「だめだ。てめえは大きすぎる。邪魔だ」
そうか邪魔か。
エルヴィンは目を丸くした。
恐らく、これまでの人生と、エルヴィンの人となりとで、ここまでの邪険な、粗悪な扱いは初めてに近かった。
それなりに、かなり、失礼だった。
憤って、戸惑ったっておかしくなかった。
「お前がそう言うんならそうなんだろう」
けれどエルヴィンは、屈辱など感じようもなかったし、その言動について、怒りに任せる気にもならなかった。
なんとなくそんな気がしてたのだ。
空が流れていく。
頭上で、ゆったりとして、しかし確実な速さで。雲の形が変わるのすら分からず、けれど青の濃淡が移り変わる、その美しい確実さは、たしかに伴って。
頭上は青がのびて、水平は麦の、森の、丘陵の、柔らかな緑が広がって。
ガタガタと揺れる車体。荷台の荷物のとなりで、エルヴィンは街までの景色を堪能していた。
──そんな気がしていたのは、この風景のことだった。
今日は、朝から晴れていた。すがすがしい天気だった。春も終わりが近く、このまま初夏が待っている。しかし、その前に梅雨が近い。位置的に、他国と比べてそれほど雨季の長い国ではないだろうが、けれど、もうすぐ雨の日は来る。
滞在しはじめて、およそ二週間と少し。部屋に、研究室に、屋内にこもりきりの自分。
初めて会った日のことを、思い出していた。
この国のことに執拗な興味ばかり示して、質問攻めにしていた自分。うんざりしたような顔の彼。
窓際を譲られたこと。
景色を見せてくれたこと。
「そういうことだろう?」
運転席の彼に、風になぶられる自分の声など届かない。
「いい景色だ」
なあ、リヴァイ。
せっかく来たのだから、資料のなかのそればかりでなく。
目の前の、本物の色彩を持つ、この国を見ておくのも、確かに悪くないな。
彼の店は、街の大通りを外れ過ぎず、しかし住宅街に紛れる手前、静かな路の角に建っていた。リヴァイは降りてすぐに荷を運び込み、店番をしていたエレンに声をかけている。どうだ? さっき観光の人と、いつもの人がアレ買っていきましたよ。あ、預かってた伝票整理しときました。ああ、悪いな。いつもの彼等の日常だろう会話。
荷台からゆっくりと降り、店先からその様子と、店の内観をぐるりと見渡す。
それは、エントランスのない古い洋間の一室を改築し、アンティーク調の机を並べたような場所だった。その机に、円卓に、ひとつひとつ、存在感を放つ装飾品が、工芸品が並べられて、静止ししている。時間を止めている。
床には集めの絨毯。天井には高い吹き抜けの天井。
飴色の電燈が柔らかい。
「エルヴィンさん」
エルヴィンの存在に気付いて、エレンが声をかけた。
「珍しいですね。研究って終わったんですか?」
「いや、まだまだなんだけどね。せっかくこうして縁を持てたんだ、世話になっているリヴァイや、君の働く場所も見てみたいと思って」
「はあ……」
そんなもんですか。エレンは興味があるのかないのか、特に何も思うところのないような、あいまいな表情を返した。リヴァイは我関せずの態度で荷ほどきや陳列、備品のチェックに取り組んでいる。エレンもまた、すぐにリヴァイの手伝いへと移った。
店内をまた、ゆっくりと見渡す。
なんとなくだったが、エルヴィンにはそのとき、ひとつ腑に落ちる感覚があった。
まだ二週間と少しだ。ひと月にも及ばない。
けれど彼の家は。アッカーマン家の屋敷は、ひどく居心地が良かった。
それは恐らく、彼らのこの距離感にあるのだ。
部屋で目覚めると、家の中にはすでに音が溢れている。
彼がせわしなく動き回る音。なにかの準備の音。卵が割れる音。窓が開く音。風の音。誰かのおはようの声。
そして香り。
フライパンで、ベーコンが焼ける匂い。太陽の香り。朝の風が、ゆっくりと家の中をめぐる香り。落ち着く柔らかな洗剤の香り。
それらを夢見心地のままに知り、感じ、最低限の身支度を整えてダイニングへ赴く。そうすれば、幾人かの顔ぶれが集まり始める。
朝食の用意をする彼。すでにしっかりと身支度を整え終えた少女。その少女と、食卓の手伝いをする、寝ぐせのついた少年。エルヴィンよりも必ず早く起きて、その手伝いをしようと奮闘する青年。エルヴィンよりも遅くに起きる彼の祖父。調子がよければ、出来る限りその場にゆき、穏やかに笑う女性。そして起きてこない確率が高い友人。
エルヴィンが今まで居た場所は、好ましいと思える程度の孤独だった。
やりたい研究があり、究めたい分野があり、教えがいのある生徒たちが居て、それなりに自分の道を目指す同僚が居る。職場環境は概ね良好で、不要な詮索をする不躾な人間は少ない。
とうに家を出ているから、家は静謐で、安らかだ。自分の時間が望むだけある。ハンジのような気の合う友人も、少なからず存在する。
安らかな孤独が、静けさが、深海のように。日常の中で、ベッドの中で、手のひらに望める分だけは、守ってゆける場所にいる。
満足していた。それは好ましい孤独だった。
ひとりだから、それが守ってゆけるのだと知っていた。
そのはずだった。
だが、エルヴィンは彼らと並ぶ食卓について、なにかを感じていた。考え始めていた。明確な言語化が追いつかない、それはとても、不明瞭な感覚だった。
めいめいに、食卓に人が並んでいく。いただきます、はない。それぞれが手を組んで、無言で祈る。それぞれのペースで、時間で、それぞれの一日が、朝食がはじまる。リヴァイもそのうちに席に着く。無言だ。けれど息苦しくはない。大きな窓から陽が差し込んでいる。トーストを齧る音。バターの香り。「このパン、新しいのね」彼の母親がときどき、一言漏らした。リヴァイが「ああ」と頷く。そっけないわけではない。食器が掠れる音。けれど彼等の所作は丁寧で、それほどの雑音はない。
静かだ。静かなのだ。
覚えがあったのだ。今思えば。
エルヴィンはそれを知っていた。
好ましい孤独。
けれどきっと、それは少し違う言葉だった。
やさしい「ひとり」が、たくさん存在して、
その存在を許しあっている、
そうだ、これは、やさしい孤独の場所だ。
彼らは、正しい、やさしいそれぞれを、尊重し合って存在を許しあっていた。
だからこんなにも、あの家は居心地がよかったのだ。
それはもちろん、客でしかないエルヴィンにさえ適用された。
彼らのやさしい孤独は、当然のように、エルヴィンが存在することを許した。不必要には干渉せず、しかし拒否もせず、ともに朝陽を知って、彼の料理を共有して、空気を同じくして。
孤独ではない、正しい意味のやさしい孤独がそこにあった。
尊重という意味を、感覚的に感じていたのだ。恐らく。
彼らのありかたに。会話に。食べかたに。接しかたに。笑いかたに。
「不思議だな」エルヴィンは呟いていた。
「なにがですか?」
陳列の手伝いを終え、レジの整理をしていたエレンが振り返る。
「君たちは不思議だ」
「オレたちがですか?」
「ああ。私のような人間にも、君たちはまるで意に介さず、とてもいつもどおりだ。いつもどおりに、私がもともと居たかのように、いつもどおりを続けているような印象だ」
「よく分かんないですけど……」
エレンはあからさまに「なんか難しい話をされてしまった」という、いかにもめんどくさそうな顔をした。
ほら、そういうところだ。
君たちのそれは、まるで当たり前に隣に居続けた人間にするものと変わりがない。
不快な拒絶ではない。だからといって、不躾な馴れ馴れしさでもない。
それがきっと、エルヴィンには不思議でならない。
「オレは、両親が小さい頃から海外に飛びっぱなしで、ほとんどあの家でお世話になってて……、だからほとんどあの家で育ったも同然で、自分の家もまあ、あるにはあるんですけど、でもあの家がオレの家で。ほとんど」
ええと。言葉を探すようにエレンは上を向く。
「なんだろう。オレたちが不思議なのは、たぶんリヴァイさんのせいかなって思います」
「リヴァイ?」
はい。エレンはうーん、と唸りながらも頷く。
「オレもミカサも、リヴァイさんがほとんど育ての親同然でした。クシェルさんもおじいさんも居たけど、でも、オレたちの面倒をみてくれたのも、家がきちんと回るようにしてたのも、リヴァイさんだったなって」
だからまあ、オレらが変だってんなら、リヴァイさんのせいですね。
あっけらかんとした、特に何を思うでもないエレンのその表情と、言葉に。
エルヴィンは、本日二度目に目を丸くした。
そして、奥の部屋に居たはずのリヴァイが、その背後に立っていることをエレンに伝えるか否か迷い、やめた。
一日、彼の店にいた。客は多くも少なくもない。常連だという人間もいたし、初めて訪れる観光客もいた。若い男女が対の指輪を買っていった。
閉店間際に訪れた老婦人が、親しげにリヴァイへと歩み寄った。「これ、またお願い」
彼女が手渡したのは、まろい象牙色の、あの指輪だった。石は琥珀色をしていた。
「分かった。磨いておく」
リヴァイはうなずき、一言だけ返す。
外にはすでに、黄昏が落ちていた。店を出た老婦人の背中を追って、エルヴィンは少しの逡巡ののち、ひとつだけ尋ねてしまった。
「ずっと、身に着けているのですか?」
老婦人は、不思議そうに振り返る。
「ええ。だってこの島に生きているから」
橙の陽の、斜めに射した横顔が笑っていた。
エルヴィンはしばし、立ち尽くした。
「どういう意味なんだ?」
閉店作業を終え、車に乗り込もうとしていたリヴァイに小さく問う。
「お前、好奇心は猫をも殺すって言葉を知っているか?」
リヴァイの視線は、声は、いつにないニュアンスで鋭く、とがっていた。
「分かっているよ、承知のうえで私はこの島にいるし、このような仕事もしている」
助手席に先に乗ったエレンは、暇そうに空を見上げていた。
しばし、沈黙が続く。
車の運転席、その扉に手を掛けたまま、リヴァイが無言を貫く。エルヴィンを射抜く。
「……この島に生まれた人間で、昔の伝承を今も信じている人間は、たいていがあの指輪を持っている。若い奴らは知らない。俺も教える気はない。意味なんて埋もれて消えてしまっていいと思っている」
「けれど、作り続けるのはやめないんだな」
「……仕事だ」
「アッカーマン家のか?」
「うるせえなお前……。どうしてそんなことを知りたがる?」
「私が島に来た理由に近い問いだからだ」
「お前の都合なんざ俺が知るか」
「君が答えたとして、君に不利益のある答えなのか?」
リヴァイはそこで、無言になる。
どう答えたところで、それは何かの肯定になってしまうと気付いているからだろう。
アッカーマン家の関わる問いなのだと。
少し俯き、彼の黒髪が垂れて揺れた。
そしてその黒髪の隙間から、しらがね色の瞳がのぞく。光る。
鈍い刃のように。
「……好奇心で死ぬ、死に急ぎの猫野郎に答えてやる。それ以上の問いを重ねることは、お前にとっての不利益だ。俺じゃない」
俺は答えない。
リヴァイは運転席ドアを開くと、元の声色で「早く荷台に乗れ」と続けた。
今の会話などなかったかのように振舞えと。
暗黙を共有しろと言われたような気がした。
エルヴィンは、夜の景色を眺めながらその日を終えた。
*
それから数日経ち、エルヴィンたちはまた研究の日々を過ごしていた。
モブリットが作成した新たな採掘・地質調査に関する申請の返答はまだだったので、三人は残る疑問点の洗い出しに時間をかけた。
エルヴィンはすでに、あの日のリヴァイの返答について、ハンジ達と共有していた。
「彼らが──アッカーマン家が島の伝承に関わるのはまず間違いないんだろう。いち市民に過ぎないリヴァイに、調査についての責任が一任されているのも、考えなくてもおかしな話ではある。彼らが伝える伝統、とやらも、恐らくただの工芸品、装飾品の類を扱うだけに留まらないのではないだろうか。あまりに密に関わり過ぎているように思える」
薄暗がりの夜だった。ハンジの部屋で、三人はめいめいに、割り当てられた分の資料とデータに目を通していった。
そうして、エルヴィンはむしろ独り言のように呟いた。
頭のなかで無数に展開される、無数の可能性を吟味し、濾過し、抽出し、ひとつの正解に紡ぎ出すための、単調な作業のように。
「水を差すようで悪いんだけどさあ、エルヴィン」
そこで。
モブリットによって綺麗に整頓された資料をめくりながら、うっそりと、ハンジが呟き返した。
「私たちは、そもそもこの島に、地質に、伝承や伝説の類でしか存在しないだろう、巨人の存在を認められるかもしれないと思って、こうして多方面に無理言って色々調査させてもらってるわけなんだよ」
いわば、研究者としての浪漫のために来たってことだ。
「つまりさあ、」
そこでハンジは、アーモンド形の瞳をゆっくりと瞬かせた。
そして、見透かすような、見通せないような虹彩で、エルヴィンをまっすぐに見据える。
呟く。
「誰かの秘密を、暴きに来たわけじゃあないんだよ」
私たちは、ただの研究者だよ。
「アッカーマン家は、確実になにかの役割を担う、特別な家だよ。私の方があなたより付き合いは長いんだ。それくらい分かってたよ。調査のためにリヴァイの力が必要だったことも確かだ」
一閃が交わるような。
エルヴィンとハンジの、互いのその瞳がまっすぐに交錯する間に、激しい一閃が散ったような、緊張感が生まれる。
「あなたが一度興味を持ったことに徹底的に関わろうとするのは知ってるよ。そういうところも友人として、同じ道をゆく者としても尊敬している。ただ、そういう干渉の仕方は、学者として、私はどうかなと思う。彼らには彼らの生活があって、穏やかにここで暮らしてゆく権利がある。外から来た私たちが、自分たちの都合で掻きまわしていいものじゃないだろう」
エルヴィンは黙った。
なるほどな、と、すぐに思考が切り替わるのが不思議だった。
「そうだな。君は聡明だ。その通りだろう」
それに君は、リヴァイの友人だものな
冷静だった。ハンジの弁は最もだった。
自分の悪い癖が顔をのぞかせていたな、と。そんな認識で、まるで外側から眺めるかのように、エルヴィンはすぐに結論付け、整理させた。
確かに、巨人の存在という大きすぎる議題について、この島のあらゆる地質データは、あまりに魅力が過ぎる。
けれど、同時にエルヴィンは知ってしまっている。
穏やかな麦畑の色。丘陵の風。凪ぐ空の青。忙し過ぎない街の人間。そこで営まれる日常の空気。
優しい孤独を知っている、優しい家の住人達。
彼らと共にとる、食事の安らぎ。
黒髪の男の、小柄な体躯。
しらがね色の瞳。
その瞳の、その腕の、指先の、心の、不器用な優しさのようなもの。
確かに、あれらに不躾な干渉をするほど、自分は思い上がってはいない。
自らの知的好奇心で、なにかを壊してしまう真似など。
もう二度と。
(……もう、二度と?)
まるで一度、決定的な過ちをおかしたような口ぶりだった。
エルヴィンは首を傾げた。
「やだなあエルヴィン。何言ってるのさ」
すぐに柔軟な理解を示してみせたエルヴィンへ、ハンジは先ほどの剣呑な表情をすぐに収めていた。
あなたならすぐに分かってくれるだろう、と、無言の信頼が、瞳の細め方に現れていた。
「リヴァイはもう、あなたの友人でもあるでしょうが」
ゆうじん。
次の日も、朝方に研究施設へ向かい、そしてアッカーマン家への帰路するまで、エルヴィンはその単語を繰り返し続けていた。
ゆうじん、友人。
友人とはいつなるものだったろうか。
的外れな疑問が浮かぶ。
気が合って、いつの間にか交流する機会が増えていけば、自然に周りに公然と「友人」として扱われ、「そうか」と納得する。
エルヴィンのなかの友人の定義とはそれくらいのものだ。
意気投合した同志はもちろん居る。同じ学者でなくとも、たまたま馬が合った、まったく違う職種のミケという男もいる。大学の事務に勤めるなかで、特別聡明で、性別を感じさせないナナバという女性の友人もいる。
彼らは友人だろう。
だがリヴァイは、どうだろうか。
その夜初めて、彼へのただの好意が、知りたいという純粋な欲に変わった。
滞在からひと月が過ぎた。
申請が受理される気配はなく、モブリットすら「潮時ですかね」と漏らしたころだった。
その日は雨が降っていた。ハンジの携帯端末に連絡が入り、彼女の帰国が決まった。
「仕方がないけどさあ、やっぱり心残りだよ! あとは受理されてリヴァイの許可もらって、そんでサンプルとってデータとって計算してそれでもう次の段階だったってーのに! ああ、私たちもしがない社会の歯車のひとつに過ぎないってか……」
「ピクシス教授の招集ですから……。こればっかりは素直に諦めて下さいハンジさん」
「おら、モブリットもこう言ってるだろう。さっさとカビくせえその荷物をまとめて出ていけクソメガネ」
「カビくさいって! そのカビくさい荷物の整理をいつもなんだかんだ手伝ってくれるくせして! 三十路過ぎのおっさんのツンデレとか流行らないからな!」
「あ? つんで……?」
リヴァイの頭上に疑問符を残したまま、あわただしくハンジは帰国してしまった。
付き添いのモブリットも一緒に。
しとしとと降り注ぐ窓の外を眺め、エルヴィンは「そういえば、大家との交渉はどうなったんだハンジ……?」とひとり、呟いた。
エルヴィン一人、アッカーマン家に滞在する日々がはじまった。
一人では進めようもない、というわけでもなく、進める気がなくなっていた、というのが正しい心情だった。
エルヴィンの滞在理由であるはずの「研究」は、ハンジたちの帰国、申請書受理の先送り、そして数日前の会話の内容とで、ほぼエルヴィンのなかで意味を為さなくなりつつあった。
無論、これは歴史学において、考古学においても、否、あらゆる学問においても、大きな発見となる可能性が高い。
常識が覆るのだ。伝説が現実になる、その時代に居合わせる人間となるのだ。
けれどそれは、この島の人間ひとりひとりの、束ねて重ねてきた時間や、常識や、秩序や、生活に、無粋に、土足で足を踏み入れ、荒らしまわることに他ならない。
意味があるのか? そこに。
今日も雨が降っていた。雨季に入ったのかもしれない。
リヴァイは朝食の片づけを終えたあと、眉間に皺を寄せながら、洗濯物を室内干しするために奔走している。エレンとミカサは、今日はもう少し大きな街の方で履修する授業に出かけていた。クシェルも部屋で、祖父の方は出かけているらしい。伯父という人物は、ひと月が過ぎた今でも帰ってこない。
大きな屋敷のなかで、まるでふたりきりだった。
エルヴィンは、リヴァイの手伝いをしたのち、しばらく談話室で読書をしていた。
今は誰も使っていないという書斎室の、壁に広く設置された書架から手に取った本だ。
本国に流通する童話と同タイトルの児童書だったが、出版年が五十年ほど早いこと、そして内容の改訂がみられることに興味を引かれ、思わず読み耽ってしまっていた。
童話は、片翼の鳥が、巨人の骨で作られた島でひとり生き残り、たった一人の想い人を思い、その幸福を願い、そして飛べないまま、いつか海に沈むというものだった。
本国のそれとは結末が違った。
エルヴィンが子供の頃に読んだそれは、海の向こう側から新しい大陸の仲間が訪れ、鳥は新たな居場所を得て、幸せに生きていっていたはずだった。
「どちらが鳥の幸福だったんだろうか」
たった一人を想い続け、死んでいくことと、
たった一人を忘れて、幸せになることと。
「オイ」
ふいに声をかけられる。扉を開けてリヴァイが覗いていた。頭に三角巾はしていない。掃除が終わったのだろうか。
「どうした?」
「紅茶が入った」
来い。
その一言だけ残して、リヴァイはさっさと背を向けてしまう。
リヴァイが淹れる紅茶は美味しかった。
ハンジたちが帰国してからは、研究室にこもることも、資料に夢中になる時間もなくなり、エルヴィンはだいぶ、時間を持て余していた。
そのことに何を思ったのか、リヴァイはこうして、ときどき所要の済んだ際の、休憩がてらのティータイムに誘ってくれるようになった。
「今日はアールグレイか」
「ああ」
「王道だが、香りも、味の変化も見定めやすくていいな。好きだよ」
「俺も気に入っている」
テメエよく分かってるじゃねえか。リヴァイがひっそりとうなずいた。頬が若干、ほころんでみえるのは、ただの願望だろうか。
なんとはなしに、紅茶を飲むふりをして、薄めで眇める。彼の姿を見詰める。
黒い服の多い男だった。白いシャツも同様によく着ているが、掃除中は黒がいいらしい。店に出る際には、糊のきいたスラックスに、薄手の白いシャツ、黒のジャケットを纏うが、家にいるあいだは、襟首の大きい、ゆったりとした服装を好んでいるようだった。
黒髪は、初めの印象と変わらず、鴉の濡れ羽のように美しい。
光が滑り、絹糸が垂れるように。その一筋ひとすじが、額に、顔の骨格に、耳殻にかかり、垂れて揺れる。音さえなく。繊細さを名前にして。
その黒髪を裏切るように、否、黒髪の美しさに沿うようにして、肌は青白かった。
不健康とさえ思えた、筋張る指先から、頬に、鎖骨に向かうその白さは、いっそ倒錯的な色香さえある。俯いて伏せがちになれば、寄せた眉根が、彼の白さを一層不憫に思わせ、それが尚のこと病的に、倒錯的に美しく魅せたりする。
そして、この瞳の色。
懐かしいと笑ったハンジの言葉は、未だに脳裏で繰り返されている。
この瞳の色のせいだと。そう結論付けている自分がいる。
夜のない世界の、夜の色。にぶく反射する、太陽の照る夜の色。
しらがね色の、虹彩。
薄い水晶体。
不思議な美しさだ、と。
気付けば呟いていた。
「あ?」
想像どおりに、向かいへ座るリヴァイは不可解そうに首を傾げる。
なにがだ? と、表情が問うていた。
「君のことだが」
誤魔化すのを早々に諦め、エルヴィンは他意なく、悪意なく、正直に答えた。
リヴァイは黙っている。
気持ち悪い野郎だなとか、それなりの文句や罵詈を予期していたのだが、けれどリヴァイは黙っていた。
「誤解しないでほしいが、私は異性愛者だ」
「そんな誤解はしてねえ……」
しばらく、そのまま沈黙が続いた。
気まずいかな、とも考えたが、エルヴィンはあまりそういう心地でもなかった。
雨の音が続いていた。ぱらぱら、と。ときどき、どこかを細かく打って、ととと、とも。
美しい音だと思えた。
そんなことを考えたのは、幼少から数えて、初めてに近かった。
いつも何かを考えていた。可能性のことだったり、不可能であることの意味であったり。
過去のこと、未来のこと。今自分が居る場所のこと、時間のこと。
親のこと。周りにいる人間のこと。子どもである自分の存在のこと。
なにができるのか、なにができないのか。見極める力のこと。
なにがしたいのか。していいのか。
考えてばかりいた。観察して、考察して、煙たがられるほどの賢さにまで昇って。
けれど今、エルヴィンは何も考えてなかった。
雨音が美しくて、それを聴いていた。目の前の紅茶の味を、ただ嗜んだ。味わっていた。
何も言わない目の前の男の、その存在すら、ただそこに在るもののように感じて、受け入れていた。
彼は、ただ紅茶を淹れて、自分と机を共にしている。
目の前にいる。
そうあるべきもののように。
彼の存在は、エルヴィンの思考を揺るがさなかった。
(静かだ。そうだ、ひどく静かなんだ)
自分の頭のなかも。
この家も。部屋も。空気も。カップのなかの、水面でさえも。
彼がつくる全てが、そうさせているのだろうか。
不思議だった。
リヴァイが二杯目を注ごうとする。身体をうつむけて、ティーポットを傾ける。
なにかが光った。
彼の首もと、シャツの内側。襟首の裾野だった。
よく見れば、彼は細いネックレスをしていた。
「それは?」
「は?」
彼は虚を突かれたように、眉間に皺を寄せたまま、きょとりとする(器用だ)。
「ああ、これか。見りゃ分かるだろう。ネックレスだ。首からぶら下げるやつだ」
「意外だ。あまり装飾品の類を好むようには見えなかった」
「別に好きじゃない」
「でも、しているじゃないか」
「これは、そういう意味でつけているわけじゃない」
じゃあどういう意味なんだ。エルヴィンは少し首を傾げる。
「御守り……? みたいなもの、か?」リヴァイも首を傾げる。
「疑問形なのか」
はは。
笑うな。リヴァイは静かに制したが、特に気にしている様子でもなかった。
「見せてくれないか」
「構わねえが……」
こんなもの見てどうするんだ。どうするかは俺が決めるよ。
エルヴィンが機嫌よく答えると、リヴァイは「そうかよ」と、ネックレスを外した。
それは、細い鎖に、白い石の通されただけの、まったくシンプル過ぎるほどシンプルなネックレスだった。
石の上部は加工され、細かな意匠が施されているが、それすら控えめだ。石自体も、洞穴のなかの水晶をそのまま研磨し、磨いただけのような控えめな加工で、なるほど、装飾品とは違うな、とひとめで納得出来てしまえた。
しかし、雑な出来栄えというわけではない。
それでも美しい石だった。造りだった。
「いい品だな」
エルヴィンが述べると、リヴァイは頷いた。そして呟いた。
「ありがとう」
と。
エルヴィンは、この島に来ていちばんに衝撃を受け、面食らい、驚いていた。
言葉に詰まった。
ありがとうと言われた。
こんなに素直に。
「なぜ?」という問いが顔に書いてあったのだろう。リヴァイは静かに、石をつまみながら口にする。
「これは、俺が初めて研磨して、装飾したものだ。別に特別に気に入ってるわけじゃねえし、出来がいいと己惚れてもないが、でも、この石を褒められるのは嬉しい」
「……どうしてだ?」
言葉を選ぶように、リヴァイは少し視線を泳がせる。
「赤ん坊のころ……母さんが少し、目を離したときだった。気付いたときには、赤ん坊の俺はこいつの原石を握りしめて、ご機嫌でいたそうだ」
誰かがくれたのか、どこかで見付けたのか、未だに分からねえが、物ごころついたときには、俺とこの石ころは一緒だった。
「それで、ふらっと帰って来たケニーの野郎が石を見て、こいつは白い夜じゃねえかって騒ぎやがった。もったいねえから身に着けとけと。以来、首に下げている」
ああ、ケニーってのは滅多に帰ってこねえあのクソ伯父野郎のことだ。
リヴァイはネックレスを電燈に透かしながら、愉快そうに続ける。
「白い夜?」
「そういう名前の石らしい」
ふと、指先に触れられた。
彼の白い指が伸びてきて、エルヴィンのこぶしを開いていく。
やさしい触れ方だった。爪はそれほど大きくない。冷えて、小さな、けれど男性の手で、指だった。
そしてそのまま、片手に、彼が身に着けていた石を添えられる。
「見てみろ。濁っているわけじゃないが、石英ほど透きとおってもねえ。こうやって電燈の光に透かしても、光の反射は弱い。夜なんかにはその辺の石ころとおんなじだ」
そう言って、目線を同じにして、一緒に天へとかざし、覗き込む。
「だがな、こんな雨の日はだめだが、太陽の照る日なんかに陽に透かすと、ひどく輝いて、眩しく透きとおるんだ」
変な石だろう。
その顔が、少し笑った、ように見えた。
エルヴィンは目を瞠る。
「夜じゃないだろう、ぜんぜん。陽が出てなきゃ光らねえんだ。それも普通の宝石以上に。……ならどうして白い夜なのか? 世界には陽の沈まない、夜のない国があるらしい。こいつはそこの夜でなら、きちんと光り輝くんだ。太陽が照る夜だからな、昼と同じなんだろう。だから『白い夜』なんだと」
まあ、ケニーの受け売りだから、信用の度合いは知れてるかもしれねえが。
「どうして俺を選んだのか知らんが……いや、これだと恥ずかしい奴みたいだな……。忘れろ。とにかく、まあ、どうしてこの島の、俺の手のひらにいたのか、理由はまったく分からないんだが」
「大切なんだな」
エルヴィンは、もごもごと口を少しまごつかせるリヴァイの言葉を継いだ。
ふたりの手のひらのなかには、『白い夜』が、鈍いまろさで、ゆるりと、その表面を光に撫でさせていた。
存在していた。
リヴァイは、そうだな、と。少し首を傾いで、しかしすぐに緩く首を振った。
「……大切、なんだろう。だが、少し違う。……これはたぶん、誓いみたいなものだ」
誓い。鸚鵡返しに答える。誓いだ。リヴァイもまた、繰り返す。
そして、エルヴィンの手のひらから、そっとネックレスを離した。
「この白い石を見ていると、大切に抱いて、守って、そのまま死ななければならないと思える。この石と一緒に、この島で死んで、骨になって、そうして終わるべきだと」
そう言われている気がする。
エルヴィンは、それは誓いではないと告げようとして、そしてやめた。
それは呪いだろう、リヴァイ。
よっぽどそう言ってやりたかったのに。
彼は目を細めて、哀しい目尻で、愛おしげな表情をつくっていた。
大切なのだと、瞳で語っていた。
*
ぼろぼろの、緑色のマントのようなものを纏っている。顔中に擦り傷があり、服の汚れも、転んだ程度で済まないほどだ。表情は険しい。眉間の皺の刻み方よりも、その眼窩の下の、絶望の色のような隈が、恐ろしく濃かった。深かった。
リヴァイは、そんな様子でエルヴィンを見上げていた。
彼は自分にかしずいている。まっすぐに自分を見上げている。
自分は、そんな彼の発する、なにかを聴いている。
ひどく、満足した心地だった。そんな気がした。
険しい表情の、深すぎる絶望と、そして決意との深淵に佇むリヴァイの姿を、自分はゆっくりと、確かに刻み付けていた。
この瞳に、水晶体に、視神経に、脳細胞に。
自分と言う存在のすべてに。
これが最期だった。だから、笑って伝えた。
選んでくれた彼に、「ありがとう」と。伝えられた。
それが何よりの幸福だったのだと、エルヴィン・スミスは知っていた。
*
目が覚めたときに、それが夢だったと気付くのは容易かった。
雨が続いていた。雨音が加わるなかに、それでも、いつもどおりの、彼の起こす日常の音が、香りが、気配が、その屋敷のなかを包みこんでいた。動かしていた。これが現実だと気付くのは、本当に容易かった。
生きている。まずそう考えたのが不思議だった。ベッドのなかは、わずかな室温の低下で、余計に温もりと共にやわらかだった。
あたたかった。生きていた。
当たり前だ。生きているんだから。死んだことなどないのだから。
それでも。
失ったものがあるのだと、漠然とした何かに気付いていた。気付いてしまった。
ひとすじ、涙が流れた。
彼に会いたかった。
すっかりと、調査のことも研究のことも、頭から遠ざけつつあった。
毎日は穏やかに始まり、短い雨季はあっという間に過ぎ去る。ひと月と、半分だ。
その前に、ミカサには「タダ飯を続けるなら、相応に働く必要がある、と、思う」と通り過ぎざまに言われてしまった。(しかもこれがほとんど初めてのちゃんとした会話だった)
その後リヴァイには「気にするな、メシ代はあとで請求書を郵送してやる。もちろんハンジたちにもだ」とフォローされたが、しかしエルヴィンとしても、理由の明確でない滞在を続けるにはそろそろ潮時かという気持ちがあった。
そもそも、彼に面倒を見続けてもらう理由も、本来、他人であるエルヴィンにはないのだ。
そして、それだけでもなかった。
ごまかしてはきたが、けれどそれは自覚済みの感情だった。
会いたいと願った人が、朝起きたときに、朝食の用意をしている。家族のために動き回り、彼なりの時間やルールで生活を営み、暮らしている。
こっそりと覗き見たいとまには、胸元の石を見詰めたり、磨かれた花瓶へ花を活けて、母親の部屋へ持って行って、ともに、微笑を浮かべていたりする。
幸福そうに。
しあわせそうに。
エルヴィンには、あの夢の意味など分からない。夢だったのかも分からない。
それでも、そんな彼の日常を見詰めていると、どうしようもない気持ちに襲われた。
遣る瀬ない想いに似ていた。届かない恋慕のようにも思えて、けれど親が子に抱くような、果てしない愛おしさにも近かった。存在を祝福したかった。感謝した。
けれど。
何故、と。言葉もまた、浮かんだ。俺の隣には、もういないのかと。お前は俺と共にあるのだろうと。傲慢な、意図の分からない、わがままな。子どものような気持ち。
俺のものだろう。
言えるわけがないのに。
(ひと月と、半月。それだけの付き合いだ。確かに彼は良い奴だ。そしてあれは、単なる夢だ。それでどうして、ここまで心揺さぶられる必要がある?)
分からない。
ここまで自分の心理が読めないのは、初めてだった。
やはり潮時か。
下手なことが起こらないうちに、考えないうちに、帰国の準備をはじめよう。
そう決めた。
その矢先だった。
「お前に書簡が届いている」
与えられていた部屋で、私物を整理していたところだった。雨の気配は過ぎ去り、夏の近い、からりとした晴れ間が窓からのぞいていた。そんな昼間だった。
リヴァイが手渡した、厚い上質な封筒に包まれたそれは、一度見たことのあるものだった。封蝋には、パラディ公国政府機関の印がある。
おそらく、地質調査における、新たなサンプル採取場所の申請について。
その返答だ。
「……クソメガネもモブリットもいないが、もしこれが『承認』の返事であったとして、お前は続けるのか?」
エルヴィンは黙っている。
封を切る。ペーパーナイフが、すこし大袈裟に、紙を裂く音をたてる。
すぐに飛び込んだ単語は、『承認』だった。
──アッカーマン家当主の監察を受け入れ、その上で当主が「承認」した場合に限り、以下の項目を受理する──
エルヴィンは、こちらの様子を、ただ黙ったまま眺めているリヴァイへと視線を移す。
そして問うた。
「……君の返答は?」
リヴァイはゆっくりとまばたきをした。
そして少し俯き、小さく、それと分からないほどの小ささで、目蓋を下ろし、息を吐き、吸い、そして。
何かを決めたように、エルヴィンをまっすぐに見据えた。
告げた。
「……了解だ、エルヴィン・スミス」
アッカーマン家当主は、これを承認する。
声はひどく、冷えて聞こえた。