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夜明けの礫のあなたの幸福
何百万回後の、特別でなかった君へ
***
オレの命は特別じゃない。誰でもよかったんだ。
それなのに生きたりしたから、だからみんな、死んだんだ。
それは偶然だった。見せる気などなかった。見せたら大抵、めんどうなことになる。だからそれは、不可抗力だった。
街のメインストリートから離れた裏通り、狭く暗く淀んだ空気が湿るそこで、エレンはうずくまっていた。歩けなかったので、仕方なくそこにいた。
こんな薄暗いところを通る人間などいない。いたとしても、自分と同じような空気を吸って生きている、ろくでもない奴だけだ。そしてそういう人間に、エレンは既に、顔が割れてしまっている。存在を知られてしまっている。だから、それなら別に、こんなところで蹲っていたところで、なんにも支障なんてないと、エレンは開き直る気持ちでいた。
それがよくなかった。
目の前に男が立っていた。
顔を見る限り、「こちら側」とも取られかねない陰鬱な表情をした男だった。雰囲気も、街燈の下で家族のことに想いを馳せるような、そんな温度を微塵も纏っていない。
しかし、手には大きな花束を抱えていた。
濡れたような黒髪。それとコントラストする、青白い肌。清潔そうな白のシャツ。黒いジャケット。黒のスラックス。表情の読めない寄った眉間。目尻から落ちていく隈。青を垂らしたようなしらがね色の瞳。
両手には、いっぱいの白い花。
男の視線は、エレンの頭、顔、身体、そして最後に、足首へと移っていった。
(しまった)
隠すのが遅れた。
「歩けないんじゃないか?」
そんな足だと。
さっと瞳を動揺させたエレンなど構わず、男は尋ねた。
小柄な体躯のわりに、年月を経た大人の男の声だった。呟くようだったのに、不思議と鼓膜によく届き、響いた。鳴った。
エレンは、言われた足首を見下ろした。自分の右足首。
そこには、空っぽの靴だけがある。
「……まあ、歩けねえな。足首ないし」
ない部分を覗き込みでもするかのように、右足を持ち上げ、返事をした。刃物で切り裂かれたように、履いているパンツは破けている。お気に入りだったのにな、畜生。破けちゃったじゃねえか。ひとりごちる。
破けた裾からは、足首の断面がのぞいていた。肉の断面。筋肉の繊維の断面。
そして、骨の断面。
そこには、まるで螺鈿(らでん)のような深い色と光沢とが。
つやめきと美しさとが。
薄暗い夜の空間に、七色の輝きを滑らせていた。
「要る? アンタも欲しい?」
これ。
エレンは俯けた顔を上げ、訊いてみる。手入れをしてない前髪が、ずるり、視界に邪魔だ。それでも、妙齢の女性なんかにはこの長髪がうけたりするのだから、煩わしい。
男は、表情も眉一つもを変えず動かさず、「いや、遠慮する」素気無く返した。
「金になるよ。オレの骨は。ステキな装飾品とか、工芸品とか、芸術価値のあるなんかとか、なんか色々できるよ。価値があるらしいよ」
別に食い下がる気もなく、ただ惰性のように続ければ、男はまた、感情のこもらない言葉で声を発する。「要らねえ」
「本人がその価値を信じてもないようなものを、俺は価値あるものだとは思わない」
どうせこいつも、オレの手首を切って、骨をえぐりだすんだろう。
そんな想像をして薄く笑っていたエレンに、男の低いその一言は、確かに刃物のように響き、届き、胸を切り裂き。
骨ではなく、肺を、呼吸を裂いた。
お前自身が価値あるものだと笑わないなら、そんなのは無価値だ。
お前の骨に、命に、価値なんかないよ。
お前は特別なんかじゃないよ。
耳の奥で、だれかの囁き声。
「それに」
男は、返事もしなくなったエレンに構わず続ける。
エレンは、それをうっそりと見上げる。
男は何も言わず、花束を左手に抱えなおした。そして、空いた右手で、自身の左胸に触れた。
ずぷ、と。
右手が、胸の奥へうずまる。
そして、なにかを探り当てるように、指先で掴みだすようにして、
やさしく愛おしげに触れて。
自身の心臓から、水色の石を取り出した。
「オレにはこれがある」
特別なら、価値あるものなら、もうここにある。
とくべつ。
エレンは、呆けたように呟いた。
それがエレンとリヴァイの最初だった。
リヴァイは、街の南側の通りで、小さな雑貨屋を営んでいる男だった。
小柄で、全体も二十代前半と思わしき造りをしているが、恐らく想像よりもずっと歳はとっている。エレンは、二度目の訪問でそう確信した。妙な落ち着きと、静謐ともいえる、諦観した視線を持つ男だったからだ。
要らない、と言われ、エレンはそのまま捨て置かれると思った。お前は特別なんかじゃないと、耳の奥のこだまのままに、きっとそうされると。
しかし、男は無言で屈みこむと、「これは俺が俺の夢見を悪くさせないがための行動であり選択だ。お前の言い分もケチをつけるのもあとにしろ」
ノンブレスで且つ地響きのように、ほぼ脅迫そのままの声色で発言され、目を白黒させている間に。
あっという間に、エレンは自分よりも十センチ近くは低いであろう男の肩に担ぎあげられていた。
そしてそのまま、男の、リヴァイの住む雑貨店へと運ばれた。
普通の手当てでいいのか。病院は必要か。痛みはあるのか。
リヴァイは自分の名を名乗りもせず、次々に話しを進める。エレンの泥だらけの上着をはぎ取り、濡れたタオルを用意し、うっとうしい髪は縛り上げられる。寝かされたソファーにはいつの間にか毛布が敷かれている。てきぱきと、小柄な体が小さな部屋の中を動き回っていた。
病院はいいです。治療もいらないです。時間をかけたら生えてきます。痛みももうないです。
雰囲気、勢い、そして展開の速さに気圧されたエレンも、いつの間にか敬語で返していた。
それに気付いたのは、ひと晩、暖かな毛布とソファーの上で夜を明かし、礼を言って雑貨店を後にしたときだった。
それに、リヴァイの名を知ったのも、二度目の訪問のときが初めてだった。最初の夜から三日が経っていた。エレンが昼間に再度訪問し、やっと訊きだしたのだった。
「ふつういちばん最初に教えませんか?」
エレンが呆れたように、店内で紅茶を飲んでくつろぐリヴァイに問えば、
「たったひと晩お節介を焼いただけの相手だ。必要ないと判断した」
と、しゃあしゃあと答えた。
(必要ない)
それは、名乗る必要の話だ。
リヴァイの店は、雑貨店と言うよりは、古いものを集めたアンティークショップのようだった。軒先には鉢植えの花がいくつも並べられてある。あれも商品らしい。
「いいと思ったものを仕入れて売っているんだ。紅茶もある」
じゃあ淹れてくださいよ。エレンが可笑しそうに言うと、金を払うなら構わない。リヴァイは一人だけティーカップを優雅に揺らした。取っ手を掴まない、変な持ち方だった。
エレンは、そのままリヴァイと会うこともないと思っていた。名前を訊きに行ったのも、なんとなくの気まぐれで、その後の関係を築くためでもなんでもなかった。
しかし、「商売」をするたび、エレンはリヴァイの元へと足を向けていた。下半身のどこかが売れてしまったときは、その修復が終わるまで、動けるようになれるまで、伸びた前髪の隙間に、透きとおった青空が訪れるまで、路地裏で朝焼けを眺め、待って、耐えて、我慢して、それから。
それから、その足で、彼の店へと向かった。
軒先にある鉢植えの植物、花。どこかで仕入れられたという古びた椅子。様々な切手の入った綺麗なアルミ缶。瓶詰めされた古いボタンたち。乳白色のティーセット。読めない、掠れたイニシャルの入った藍色の万年筆。傷んでいるが、美しい風合いの天鵞絨のカーテン。
訪れるたび、店の商品は移り変わった。
たぶん、ここは、この人が美しいと思ったものを集めて、置いている場所なんだ。
エレンは、何度目かの訪問でそう思った。その頃にはワンコインで紅茶も出してもらえるようになっていた。
修復の終わらない自身の左指を見詰める。骨の断面が、七色の螺鈿の美しさで、艶めいて、輝いている。
それをそっと、手袋のなかに隠した。
(俺も、この人が思う美しい商品だったなら、ここに置いてもらえるんだろうか)
この静かな店で、静かに陳列されて。
間が空いた。わがままな相手に苦難し、肋骨を数本引き抜かれたためだ。修復に二週間をかけてしまった。かろうじて自宅には帰れたものの、でかけるどころか、飲食すらもままならない。着替えもせず、ベッドでずっと横になり続けた。
こういうとき、どうしていたっけ。
ベッドサイドに、柔らかな白い手が見えた気がした。母の手だった。そして、家族であるミカサの手でもあった。手のひらはエレンの頬を撫ぜ、髪を梳き、温かいミルクを用意してくれる。声も聞こえた。気がした。親友のアルミンのものだった。次に行く町がどんなところかを、瞳を輝かせて教えてくれていた声だった。
そんな気がしただけの話だ。
もうないなんて、知っているのだ。
エレンの価値は、特別な父親が関係していた。エレンはそう思っている。母は普通だった。父はどこから来たのか分からない異邦人で、そのふたりの子どもとしてエレンは生まれた。
十歳のときだった。事故で右腕と左足を失くした。車輪に巻き込まれたのだ。捥げた腕と足は四方に弾き飛ばされ、道に転がった。エレンはただ眺めていた。そのうちに、それは、徐々に肉が蒸発し、骨だけが残った。
そしてその骨は、七色の乳白色のように艶光りし、削れた部分は、研磨され、美しく加工された螺鈿のように、またとない輝きを放っていた。
その日に、エレンの価値は決まってしまった。
どうやら、父の血筋が関係しているらしかった。世界でも稀少の生まれ。その血を引く自分。遺伝子。骨。詳しく知りたくても、そのとき既に、父は失踪していた。
今思えば、殺されていたのかもしれない。エレンはそう思う。あの父が、母や自分、養子のミカサを置いて逃げるなど、そんなことするはずがなかった。思えなかった。
エレンを連れて、守って、母は逃げた。逃げてくれた。お前をバラバラになんかさせやしないよ。母はいつも気丈に笑ってみせた。普通の子どもと同じように、普通に笑いかけ、世話を焼き、叱り、一緒にいてくれた。
「あんたは特別なんかじゃない。でも特別なんだよ。憶えておいてね。なんにもなくったって、骨が綺麗だってなくたって関係ない。あんたは、もう偉いの」
だってこの世界に生まれてきたんだから。
母さんにとって、エレンは世界でたったひとりなんだから。
それだけなの。
おぼえていて。
そう言って、血で真っ赤に染まって。
守るようにエレンに覆いかぶさりながら、たったひとりの母は死んだ。
それからは、一緒に逃げていたミカサと、あとから駆けつけてくれたアルミンとの、三人での生活がはじまった。三人とも十四歳だった。どこから聞き付けるのかも分からない輩から逃げて、移った町で三人で暮らして、ささやかな毎日で、けれどそれも必ず壊された。
エレンと勘違いした馬鹿がいた。アルミンが行方不明になった。必死に探して、そしてもう取り戻せないと、エレンは思い知った。親友の幽閉されていた部屋には、赤い色が広がっていた。
骨盤がいちばん価値があるのだと、男がほざいた。あんな痛みを、自分は知らなかった。野菜のように刻まれた。目玉は宝石になるんじゃないかなんて、そんなバカげたことを言う人間は害獣と同じだった。豪華な毛皮を着た男だった。だからそんなことが言えるんだと、頭だけは冷静だった。
動けなくなっていたエレンを、ミカサが助けた。四肢もそれ以外も、ほとんどが残っていないその姿を視て、少女のたおやかな心が、軋んで、傾いで、ひび割れて、狂ってく音が、確かに、エレンの鼓膜に響いた。
目が視えるようになった頃には、誰も生きていなかった。
真っ赤なミカサが、ナイフを手にして立っていた光景。
アルミンの赤色。ミカサの赤色。
母さんの赤色。
これだけの赤色のなかで、オレに、なんの価値があったろう。
エレンには分からなかった。
一年が経ったころ。新しい町に居た。
逃げることをやめて自ら取引に応じ、その代わりに無理な注文、到底受け入れることの出来ない要求から身を護ることを、エレンは学び、選んだ。そうすることで、ミカサの心だけは守れると思った。
それでも、金銭を得るために、身の安全を得るために。
どこかを削られ、搾取され、利用され、消耗される家族の姿を、ミカサが、たった十五歳の少女が、素直に受け入れ、納得できるわけが、なかったのだ。
ミカサは再び赤くなった。
エレンを守りたい。傷つけられるのは、いやだ。許せない。耐えられない。
そう言って、ナイフを握りしめて震える少女を、エレンは、また守れなかったと、触れることすらできなかった。
こいつを壊してしまうほどの価値が、オレにあるはずがない。
エレンは、ミカサを置いてその町を出た。
今、エレンは十六歳になっていた。ここは首都に近く、適度に大きい街だった。そういう輩の情報も入りやすい。稼ぎやすいし、身を守りやすい。
そのはずだったのに、このざまだ。
ベッドから動けず、身体を修復するために吹きあがる蒸気だけが、しゅうしゅうと音を立てている。
ただ骨が綺麗だとか言われて、特別だと言われて、それだけに価値を見出されている、「物」のような、「商品」のようなものでしかないのに。
こんなにたくさん、失くしてしまった。傷つけてしまった。
(ぜんぶ無駄だったんだ)
ずっと、ずっと後悔していた。
生きることを、選んでしまったことを。
しばらく訪れなかった雑貨屋は、いつもどおりだった。
「一カ月ぶりだな」リヴァイは花束を包みながら、なんでもないことのように言う。
エレンもまた、いつもどおりに適当に返事をした。「そうですね」
「その花束、どうするんですか?」
「友人が婚姻するらしい。その祝いだ」
「なんて花ですか」
「ライラック」
詳しいんですね。エレンは呟く。
どんな友だちなんですか。眼鏡をかけてるな。男の人? 性別は未だに謎な奴だ。そんな人間がいるんですか……。生憎と存在するんだから、世界は不思議だな。
どうでもいい、会話。
ワンコインを支払い、紅茶を出してもらう。店先の古びたベンチへ腰かけて一息をつけば、クッキーが差し出された。「サービスだ」
リヴァイは黙って花束を包み、諸々作業が終わると、エレンの隣へと腰かけた。
「お前はガキのくせに、やけに根暗な顔つきをしてるな。でかい目に隈なんざつくりやがって。伸び放題の髪も鬱陶しくてならねえ」
「ガキのくせにって、オレもう十六ですよ。生計だって自分でたてて暮らしてる」
自立してますよ。エレンは不服そうに言い返す。
だが、リヴァイはそれを鼻で笑った。「ハッ、自立だと?」
「自分の身体を切り売りして、自分の存在を軽んじている人間に、成熟した大人として認められる価値があるとでも?」
うぬぼれるなよクソガキ。
射殺すような視線だった。聞いたこともない冷たい声だった。
「……なにか勘違いしているようなら悪いが、生憎と、俺は憔悴した子どもを慰めてやるほどの器量は持ち合わせていなくてな。そういうのを求めてるんなら、女のところでもなんでも、自立した大人の要領とやらで、逃げ込んで慰めてもらえばいい」
俺は、命を軽んじる奴も、弱くてすぐに死ぬ奴も嫌いだ。
そう言い残すと、リヴァイは店の奥へと戻って行った。
エレンは、冷めた紅茶の赤を見詰めた。
なにも言えなかった。
この店に、彼の隣に。
彼の声の聞こえる場所に向かいたくなる理由は、もう分かってしまっていた。
彼はエレンのことを何も知らない。知ろうともしない。なにかを訊きだして親密になって、愛情を約束するでも、利用価値を見出すでもない。なにもしない。
ただ、エレンのくだらない言葉に応じて。
近くに存在することだけを、赦して。
となりで、エレンが欲してるそれらをくれる。
ただの、たまたま知り合っただけの十六の少年に、適当に接しているだけの関係。
それを続けてくれる優しさに、エレンは気付いていた。
彼は、エレンの骨が綺麗であろうがなかろうが、ここに来ようが来まいが、なにも関係なく、そこに生活して、生きててくれるのだ。
優しい人なんだと、気付いてしまったのだ。
躊躇いがちに。それからまた三日後、エレンは店を訪れた。
しかし、店には「close」のプレートが立てかけてあった。この店、定休日とかあったのか。エレンは面食らった。
それとも、なにか急用でもあったのだろうか。
店の二階部分、エレンも一度泊まったことのある、彼の居住スペースのあたりを見詰める。窓のカーテンは開いていた。照明もついている気がする。いるのだろうか。
二階へは、たしか、店の裏側に回り、階段を昇っていたはずだ。
そっと足を忍ばせる。店の周囲の垣根には赤い花が咲いていた。赤は嫌いだ。見ないふりをして進む。店の裏口の隣に、剥き出しの、外付け階段があった。
カンカン、足音を鳴らして階段を上がる。玄関はすぐそこだ。
ノッカーに触れるところで、向こうから開いた。思わずたたらを踏む。
「なんだ、今日は店は休みだぞ。看板見てねえのか」
「いや、部屋に明かり、が、あったので……いるのかと思って」
どこか言葉を詰まらせるようにして、エレンは答えた。
後ろめたさのようなものが込み上げた。
──命を軽んじる奴も、弱くてすぐに死ぬ奴も嫌いだ。
冷たい声音が、耳の奥でリフレインする。
「出かけるんですか?」
「違う。仕入れに出るんだ。昨日チェストとカトラリーセットが売れた。スペースが空いたから、そこを埋めるものを見繕いに行く」
玄関から出て、リヴァイは鍵をしめた。
「暇なのか?」
リヴァイは、手袋で隠されたエレンの左手を眇める。
「暇です。時間も金も困ってないです」
「そうかよ」軽く鼻先であしらわれた。
「なら荷物運びをしろ」
エレンは頷いた。
馴染みの商店を仕切る、恰幅のいい親父。旧友である、例の、婚姻したという女性(と思われるけれど、確かにどちらか分からないかもしれない)と、恐らくその亭主となる温和な男性の住まう大きな屋敷。大柄な髭の男が営む工房。老獪という言葉を想起させる、老人の住む庭園。
リヴァイは、そういった自分の知り合いの元を、転々と尋ねて歩いて回った。エレンもそれに付いていった。行く先々で、彼らが不要としたものや、制作したもの、それぞれを鑑定し、値踏みし、交渉を得ながら、買い取っていった。
ミケという名の大柄の男が差し出したのは、琥珀の指輪だった。
新作か。リヴァイが平常の声で尋ねる。ミケは黙ってうなずく。
「悪くない」
リヴァイはそれを、そっとリネンの布で包んだ。
それはいくばくか、愛おしむような温度を含んだ声だった。やわらかだった。
こうして彼に愛されたものが、あの店に並ぶのか。
美しいと思われて。
選ばれて。
エレンは、それがたまらなく羨ましかった。
回った先でローテーブルも仕入れ、それを運び終えると、「茶でも出す。飲んだら帰っていいぞ」リヴァイは奥へと引っ込んでしまう。
エレンは、秋の終わりにさしかかる寒さから、店先のベンチではなく、店内の客用の円椅子に腰かけた。
リヴァイはお湯を沸かし、茶葉の準備をしている。
せわしないその指先。白い指。
「リヴァイさんのお店には、どうしたら並べてもらえますか」
突拍子がないと理解していた。
けれど口をついてでて、そして放たれ、離れてしまった言葉はもう元には戻らなかった。
「……お前の話をしているのなら、答えは決まっている。お前をこの店に置く気も、陳列させる気もない。お前は物じゃない。そして俺に人の身体をいじくり倒す趣味はない」
「でもオレは……オレは、ここになら並べられたっていい。ばらばらにされて、加工されて、綺麗だねって、優しい誰かに買われてったっていい」
あなたはきっと、店の物すべてを特別だと信じてくれてるから。
リヴァイは溜息を吐く。エレンは、丸椅子の上でそちらを見られない。
「俺は、お前なぞ要らない。必要ない」
初めに言ったとおりだ。
リヴァイの声は、透徹に響いた。
「お前がどんなに高値で売れる素晴らしい骨を持ってたとしても、お前は俺の特別にはならない。そんなのは理由にならない。俺にとってお前は、どこにでもいる、世界中の何百万のどうでもいい人間のどうでもいいガキのうちの一人だ。それ以上にはならない。俺も別にそんなの望んでいない」
俺に慰めや居場所を求めるな。
「勘違いするなと、忠告したはずだ」
エレンは黙った。黙って、紅茶を飲み、クッキーを噛み砕いた。
けれどこの人は、エレンを追い出そうとも、避けようとも、ぞんざいに扱おうともしないのだ。
散々求められてきた、自分の骨にさえ見向きもしないで。
突き放しもしないで。
勘違いさせてるのは、この人そのものだ。エレンは半ば八つ当たりに近いことを考えた。
「じゃあ、どうしたら、オレはあなたの特別になりますか」
リヴァイは、腰かけるエレンを見下ろしたままだ。エレンもまた、その顔を見ることなく呟く。
「自分を特別だと、価値あるものだと知らない人間が、誰かに特別だと認められるわけがない。そんな都合のいいものを俺は知らない」
だからそうやって、自分を削って、自分の存在をぞんざいに扱って、卑下して貶めて損なわせているあいだは。
「お前は、俺の特別になんかならない」
店のなかは、静かだった。
いつだって静かな店だった。そんなの知っていた。時を止めたように、静謐だった。棺のなかのようでも、両親やミカサの居た、暖かなリビングのようでもあった。
「大切にしろって、そう言うんですか」
声が震えた。
握りしめたカップが、冷えていた。
リヴァイは何も応えなかった。
代わりに、エレンの手元からクッキーをひとつ奪い、齧った。
やっぱり菓子作りは向いてねえな、と呟いて。
エレンは一粒だけ、涙を流した。
冬になった。曇り空ばかりが広がるようになり、鈍色が深くなるころ、ついに雪が降った。
あの日、涙を流した日。
エレンは、やめてしまおうと思った。噛み締めた、ぼそぼそとしたクッキーの味をいつまでも忘れないみたいに、見上げることもできなかった、記憶のなかのその人の、白い横顔を思い浮かべるように。
大切にするみたいに。
周りを赤くするだけだった自分。「エレン」なんて、本当には誰のためにも、誰の必要でもなかった、存在さえ疎ましいと思っていた自分。
けれど、それでは、あの人の特別になれないらしい。
なら、やめてしまおうと思った。
棲家にしていたアパートからはすぐに出て行った。もともと最低限のものしか置いていないし、トランクひとつに全てがおさまった。
それを抱えて、街の方々を転々とした。ときどき、あの店へと足を向けた。長時間はいられない。ワンコインを差し出して、「ここはカフェじゃねえぞ」と文句を垂れる人に生意気な笑みを向けた。クッキーはもう出てこなかったが、代わりにサンドイッチが出るようになった。ベーコンやサラダ菜、トマトやチーズが挟まれた簡単なものだ。
代金を払おうとしても、「店の配置換えをする。その手伝いと交換だ」とか、「仕入れにこれから出る。荷運びを手伝え。そのバイト代にしろ」だとか、適当に理由をつけられ、すべて断られた。
泊まる場所すらおぼつかず、風貌さえみすぼらしい自分は、街の表を歩けるような人間ではなかった。食事をとろうにも、飲食店になど入れない。ホテル住まいにも限界がある。
だからエレンにとって、リヴァイの厚意は、ただもう有難かった。
前に訪れてから、六日の間が空いた。
消息を絶ったエレンを探す輩は多かった。追い詰められ、腹と、左足と指の数本をやられてしまった。その修復に時間がかかった。赤くしてやった相手が、倒れて、冷たくなって固くなって、そのうちに饐えた臭いを発するさまを、路地裏の狭い青空が何度も暮れるまで、ずっと見ていた。はやくあの店に行きたかった。優しい人が集めた、美しい特別で完成された、静かな場所へ。あの人のとなりへ。
眠れもせずに、ずっと祈り続けた。
陽が落ちて昇って、また落ちて、それが五回くり返された夜、エレンは店の前に居た。
裾は破けていたし、シャツは赤いどころか、排水のように黒々として臭っていた。洗ってもいない髪は、油っぽいまま肩より下まで伸びている。綺麗好きそうなあの人が、じっとりと眉を顰めるのが思い浮かんだ。おかしかった。どうして許してもらえるなんて、それでも思ってるんだろう。笑ってるんだろう。
深夜だった。当然、店は閉まっていた。「closed」のプレートが、暗闇にうっすらと見えた。二階の窓も、明かりは灯っていない。
あたりまえだよな。
エレンが呟く前に、それは聞こえた。
「いたぞ、こっちだ!」
男の怒声だった。
聞き届ける前に、振り返りもせず走り出した。店から離れなければならない。そして追いつかれるわけにはいかない。闇雲に駆ける。走る。つまずきを許さない緊張を自分に強いて、懸命に。足を交互に。思考さえも筋肉にゆだねて、駆けて、駆けて、走って、走って、走って。
横っ面に、なにかが掠めた。左へ連なる路地の壁に、なにかが刺さっていた。
それは、大ぶりの鉈だった。
「手順はいい! 損傷も気にするな! いいからバラせ!」
他のやつらに取られちまう前に。
削り尽くせ。
削ぎ尽くせ。
複数の、男の怒号。
まずいとか、どこに逃げるとか。
なにも、間に合わなかった。
エレンが傷付けられるのは、耐えられない。我慢できない。許せない。
エレンがそんな目に合うくらいなら、私は、
こんな残酷な世界、いくらでも立ち向かえる。
髪も頬も、お気に入りの服も白い綺麗な指先も、すべて赤く染めたミカサが、四肢もなく、目もやっと見える状態になった自分に、ひっそりと紡いだ言葉。
エレンは、彼女の心を、彼女の世界を壊してしまった自分を、心から憎んだ。
そのくせ、逃げ出した。
逃げ出したくせに、優しい場所を見つけてしまった。
(でも、これでよかったのかもしれない)
痛覚さえ役に立たなくなった頃、ぼんやりとエレンは考えた。
深夜の路地裏で、肉と骨を削る音が響いていた。
荒く削られたせいで、燐のように、こまごまとした破片が飛び散り、それが薄暗い世界で輝いていた。
きれい、なんだろうか。あんなものが。
価値のあるものなんだろうか。
母が死んで、アルミンが死んで。ミカサが壊れて。
大切なものを奪われて。
オレさえ壊されて。
それだけの価値が、意味が、特別が、あれにあるのだろうか。あったのだろうか。
分からなかった。
このまま、死ぬのだろうか。
あとは胴だけだな。男が言う。
「あんまり細かくするな。大きめのものも残しておけよ。でかいのは高値が付く」
笑っていた。男たちの声が重なっていた。
こんな奴らに、殺されるのだろうか。
オレが殺されたら、じゃあ、ぜんぶ無駄になるんだな。
母さんがオレを守ったことも、アルミンが駆けつけてくれたことも、ミカサが一緒にいてくれたことも、立ち向かうと誓ってくれたことも、父さんと母さんがオレを育ててくれたことも、あったかいスープを作ってくれたことも、アルミンが次の町のことを話してくれたことも、瞳を輝かせていたことも。
オレが生まれたことも。
(こんな、こんな風に奪われて)
生きることさえ、許されないのか。
霞む視界に、ノコギリが見えた。刃先が首に触れた。
それは、怒りだったのかも分からない。憎しみでもあった。哀しかった気もした。ずっとずっと蓋をして、なかったことにした、すべてだった。
「ころされて、たまるか」
握りつぶされたような声で、這いずるように呻いて。
なにひとつ動かせない体で。
オレは。
「……聞いてもあまり信じてもらえるとは思えないんだが、昔からお前には何もかも背負わせてばかりだった。選ばせるといっておきながら、選択肢も与えていたか定かじゃなかった。……それを俺は、これでもずっと、申し訳なく思っているんだ」
なあ、エレン。
聞こえるはずのない声が、真っ赤な路地裏に響いて、通って、透った。
エレンがその存在を認識して、理解する前に、喉元に触れていた刃先がはじかれた。そして、男のうめき声が鈍い音とともに広がった。重量のある低い音は、うめき声と同じ数だけ、いやそれ以上の数で重なり、エレンの視界で、自分のではない赤が散った。
「なんだお前ら、こんな大層なもん振り回しておいて、ナイフの使い方も知らねえのか?」
ここにあるはずのない声が、ただ鼓膜を震わす。
ひとりの男が、甲高い悲鳴のようなものを上げながら、その人に立ち向かうのが見えた。風でもいなすように、その人は身を躱す。躱しながら、男の手首を逆手に捻り上げる。
「なあ、それでも俺は、またお前に選べと言うしかないんだろうと、そう思っているんだ。それをお前は責めるか? 憎むか? 軽蔑するか?」
その人は、自分よりも遥かに上背のある男の腕を、なんなく捻り、縛り上げ続ける。
そして語る。
淡々と。
エレンにだけに。
語りかける。
なあ、エレン。
「お前は、どうしたい?」
選択肢。
選んでいいと。言われたということ。
「オレは」
ひどい声だった。死人のようだった。血が出過ぎていた。
それでも、絞り出した。
「オレは、生き、たい」
もう、なにも、何者にも奪われずに。
当たり前に与えられるはずの、自由を自分のものにして。
「生きていたい!」
力の限り、叫んだ。
悪くないと、その人は、リヴァイは笑った。
*
激し過ぎた損傷を修復するのに、ひと月の時間がかかった。ベッドの上で身動きひとつ取れないエレンを、リヴァイは何も言わず、ただ丁寧に触れ、静かに同じ空間を共有し、癒した。
ただし、半月ほどは意識がなかったので、エレンが気が付いた頃には、すでに扱い方も慣れきってしまっていたようだったが。
下半身よりも先に指先が治り、リヴァイのベッドの上で、エレンは本を読んで暇をつぶした。難解な単語も理解する様子に、リヴァイは特に驚く様子もなかった。
曰く、「教育を受けた人間の所作はしていたから」だそうだ。
エレンは少し照れ臭かった。
リヴァイの居住スペース、店の二階部分はそれほど広くない。簡易のキッチンと合体した狭いリビング、そしてその奥にさらに狭い寝室があるくらいで、エレンは今、その寝室の、リヴァイのベッドを占領してしまっている。
目が覚めてすぐに謝罪すれば、礼知らずの馬鹿も嫌いだが、無駄な気を遣いすぎるガキは生意気で好きじゃねえと素気無く返された。最初は青褪めていたエレンも、これはこの人なりの気遣いなのだろうと、だんだんに余裕を取り戻せるようになっていた。
昼間は店に出て、リヴァイはそこにはいない。朝と、昼食の頃に少し戻り、夕方、店の扉が閉まるころ、エレンのいる場所へと帰ってくる。
身体の様子を訊かれ、食べたいものを尋ねられ、一日の店の様子を、要領を得ない独特の言い回しで聞かされる。「寝室で物が食えるか」と、彼はリビングで食事をとるので、そのときは、エレンは静かに、ベッドの上で、ひとりで、プレートの上の、彼の作った料理を食べる。
静かに。ほんとうに、ただ静かに食べる。
声で震わせて、空気を伝って振動させて、目の前のやさしさを壊したりしないように。
そんな静けさで。厳かさで。
温かいスープを、ひと匙、掬う。
ひと月半が経つころ、自由に歩き回れるまでに快復した。季節はすでに、冬の真ん中にいた。今から新しい住まいを探すにも、それまでを繋ぐための宿泊場所を探すにも、これではこのまま、年をまたいでしまう。
それに、持ち金もほとんどない。トランクも失くしてしまった。
どうしたものかと、白くなる窓の外を見詰めながら、エレンはその日、考えていた。
ベッドはリヴァイへと返し、今はソファーで寝起きしている。首元が寒かった。寝たきりのあいだは見過ごしてもらっていたようだったが、ついに限界に達したらしいその人が先日、目を据わらせて「髪を切るぞ」と決定し、決行したためだった。
ずっと、纏わりつくように視界を覆っていた前髪も、首筋に垂れていた後ろ髪も、今は綺麗さっぱり、清潔そうに切りそろえられている。身体が軽く感じられた。覆われていた思考がぱっと開けたような、そんな気持ちになった。
着ているシャツも、エレンの為に買い揃えられたものだった。申し訳ないがサイズが合わなかったのだ、リヴァイのものでは。裾も肩幅も、足の先までも何もかもが寸足らずのエレンの様子を見たときの、彼のあの表情。あんな表情は、初めて見た気がした。エレンはおかしくて、ひとりなのに、誰もいないのに、笑ってしまった。
愛おしい、という単語が思い浮かんだ。
一緒に過ごして、同じ空間にいて、分かったことがひとつあった。
リヴァイという男は、けっこう、かわいい。
可愛いというのも、女、子ども、動物に形容するようなそれではない。彼は武骨な指先をしているし、何度か見た裸は筋肉質でがっちりとしていた。目つきは鋭く、温和と言う言葉からは程遠い。おまけに口も悪い。話しかたも、ほとんどが要領を得ない。しかも長い。表情が読み取りにくいから、コミュニケーションは困難なことの方が多い。
けれど。
武骨な指先は細かな編み物、愛らしい刺繍を施す。筋肉質な身体はシャツに纏われ、居眠りしている間、小さく美しい呼吸を漏らす。口の悪い饒舌さは、彼の不器用な気遣いと誠実さのかたまりで、少なすぎる表情は、相手の機微を読むための謙虚さだった。
だからとても、かわいい。
エレンはそう思っていた。
それに。
紅茶の茶葉に、温度に、味にうるさい。
けれど、飲んだ瞬間、頬がわずかに緩む。
掃除にうるさく、厳しく、雑巾の絞り方ひとつにもこだわりがある。
けれど、大切にしている家具のそれらひとつ一つを、丁寧に時間をかけて慈しむ。
口は悪い癖に、身だしなみひとつ、マナーひとつの、気の緩みを許さない。
けれど、伸びた背筋と、皺ひとつないシャツの清潔さが、自分の心の支柱に育つのが分かる。
重ねればきりがない。
彼の生き方は、生活は、単調だけれど丁寧だった。一つひとつが愛されていた。慈しまれていた。大切にされていた。
美しかった。
この人は、かわいくて、そして美しい生き方をしていた。
惹かれていくのが、分かった。
夜になり、店を閉めたリヴァイが二階へと戻ってくる。「雪がひどすぎて客も来ねえ」とぼやく彼に、エレンは沸かしておいたお茶を差し出した。
「今日は本当に雪も風もひどいですね」
「ああ。そろそろ聖夜祭も過ぎるしな。あっというまに年の瀬だ」
このまま雪も深くなるだろう。
リヴァイは、エレンの隣、ソファーに腰かけながら呟く。
「……それじゃあ、それまでにはやっぱり、俺もそろそろ動かなきゃだめですね」
「あ?」
「長距離は試してないんで分からないですけど、たぶんもう、外も出歩けますし。……あ、でもまだ走れるかな……走れねえのはきついな」
エレンがぶつぶつと呟く横で。
ガシャン、カップが力強く、ソーサーに置かれる音が響く。
「……お前の脳みそはクソでも詰まってるのか? それともなんだ、俺の話は聞こえてなかったということか? シモの世話だけでなく膝枕で耳かきでもしてやった方が良かったか?」
あからさまな、意図された低い声。
これは、あきらかに機嫌を悪くしている。
エレンの顔から血の気が引いた。
「いや、そんな、だって、動けるのにこれ以上長居するのは」
ていうか膝枕って。
「俺はこれから雪が深くなると言った。そして気を遣いすぎる生意気なクソガキは好きじゃないとも説明してやった。しかも同じことを二度説明させられるのはカビの生えた浴槽並みに嫌いだとも言ったことがある。お利口なクソガキなら、これらを聞いてどう答えるのが正解かよく分かってるよな。そうだろう? エレン」
ほとんど脅迫染みていたが、エレンは青い顔のまま、黙って頷いた。
結局、年をまたぐまで、エレンはここに居ることになった。
聖夜祭、というものがあった。年の瀬の前に行われる、世界中の聖なる夜の祭りの日。宗教の話は、よく分からない。聖人が生まれた日だと言うことしか知らない。それをなぜ祝うのかも、よくは分かっていない。
エレンはこの日が苦手だった。
十歳までは、家族でごちそうが食べられる日だった。だから好きだった。
それからは、母やミカサと、なけなしの金を集めて贅沢をする日だった。十四歳からは、アルミンとミカサの三人で、小さな蝋燭を灯して祈る日に変わった。
十五歳からは、ただの赤い日になった。
リヴァイさんのお店では、なにか聖夜祭の準備とか、売るとか、なにかするんですか。
雪が静かに降る朝だった。朝食を作るエレンに、リヴァイは「別になにもしねえな」と返した。そうですか、と、どこかホッとする自分に、エレンは気付いていた。
リヴァイは同じ時間に店を開け、エレンは二階で掃除を始めた。リヴァイ直伝の、徹底的に仕込まれたその技術は、今や目を瞠るものがある、と、自分では自負しているのだが、未だ及第点しかもらえていなかった。
窓の外は明るかった。
世界に降り積もった白さが、音を吸い込んで、失くして、綴じ込んでいるのが分かった。
白いのに、淡い冬の光。
静かな部屋。
嗅ぎ慣れてしまった、部屋の香り。あの人の匂い。
暖色のやさしい、ヒーターから放たれる温度。
憶えてしまった、お気に入りの紅茶の茶葉の場所。
特別なことなんかいらない。
これだけでいい。
泣くのをこらえて、雑巾がけを続けた。
夕飯が終わり、シャワーも終えると、それぞれが頃合いを見て眠りに就く。
ゆるいカーディガンを羽織ったリヴァイが、小さくあくびを漏らすのを、横目でこっそり目撃し、なんでもないふりで「寝ましょうか」と告げた。
「そうだな。……おやすみ、エレン」
そうして、リヴァイは寝室へ戻る。
エレンは、ソファに厚手の毛布を敷きなおした。
灯りがなくなる。暗闇が訪れる。いつもどおり、意識は緩慢に離れていく。
けれどその夜、エレンは、淡い青のような、澄んだ水色の光を、視界の端で捉えた気がした。
ぼんやりとした意識の外で、それははっきりと存在していた。リヴァイの眠る寝室から、その扉の隙間から、その光は確かに、漏れ出ていた。溢れていた。
夢だったのかもしれない。身体の感覚も、本当にはなかった気がする。
エレンは、起き上がり、扉の隙間を覗き見た。
ベッドの淵に、リヴァイが腰かけていた。
その手のひらの中で、水色の光り輝く石がひとつ、大切そうに、いだかれていた。
青みがかった、しらがねの色の彼の瞳。
それが、見たこともないやさしさで細められ、歪められ。
見たこともない哀しさで眉根を寄せて。
たったひとつの「特別」を、抱き締めるようにして。
(オレにはこれがある)
(特別なら、価値あるものなら、もうここにある)
ああそうだ。あれが、彼の世界で、たったひとつのゆいいつのとくべつのすべて。
胸の奥の心臓に住む、水色の礫(つぶて)。
オレは、あれになりたい。
特別なことなんか要らない。美しい骨なんて要らない。赤い色なんて欲しくない。
あの人の胸の奥。
心にいちばん近い場所。
心臓に触れてしまえる距離。
そこに居られる、幸福。
あのひとのとくべつ。
それが、欲しい。
こんなことを望んだのは、生まれてはじめてだった。
日常は緩慢に続く。それが温かな隆線で、自分の心と体に染み入っていく。
居場所を特定されるわけにはいかないから、基本的にエレンは外出を控えている。しかしその日は、年を越す日からちょうど三日前となり、店も休業となった。だからか、リヴァイが言った。「どこかへ行きたいか」
エレンはしばし考えた。けれど、特には思いつかなかった。そもそも、この街に住んでいても、どこに居ても、それは必要に迫られたからそこに居ただけであって、「どこかへ行きたい」と望むことは、今までにない感覚だった。よく分からなかった。
「ガキのくせに枯れてるな」
「放っといてくださいよ」
どこへも行かなくていいから、オレは、リヴァイさんの話が聞きたいです。
エレンは、顔が赤くなるのを感じつつも、ぽつりと呟いた。
俺の話なんざ聞いてどうするんだ、と不思議がるリヴァイを置いて、エレンはお湯を沸かしに立ち上がる。なんとなく間が持たない心地だ。
「……この店を始めたのは、なりゆきだった。お前も何度か会っているだろう。この前結婚した奴。あのメガネが勧めてきた。物件がひとつ空いてるから、住んで何かやれと」
それはまた、無茶いいますね。エレンが苦笑しながら答えれば、リヴァイは眉根を寄せて、けれどまんざらでもなさそうに「あいつの言動にいちいち突っ込んでいたらキリがねえ」と呟いた。モブリットも、よくもまあ、あんなのを選んだもんだ、とも。「まあ、いつもどおりだったんだが」
あいつらは、結婚するしないは別にしても、いつもどちらかに何らかの形で寄り添って、そして終えていた。
小さな溜息のようだった。とても幸せなものに吐息を吹きかけるような、優しいそれのようだった。
「いつもどおりって」
あのひとたちは、別に再婚したとか、そういうんじゃないでしょう?
それに、終えるって。
ハーブティーを差し出しながら、エレンは問うた。
リヴァイはそれを受け取り、口付ける。黙って。何も答えずに。応えずに。
「俺の話を聞きたいと言っていたか」
エレンがソファーに座り直し、ハーブティーも飲み終わり。リヴァイからの答えを諦めたころ。
その小さな口が、小さく開かれた。
めったなことでは開かれない、こころの隙間をちらつかせて。
「俺はな、エレン」
何百万回も、生まれ変わってるんだ。
*
おとぎ話のようなものだ。滔々と流れるせせらぎのような、すまさなければ、耳を澄んで透ってしまう、低い、清廉な声が続く。
俺は、とある男の隣で、そいつの意志に従い、そいつと共に生きる人間だった。何度生まれ変わってもそうしていた。何を選んでも、どう生まれても、俺は必ず、あいつの隣に居たし、あいつに心臓を渡していた。何度だって、何度生まれたって、何度死んだって。かならず、となりにいた。そう選んだ。俺が、俺の意志で。
そうして、必ず、あいつが死ぬのを見届けた。
あいつは必ず、俺の目の前で死ぬ。事故だったときも、病のときも、健やかなときも、戦場だったときも、屋根の上だったときもあった。……いや、あれがいちばん最初だったのか。腕の中で、なんて浪漫じみたことはなかったが、俺が渡した心臓ごと、冷えて、つめたくなって、固くなって、いつも目の前で、死んだ。
俺の心臓は、いつもあいつと一緒に、あいつが死ぬときに無くなってしまう。
当然だ。あいつのものだと、俺が預けていたんだからな。
だから今。
俺の心臓はからっぽなんだ。
リヴァイは、ふと口をつぐみ、エレンの手に触れた。
そしてその指先を、そっと、自身の左胸へと導く。
振動。
それは、血液を運ぶためのポンプの音だった。鼓動と呼ばれるものだった。
「心臓」と呼ばれる臓器が、きちんと稼働している音だった。
けれどそこには、きっとないのだろう。
在るのは、きっと。
エレンの腕をつかんだまま、リヴァイは続ける。紡ぐ。
あれは、今よりひとつ前の死だった。
骨が折れて、肉が削がれて、もう動けないのが分かった。もうすぐ死ぬんだなと、隣でそのときを待ってやっていた。あいつは俺を置いていくことに躊躇がない。だから俺も、なにも言わずにいられた。ずっとそうだった。何百万回も。それでよかった。
けれど、言われたんだ。
ありがとう、と。笑顔で。
そうして、俺に自分の心臓を渡したんだ。
エレンが触れる左胸が、淡い光を放つ。
それは水色の、澄んだ青空が地平に向かう色だった。
リヴァイの指先が、エレンの指先に重なる。ずくん、と、ふたりの指が、絡まるようにして、リヴァイの胸にうずまる。
冷たい感触があった。取り出せば、あの水色の礫が、確かに存在していた。
リヴァイは、エレンの指先を自分の掌で包み込むようにして、そうして、その水色の心臓を見詰めた。
悲しげに、懐かしむみたいに、憐れむみたいに、赦すみたいに。
あいつの心臓は、ここにある。俺の心臓も、あいつごと死んだ。
だからきっと、次はない。
俺はもう、あいつに会うことはない。
「そのことを、俺は幸福だと思っている」
薄い笑み。
それがなにより、雄弁だった。
オレは。
エレンは、手のひらの中の、指先で触れられる水色のそれを、見下ろして思う。
オレは、これになりたい。
でもきっと、絶対になれない。
それは叶わない。
気付けば、それは言葉になっていた。放たれて、戻すことのできないものになっていた。
「オレは、あなたの特別になりたいです」
手のひらの青を抱えたまま、リヴァイは黙る。そしてぽそりと、一言を落とす。
「お前は、もう特別だろう」
エレンは、その光を、地平線の空の青を、ぐっと力をいれて、手のひらで押し込んだ。隠した。水色の礫は、彼の胸の奥へと還っていった。
「エレ、」
彼がなにかを言う前に、その唇を塞いだ。
ソファーが、小さく軋んだ。
エレンは知っていた。この小柄な目の前の人が、本当はすごく強いことを。圧倒的な力量差でエレンを上回ることを。赤い海をつくれることを。
だから、彼はいつだって抵抗もできた。跳ね返すことも、殴り飛ばすことも、なんなら窓から振り落とすことだって、出来たはずだ。
「どうして、黙ってるんですか?」
ソファーに押し倒され、同情心から住まわせてやっているだけの人間に、キスをされ、無防備に抱き締められ続け、何も言わず、文句も、恨み言も、言葉ひとつ漏らさず。
「……恐らく、お前を憎からず思っているからじゃないのか」
妙に、神妙な声付きだった。自分自身でも戸惑っているような、判然としない感情をわだかまって抱えたままでいるような、愛おしい答え方だった。
エレンは、だから、たまらなくなる。
「……お前はよく、特別になりたいとか、価値がどうとか、そんなことを口にしているが……、それはそんなに、お前自身のすべてを左右するものなのか?」
何も言えず、強くその躰を掻き抱いたままのエレンの髪を、リヴァイは指でさすり、撫ぜる。
「だれかに指標され、値をつけられて、それがお前の価値に、存在になるわけじゃないと、お前はすでに十分すぎるほど知っているものだと、俺は思っていたが」
生きたいと、言っただろう。
「特別だから生きるわけじゃないだろう」
誰かに赦されて生きるわけでもねえだろう。
穏やかな、吐息のような低い声が、直接耳の奥へと響く。届く。こだまする。
そしてそれは、エレンの心臓に色を持たせる。
「お前はすでに特別だ。生きているんだからな」
だから、泣くな、エレン。
憶えておいてね。
あんたは特別なんかじゃない。でも特別なんだよ。
あんたは、もう偉いの。
だってこの世界に生まれてきたんだから。
母さんにとって、エレンは世界でたったひとりなんだから。
それだけなの。
おぼえていて。
(お前は、もう特別だろう)
(生きたいと、言っただろう)
(特別だから、誰かに赦されて、生きるわけじゃないだろう)
お前はすでに特別だ。
生きているんだからな。
母と、その人の言葉が、夢の中で重なり合って、エレンを包んだ。
やさしい夢だった。
*
年の境目はまたたく間に通り過ぎ、エレンは新しい年の三週間を、そのままこの家で過ごし続けた。
彼の丁寧な生活は、まるで変わりなくゆっくりと重なり合っていったが、最近は少しだけ違うものが混ざり始めた。
「今日も店は開けないんですか?」
朝食を終え、「今日は出かけるぞ」とのリヴァイの言葉に、エレンが問い掛ける。
「年が明けて早々、こんな店に来る物好きもそういねえだろう。支障はない。お前もあんまり部屋に籠りすぎると豚になっちまうからな……。……オイ、こんな店ってのはどういう意味だ」
「いや自分で言ったんでしょう……」
食卓の片づけをしながら、エレンは呆れたように返した。
この人との会話も、ずいぶんと遠慮がなくなったものだ。
「ってことは、またミケさんに車借りて、街の郊外までですか?」
「そうだな。ピクシスのじじいのとこへ行くぞ」
これで恐らく四回目の訪問になるが、いったい何の用事を済ませているのだろう。
エレンは訊くことはしないまま、食器を洗い始めた。
仕入れのために、何度か訪れたことのある人だった。郊外に大きな館と庭園を構え、なにか事業のようなものをしているという資産家。ピクシスという人間。
「昔、あいつが、このじじいの所で世話になっていたんだ」
一度だけ、そんな簡素な説明を受けたことがあった。
あいつが誰とは、エレンは訊かない。名前だって訊かない。
その心臓に触れてしまったことのある、自分は。
ピクシスの元への訪問には、車を借りて、一時間ほどを走る。エレンは始め、荷台で隠れていますと主張したが、「必要ない」と却下された。
「でも、俺がここに、リヴァイさんのところへ居るって知られるのは」
エレンが食い下がろうとすれば、「その必要がない理由を、今、ここで、その体で知りたいか?」とメンチをきられた。
もう充分理解しているつもりだったが、このリヴァイという男は、本当に怖いし、本当に分かりにくい。
荷台なんてところに押し込むのは忍びないだろう、とか。
助手席に座って、楽しそうにしてればいいんだとか。
この人は、エレンを人間として扱いたいのだ。
やさしいくせに。エレンは車に乗り込みながら、ひとり赤くなって、溜息を吐いた。
「どうした、ゆで上がったタコみてえだぞ」という言葉は無視した。
リヴァイがピクシスの元で用事を済ます間、エレンは館のなかで自由にしている、
街からも離れ、近くには山村もない。あるのはだだっ広い丘と、草原と、ぽつぽつと点在する林だけだ。ここなら、きっと誰にも会わずに、誰にも迷惑をかけずに暮らせる場所なんだろうな。エレンは思う。店とかなんもねえから、食べてけねえけど。ぼやいて、庭の花をぼんやり見詰めた。赤い花はなかった。代わりに、いくつも並ぶ鉢植えに、大ぶりの白い花が咲いていたのが目に留まった。
「これ、なんて花ですか」近くに居た庭師に尋ねれば、
××××××ですよ。
その大きな花弁に見える部分、一見そこが花の全体のようですが、それは花ではなく葉っぱなんですよ。花自体は、中心に見える、そう、その小さな粒なのです。
花言葉は。
エレンは、それを聞き届けると、一鉢もらえませんか。お願いしていた。
「なんだ、その花。店に卸すのか?」
「違いますよ」
帰り道。助手席で、だいじそうに鉢植えを抱えるエレンを横目に、リヴァイはふうんと返す。「なら、大切にしろよ」
「ええ。大切にしてください」
「あ?」
「これ、リヴァイさんにあげます」
花なぞもらうような歳じゃねえぞ……。リヴァイは運転する手と視線をそのままに、呆れたように呟いた。
「お前はなんというか、俺のことを色々勘違いしているようだが……。俺は三十を超えた、わりと非現実的なものを見せつけてくる、いわゆるヤバいおっさんだぞ」
「俺はそれがいいってんだから、別にいいじゃないですか」
大切にしてくださいね。
エレンは窓の向こう、暮れなずむ丘を眺めた。頬が熱かった。
……花に罪はないしな。呟く自称ヤバいおっさんも、恐らく照れていた。
しばらく、車内は無言が続いた。
恐ろしい夢も、哀しい夢も、遠ざかる日々が続いていた。冬が過ぎていくのが、肌に分かった。春には遠くても、凍てて殺す寒さは、日に日に薄れていく。
それは、季節のためだけじゃない。
この人と同じ家に帰ること、同じ部屋で朝食をとること、くだらない会話をすること、ヒーターの音、石鹸の香りと紅茶の香り、白くなる窓、ぼんやりとした窓辺の明かり、慣れてしまったソファーの感触、毛布の匂い。あの人のうなじの色、黒髪の揺れ方、睫毛の影、指先の温度、爪のかたち、雄弁な瞳の、青みがかった、しらがね色。
ひとつひとつが、エレンの心を、胸を、ほぐしていく。ほどいていく。
心臓に、色がつく。
けれど、ほどかれた心が、がんじがらめになって見えなくなっていたものを、ふいに呼び起こす。
あなたが傷つけられるのは、許せない。耐えられない。
そう言って、赤くなった少女。自分が、壊してしまった、たったひとりの家族。
ミカサ。
(あいつを、ひとりのままにしておけない)
自分だけが、こんな幸福に包まれて、眠り続けるわけにはいかない。
深夜だった。夜も深まり、だが、エレンはなかなか寝付けずにいた。リヴァイはとっくに寝室で眠っている。静かに眠る人なので、寝息ひとつ聞こえない。朝まで、彼は寝室から音を出すことも、出てくることもない。
そのはずだった。
「エレン」
リヴァイさん、驚いたエレンが反射的に身を起こす。リヴァイは人差し指を立てると、「静かに」と小声で囁いた。
「着替えろ。あっちにトランクが置いてある。必要なものだけ入れろ。物音はたてるな」
いいな? 小さく、早口な彼の真剣な表情に、エレンは黙って頷いた。
時間としては、恐らく三十分も経っていなかった。
着替え、コートもマフラーもしっかりと着込んだエレンは、トランクひとつだけを手に、リヴァイに連れられ、家の階段を下りて行った。垣根の赤い花は、もう散っている。季節の終わりがそこにあった。
ふたりは黙って、小走りに移動した。
店から離れた、街を一望できる丘に建つ住宅街に、ミケが車を止めて待っていた。
悪いな。リヴァイがひと声をかける。ミケは黙ってかぶりを振った。気にするな、ということだろう。
一体なにがあったんですか、エレンが一息をつけそうな気配を感じ、問おうと口を開く。
それと同時に、破裂するような音が聞こえた。
なにかが割れるような、鼓膜を揺さぶる、苛烈な音。
「え?」
エレンは、呆けたようにして、音の方角を眺めた。リヴァイの店が、自分たちが今さっきまで居たはずだった場所が、赤々と燃え上がっていた。
誰かが、火を放ったのだ。
「嘘だろ、まさか」
戸惑うまでもなかった。自分だ。自分の存在だ。
あそこに自分が居ることが、ばれてしまっていたのだ。
「行くぞ、エレン」
リヴァイが促す。でも、店が、リヴァイさんの家が、おれのせいで。燃え広がり、街の警鐘機の音が高鳴りだすのを耳に素通りさせ、エレンはぼろぼろと呟いて、動けなくなっていた。うそだ、リヴァイさんの、だって、なんでいきなり。
「いきなりじゃない」
リヴァイはぴしゃりと、水を打つように答える。
「お前を何度か、わざと目撃できるように助手席に乗せ、外にも連れ出していた。そろそろお前の警戒も緩みきっていると思われたんだろう。……いや、俺がそう計画しておいたんだ。奴らにそう思わせるように」
これであいつらも、しばらくはお前の死体探しに奔走するはずだ。
時間は稼げた。
「分かったなら乗れ。行くぞ」
時間を稼ぐ? エレンは瞠目する。なんのために? 待ってくれよ、オレのせいで、リヴァイさんの店が燃えてるのに、行くってどこに、それより早く消さないと、戻らないと、リヴァイさんの家が、大切にしてた店が。
言葉は嵐となり、エレンのなかで渦巻くのに。
なにひとつ、口から形となってはこぼれて来ない。
混乱、していた。
リヴァイは、そんなエレンの様子をひたと見据え、そして薄く、微笑むようにして、目元を細めた。
「店ならいい。言っただろう。俺には〝これ〟がある」
そう言って、左胸に触れる、夜闇の白い指先。
それだけで、エレンの嵐は止まった。
ミケの運転で、二人は街から離れた。
一時間ほどかけて辿り着いたのは、ピクシスの住まう庭園と館だった。
「ここに何度か通っていたのは、お前をこの家に匿わせる算段をとっていたからだ」
後部座席で、エレンの隣で、静かな声が滔々と、淡々と紡がれ続ける。
「オレを、ピクシスさんちに、ですか」
「ああ。ここのじじいが、……あいつがやっていたのは、『始祖の巨人』という伝承と、それにまつわる人間、血族、遺伝子構造の研究だった」
お前の骨の様子やらを、まあ少し見ただけだったが、俺も研究に携わることが何度かあったからな。すぐに分かった。
「お前は、その『始祖の巨人』と呼ばれる伝承と血を継ぐ、そういう家系の人間だ。お前の両親、どちらかがそうなはずだが」
エレンは、失踪したままの父の顔を思い浮かべようとする。だが、あまりうまくいかなかった。
「お前は今現在、お前を搾取して商品にしちまおうって奴らからは死んだことになっているはずだ。まあいずれ、骨が見つからねえってことになれば、また行方を探されることにはなるはずだが……。ここにいれば、じじいと、じじいが立ち上げた研究機関がお前の身の安全は保障する」
エレンは黙っていた。
運転席のミケは、ピクシスに連絡を入れてくると言って、すでに離れている。
狭い車内に、ふたりだけだった。
何を、どう言っていいのか分からなかった。
どうして事前に教えておいてくれなかったんですか。
その『始祖の巨人』ってなんなんですか。オレのことが、このおかしな身体のことが、なにか分かるってことですか。もう削られたりしなくていいってことですか。
リヴァイさんは、どうするんですか。
話しておいてくれれば、あなたの大切な店を、大切な生活を、壊さずに済んだかもしれないのに。
犠牲になんて、させなかったのに。
また結局オレは、守られて、かばわれて、
なんにも出来ないガキのままだったってことか。
笑いが漏れそうだった。あんまりにも滑稽で、無様で、悔しくて、馬鹿みたいで、おかしかった。笑い飛ばしてやりたくなった。
無様だ。本当に。クソみたいな人間だ、自分は。
特別になりたいだなんて、どの口がほざく。
「俺を軽蔑するか? エレン」
顔を歪めるばかりで、ぐちゃぐちゃの脳みそを、ひたすら自責の言葉で刺し続けるばかりで。
そんなエレンに、ひたと、冷えた声が紡がれた。
「軽蔑……? どうして、リヴァイさんが、それはむしろオレの方で、」
「俺は、お前と過ごすのが、思いの外楽しかった。お前のいる生活は、あの部屋は、朝食は、夜は、とても優しかった。居心地がよかった」
だから、向こうが手をくだしてくるまで、こんな長い期間、お前と過ごすことをずるずると楽しんでしまった。
「本当は、お前がここに来るべきで、そのほうが恐らくお前自身のためにもなると、俺は理解していた。だが、俺はそれを、俺の私情で、先延ばしにした。お前といることを選んだ。少しでも長く。これは、許されるべきことじゃない」
お前は、俺を責めていい。リヴァイはぽそりと、俯き、黒髪の隙間からのぞかせた、白いおとがいを上下させて。
頼りなげに、呟きを落とした。
そんな声音は、初めてだった。
気付けば、その躰を掻き抱いていた。肩口に額をうずめた。黒髪は夜風に冷えていた。夜の匂いがした。そういえば、この人はコートも着ていない。こんなに冷えて。あんなに筋肉質な身体をしているくせに、言葉も、エレンの背中に手を回す指の動きも、力の籠め方も、緩慢に、不安に、頼りない。やわらかい。ほどけてしまいそうだ。溶けてしまいそうだ。ゆるやかに、このまま、ずっと。うずもれて。
「あなたの、となりにいたいんです」
囁くような、絞り出すような、掠れた声しか出せない。
「責めるわけがない。あなたがくれた優しさで、すべてで、きっと俺は、今ここに存在できてる。あなたがくれたもので、俺はできてるんです。生きられたんです。特別じゃないって、特別だって、言ってもらえたから、だから、」
抱く力が弱められない。
それを、その人は許した。受け入れていた。
黙って、いだかれてくれた。
「あなたが好きです。尊敬しています。心から、愛してます」
左胸が、どくんと、音をたてた。
暗い車内に、燐を散らしたような、酸素が光り輝いたような、夜空が空中に生まれたような。そんなきらめきが、金色の星が、無数に散らばった。
その人が、少し離れ、光のもとを、エレンの左胸を、目を瞠り、見詰める。
エレンは、〝そこ〟から、ずぶり。右腕をうずめて。
金色の礫を、取り出した。
あなたのくれた日々が、色づけた、オレの心臓。
たったひとつの。
エレンは、それをリヴァイへと、静かに、厳かに、差し出した。
「あなたの心臓を、特別を、オレはもう欲しがらない。だってオレはもう、特別だから。リヴァイさんが選んだものは、リヴァイさんだけのものだから。だからオレは、オレも、選びます」
受け取って下さい。
オレが選んだものを。
「……お前は、」
本当に、物好きだな。
金色の礫に触れて。
俯く。呟く。
「俺は、もう、あいつの心臓と共に死ぬ。そう決めている。それでもか」
「はい」
「……これをオレが受け取るという意味を、お前は理解しているか」
「……たぶん」
理解してなきゃだめですか?
わざと余裕ぶって、小首を傾げて見せた。
「クソガキが」
百万回はやいんだよ。
リヴァイは、俯けた顔を上げて。
泣き笑いのような、震える鼓動のような声で。
「ありがとう、エレン」
微笑んだ。
エレンの贈った、あの花のように。
お前があのとき、生きたいと叫んだとき。
車から降りて、ミケやピクシスが来るのを待ちながら、ふたりは明ける地平の、空の色を見詰めていた。繋いだ手のひらの中には、金色の礫が、エレンの心臓が、約束の色が、握りしめられていた。
俺は、まるで自分が許されたような心地になった。
エレンは黙り、リヴァイの言葉を聴き続ける。
俺は、あいつの横で、親しい人間とその日暮らせてゆければ、それでいい、つまらない人間だった。それで充分だった。いつも、何度でも。
でも、あいつの死を何度も見届けて。それを繰り返して。
生きたいとか、目の前の人間を愛おしいと思うとか、朝食が温かいことに感謝するとか、渡された花が鮮やかな白だったとか。
そういうものが、当たり前なのか、それとも、まるで奇跡のようなもので、俺はそれらをまるで享受するに値しない、価値のない存在だったのか。
よく、分からなくて。
でもお前が、血みどろで、ぐちゃぐちゃになって、それでも、でけえ瞳をぎらつかせて、生きたいと叫んで。
それでよかったんだと、思えたんだ。
あいつの死を、憎まずにいられた。生きることを、選べた。
「お前のおかげだ。エレン」
ありがとう。
呟かれる吐息に、冬の終わりの風が交じり合う。
エレンは、その表情を、梳かれる髪の黒の艶めきを、永遠に記憶しようと誓った。
「……オレ、このままピクシスさんのお世話になるとしても、その前にやりたいことがあるんです」
次はリヴァイが黙り、エレンの声に耳を傾ける。
白々とした光が、地平に見え隠れし始めた。
「ミカサを、……置いてきてしまった家族を、探しに行きます」
「……そうか」
「はい」
ねえリヴァイさん。
「オレは、かならず戻ってきます。もう、生きることを、生まれたことを憎んだりしない。ここに存在することを躊躇ったりしない」
朝焼けが、地平から浮きあがる。
空が朱鷺色と、あの心臓の、あの地平の水色のグラデーションに染まる。
世界が目覚める。
「だから、オレと一緒に、生きてください」
目の前の美しい人は、黙って微笑み、頷いた。
金色の礫を、握りしめて。
終
夜明けの輝く明星は、あなたの金の礫の心臓
青の空の礫と死んでいくわたしに
あなたと生きてく、たったひとつの幸福
#エレリ
#長編
2024.10.14
No.14
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何百万回後の、特別でなかった君へ
***
オレの命は特別じゃない。誰でもよかったんだ。
それなのに生きたりしたから、だからみんな、死んだんだ。
それは偶然だった。見せる気などなかった。見せたら大抵、めんどうなことになる。だからそれは、不可抗力だった。
街のメインストリートから離れた裏通り、狭く暗く淀んだ空気が湿るそこで、エレンはうずくまっていた。歩けなかったので、仕方なくそこにいた。
こんな薄暗いところを通る人間などいない。いたとしても、自分と同じような空気を吸って生きている、ろくでもない奴だけだ。そしてそういう人間に、エレンは既に、顔が割れてしまっている。存在を知られてしまっている。だから、それなら別に、こんなところで蹲っていたところで、なんにも支障なんてないと、エレンは開き直る気持ちでいた。
それがよくなかった。
目の前に男が立っていた。
顔を見る限り、「こちら側」とも取られかねない陰鬱な表情をした男だった。雰囲気も、街燈の下で家族のことに想いを馳せるような、そんな温度を微塵も纏っていない。
しかし、手には大きな花束を抱えていた。
濡れたような黒髪。それとコントラストする、青白い肌。清潔そうな白のシャツ。黒いジャケット。黒のスラックス。表情の読めない寄った眉間。目尻から落ちていく隈。青を垂らしたようなしらがね色の瞳。
両手には、いっぱいの白い花。
男の視線は、エレンの頭、顔、身体、そして最後に、足首へと移っていった。
(しまった)
隠すのが遅れた。
「歩けないんじゃないか?」
そんな足だと。
さっと瞳を動揺させたエレンなど構わず、男は尋ねた。
小柄な体躯のわりに、年月を経た大人の男の声だった。呟くようだったのに、不思議と鼓膜によく届き、響いた。鳴った。
エレンは、言われた足首を見下ろした。自分の右足首。
そこには、空っぽの靴だけがある。
「……まあ、歩けねえな。足首ないし」
ない部分を覗き込みでもするかのように、右足を持ち上げ、返事をした。刃物で切り裂かれたように、履いているパンツは破けている。お気に入りだったのにな、畜生。破けちゃったじゃねえか。ひとりごちる。
破けた裾からは、足首の断面がのぞいていた。肉の断面。筋肉の繊維の断面。
そして、骨の断面。
そこには、まるで螺鈿(らでん)のような深い色と光沢とが。
つやめきと美しさとが。
薄暗い夜の空間に、七色の輝きを滑らせていた。
「要る? アンタも欲しい?」
これ。
エレンは俯けた顔を上げ、訊いてみる。手入れをしてない前髪が、ずるり、視界に邪魔だ。それでも、妙齢の女性なんかにはこの長髪がうけたりするのだから、煩わしい。
男は、表情も眉一つもを変えず動かさず、「いや、遠慮する」素気無く返した。
「金になるよ。オレの骨は。ステキな装飾品とか、工芸品とか、芸術価値のあるなんかとか、なんか色々できるよ。価値があるらしいよ」
別に食い下がる気もなく、ただ惰性のように続ければ、男はまた、感情のこもらない言葉で声を発する。「要らねえ」
「本人がその価値を信じてもないようなものを、俺は価値あるものだとは思わない」
どうせこいつも、オレの手首を切って、骨をえぐりだすんだろう。
そんな想像をして薄く笑っていたエレンに、男の低いその一言は、確かに刃物のように響き、届き、胸を切り裂き。
骨ではなく、肺を、呼吸を裂いた。
お前自身が価値あるものだと笑わないなら、そんなのは無価値だ。
お前の骨に、命に、価値なんかないよ。
お前は特別なんかじゃないよ。
耳の奥で、だれかの囁き声。
「それに」
男は、返事もしなくなったエレンに構わず続ける。
エレンは、それをうっそりと見上げる。
男は何も言わず、花束を左手に抱えなおした。そして、空いた右手で、自身の左胸に触れた。
ずぷ、と。
右手が、胸の奥へうずまる。
そして、なにかを探り当てるように、指先で掴みだすようにして、
やさしく愛おしげに触れて。
自身の心臓から、水色の石を取り出した。
「オレにはこれがある」
特別なら、価値あるものなら、もうここにある。
とくべつ。
エレンは、呆けたように呟いた。
それがエレンとリヴァイの最初だった。
リヴァイは、街の南側の通りで、小さな雑貨屋を営んでいる男だった。
小柄で、全体も二十代前半と思わしき造りをしているが、恐らく想像よりもずっと歳はとっている。エレンは、二度目の訪問でそう確信した。妙な落ち着きと、静謐ともいえる、諦観した視線を持つ男だったからだ。
要らない、と言われ、エレンはそのまま捨て置かれると思った。お前は特別なんかじゃないと、耳の奥のこだまのままに、きっとそうされると。
しかし、男は無言で屈みこむと、「これは俺が俺の夢見を悪くさせないがための行動であり選択だ。お前の言い分もケチをつけるのもあとにしろ」
ノンブレスで且つ地響きのように、ほぼ脅迫そのままの声色で発言され、目を白黒させている間に。
あっという間に、エレンは自分よりも十センチ近くは低いであろう男の肩に担ぎあげられていた。
そしてそのまま、男の、リヴァイの住む雑貨店へと運ばれた。
普通の手当てでいいのか。病院は必要か。痛みはあるのか。
リヴァイは自分の名を名乗りもせず、次々に話しを進める。エレンの泥だらけの上着をはぎ取り、濡れたタオルを用意し、うっとうしい髪は縛り上げられる。寝かされたソファーにはいつの間にか毛布が敷かれている。てきぱきと、小柄な体が小さな部屋の中を動き回っていた。
病院はいいです。治療もいらないです。時間をかけたら生えてきます。痛みももうないです。
雰囲気、勢い、そして展開の速さに気圧されたエレンも、いつの間にか敬語で返していた。
それに気付いたのは、ひと晩、暖かな毛布とソファーの上で夜を明かし、礼を言って雑貨店を後にしたときだった。
それに、リヴァイの名を知ったのも、二度目の訪問のときが初めてだった。最初の夜から三日が経っていた。エレンが昼間に再度訪問し、やっと訊きだしたのだった。
「ふつういちばん最初に教えませんか?」
エレンが呆れたように、店内で紅茶を飲んでくつろぐリヴァイに問えば、
「たったひと晩お節介を焼いただけの相手だ。必要ないと判断した」
と、しゃあしゃあと答えた。
(必要ない)
それは、名乗る必要の話だ。
リヴァイの店は、雑貨店と言うよりは、古いものを集めたアンティークショップのようだった。軒先には鉢植えの花がいくつも並べられてある。あれも商品らしい。
「いいと思ったものを仕入れて売っているんだ。紅茶もある」
じゃあ淹れてくださいよ。エレンが可笑しそうに言うと、金を払うなら構わない。リヴァイは一人だけティーカップを優雅に揺らした。取っ手を掴まない、変な持ち方だった。
エレンは、そのままリヴァイと会うこともないと思っていた。名前を訊きに行ったのも、なんとなくの気まぐれで、その後の関係を築くためでもなんでもなかった。
しかし、「商売」をするたび、エレンはリヴァイの元へと足を向けていた。下半身のどこかが売れてしまったときは、その修復が終わるまで、動けるようになれるまで、伸びた前髪の隙間に、透きとおった青空が訪れるまで、路地裏で朝焼けを眺め、待って、耐えて、我慢して、それから。
それから、その足で、彼の店へと向かった。
軒先にある鉢植えの植物、花。どこかで仕入れられたという古びた椅子。様々な切手の入った綺麗なアルミ缶。瓶詰めされた古いボタンたち。乳白色のティーセット。読めない、掠れたイニシャルの入った藍色の万年筆。傷んでいるが、美しい風合いの天鵞絨のカーテン。
訪れるたび、店の商品は移り変わった。
たぶん、ここは、この人が美しいと思ったものを集めて、置いている場所なんだ。
エレンは、何度目かの訪問でそう思った。その頃にはワンコインで紅茶も出してもらえるようになっていた。
修復の終わらない自身の左指を見詰める。骨の断面が、七色の螺鈿の美しさで、艶めいて、輝いている。
それをそっと、手袋のなかに隠した。
(俺も、この人が思う美しい商品だったなら、ここに置いてもらえるんだろうか)
この静かな店で、静かに陳列されて。
間が空いた。わがままな相手に苦難し、肋骨を数本引き抜かれたためだ。修復に二週間をかけてしまった。かろうじて自宅には帰れたものの、でかけるどころか、飲食すらもままならない。着替えもせず、ベッドでずっと横になり続けた。
こういうとき、どうしていたっけ。
ベッドサイドに、柔らかな白い手が見えた気がした。母の手だった。そして、家族であるミカサの手でもあった。手のひらはエレンの頬を撫ぜ、髪を梳き、温かいミルクを用意してくれる。声も聞こえた。気がした。親友のアルミンのものだった。次に行く町がどんなところかを、瞳を輝かせて教えてくれていた声だった。
そんな気がしただけの話だ。
もうないなんて、知っているのだ。
エレンの価値は、特別な父親が関係していた。エレンはそう思っている。母は普通だった。父はどこから来たのか分からない異邦人で、そのふたりの子どもとしてエレンは生まれた。
十歳のときだった。事故で右腕と左足を失くした。車輪に巻き込まれたのだ。捥げた腕と足は四方に弾き飛ばされ、道に転がった。エレンはただ眺めていた。そのうちに、それは、徐々に肉が蒸発し、骨だけが残った。
そしてその骨は、七色の乳白色のように艶光りし、削れた部分は、研磨され、美しく加工された螺鈿のように、またとない輝きを放っていた。
その日に、エレンの価値は決まってしまった。
どうやら、父の血筋が関係しているらしかった。世界でも稀少の生まれ。その血を引く自分。遺伝子。骨。詳しく知りたくても、そのとき既に、父は失踪していた。
今思えば、殺されていたのかもしれない。エレンはそう思う。あの父が、母や自分、養子のミカサを置いて逃げるなど、そんなことするはずがなかった。思えなかった。
エレンを連れて、守って、母は逃げた。逃げてくれた。お前をバラバラになんかさせやしないよ。母はいつも気丈に笑ってみせた。普通の子どもと同じように、普通に笑いかけ、世話を焼き、叱り、一緒にいてくれた。
「あんたは特別なんかじゃない。でも特別なんだよ。憶えておいてね。なんにもなくったって、骨が綺麗だってなくたって関係ない。あんたは、もう偉いの」
だってこの世界に生まれてきたんだから。
母さんにとって、エレンは世界でたったひとりなんだから。
それだけなの。
おぼえていて。
そう言って、血で真っ赤に染まって。
守るようにエレンに覆いかぶさりながら、たったひとりの母は死んだ。
それからは、一緒に逃げていたミカサと、あとから駆けつけてくれたアルミンとの、三人での生活がはじまった。三人とも十四歳だった。どこから聞き付けるのかも分からない輩から逃げて、移った町で三人で暮らして、ささやかな毎日で、けれどそれも必ず壊された。
エレンと勘違いした馬鹿がいた。アルミンが行方不明になった。必死に探して、そしてもう取り戻せないと、エレンは思い知った。親友の幽閉されていた部屋には、赤い色が広がっていた。
骨盤がいちばん価値があるのだと、男がほざいた。あんな痛みを、自分は知らなかった。野菜のように刻まれた。目玉は宝石になるんじゃないかなんて、そんなバカげたことを言う人間は害獣と同じだった。豪華な毛皮を着た男だった。だからそんなことが言えるんだと、頭だけは冷静だった。
動けなくなっていたエレンを、ミカサが助けた。四肢もそれ以外も、ほとんどが残っていないその姿を視て、少女のたおやかな心が、軋んで、傾いで、ひび割れて、狂ってく音が、確かに、エレンの鼓膜に響いた。
目が視えるようになった頃には、誰も生きていなかった。
真っ赤なミカサが、ナイフを手にして立っていた光景。
アルミンの赤色。ミカサの赤色。
母さんの赤色。
これだけの赤色のなかで、オレに、なんの価値があったろう。
エレンには分からなかった。
一年が経ったころ。新しい町に居た。
逃げることをやめて自ら取引に応じ、その代わりに無理な注文、到底受け入れることの出来ない要求から身を護ることを、エレンは学び、選んだ。そうすることで、ミカサの心だけは守れると思った。
それでも、金銭を得るために、身の安全を得るために。
どこかを削られ、搾取され、利用され、消耗される家族の姿を、ミカサが、たった十五歳の少女が、素直に受け入れ、納得できるわけが、なかったのだ。
ミカサは再び赤くなった。
エレンを守りたい。傷つけられるのは、いやだ。許せない。耐えられない。
そう言って、ナイフを握りしめて震える少女を、エレンは、また守れなかったと、触れることすらできなかった。
こいつを壊してしまうほどの価値が、オレにあるはずがない。
エレンは、ミカサを置いてその町を出た。
今、エレンは十六歳になっていた。ここは首都に近く、適度に大きい街だった。そういう輩の情報も入りやすい。稼ぎやすいし、身を守りやすい。
そのはずだったのに、このざまだ。
ベッドから動けず、身体を修復するために吹きあがる蒸気だけが、しゅうしゅうと音を立てている。
ただ骨が綺麗だとか言われて、特別だと言われて、それだけに価値を見出されている、「物」のような、「商品」のようなものでしかないのに。
こんなにたくさん、失くしてしまった。傷つけてしまった。
(ぜんぶ無駄だったんだ)
ずっと、ずっと後悔していた。
生きることを、選んでしまったことを。
しばらく訪れなかった雑貨屋は、いつもどおりだった。
「一カ月ぶりだな」リヴァイは花束を包みながら、なんでもないことのように言う。
エレンもまた、いつもどおりに適当に返事をした。「そうですね」
「その花束、どうするんですか?」
「友人が婚姻するらしい。その祝いだ」
「なんて花ですか」
「ライラック」
詳しいんですね。エレンは呟く。
どんな友だちなんですか。眼鏡をかけてるな。男の人? 性別は未だに謎な奴だ。そんな人間がいるんですか……。生憎と存在するんだから、世界は不思議だな。
どうでもいい、会話。
ワンコインを支払い、紅茶を出してもらう。店先の古びたベンチへ腰かけて一息をつけば、クッキーが差し出された。「サービスだ」
リヴァイは黙って花束を包み、諸々作業が終わると、エレンの隣へと腰かけた。
「お前はガキのくせに、やけに根暗な顔つきをしてるな。でかい目に隈なんざつくりやがって。伸び放題の髪も鬱陶しくてならねえ」
「ガキのくせにって、オレもう十六ですよ。生計だって自分でたてて暮らしてる」
自立してますよ。エレンは不服そうに言い返す。
だが、リヴァイはそれを鼻で笑った。「ハッ、自立だと?」
「自分の身体を切り売りして、自分の存在を軽んじている人間に、成熟した大人として認められる価値があるとでも?」
うぬぼれるなよクソガキ。
射殺すような視線だった。聞いたこともない冷たい声だった。
「……なにか勘違いしているようなら悪いが、生憎と、俺は憔悴した子どもを慰めてやるほどの器量は持ち合わせていなくてな。そういうのを求めてるんなら、女のところでもなんでも、自立した大人の要領とやらで、逃げ込んで慰めてもらえばいい」
俺は、命を軽んじる奴も、弱くてすぐに死ぬ奴も嫌いだ。
そう言い残すと、リヴァイは店の奥へと戻って行った。
エレンは、冷めた紅茶の赤を見詰めた。
なにも言えなかった。
この店に、彼の隣に。
彼の声の聞こえる場所に向かいたくなる理由は、もう分かってしまっていた。
彼はエレンのことを何も知らない。知ろうともしない。なにかを訊きだして親密になって、愛情を約束するでも、利用価値を見出すでもない。なにもしない。
ただ、エレンのくだらない言葉に応じて。
近くに存在することだけを、赦して。
となりで、エレンが欲してるそれらをくれる。
ただの、たまたま知り合っただけの十六の少年に、適当に接しているだけの関係。
それを続けてくれる優しさに、エレンは気付いていた。
彼は、エレンの骨が綺麗であろうがなかろうが、ここに来ようが来まいが、なにも関係なく、そこに生活して、生きててくれるのだ。
優しい人なんだと、気付いてしまったのだ。
躊躇いがちに。それからまた三日後、エレンは店を訪れた。
しかし、店には「close」のプレートが立てかけてあった。この店、定休日とかあったのか。エレンは面食らった。
それとも、なにか急用でもあったのだろうか。
店の二階部分、エレンも一度泊まったことのある、彼の居住スペースのあたりを見詰める。窓のカーテンは開いていた。照明もついている気がする。いるのだろうか。
二階へは、たしか、店の裏側に回り、階段を昇っていたはずだ。
そっと足を忍ばせる。店の周囲の垣根には赤い花が咲いていた。赤は嫌いだ。見ないふりをして進む。店の裏口の隣に、剥き出しの、外付け階段があった。
カンカン、足音を鳴らして階段を上がる。玄関はすぐそこだ。
ノッカーに触れるところで、向こうから開いた。思わずたたらを踏む。
「なんだ、今日は店は休みだぞ。看板見てねえのか」
「いや、部屋に明かり、が、あったので……いるのかと思って」
どこか言葉を詰まらせるようにして、エレンは答えた。
後ろめたさのようなものが込み上げた。
──命を軽んじる奴も、弱くてすぐに死ぬ奴も嫌いだ。
冷たい声音が、耳の奥でリフレインする。
「出かけるんですか?」
「違う。仕入れに出るんだ。昨日チェストとカトラリーセットが売れた。スペースが空いたから、そこを埋めるものを見繕いに行く」
玄関から出て、リヴァイは鍵をしめた。
「暇なのか?」
リヴァイは、手袋で隠されたエレンの左手を眇める。
「暇です。時間も金も困ってないです」
「そうかよ」軽く鼻先であしらわれた。
「なら荷物運びをしろ」
エレンは頷いた。
馴染みの商店を仕切る、恰幅のいい親父。旧友である、例の、婚姻したという女性(と思われるけれど、確かにどちらか分からないかもしれない)と、恐らくその亭主となる温和な男性の住まう大きな屋敷。大柄な髭の男が営む工房。老獪という言葉を想起させる、老人の住む庭園。
リヴァイは、そういった自分の知り合いの元を、転々と尋ねて歩いて回った。エレンもそれに付いていった。行く先々で、彼らが不要としたものや、制作したもの、それぞれを鑑定し、値踏みし、交渉を得ながら、買い取っていった。
ミケという名の大柄の男が差し出したのは、琥珀の指輪だった。
新作か。リヴァイが平常の声で尋ねる。ミケは黙ってうなずく。
「悪くない」
リヴァイはそれを、そっとリネンの布で包んだ。
それはいくばくか、愛おしむような温度を含んだ声だった。やわらかだった。
こうして彼に愛されたものが、あの店に並ぶのか。
美しいと思われて。
選ばれて。
エレンは、それがたまらなく羨ましかった。
回った先でローテーブルも仕入れ、それを運び終えると、「茶でも出す。飲んだら帰っていいぞ」リヴァイは奥へと引っ込んでしまう。
エレンは、秋の終わりにさしかかる寒さから、店先のベンチではなく、店内の客用の円椅子に腰かけた。
リヴァイはお湯を沸かし、茶葉の準備をしている。
せわしないその指先。白い指。
「リヴァイさんのお店には、どうしたら並べてもらえますか」
突拍子がないと理解していた。
けれど口をついてでて、そして放たれ、離れてしまった言葉はもう元には戻らなかった。
「……お前の話をしているのなら、答えは決まっている。お前をこの店に置く気も、陳列させる気もない。お前は物じゃない。そして俺に人の身体をいじくり倒す趣味はない」
「でもオレは……オレは、ここになら並べられたっていい。ばらばらにされて、加工されて、綺麗だねって、優しい誰かに買われてったっていい」
あなたはきっと、店の物すべてを特別だと信じてくれてるから。
リヴァイは溜息を吐く。エレンは、丸椅子の上でそちらを見られない。
「俺は、お前なぞ要らない。必要ない」
初めに言ったとおりだ。
リヴァイの声は、透徹に響いた。
「お前がどんなに高値で売れる素晴らしい骨を持ってたとしても、お前は俺の特別にはならない。そんなのは理由にならない。俺にとってお前は、どこにでもいる、世界中の何百万のどうでもいい人間のどうでもいいガキのうちの一人だ。それ以上にはならない。俺も別にそんなの望んでいない」
俺に慰めや居場所を求めるな。
「勘違いするなと、忠告したはずだ」
エレンは黙った。黙って、紅茶を飲み、クッキーを噛み砕いた。
けれどこの人は、エレンを追い出そうとも、避けようとも、ぞんざいに扱おうともしないのだ。
散々求められてきた、自分の骨にさえ見向きもしないで。
突き放しもしないで。
勘違いさせてるのは、この人そのものだ。エレンは半ば八つ当たりに近いことを考えた。
「じゃあ、どうしたら、オレはあなたの特別になりますか」
リヴァイは、腰かけるエレンを見下ろしたままだ。エレンもまた、その顔を見ることなく呟く。
「自分を特別だと、価値あるものだと知らない人間が、誰かに特別だと認められるわけがない。そんな都合のいいものを俺は知らない」
だからそうやって、自分を削って、自分の存在をぞんざいに扱って、卑下して貶めて損なわせているあいだは。
「お前は、俺の特別になんかならない」
店のなかは、静かだった。
いつだって静かな店だった。そんなの知っていた。時を止めたように、静謐だった。棺のなかのようでも、両親やミカサの居た、暖かなリビングのようでもあった。
「大切にしろって、そう言うんですか」
声が震えた。
握りしめたカップが、冷えていた。
リヴァイは何も応えなかった。
代わりに、エレンの手元からクッキーをひとつ奪い、齧った。
やっぱり菓子作りは向いてねえな、と呟いて。
エレンは一粒だけ、涙を流した。
冬になった。曇り空ばかりが広がるようになり、鈍色が深くなるころ、ついに雪が降った。
あの日、涙を流した日。
エレンは、やめてしまおうと思った。噛み締めた、ぼそぼそとしたクッキーの味をいつまでも忘れないみたいに、見上げることもできなかった、記憶のなかのその人の、白い横顔を思い浮かべるように。
大切にするみたいに。
周りを赤くするだけだった自分。「エレン」なんて、本当には誰のためにも、誰の必要でもなかった、存在さえ疎ましいと思っていた自分。
けれど、それでは、あの人の特別になれないらしい。
なら、やめてしまおうと思った。
棲家にしていたアパートからはすぐに出て行った。もともと最低限のものしか置いていないし、トランクひとつに全てがおさまった。
それを抱えて、街の方々を転々とした。ときどき、あの店へと足を向けた。長時間はいられない。ワンコインを差し出して、「ここはカフェじゃねえぞ」と文句を垂れる人に生意気な笑みを向けた。クッキーはもう出てこなかったが、代わりにサンドイッチが出るようになった。ベーコンやサラダ菜、トマトやチーズが挟まれた簡単なものだ。
代金を払おうとしても、「店の配置換えをする。その手伝いと交換だ」とか、「仕入れにこれから出る。荷運びを手伝え。そのバイト代にしろ」だとか、適当に理由をつけられ、すべて断られた。
泊まる場所すらおぼつかず、風貌さえみすぼらしい自分は、街の表を歩けるような人間ではなかった。食事をとろうにも、飲食店になど入れない。ホテル住まいにも限界がある。
だからエレンにとって、リヴァイの厚意は、ただもう有難かった。
前に訪れてから、六日の間が空いた。
消息を絶ったエレンを探す輩は多かった。追い詰められ、腹と、左足と指の数本をやられてしまった。その修復に時間がかかった。赤くしてやった相手が、倒れて、冷たくなって固くなって、そのうちに饐えた臭いを発するさまを、路地裏の狭い青空が何度も暮れるまで、ずっと見ていた。はやくあの店に行きたかった。優しい人が集めた、美しい特別で完成された、静かな場所へ。あの人のとなりへ。
眠れもせずに、ずっと祈り続けた。
陽が落ちて昇って、また落ちて、それが五回くり返された夜、エレンは店の前に居た。
裾は破けていたし、シャツは赤いどころか、排水のように黒々として臭っていた。洗ってもいない髪は、油っぽいまま肩より下まで伸びている。綺麗好きそうなあの人が、じっとりと眉を顰めるのが思い浮かんだ。おかしかった。どうして許してもらえるなんて、それでも思ってるんだろう。笑ってるんだろう。
深夜だった。当然、店は閉まっていた。「closed」のプレートが、暗闇にうっすらと見えた。二階の窓も、明かりは灯っていない。
あたりまえだよな。
エレンが呟く前に、それは聞こえた。
「いたぞ、こっちだ!」
男の怒声だった。
聞き届ける前に、振り返りもせず走り出した。店から離れなければならない。そして追いつかれるわけにはいかない。闇雲に駆ける。走る。つまずきを許さない緊張を自分に強いて、懸命に。足を交互に。思考さえも筋肉にゆだねて、駆けて、駆けて、走って、走って、走って。
横っ面に、なにかが掠めた。左へ連なる路地の壁に、なにかが刺さっていた。
それは、大ぶりの鉈だった。
「手順はいい! 損傷も気にするな! いいからバラせ!」
他のやつらに取られちまう前に。
削り尽くせ。
削ぎ尽くせ。
複数の、男の怒号。
まずいとか、どこに逃げるとか。
なにも、間に合わなかった。
エレンが傷付けられるのは、耐えられない。我慢できない。許せない。
エレンがそんな目に合うくらいなら、私は、
こんな残酷な世界、いくらでも立ち向かえる。
髪も頬も、お気に入りの服も白い綺麗な指先も、すべて赤く染めたミカサが、四肢もなく、目もやっと見える状態になった自分に、ひっそりと紡いだ言葉。
エレンは、彼女の心を、彼女の世界を壊してしまった自分を、心から憎んだ。
そのくせ、逃げ出した。
逃げ出したくせに、優しい場所を見つけてしまった。
(でも、これでよかったのかもしれない)
痛覚さえ役に立たなくなった頃、ぼんやりとエレンは考えた。
深夜の路地裏で、肉と骨を削る音が響いていた。
荒く削られたせいで、燐のように、こまごまとした破片が飛び散り、それが薄暗い世界で輝いていた。
きれい、なんだろうか。あんなものが。
価値のあるものなんだろうか。
母が死んで、アルミンが死んで。ミカサが壊れて。
大切なものを奪われて。
オレさえ壊されて。
それだけの価値が、意味が、特別が、あれにあるのだろうか。あったのだろうか。
分からなかった。
このまま、死ぬのだろうか。
あとは胴だけだな。男が言う。
「あんまり細かくするな。大きめのものも残しておけよ。でかいのは高値が付く」
笑っていた。男たちの声が重なっていた。
こんな奴らに、殺されるのだろうか。
オレが殺されたら、じゃあ、ぜんぶ無駄になるんだな。
母さんがオレを守ったことも、アルミンが駆けつけてくれたことも、ミカサが一緒にいてくれたことも、立ち向かうと誓ってくれたことも、父さんと母さんがオレを育ててくれたことも、あったかいスープを作ってくれたことも、アルミンが次の町のことを話してくれたことも、瞳を輝かせていたことも。
オレが生まれたことも。
(こんな、こんな風に奪われて)
生きることさえ、許されないのか。
霞む視界に、ノコギリが見えた。刃先が首に触れた。
それは、怒りだったのかも分からない。憎しみでもあった。哀しかった気もした。ずっとずっと蓋をして、なかったことにした、すべてだった。
「ころされて、たまるか」
握りつぶされたような声で、這いずるように呻いて。
なにひとつ動かせない体で。
オレは。
「……聞いてもあまり信じてもらえるとは思えないんだが、昔からお前には何もかも背負わせてばかりだった。選ばせるといっておきながら、選択肢も与えていたか定かじゃなかった。……それを俺は、これでもずっと、申し訳なく思っているんだ」
なあ、エレン。
聞こえるはずのない声が、真っ赤な路地裏に響いて、通って、透った。
エレンがその存在を認識して、理解する前に、喉元に触れていた刃先がはじかれた。そして、男のうめき声が鈍い音とともに広がった。重量のある低い音は、うめき声と同じ数だけ、いやそれ以上の数で重なり、エレンの視界で、自分のではない赤が散った。
「なんだお前ら、こんな大層なもん振り回しておいて、ナイフの使い方も知らねえのか?」
ここにあるはずのない声が、ただ鼓膜を震わす。
ひとりの男が、甲高い悲鳴のようなものを上げながら、その人に立ち向かうのが見えた。風でもいなすように、その人は身を躱す。躱しながら、男の手首を逆手に捻り上げる。
「なあ、それでも俺は、またお前に選べと言うしかないんだろうと、そう思っているんだ。それをお前は責めるか? 憎むか? 軽蔑するか?」
その人は、自分よりも遥かに上背のある男の腕を、なんなく捻り、縛り上げ続ける。
そして語る。
淡々と。
エレンにだけに。
語りかける。
なあ、エレン。
「お前は、どうしたい?」
選択肢。
選んでいいと。言われたということ。
「オレは」
ひどい声だった。死人のようだった。血が出過ぎていた。
それでも、絞り出した。
「オレは、生き、たい」
もう、なにも、何者にも奪われずに。
当たり前に与えられるはずの、自由を自分のものにして。
「生きていたい!」
力の限り、叫んだ。
悪くないと、その人は、リヴァイは笑った。
*
激し過ぎた損傷を修復するのに、ひと月の時間がかかった。ベッドの上で身動きひとつ取れないエレンを、リヴァイは何も言わず、ただ丁寧に触れ、静かに同じ空間を共有し、癒した。
ただし、半月ほどは意識がなかったので、エレンが気が付いた頃には、すでに扱い方も慣れきってしまっていたようだったが。
下半身よりも先に指先が治り、リヴァイのベッドの上で、エレンは本を読んで暇をつぶした。難解な単語も理解する様子に、リヴァイは特に驚く様子もなかった。
曰く、「教育を受けた人間の所作はしていたから」だそうだ。
エレンは少し照れ臭かった。
リヴァイの居住スペース、店の二階部分はそれほど広くない。簡易のキッチンと合体した狭いリビング、そしてその奥にさらに狭い寝室があるくらいで、エレンは今、その寝室の、リヴァイのベッドを占領してしまっている。
目が覚めてすぐに謝罪すれば、礼知らずの馬鹿も嫌いだが、無駄な気を遣いすぎるガキは生意気で好きじゃねえと素気無く返された。最初は青褪めていたエレンも、これはこの人なりの気遣いなのだろうと、だんだんに余裕を取り戻せるようになっていた。
昼間は店に出て、リヴァイはそこにはいない。朝と、昼食の頃に少し戻り、夕方、店の扉が閉まるころ、エレンのいる場所へと帰ってくる。
身体の様子を訊かれ、食べたいものを尋ねられ、一日の店の様子を、要領を得ない独特の言い回しで聞かされる。「寝室で物が食えるか」と、彼はリビングで食事をとるので、そのときは、エレンは静かに、ベッドの上で、ひとりで、プレートの上の、彼の作った料理を食べる。
静かに。ほんとうに、ただ静かに食べる。
声で震わせて、空気を伝って振動させて、目の前のやさしさを壊したりしないように。
そんな静けさで。厳かさで。
温かいスープを、ひと匙、掬う。
ひと月半が経つころ、自由に歩き回れるまでに快復した。季節はすでに、冬の真ん中にいた。今から新しい住まいを探すにも、それまでを繋ぐための宿泊場所を探すにも、これではこのまま、年をまたいでしまう。
それに、持ち金もほとんどない。トランクも失くしてしまった。
どうしたものかと、白くなる窓の外を見詰めながら、エレンはその日、考えていた。
ベッドはリヴァイへと返し、今はソファーで寝起きしている。首元が寒かった。寝たきりのあいだは見過ごしてもらっていたようだったが、ついに限界に達したらしいその人が先日、目を据わらせて「髪を切るぞ」と決定し、決行したためだった。
ずっと、纏わりつくように視界を覆っていた前髪も、首筋に垂れていた後ろ髪も、今は綺麗さっぱり、清潔そうに切りそろえられている。身体が軽く感じられた。覆われていた思考がぱっと開けたような、そんな気持ちになった。
着ているシャツも、エレンの為に買い揃えられたものだった。申し訳ないがサイズが合わなかったのだ、リヴァイのものでは。裾も肩幅も、足の先までも何もかもが寸足らずのエレンの様子を見たときの、彼のあの表情。あんな表情は、初めて見た気がした。エレンはおかしくて、ひとりなのに、誰もいないのに、笑ってしまった。
愛おしい、という単語が思い浮かんだ。
一緒に過ごして、同じ空間にいて、分かったことがひとつあった。
リヴァイという男は、けっこう、かわいい。
可愛いというのも、女、子ども、動物に形容するようなそれではない。彼は武骨な指先をしているし、何度か見た裸は筋肉質でがっちりとしていた。目つきは鋭く、温和と言う言葉からは程遠い。おまけに口も悪い。話しかたも、ほとんどが要領を得ない。しかも長い。表情が読み取りにくいから、コミュニケーションは困難なことの方が多い。
けれど。
武骨な指先は細かな編み物、愛らしい刺繍を施す。筋肉質な身体はシャツに纏われ、居眠りしている間、小さく美しい呼吸を漏らす。口の悪い饒舌さは、彼の不器用な気遣いと誠実さのかたまりで、少なすぎる表情は、相手の機微を読むための謙虚さだった。
だからとても、かわいい。
エレンはそう思っていた。
それに。
紅茶の茶葉に、温度に、味にうるさい。
けれど、飲んだ瞬間、頬がわずかに緩む。
掃除にうるさく、厳しく、雑巾の絞り方ひとつにもこだわりがある。
けれど、大切にしている家具のそれらひとつ一つを、丁寧に時間をかけて慈しむ。
口は悪い癖に、身だしなみひとつ、マナーひとつの、気の緩みを許さない。
けれど、伸びた背筋と、皺ひとつないシャツの清潔さが、自分の心の支柱に育つのが分かる。
重ねればきりがない。
彼の生き方は、生活は、単調だけれど丁寧だった。一つひとつが愛されていた。慈しまれていた。大切にされていた。
美しかった。
この人は、かわいくて、そして美しい生き方をしていた。
惹かれていくのが、分かった。
夜になり、店を閉めたリヴァイが二階へと戻ってくる。「雪がひどすぎて客も来ねえ」とぼやく彼に、エレンは沸かしておいたお茶を差し出した。
「今日は本当に雪も風もひどいですね」
「ああ。そろそろ聖夜祭も過ぎるしな。あっというまに年の瀬だ」
このまま雪も深くなるだろう。
リヴァイは、エレンの隣、ソファーに腰かけながら呟く。
「……それじゃあ、それまでにはやっぱり、俺もそろそろ動かなきゃだめですね」
「あ?」
「長距離は試してないんで分からないですけど、たぶんもう、外も出歩けますし。……あ、でもまだ走れるかな……走れねえのはきついな」
エレンがぶつぶつと呟く横で。
ガシャン、カップが力強く、ソーサーに置かれる音が響く。
「……お前の脳みそはクソでも詰まってるのか? それともなんだ、俺の話は聞こえてなかったということか? シモの世話だけでなく膝枕で耳かきでもしてやった方が良かったか?」
あからさまな、意図された低い声。
これは、あきらかに機嫌を悪くしている。
エレンの顔から血の気が引いた。
「いや、そんな、だって、動けるのにこれ以上長居するのは」
ていうか膝枕って。
「俺はこれから雪が深くなると言った。そして気を遣いすぎる生意気なクソガキは好きじゃないとも説明してやった。しかも同じことを二度説明させられるのはカビの生えた浴槽並みに嫌いだとも言ったことがある。お利口なクソガキなら、これらを聞いてどう答えるのが正解かよく分かってるよな。そうだろう? エレン」
ほとんど脅迫染みていたが、エレンは青い顔のまま、黙って頷いた。
結局、年をまたぐまで、エレンはここに居ることになった。
聖夜祭、というものがあった。年の瀬の前に行われる、世界中の聖なる夜の祭りの日。宗教の話は、よく分からない。聖人が生まれた日だと言うことしか知らない。それをなぜ祝うのかも、よくは分かっていない。
エレンはこの日が苦手だった。
十歳までは、家族でごちそうが食べられる日だった。だから好きだった。
それからは、母やミカサと、なけなしの金を集めて贅沢をする日だった。十四歳からは、アルミンとミカサの三人で、小さな蝋燭を灯して祈る日に変わった。
十五歳からは、ただの赤い日になった。
リヴァイさんのお店では、なにか聖夜祭の準備とか、売るとか、なにかするんですか。
雪が静かに降る朝だった。朝食を作るエレンに、リヴァイは「別になにもしねえな」と返した。そうですか、と、どこかホッとする自分に、エレンは気付いていた。
リヴァイは同じ時間に店を開け、エレンは二階で掃除を始めた。リヴァイ直伝の、徹底的に仕込まれたその技術は、今や目を瞠るものがある、と、自分では自負しているのだが、未だ及第点しかもらえていなかった。
窓の外は明るかった。
世界に降り積もった白さが、音を吸い込んで、失くして、綴じ込んでいるのが分かった。
白いのに、淡い冬の光。
静かな部屋。
嗅ぎ慣れてしまった、部屋の香り。あの人の匂い。
暖色のやさしい、ヒーターから放たれる温度。
憶えてしまった、お気に入りの紅茶の茶葉の場所。
特別なことなんかいらない。
これだけでいい。
泣くのをこらえて、雑巾がけを続けた。
夕飯が終わり、シャワーも終えると、それぞれが頃合いを見て眠りに就く。
ゆるいカーディガンを羽織ったリヴァイが、小さくあくびを漏らすのを、横目でこっそり目撃し、なんでもないふりで「寝ましょうか」と告げた。
「そうだな。……おやすみ、エレン」
そうして、リヴァイは寝室へ戻る。
エレンは、ソファに厚手の毛布を敷きなおした。
灯りがなくなる。暗闇が訪れる。いつもどおり、意識は緩慢に離れていく。
けれどその夜、エレンは、淡い青のような、澄んだ水色の光を、視界の端で捉えた気がした。
ぼんやりとした意識の外で、それははっきりと存在していた。リヴァイの眠る寝室から、その扉の隙間から、その光は確かに、漏れ出ていた。溢れていた。
夢だったのかもしれない。身体の感覚も、本当にはなかった気がする。
エレンは、起き上がり、扉の隙間を覗き見た。
ベッドの淵に、リヴァイが腰かけていた。
その手のひらの中で、水色の光り輝く石がひとつ、大切そうに、いだかれていた。
青みがかった、しらがねの色の彼の瞳。
それが、見たこともないやさしさで細められ、歪められ。
見たこともない哀しさで眉根を寄せて。
たったひとつの「特別」を、抱き締めるようにして。
(オレにはこれがある)
(特別なら、価値あるものなら、もうここにある)
ああそうだ。あれが、彼の世界で、たったひとつのゆいいつのとくべつのすべて。
胸の奥の心臓に住む、水色の礫(つぶて)。
オレは、あれになりたい。
特別なことなんか要らない。美しい骨なんて要らない。赤い色なんて欲しくない。
あの人の胸の奥。
心にいちばん近い場所。
心臓に触れてしまえる距離。
そこに居られる、幸福。
あのひとのとくべつ。
それが、欲しい。
こんなことを望んだのは、生まれてはじめてだった。
日常は緩慢に続く。それが温かな隆線で、自分の心と体に染み入っていく。
居場所を特定されるわけにはいかないから、基本的にエレンは外出を控えている。しかしその日は、年を越す日からちょうど三日前となり、店も休業となった。だからか、リヴァイが言った。「どこかへ行きたいか」
エレンはしばし考えた。けれど、特には思いつかなかった。そもそも、この街に住んでいても、どこに居ても、それは必要に迫られたからそこに居ただけであって、「どこかへ行きたい」と望むことは、今までにない感覚だった。よく分からなかった。
「ガキのくせに枯れてるな」
「放っといてくださいよ」
どこへも行かなくていいから、オレは、リヴァイさんの話が聞きたいです。
エレンは、顔が赤くなるのを感じつつも、ぽつりと呟いた。
俺の話なんざ聞いてどうするんだ、と不思議がるリヴァイを置いて、エレンはお湯を沸かしに立ち上がる。なんとなく間が持たない心地だ。
「……この店を始めたのは、なりゆきだった。お前も何度か会っているだろう。この前結婚した奴。あのメガネが勧めてきた。物件がひとつ空いてるから、住んで何かやれと」
それはまた、無茶いいますね。エレンが苦笑しながら答えれば、リヴァイは眉根を寄せて、けれどまんざらでもなさそうに「あいつの言動にいちいち突っ込んでいたらキリがねえ」と呟いた。モブリットも、よくもまあ、あんなのを選んだもんだ、とも。「まあ、いつもどおりだったんだが」
あいつらは、結婚するしないは別にしても、いつもどちらかに何らかの形で寄り添って、そして終えていた。
小さな溜息のようだった。とても幸せなものに吐息を吹きかけるような、優しいそれのようだった。
「いつもどおりって」
あのひとたちは、別に再婚したとか、そういうんじゃないでしょう?
それに、終えるって。
ハーブティーを差し出しながら、エレンは問うた。
リヴァイはそれを受け取り、口付ける。黙って。何も答えずに。応えずに。
「俺の話を聞きたいと言っていたか」
エレンがソファーに座り直し、ハーブティーも飲み終わり。リヴァイからの答えを諦めたころ。
その小さな口が、小さく開かれた。
めったなことでは開かれない、こころの隙間をちらつかせて。
「俺はな、エレン」
何百万回も、生まれ変わってるんだ。
*
おとぎ話のようなものだ。滔々と流れるせせらぎのような、すまさなければ、耳を澄んで透ってしまう、低い、清廉な声が続く。
俺は、とある男の隣で、そいつの意志に従い、そいつと共に生きる人間だった。何度生まれ変わってもそうしていた。何を選んでも、どう生まれても、俺は必ず、あいつの隣に居たし、あいつに心臓を渡していた。何度だって、何度生まれたって、何度死んだって。かならず、となりにいた。そう選んだ。俺が、俺の意志で。
そうして、必ず、あいつが死ぬのを見届けた。
あいつは必ず、俺の目の前で死ぬ。事故だったときも、病のときも、健やかなときも、戦場だったときも、屋根の上だったときもあった。……いや、あれがいちばん最初だったのか。腕の中で、なんて浪漫じみたことはなかったが、俺が渡した心臓ごと、冷えて、つめたくなって、固くなって、いつも目の前で、死んだ。
俺の心臓は、いつもあいつと一緒に、あいつが死ぬときに無くなってしまう。
当然だ。あいつのものだと、俺が預けていたんだからな。
だから今。
俺の心臓はからっぽなんだ。
リヴァイは、ふと口をつぐみ、エレンの手に触れた。
そしてその指先を、そっと、自身の左胸へと導く。
振動。
それは、血液を運ぶためのポンプの音だった。鼓動と呼ばれるものだった。
「心臓」と呼ばれる臓器が、きちんと稼働している音だった。
けれどそこには、きっとないのだろう。
在るのは、きっと。
エレンの腕をつかんだまま、リヴァイは続ける。紡ぐ。
あれは、今よりひとつ前の死だった。
骨が折れて、肉が削がれて、もう動けないのが分かった。もうすぐ死ぬんだなと、隣でそのときを待ってやっていた。あいつは俺を置いていくことに躊躇がない。だから俺も、なにも言わずにいられた。ずっとそうだった。何百万回も。それでよかった。
けれど、言われたんだ。
ありがとう、と。笑顔で。
そうして、俺に自分の心臓を渡したんだ。
エレンが触れる左胸が、淡い光を放つ。
それは水色の、澄んだ青空が地平に向かう色だった。
リヴァイの指先が、エレンの指先に重なる。ずくん、と、ふたりの指が、絡まるようにして、リヴァイの胸にうずまる。
冷たい感触があった。取り出せば、あの水色の礫が、確かに存在していた。
リヴァイは、エレンの指先を自分の掌で包み込むようにして、そうして、その水色の心臓を見詰めた。
悲しげに、懐かしむみたいに、憐れむみたいに、赦すみたいに。
あいつの心臓は、ここにある。俺の心臓も、あいつごと死んだ。
だからきっと、次はない。
俺はもう、あいつに会うことはない。
「そのことを、俺は幸福だと思っている」
薄い笑み。
それがなにより、雄弁だった。
オレは。
エレンは、手のひらの中の、指先で触れられる水色のそれを、見下ろして思う。
オレは、これになりたい。
でもきっと、絶対になれない。
それは叶わない。
気付けば、それは言葉になっていた。放たれて、戻すことのできないものになっていた。
「オレは、あなたの特別になりたいです」
手のひらの青を抱えたまま、リヴァイは黙る。そしてぽそりと、一言を落とす。
「お前は、もう特別だろう」
エレンは、その光を、地平線の空の青を、ぐっと力をいれて、手のひらで押し込んだ。隠した。水色の礫は、彼の胸の奥へと還っていった。
「エレ、」
彼がなにかを言う前に、その唇を塞いだ。
ソファーが、小さく軋んだ。
エレンは知っていた。この小柄な目の前の人が、本当はすごく強いことを。圧倒的な力量差でエレンを上回ることを。赤い海をつくれることを。
だから、彼はいつだって抵抗もできた。跳ね返すことも、殴り飛ばすことも、なんなら窓から振り落とすことだって、出来たはずだ。
「どうして、黙ってるんですか?」
ソファーに押し倒され、同情心から住まわせてやっているだけの人間に、キスをされ、無防備に抱き締められ続け、何も言わず、文句も、恨み言も、言葉ひとつ漏らさず。
「……恐らく、お前を憎からず思っているからじゃないのか」
妙に、神妙な声付きだった。自分自身でも戸惑っているような、判然としない感情をわだかまって抱えたままでいるような、愛おしい答え方だった。
エレンは、だから、たまらなくなる。
「……お前はよく、特別になりたいとか、価値がどうとか、そんなことを口にしているが……、それはそんなに、お前自身のすべてを左右するものなのか?」
何も言えず、強くその躰を掻き抱いたままのエレンの髪を、リヴァイは指でさすり、撫ぜる。
「だれかに指標され、値をつけられて、それがお前の価値に、存在になるわけじゃないと、お前はすでに十分すぎるほど知っているものだと、俺は思っていたが」
生きたいと、言っただろう。
「特別だから生きるわけじゃないだろう」
誰かに赦されて生きるわけでもねえだろう。
穏やかな、吐息のような低い声が、直接耳の奥へと響く。届く。こだまする。
そしてそれは、エレンの心臓に色を持たせる。
「お前はすでに特別だ。生きているんだからな」
だから、泣くな、エレン。
憶えておいてね。
あんたは特別なんかじゃない。でも特別なんだよ。
あんたは、もう偉いの。
だってこの世界に生まれてきたんだから。
母さんにとって、エレンは世界でたったひとりなんだから。
それだけなの。
おぼえていて。
(お前は、もう特別だろう)
(生きたいと、言っただろう)
(特別だから、誰かに赦されて、生きるわけじゃないだろう)
お前はすでに特別だ。
生きているんだからな。
母と、その人の言葉が、夢の中で重なり合って、エレンを包んだ。
やさしい夢だった。
*
年の境目はまたたく間に通り過ぎ、エレンは新しい年の三週間を、そのままこの家で過ごし続けた。
彼の丁寧な生活は、まるで変わりなくゆっくりと重なり合っていったが、最近は少しだけ違うものが混ざり始めた。
「今日も店は開けないんですか?」
朝食を終え、「今日は出かけるぞ」とのリヴァイの言葉に、エレンが問い掛ける。
「年が明けて早々、こんな店に来る物好きもそういねえだろう。支障はない。お前もあんまり部屋に籠りすぎると豚になっちまうからな……。……オイ、こんな店ってのはどういう意味だ」
「いや自分で言ったんでしょう……」
食卓の片づけをしながら、エレンは呆れたように返した。
この人との会話も、ずいぶんと遠慮がなくなったものだ。
「ってことは、またミケさんに車借りて、街の郊外までですか?」
「そうだな。ピクシスのじじいのとこへ行くぞ」
これで恐らく四回目の訪問になるが、いったい何の用事を済ませているのだろう。
エレンは訊くことはしないまま、食器を洗い始めた。
仕入れのために、何度か訪れたことのある人だった。郊外に大きな館と庭園を構え、なにか事業のようなものをしているという資産家。ピクシスという人間。
「昔、あいつが、このじじいの所で世話になっていたんだ」
一度だけ、そんな簡素な説明を受けたことがあった。
あいつが誰とは、エレンは訊かない。名前だって訊かない。
その心臓に触れてしまったことのある、自分は。
ピクシスの元への訪問には、車を借りて、一時間ほどを走る。エレンは始め、荷台で隠れていますと主張したが、「必要ない」と却下された。
「でも、俺がここに、リヴァイさんのところへ居るって知られるのは」
エレンが食い下がろうとすれば、「その必要がない理由を、今、ここで、その体で知りたいか?」とメンチをきられた。
もう充分理解しているつもりだったが、このリヴァイという男は、本当に怖いし、本当に分かりにくい。
荷台なんてところに押し込むのは忍びないだろう、とか。
助手席に座って、楽しそうにしてればいいんだとか。
この人は、エレンを人間として扱いたいのだ。
やさしいくせに。エレンは車に乗り込みながら、ひとり赤くなって、溜息を吐いた。
「どうした、ゆで上がったタコみてえだぞ」という言葉は無視した。
リヴァイがピクシスの元で用事を済ます間、エレンは館のなかで自由にしている、
街からも離れ、近くには山村もない。あるのはだだっ広い丘と、草原と、ぽつぽつと点在する林だけだ。ここなら、きっと誰にも会わずに、誰にも迷惑をかけずに暮らせる場所なんだろうな。エレンは思う。店とかなんもねえから、食べてけねえけど。ぼやいて、庭の花をぼんやり見詰めた。赤い花はなかった。代わりに、いくつも並ぶ鉢植えに、大ぶりの白い花が咲いていたのが目に留まった。
「これ、なんて花ですか」近くに居た庭師に尋ねれば、
××××××ですよ。
その大きな花弁に見える部分、一見そこが花の全体のようですが、それは花ではなく葉っぱなんですよ。花自体は、中心に見える、そう、その小さな粒なのです。
花言葉は。
エレンは、それを聞き届けると、一鉢もらえませんか。お願いしていた。
「なんだ、その花。店に卸すのか?」
「違いますよ」
帰り道。助手席で、だいじそうに鉢植えを抱えるエレンを横目に、リヴァイはふうんと返す。「なら、大切にしろよ」
「ええ。大切にしてください」
「あ?」
「これ、リヴァイさんにあげます」
花なぞもらうような歳じゃねえぞ……。リヴァイは運転する手と視線をそのままに、呆れたように呟いた。
「お前はなんというか、俺のことを色々勘違いしているようだが……。俺は三十を超えた、わりと非現実的なものを見せつけてくる、いわゆるヤバいおっさんだぞ」
「俺はそれがいいってんだから、別にいいじゃないですか」
大切にしてくださいね。
エレンは窓の向こう、暮れなずむ丘を眺めた。頬が熱かった。
……花に罪はないしな。呟く自称ヤバいおっさんも、恐らく照れていた。
しばらく、車内は無言が続いた。
恐ろしい夢も、哀しい夢も、遠ざかる日々が続いていた。冬が過ぎていくのが、肌に分かった。春には遠くても、凍てて殺す寒さは、日に日に薄れていく。
それは、季節のためだけじゃない。
この人と同じ家に帰ること、同じ部屋で朝食をとること、くだらない会話をすること、ヒーターの音、石鹸の香りと紅茶の香り、白くなる窓、ぼんやりとした窓辺の明かり、慣れてしまったソファーの感触、毛布の匂い。あの人のうなじの色、黒髪の揺れ方、睫毛の影、指先の温度、爪のかたち、雄弁な瞳の、青みがかった、しらがね色。
ひとつひとつが、エレンの心を、胸を、ほぐしていく。ほどいていく。
心臓に、色がつく。
けれど、ほどかれた心が、がんじがらめになって見えなくなっていたものを、ふいに呼び起こす。
あなたが傷つけられるのは、許せない。耐えられない。
そう言って、赤くなった少女。自分が、壊してしまった、たったひとりの家族。
ミカサ。
(あいつを、ひとりのままにしておけない)
自分だけが、こんな幸福に包まれて、眠り続けるわけにはいかない。
深夜だった。夜も深まり、だが、エレンはなかなか寝付けずにいた。リヴァイはとっくに寝室で眠っている。静かに眠る人なので、寝息ひとつ聞こえない。朝まで、彼は寝室から音を出すことも、出てくることもない。
そのはずだった。
「エレン」
リヴァイさん、驚いたエレンが反射的に身を起こす。リヴァイは人差し指を立てると、「静かに」と小声で囁いた。
「着替えろ。あっちにトランクが置いてある。必要なものだけ入れろ。物音はたてるな」
いいな? 小さく、早口な彼の真剣な表情に、エレンは黙って頷いた。
時間としては、恐らく三十分も経っていなかった。
着替え、コートもマフラーもしっかりと着込んだエレンは、トランクひとつだけを手に、リヴァイに連れられ、家の階段を下りて行った。垣根の赤い花は、もう散っている。季節の終わりがそこにあった。
ふたりは黙って、小走りに移動した。
店から離れた、街を一望できる丘に建つ住宅街に、ミケが車を止めて待っていた。
悪いな。リヴァイがひと声をかける。ミケは黙ってかぶりを振った。気にするな、ということだろう。
一体なにがあったんですか、エレンが一息をつけそうな気配を感じ、問おうと口を開く。
それと同時に、破裂するような音が聞こえた。
なにかが割れるような、鼓膜を揺さぶる、苛烈な音。
「え?」
エレンは、呆けたようにして、音の方角を眺めた。リヴァイの店が、自分たちが今さっきまで居たはずだった場所が、赤々と燃え上がっていた。
誰かが、火を放ったのだ。
「嘘だろ、まさか」
戸惑うまでもなかった。自分だ。自分の存在だ。
あそこに自分が居ることが、ばれてしまっていたのだ。
「行くぞ、エレン」
リヴァイが促す。でも、店が、リヴァイさんの家が、おれのせいで。燃え広がり、街の警鐘機の音が高鳴りだすのを耳に素通りさせ、エレンはぼろぼろと呟いて、動けなくなっていた。うそだ、リヴァイさんの、だって、なんでいきなり。
「いきなりじゃない」
リヴァイはぴしゃりと、水を打つように答える。
「お前を何度か、わざと目撃できるように助手席に乗せ、外にも連れ出していた。そろそろお前の警戒も緩みきっていると思われたんだろう。……いや、俺がそう計画しておいたんだ。奴らにそう思わせるように」
これであいつらも、しばらくはお前の死体探しに奔走するはずだ。
時間は稼げた。
「分かったなら乗れ。行くぞ」
時間を稼ぐ? エレンは瞠目する。なんのために? 待ってくれよ、オレのせいで、リヴァイさんの店が燃えてるのに、行くってどこに、それより早く消さないと、戻らないと、リヴァイさんの家が、大切にしてた店が。
言葉は嵐となり、エレンのなかで渦巻くのに。
なにひとつ、口から形となってはこぼれて来ない。
混乱、していた。
リヴァイは、そんなエレンの様子をひたと見据え、そして薄く、微笑むようにして、目元を細めた。
「店ならいい。言っただろう。俺には〝これ〟がある」
そう言って、左胸に触れる、夜闇の白い指先。
それだけで、エレンの嵐は止まった。
ミケの運転で、二人は街から離れた。
一時間ほどかけて辿り着いたのは、ピクシスの住まう庭園と館だった。
「ここに何度か通っていたのは、お前をこの家に匿わせる算段をとっていたからだ」
後部座席で、エレンの隣で、静かな声が滔々と、淡々と紡がれ続ける。
「オレを、ピクシスさんちに、ですか」
「ああ。ここのじじいが、……あいつがやっていたのは、『始祖の巨人』という伝承と、それにまつわる人間、血族、遺伝子構造の研究だった」
お前の骨の様子やらを、まあ少し見ただけだったが、俺も研究に携わることが何度かあったからな。すぐに分かった。
「お前は、その『始祖の巨人』と呼ばれる伝承と血を継ぐ、そういう家系の人間だ。お前の両親、どちらかがそうなはずだが」
エレンは、失踪したままの父の顔を思い浮かべようとする。だが、あまりうまくいかなかった。
「お前は今現在、お前を搾取して商品にしちまおうって奴らからは死んだことになっているはずだ。まあいずれ、骨が見つからねえってことになれば、また行方を探されることにはなるはずだが……。ここにいれば、じじいと、じじいが立ち上げた研究機関がお前の身の安全は保障する」
エレンは黙っていた。
運転席のミケは、ピクシスに連絡を入れてくると言って、すでに離れている。
狭い車内に、ふたりだけだった。
何を、どう言っていいのか分からなかった。
どうして事前に教えておいてくれなかったんですか。
その『始祖の巨人』ってなんなんですか。オレのことが、このおかしな身体のことが、なにか分かるってことですか。もう削られたりしなくていいってことですか。
リヴァイさんは、どうするんですか。
話しておいてくれれば、あなたの大切な店を、大切な生活を、壊さずに済んだかもしれないのに。
犠牲になんて、させなかったのに。
また結局オレは、守られて、かばわれて、
なんにも出来ないガキのままだったってことか。
笑いが漏れそうだった。あんまりにも滑稽で、無様で、悔しくて、馬鹿みたいで、おかしかった。笑い飛ばしてやりたくなった。
無様だ。本当に。クソみたいな人間だ、自分は。
特別になりたいだなんて、どの口がほざく。
「俺を軽蔑するか? エレン」
顔を歪めるばかりで、ぐちゃぐちゃの脳みそを、ひたすら自責の言葉で刺し続けるばかりで。
そんなエレンに、ひたと、冷えた声が紡がれた。
「軽蔑……? どうして、リヴァイさんが、それはむしろオレの方で、」
「俺は、お前と過ごすのが、思いの外楽しかった。お前のいる生活は、あの部屋は、朝食は、夜は、とても優しかった。居心地がよかった」
だから、向こうが手をくだしてくるまで、こんな長い期間、お前と過ごすことをずるずると楽しんでしまった。
「本当は、お前がここに来るべきで、そのほうが恐らくお前自身のためにもなると、俺は理解していた。だが、俺はそれを、俺の私情で、先延ばしにした。お前といることを選んだ。少しでも長く。これは、許されるべきことじゃない」
お前は、俺を責めていい。リヴァイはぽそりと、俯き、黒髪の隙間からのぞかせた、白いおとがいを上下させて。
頼りなげに、呟きを落とした。
そんな声音は、初めてだった。
気付けば、その躰を掻き抱いていた。肩口に額をうずめた。黒髪は夜風に冷えていた。夜の匂いがした。そういえば、この人はコートも着ていない。こんなに冷えて。あんなに筋肉質な身体をしているくせに、言葉も、エレンの背中に手を回す指の動きも、力の籠め方も、緩慢に、不安に、頼りない。やわらかい。ほどけてしまいそうだ。溶けてしまいそうだ。ゆるやかに、このまま、ずっと。うずもれて。
「あなたの、となりにいたいんです」
囁くような、絞り出すような、掠れた声しか出せない。
「責めるわけがない。あなたがくれた優しさで、すべてで、きっと俺は、今ここに存在できてる。あなたがくれたもので、俺はできてるんです。生きられたんです。特別じゃないって、特別だって、言ってもらえたから、だから、」
抱く力が弱められない。
それを、その人は許した。受け入れていた。
黙って、いだかれてくれた。
「あなたが好きです。尊敬しています。心から、愛してます」
左胸が、どくんと、音をたてた。
暗い車内に、燐を散らしたような、酸素が光り輝いたような、夜空が空中に生まれたような。そんなきらめきが、金色の星が、無数に散らばった。
その人が、少し離れ、光のもとを、エレンの左胸を、目を瞠り、見詰める。
エレンは、〝そこ〟から、ずぶり。右腕をうずめて。
金色の礫を、取り出した。
あなたのくれた日々が、色づけた、オレの心臓。
たったひとつの。
エレンは、それをリヴァイへと、静かに、厳かに、差し出した。
「あなたの心臓を、特別を、オレはもう欲しがらない。だってオレはもう、特別だから。リヴァイさんが選んだものは、リヴァイさんだけのものだから。だからオレは、オレも、選びます」
受け取って下さい。
オレが選んだものを。
「……お前は、」
本当に、物好きだな。
金色の礫に触れて。
俯く。呟く。
「俺は、もう、あいつの心臓と共に死ぬ。そう決めている。それでもか」
「はい」
「……これをオレが受け取るという意味を、お前は理解しているか」
「……たぶん」
理解してなきゃだめですか?
わざと余裕ぶって、小首を傾げて見せた。
「クソガキが」
百万回はやいんだよ。
リヴァイは、俯けた顔を上げて。
泣き笑いのような、震える鼓動のような声で。
「ありがとう、エレン」
微笑んだ。
エレンの贈った、あの花のように。
お前があのとき、生きたいと叫んだとき。
車から降りて、ミケやピクシスが来るのを待ちながら、ふたりは明ける地平の、空の色を見詰めていた。繋いだ手のひらの中には、金色の礫が、エレンの心臓が、約束の色が、握りしめられていた。
俺は、まるで自分が許されたような心地になった。
エレンは黙り、リヴァイの言葉を聴き続ける。
俺は、あいつの横で、親しい人間とその日暮らせてゆければ、それでいい、つまらない人間だった。それで充分だった。いつも、何度でも。
でも、あいつの死を何度も見届けて。それを繰り返して。
生きたいとか、目の前の人間を愛おしいと思うとか、朝食が温かいことに感謝するとか、渡された花が鮮やかな白だったとか。
そういうものが、当たり前なのか、それとも、まるで奇跡のようなもので、俺はそれらをまるで享受するに値しない、価値のない存在だったのか。
よく、分からなくて。
でもお前が、血みどろで、ぐちゃぐちゃになって、それでも、でけえ瞳をぎらつかせて、生きたいと叫んで。
それでよかったんだと、思えたんだ。
あいつの死を、憎まずにいられた。生きることを、選べた。
「お前のおかげだ。エレン」
ありがとう。
呟かれる吐息に、冬の終わりの風が交じり合う。
エレンは、その表情を、梳かれる髪の黒の艶めきを、永遠に記憶しようと誓った。
「……オレ、このままピクシスさんのお世話になるとしても、その前にやりたいことがあるんです」
次はリヴァイが黙り、エレンの声に耳を傾ける。
白々とした光が、地平に見え隠れし始めた。
「ミカサを、……置いてきてしまった家族を、探しに行きます」
「……そうか」
「はい」
ねえリヴァイさん。
「オレは、かならず戻ってきます。もう、生きることを、生まれたことを憎んだりしない。ここに存在することを躊躇ったりしない」
朝焼けが、地平から浮きあがる。
空が朱鷺色と、あの心臓の、あの地平の水色のグラデーションに染まる。
世界が目覚める。
「だから、オレと一緒に、生きてください」
目の前の美しい人は、黙って微笑み、頷いた。
金色の礫を、握りしめて。
終
夜明けの輝く明星は、あなたの金の礫の心臓
青の空の礫と死んでいくわたしに
あなたと生きてく、たったひとつの幸福
#エレリ#長編