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はじめに
はじめまして、こんにちは。ここはオタクによる二次創作サイトです。
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(バナーまだないです…)

管理人について
名前:まどか
0122生まれ。
個人サイト全盛期時代を生きてた頃のオタク。男女BL百合なんでもござれ。

▽好き
音楽:BUMP OF CHICKEN、植松伸夫、下村陽子、浜渦正志、澤野弘之、Co shu nie
作家:なるしまゆり、天野シロ、乙一、恩田陸、長谷川夕、三秋縋、宮沢賢治
ゲーム:FF7,8,9,10,15、KH、TOA、ボクと魔王
人生のバイブル:新世紀エヴァンゲリオン、銀河鉄道の夜、少年魔法士

推し歴(同人活動歴)
2014 カシアリ漫画『眠れる国の王子さま』
2015 カヲシン漫画『僕の幸せのなかに君は存在できない』
2017 エレリ小説『夜明けの礫のあなたの幸福』
2017 エルリ小説『きっともうすぐ、やさしい夜がくる』
2018 エルリ小説『祝福はいらない』
2020 FF9考察本『Memory to Life』
2021 第五人格イソップ・カール考察本『Flowers for the Broken spirit ──イソップ・カール考察本』畳む

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2024年11月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

ゲ謎

どこにもないかたちを探してる



 どこにも存在しないのに、確かに在ったはずだと確信している、そういう己が心を、誰かは「気が違ったのだ」と嗤うかもしれない。
 事実、それは的を射ていると、水木は思う。水木には、自分がよそ様からそう判断されてやむ無しの、酷い様相をしている自覚がある。
 色彩が抜けたような有様の、真っ白な頭髪は、見た目を裏切って老いてはいない。艶も張りも残っている。だのに色だけが抜け落ちているのが、一層、異様だった。
 人は違和感を嫌う。皆の曖昧な認識で形作られた「ふつう」なるものから逸したものを疎む。
 こわいから。不安だから。
 水木には、その気持ちがわかる。同じ人だから分かる。
 普通でないものは、怖いのだ。
 だが、水木には分からなくなる。
 
(普通とはなんだ)
 
 それは、誰が定義づけたものだろうか。
 皆が無意識下で「そういうもの」として扱う、目に見えない、形のない、あれは、なんだ。
 一〇年前、どこかにいる「みんな」が掲げた普通とは、国のために死ぬることを良しとした。
 皆んなとは、誰だったのか。国とはなんだったのか。自分は、なんのために死ぬことを、大義と信じようとしていたのか。
 結局、あれらは全て「かたちのないもの」だった。どこかにいる「皆んな」は「国」のことだったはずだが、振り返れば、焼け跡にいたのは、ないものをあるものだと思い込んで、思い込まされて、思い込むことを選んで、そうして、明日生きていくことさえ危ういまま、何もかも奪われ、放り出された人間たちだけだった。
 
 なぐら村から帰還した水木は、自らが普通なるものから逸脱したのだと自認した。せざるを得なかった。それは内と外からもたらされた。水木の内側は、栓の壊れた悲しみがさざめいていた。水木の外側は、くちさがない人間たちがひしめき合い、気が違ったのだと囁きあった。どうしたって、自認せざるを得なかった。自分は、「変わって」しまった、逸脱してしまったのだと。
 一〇年前から、その前からずっと変わらず、ひとびとはどこかにいる「皆んな」が取り決めた「普通」が好きだ。水木もその一員だったのだと思う。かたちないものだが、皆んなが信じてるから、それが正しい気がしたのだ。安心するのだ。
 水木は野心に燃えていたし、誰かを蹴落としてでもと心の裡を滾らせて、人と同じでは生き残れないことを信条として、あの村にも飛び込んだわけだが、でも結局、どこかでは安心していた。「出世すれば踏みつけられない」という、皆んなの普通を──強者が都合よく敷いて提供した仕組みを、鵜呑みにすることに、安堵していたのだ。どこかで。
「皆んな」から、「普通」から外れた今だから分かる。自分は凡夫だった。自分は人とは違うことをして、違うのだと証明して、そうして勝ち取るのだと息巻いていたが、でも結局、
「──なにも守れなかった、誰も救えなかった」
 頭が痛む。
 そう、この痛みだ。
 水木には探しているものがある。
 どこにもないのに、確かに在ったはずのもの。この痛みの原因となるもの。村の惨事のさなかに落としてきた記憶。
 忘れてしまったのだから、それはもう、どこにもないものでしかないのに、水木の内側は、そんなはずがないとさざめく。嗚咽する。
 一人、山道で発見された時に押し寄せた悲しみの残滓が、痛みとなって、白く色の抜けた頭部を苛む。在るのだと、叫ぶかのように。思い出すなと、警鐘するかのように。
 そんなふうに、頭を抱え、苛みに顔を歪める水木に、ひとはいう。「気の毒に」「違ってしまった」「以前の君とはまるで」
(たとえば俺が以前の自分とまるでちがうとして、それがなんだというのだ)
 
 記憶を失うことが異質なのか、
 一人生還することが異色なのか、
 髪色が抜け落ちて、覇気を無くしたら異様なのか。
 ──墓場から生まれた子供を抱きしめたら、異端なのか。
 
 何も守れなかった。誰も救えなかった。
 何が、も、誰を、も、それすら全て、記憶ごと失ってしまった。
 頭部を苛む痛みは、きっと、思い出すなと鳴らされる警鐘だから、自分は頭がかち割れても、もう取り戻すことはできない。きっと、死ぬまで、ずっと。
 それでも、かたちないそれを探してやまない。
 
 皆んなが信じたがる。かたちのない、普通と呼ぶものを。
 水木も探している。かたちのない、いつか在ったはずのものを。
 
(わかってる、不安なんだろう、悲しいんだろう、寄る辺が欲しいんだろう)
 
 腕の中で、冷たい生き物が、赤子がみじろいだ。墓から生まれた、かたちのあるものが。
 水木は思う。確信する。
 紅い桜の木の下、そこに佇む男のことを、きっと水木は、思い出せない。手繰り寄せられない。
 内側にさざめく悲しみは、水木のこころを浸しつづけて、きっとこの生涯は閉じる。
 頭なんてかち割れていいから、思い出したかった。気が狂ったのだと言われて死ぬんだとして、それでもいいから思い出したかった。
 でも、けど、もしかしたら、
 かたちのないものは、目の前の赤子のかたちをしていたのかもしれないと、莫迦みたいだけれど、そう思ってしまったら、もうだめだった。
 
(──いつかお主にも、心から愛おしいと思う存在が現れる)
 
 不安だから、寄る辺が欲しいから、信じたいから、思い込みたいから。
 人間の愚かな弱さがみせる幻覚かもしれない。わかってる。ふつうなんてない。過ぎ去った記憶は取り戻せない。死んでしまった命も、時間も、約束も、もう、なにも、なにも。なにもかも、取り戻せない。
 それでも、この腕の中のかたちが、探してたものかもしれないと、
 弱い人間の水木は、抱きしめる手を、緩めることはできなかった。
 だからそのまま、雨粒にさらされて冷えた生き物同士は、身を寄せ合ったのだ。
 かたちのないものを探し続けた夜が、終わるまで。


(ゲゲゲの謎、1周年おめでとうございます)

.#掌編 #水木

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2024年10月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

,エヴァ

鏡の向こうにもきみはいない


「鏡の向こうに行ってみたい」
  シンジがそう呟くのでカヲルはふ、と呼んでいた楽譜から瞳を逸らした。その顔を見遣って「どうしてだい?」尋ねてみる。シンジは明後日の方向に意識を傾けながら「鏡は正反対の世界が繋がっているから」とだけ答えた。カヲルはそれを聞き届けると「ここは嫌かい?」また尋ねた。今度は返事はなかった。暗黙の肯定というやつだ、とカヲルは楽譜を置いて、シンジの隣に立った。
  ここが嫌かどうかなんて、愚問だ。彼はいつだって嫌悪を胸に潜めて世界に立ち続けている。立ちすくんでいると云う方が正しいか。彼はここではないどこかにゆきたくてたまらなくて、ここではないどこかならといつも俯いている。それは夢物語だよ。現実に存在する人間はみな口を揃えてシンジにそう諭す。いい加減にしなさい。誰かは叱りさえする。それでもシンジは、ここではないどこかを夢想する。止められないのだ。だってここには、「自分」が居る。大嫌いな自分が。
  結局のところ、シンジがゆきたいのは「ここではないどこか」ではなく、「自分がいない世界」なのかもしれない。
  カヲルはそれを重々承知した上で、彼の隣に腰かけた。「もし鏡の向こうにゆけたら、」彼の夢物語に付いてゆく。
 「そこには僕はいるんだろうか」
 「いるよ、カヲル君はそのままでいるんだ」
 「正反対の世界なのに?」
 「カヲル君はそのままでいいから、だからいいんだ」
  カヲル君は。自分は違う。
  自分は正反対に引っ繰り返って、そうして存在してなければならない。
 「でもそれでは鏡のなかにはならないよ」
 「いいんだ、どうせ空想なんだから」
  どうせ自分とは離れられないのが、現実なのだから。
  カヲルは口の端を笑みに象ったままシンジの横顔に見入った。ああ君は。
 「存在するのは、それほど辛いことなんだね。君にとっては」
 「……」
 「夢想のなかに希望を見出して、現実のなかに絶望を抱く。傷つきやすい君らしいよ」
 「……」
 「きっと寂しさはなくせないだろう。それでもいいと、僕は思うよ。君らしさは、なによりも尊くて、貴いよ」
  だからそんなに、自分を責め立てる必要もないだろう。
 「カヲル君」
  カヲルは笑んだ。隣に腰かけたまま、空を見上げた。「君のままで居ることは、鏡の向こうへゆける可能性よりも、きっと稀少で、奇跡で、美しいことだよ。シンジ君」そう語り掛ける。シンジは泣きそうに顔を歪ませて、折り曲げた膝のなかにその顔を隠してしまう。「カヲル君、お願いだよ」
 「そんな言葉、鏡のなかから出て来てから、言ってよ」
  カヲルは笑ったままでいた。


(同じ場所には、居られない)


#カヲシン #掌編

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,エヴァ

約束のさようなら


 どうして?
 頬に触れられてそれが間違いではないと気付く。なんて冷たい手なんだろうと驚く前に冷静に、ああ間違いではなかったけれど間違っていたと思い知る。
なんて冷たい手のひら、なんて赤い瞳、焔が燃えている、赤い海がたゆたっている。カヲルくん、名前を呼んでみてその手のひらが本当の肉質を伴うか試してみる。夢ではないかと疑っている。僕の頬に誰かが触れる、そんなことがあるのだろうか。シンジ君の頬は乳白色のミルクのようだね、いとおしむような声が耳の奥までコーンと音を鳴らす。硝子を小さく叩いたように、コーンとこだまする。割れやしないかと危惧するような、果敢なげで美しくて低すぎない声、声、声。僕の頬はそんなにいいものではないよ、僕がそう言って泣きそうになるものだから、君は薄く目元を細めてキスをする。いつか、こんな風に頬に触れられてキスをされたことがあった。その人とは永遠にさようならをした。此処はどこだろう、あの人と別れた後自分はどうしたろうか、何を望んだろうか、何を忘れたろうか、何を失くしたんだろうか。
 するとふいに目の前の少年が薄い色素の少女に変わる。「あなたが望んだ世界そのものよ」冷たくない、温かくない、そんな言葉。僕は誰もいない自分もいない、そんな場所を望んだらしく、でもキスをしてくれたあの人を彼を確かに知っていて、浅ましくも望んだ気がしたのだ。もっと触れて欲しかった、置いて行かないで欲しかった、そうしたらまた、少女は少年に変わる。「僕は君の中の希望だよ」
 シトと言う名の他人。別の生き物。君はそういう存在だった。そういう存在に僕は出逢った。その存在が僕の頬を撫でて再びのキスを落とす。なんて悲しい味がするんだろう、こんな寂しさを抱えて人は愛をする、寂しい、苦しい、愛しい、やっぱり、美しい、だから寂しい。
 僕と君は違う存在だ、だからこうして手を触れ合って唇を落として会話できて、別個の存在だから、違うヒト、だから。
 それが希望だって、君がまた笑うんだね。
 僕らは哀しくて寂しくて、そうしてキスのできる愛しい存在なんだね。
 君と違う存在で良かった。
 それが例えさようならの約束された何かでも。


#カヲシン #掌編

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,エヴァ

通じた命と


 目の前で少年が笑っている。その笑みは頬を一撫でする優しい風のようで、それでいてどこか哀しさを忘れさせてくれない憂いを帯びたそれだった。
  シンジはその笑みが何ごとかを発するのを聞き取ったが、すぐにその言葉が、単語が、まるで自分の理解できないもので語られていることに気が付いた。待って、と制止した。通じるかどうか考える間もなく、ただ「待って」と呼びかけた。少年は笑みを崩さぬまま何ごとかを語り掛け続ける、シンジは必死になって更に呼びかける。待って、と。君の言うことが、言葉が、僕にはなにひとつ理解できないんだ。だから待って。いま暫しの時間を、猶予を、僕にちょうだい、と。けれど少年は笑う。笑って続ける。シンジは焦る。予感めいたものが胸をよぎる。このままではだめだ。だから待って。少年はやはり、笑う。なにごとかを話し続ける。シンジはまるで通じない言葉に、存在に、更に当惑する。
  そのときふいに、少年は言葉ではなく行為に移した。シンジの両の手を握りしめると、その細い両腕を自らの首元へと招きよせた。そしてその指の一本一本を、ゆっくりと開き、少年の喉元へと絡みつくように、やわくやわらかく、絞殺するかのように、シンジの指先をほどいて絡みつかせてみせた。
  もちろん、シンジは困惑し、制止した。やめて、ちがう、こんなのは違う。こんなことを、自分は望んでいない。こんなことをするために、君と話したかったわけじゃない。君と居たかったわけじゃない。少年は笑う。シンジの耳元で声がする。少年の以外の声。言葉。『それはあなたの敵よ』『それはあなたを傷つけるテキよ』『倒しなさい』『殺しなさい』『それは、ヒトではない』
 『ヒトではない、テキなのよ。みんなの、あなたの』
  そうしてシンジは、意識する間もなく、笑みを浮かべる少年の首に、力をこめていた。
 (ちがう)
 (こんなのは、)
 (望んでなかった)
 「ありがとう、シンジ君」
  時が止まったかのような静寂のなか、確かに聞いた。
  通じないはずの言葉が通じ、
  少年の、渚カヲルという「ヒト」の命が、絶たれた。
  シンジ自らの手によって。
 (通じたのに)
 (どうして)
  この手がその手と繋がれなかったことが、あまりにも残酷過ぎた。
  涙さえ出なかった。


#掌編 #カヲシン

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,エヴァ

星の礫


 今日星屑を食べに行きます、どこへとと言われてもいつか君がいたあの空へとしか言いようがない。そこに僕はいないよ、僕は今君の眼の前にいるよ、君の真っ赤な星を爛々と眺めているよ、君の瞳の中にこそ本当の星礫が潜んで煌めいているのだ。シンジ君はときどきロマンチストだね、そしていつか虚無的でもある。僕の瞳の中になんて世界は広がらないよ、さあその手を伸ばして、その手すらどこにも触れられないから。カヲルが手を握り締めればシンジの頬は林檎の美しさのように光り輝く。艶めいて、愛らしく潤う。一緒に星屑を食べに行こうよ、銀河の果ては膨張して今も広がっているんだ。二人でならどこまでも行けるよ、本当に?そうかな?繋いだ手に鼓動が伝わりそうで儚くて微動だにしない。手のひらが冷たい。カヲルの手のひらは死体のように冷えている。生きてるって確かめたいのに、君の手はこんなに冷えている。シンジはすこし悲しくなった。星屑を探しに行こうという君の手がまるで星のような冷たさだ。指先から爪の先まで凍えているのは宇宙の寒さなんじゃないだろうか、君はすでに宇宙のどこかで僕の知るあの赤い星の星の礫になっているんじゃないのか。シンジは笑えずにカヲルの手を握りしめる。弱く、やわく、優しく。強くなんてできない、そんな風に手を繋いだこと、一度だってない。人と手をつなぐことは、星を掴むよりもきっと難しい。シンジにとってはだ。カヲルくん、どうか星になんてならないで。帰らないで、ここに居て。カヲルが笑う。嘘みたいに笑う。頬は紅潮しないし手のひらは心のようにあたたかくならない。ああこういうとき、この人は自分とは違う生き物だったのだと思い知る。空を見上げた。星は燦々と照り輝く。こんなに美しいのに、こんなに寂しい。月が見えない。美しいなんて言えない。カヲルくん、君の言葉は僕の鼓膜を震わせるけれど、けれどその手が冷たい。不安だ。どこにも行かないで、ここで一緒に、どうか星の礫で窒息死して。

#カヲシン #掌編

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くさびとこころ



平和っていいですね。そう言うのでただ黙って頷きかえすと、でもピッコロさんには物足りないかもしれないですね、そう笑ったりする。頷き返すにも否定するにも心持ちは微妙に揺れ動くのでやはり黙ったままでいた。俺が笑い返すのも頷き肯定し返すのもおかしいだろう、だからと言って、いつかお前の望んだ平和とやらを否定する気にだってなりはしない。ピッコロさん? 上目遣いに伺ってくる。なんでもない、なんでもないのに何か含むようにしか返せない。やっぱりまだ、運命を恨んでますか。貴方の運命を。古い話をしてくる。神との融合まで果たした人物に、魔王に、過去のくさびなど聞き返してどうする。なんでもないんだから、なんでもないまま納得すればいい。お前のなかに、そとに、幸いが存在するならそれでいいだろう。それはまた俺の幸いでもあるのだから。不服だが。なんにも言わないままで、暗黙の了解のように「過ぎたことだ」と。返せばお前は笑う。そうですか、そうですよね。ピッコロさんは、ピッコロさんですもんね。心底嬉しそうにしている。その笑みに救われる心が此処にあることを、お前は幾ばくか知ってるだろうか。これほど不服で、不本意で、そうして全身の総意のような、こんな肯定感が、俺の中に芽生えて息づいていることを、お前が知ることはあるだろうか。なくていい。あったっていい。どちらでもいい。そう、過ぎたことだ。魔王として生まれたこと。悪の限りを尽くし、父の仇を討つために幾としの年月を経たこと。お前に会ったこと。会話したこと。笑顔を向けられたこと。小さな命を想い、庇い、死んだこと。慕われたこと。戦いのなかに訪れる、ささやかでおだやかな幸いが散りばめられた、また幾年月。全てが全て。そう、全てが全てだ。何を恨むだろうか。恨んでいたろうか。笑ってくれただろう。触れた髪の感触。命を思う心。全てお前と共に、俺の中に在ったのだ。お前がくれたんだ。全て、全て。何もかもが、過ぎたことだ。今目の前で平和を愛する、お前のその心に、俺が頷き返さない、わけがない。






(弟子が笑っている今があるなら、自分に課せられていた運命など今更、っていう師匠。)


#掌編 #魔師弟

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めでたしめでたし の あるところ


 そうしてふたりは幸せに暮らしましたとさ。そう言って物語はその扉を閉じる。閉じられた先に何があるかなんて誰も知らない。説明もない。門扉は固くかたく閉じられて、二度とは開かない。幸せに暮らしましたとさ。それで終わり。その先は、語られることもない。

  幸せに暮らすって、なんだろう。何気ない質問だった。お母さん、しあわせにくらすってなに?二人はどうなったの? 悟飯が質問した先、母であるチチは「ずうっとずっと、愛し合って末永く一緒に暮らすってことだ」と答えた。ずっと一緒に暮らして、死が二人を別つまで。永遠に。終わりに向かって。ずうっとずっと。

 「悟飯ちゃんにはまだ分からねえかなあ」

  チチは苦笑いすると、悟飯の黒髪をそっと撫でた。
  それから、幾つものとしつきが過ぎ、悟飯は背も伸び、学校にまで通う歳になった。

 (死が二人を別つまで。永遠に。ずうっとずっと)

  物語の最後のふたりは、そうして暮らしてったという。それが幸せなんだという。
  けれど悟飯は、死が自分と誰かとを別つ経験を幾度となくしていた。

 (僕は物語の主人公じゃない。だからそれは当たり前のことだけれど)

  けれど悟飯は今、幸せだった。幸いの中で暮らしていた。息をしていた。
  物語の終わりの先。めでたしめでたしの次の次。そこに今、自分は立っているんじゃないだろうか。そんな風に感じることが、幾度とあった。

 (結局僕は今、とても幸せなんだってことだ)

  死が二人を別つまで。永遠に。
  めでたしめでたしの、その先の世界。


 「結局お前は何が言いたいんだ?」

  学校帰り、神殿に寄って久しぶりに小さな神様と大きな師匠とに対面した。その折、悟飯がなんとはなしに日々考えていた「めでたしめでたし」について話すと、予想通りというか、師であるピッコロは訝しげな様子で悟飯の顔を眺めた。

 「ええと、何が言いたいとかではないんですけど」

  雲の上に位置するこの神殿はひどく静かだ。風さえ凪いで、音も届かない。だからだろうか、自分の声がいやに大きく響く気がした。
  机越しに椅子に腰かけるピッコロは、ただ静かに悟飯の返事を待っている。

 「そうだな、なんていうか、僕は物語のなかの誰かじゃなくて良かったなって、そう思ったんです」

 「物語か」

 「めでたしめでたしで終わるだけじゃないこの世界が、僕にはいちばんの幸せなんだろうなって」

  最近、そう考えるんです。
  声が空気にそよいで届く。その間に、ピッコロは静かにまばたきした。

 「だってそうじゃなかったら、僕はきっとピッコロさんとこうしてお茶もできてなかったろうから」

  物音ひとつせず。
  ただ悟飯の声と言葉だけが響く神聖な場所で。
  ピッコロは静かに、静かに、その言の葉の一葉一葉を聞き取った。

 「確かにな」

  違いない。師匠の含みを持った笑い方に、悟飯は苦笑した。
  もし、ここがおとぎ話の、めでたしめでたしのあるところだったら。
  恐怖の大魔王は、正義の味方にやっつけられていただろう。
  こんな風に、穏やかな笑い方をして、冷たい水の入ったカップを揺らして、一番の理解者である弟子の目の前で。
  存在しては、いなかっただろう。
  だからやっぱり、悟飯は、めでたしめでたしのあるところでないこの世界で良かったと。
  そう笑ってしまうのだ。


  めでたしめでたしの、終わりの門扉がかたく閉じられていても。
  幸せはただ日常に横たわっている。
  悟飯は、「今晩、夕飯を食べに来ませんか」と。
  笑って幸いを手繰り寄せた。





(めでたし めでたし)

#魔師弟 #掌編

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幸福の席 




「はい、座って、座りなさいー」

  始業ベルの音が鳴り、教師が扉をくぐって入ってくる。講義室の至る場所へ散り散りになっていた生徒たちが、各々の席へと戻ってゆく。自分の席を立たず、簡単な予習をしていた悟飯は、その様子をつぶさに見詰めていた。蜘蛛の子を散らす、の逆回転を見ている心持ちだった。ざわめきが潮騒のように引いては寄せて返す。教師が静かになさいと声を張る。隣の席で、女生徒が黄色い声をひそひそと上げる。(新しいネイルの色が、と先ほどから話題はそればかりだ)後ろの席では男子生徒が宿題を見せろと近隣の生徒にねだっている。悟飯は卓越した聴覚と感覚でそれらざわめきを全身で感じる。

  初めは、落ち着かなかった。こういうさざめきの多い、人の気や騒めきに満ちた場所にはあまり慣れていなかった。全身が緊張して、こわばって、うまく座り続けることも難しかった。今は、そうでもない。慣れたせいでもあるし、これが一般の人々の世界なんだと理解できているからだ。人間は、こうやって騒々しさのなかで色めき立ったり、黄色い声を上げたり、笑い合ったり、ときに衝突しあったり野次を飛ばしあったりするものなのだ。

  長らく「人」の「普通」からかけ離れた生い立ちのまま、「他人」と接する機会を逸してきた悟飯には、そのことがようやく理解できるようになった。
  悟飯の席は決まっている。円錐に広がる講義室の、半ばの席、黒板の正面、中央。一番講義が聞きやすく、ノートの取りやすい位置。いつもそこが、悟飯の席で、定位置だ。講義が重なった友人に合わせて時折場所をずれることはあるものの、基本的に悟飯の席はそこだった。決まっていた。「あんたもほんとう、真面目よねえ」友人が笑って云った。悟飯も笑った。それが僕の取り得ですから。そう返すと「やっぱ真面目よ」肩を叩かれた。

  悟飯の席は決まっている。いつも同じ場所で、時折友人に揶揄されたりからかわれたり、笑い合ったりしながら、同じ場所に座って、講義を聴き、ノートを取る。
  平和の居場所だと知っている。





 「でね、こんど重要文化財に指定されてる地域へ校外実習へ行くんだ」

  終業のベルと共に帰宅した悟飯は、帰りがてら神殿へと立ち寄っていた。その日習った授業を、ノートを広げて、神であるデンデと共有するのがほぼ日課になりつつあった。
  デンデはいつもにこやかに、そして楽しそうにして悟飯の話を聞いている。下界の知識を仕入れられるだけでなく、悟飯の生活の端々にひっそりと住まう、幸福の断片を分けてもらうことが、なにより嬉しいという風にして、悟飯の話に嬉々として耳を傾け続けていた。

 「ぼくもその地域については古い文献を読み続けていたところだったので、とてもためになります」

  デンデは笑ってそう返す。神らしからぬ、まるで普通の子供のするようなくだけた笑みで、悟飯の話に相槌を打つ。「校外実習、終わったらまた感想聴かせて下さいね」

  ここでも、悟飯の席は決まっている。
  神殿の中庭。白のパラソルの広げられた、神殿の色合いに溶けるような、これまた見事な白磁の円卓と円椅子。そこに座るデンデ。その右隣が、悟飯の席。
  意図して決め合った場所ではない。何度か通っているうちに、自然に決まった暗黙の互いの定位置だった。デンデが左に、悟飯が右になり、円卓にノートを広げ、知的好奇心を埋め合うような、無邪気そうな談話を交わす場所。その席。悟飯の席。
  悟飯の席は決まっている。

 「そういえば、ピッコロさんはまだ戻られないんでしょうか」

  ふと、話のちょうど節目のあたり、デンデが思い立ったように呟いた。周りをきょろきょろと見回し、伺っている。
  悟飯もそれは、先ほどから何度かちらちらと考えていたことだったが、かの人の気配は近くにはまるで察知されない。まだ戻る様子はないようだった。

 「どこに行ったか知らないの?デンデ」
 「ええと、一応聞いてはいるんですけど、そんなに長引く用事でもないと仰ってたので、まだなのかなって」
 「そっか」

  かの人が、どこか寄り道をして道草を食うとも思えない。ふたりはなんとはなしに黙って、同時にミスター・ポポの出してくれた紅茶へと手を伸ばした。あち、と少しデンデが舌を出した。基本的に水だけを摂取するナメック星人である彼には、熱湯には及ばずとも、熱いお茶というのはどうにも難しいのかもしれない。ナメック星人って猫舌なのかな。悟飯は上の空で考えた。

 「じゃあ、僕はそろそろ、」
 「あ、もうこんな時間だったんですね」

  それじゃあ、また。悟飯が笑うと、また来てください。デンデも笑った。
  悟飯は、こっそりと、かの人に会えなかった一抹の淋しさを感じながら、神殿をあとにした。






  悟飯の席は、家でも決まっている。

  食卓を囲むとき。リビングでくつろぐとき。眠る際のベッドの場所だって、当たり前に決まっている。

 (当たり前かあ)

  戦いが終わり、世界に再び平和が戻ったときから、悟飯の席は、場所は、一日のずれもなく、不幸の影すら帯びず、決まっていた。定まっていた。あたたかにぬくもって、優しく悟飯をいざなっていた。
  こんな日々を夢見ていた。
  隣に座る人。相槌を打ってくれる誰か。自分の横で広がる笑い声。周囲に流れる、幸福の空気。余韻。自分の座る場所の、その穏やかさ。

 (ああ、こんな日々が、僕の欲しかったものだったんだ)

  その尊さに、その夜、悟飯はひとり、涙した。






  なぜ、泣く必要があるんだ。

  声が聴こえた気がした。
  それは鼓膜からひどく遠く呟かれているのに、不思議と、凛としてまっすぐに悟飯のこころを揺らした。「かなしいのか」と声は悟飯へ問い掛け続けた。

  かなしいからじゃないです。しあわせ、だからです。

  目を固く瞑ったまま、涙に目尻を濡らして、悟飯はそう返す。

 「幸せなら、笑っていればいいだろう」

  理解に苦しむという口ぶりで、けれどどこか不安そうにして、声は続く。

  しあわせでも、涙って流れるものなんですよ。

  悟飯は呟く。けれど口は動かない。音は空気を震わせない。これは、かの人と通じ合った時にだけ出来る、こころのなかでの会話だ。

  ああどこで見てらしたんですか。恥ずかしい。

  悟飯が憮然として呟くと、声の主は黙ってしまう。のぞくつもりはなかった。そしてそう、小さな声で返してくる。悟飯はそれを黙認して、呟きを返し続ける。

  僕、明日は学校休みなんです。

 「それがどうかしたのか」

  明日、またそちらに行ってもいいですか。

 「いちいち許可など必要ないだろう」

  今度はちゃんと、神殿に居ますか?

 「明日は一日居る」

  じゃあ、最近見つけた美味しい滝壺のお水を持って、伺いますね。

 「分かった」

  そこで言葉は、会話は途切れた。

  ベッドのなかの、温もりのなか。ゆるく丸まって、ゆるく息をする。胸の奥がぎゅうと締め付けらのに、どうしてか温かい。幸せでも、涙は出るんですよ。流れるんですよ。誰に言うでもなく、呟く。今度は言葉にする。声にのせて言の葉に紡いでしまえば、それはより一層真実味を帯びて悟飯の耳を震わせる。

  悟飯の席は決まっている。

  明日は、またあの白磁の円卓のもと、左隣にはデンデが座っている。そして自分が座り、その右隣にはかの人が悠然として腰かけているだろう。ミスター・ポポが入れてくれたお茶を飲み、自分が汲んできた水を、白磁の陶器で、ふたりに振舞ってもらう。そうして、次はなんの話をしようか。デンデと顔を見合わせる。かの人は、ピッコロは黙っている。その沈黙は重くない。その黙した言葉は、視線は、確かに自分たちを見詰めていてる。彼はいつだって自分の隣で黙している。そして確かな存在で見守ってくれている。幸せなら笑えばいいと、不器用な言葉をときどき、かけてくれる。

  悟飯の席は決まっている。
  かの人が、ピッコロが隣で自分を見詰めてくれている。







(君には幸福の席がある)


#魔師弟 #短編

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,DB

memento mori




 もし自分が死んでしまったら。

  それまでに何ができるだろうか。悲しむ人はいるだろうか。いてくれたら、少し、いやだいぶ嬉しい。
  残していく人は、数知れないだろう。この手にあまるだろう。あの人は残されてった先にどうしているだろうか。きっとあの人は、ピッコロは自分の幸福を願ってくれている。幸福のまま死ねたらあなたへの愛になるだろうか。そんなことを、生命倫理学の途中に考えていた。その考えは一日中悟飯の頭にへばりついて取れなかった。週末、スクールも休みなので神殿へ泊りがけで遊びにいった。その道中、夕空にきらりと宵の明星が輝いていた。一番星だ。呟きながら空を飛行する。足元には広くて狭い下界が広がる。空は西にかけて藍色のびろうどが敷かれてゆく。太陽が沈む。空中に留まりながら、ただ夕陽がとろりと地平に溶けてゆくのを見守った。神殿に着いたのは日が落ちてからになってしまった。
  更け始めた夜に訪れた悟飯を、神であるデンデは快く迎え入れてくれた。「夕方には着くつもりだったんだけど、今日は夕焼けが綺麗だったもんで、遅くなっちゃった」後ろ頭を照れ隠しのように小さく掻きながら悟飯は云う。デンデは笑った。「分かります。今日の夕陽は格別に綺麗でしたもんね」

  今日は面白いものを見つけたんです。デンデはいつものように好奇心旺盛な風に言った。神殿のなか、地下への回廊を降りていった先。そこには先代の神たちの集めた蔵書がまとめられた書庫がある。精神と時の部屋の構造によく似たその部屋は、果てがないようにただ真っ白く空間が広がって、白磁の書架が整然と立ち並んでいる。「迷子になりそうだから、ここには必ず、ミスター・ポポと一緒にくるんです」神様でもこの際限のない空間は把握しきれていないようだった。それほど広い書庫だった。


 「たぶん、先代の神様たちの記録のようなものだと思うんですけど……」

  書庫の出入口付近には、小さな机と椅子が立て付けられていた。そしてその上には、いくつかの書物が重ねて置かれている。恐らくデンデの読み途中のものだろう。その重ねられた書物のいちばん上、古びて赤茶けた革張りの表紙の本を一冊手に取り、デンデは云った。「これ、なんだと思います?」
  手渡されて、ぱらぱらとページをめくる。表紙の古びた装丁とは反して、中は日に焼けてもかび臭くもなく、クリーム色の綺麗な上質紙が綴られていた。次々とページをめくる。
すると、中には端正な文字ですらすらと、整然としてなにかの単語が羅列されているのが分かった。
  単語はひとつひとつに長尺があるものの、読み進めるうちになんとなくそれが何を示しているのかが分かってくる。
  「これって、名前?」
  「そうなんです、名前が載ってるんです」デンデが答える。「それも、ただ名前が並んでいるわけではないみたいなんです」
  ぱらぱら。めくってもめくってもページは終わりを告げない。見た目どおりならば、すでにめくられるページ数は尽きてるはずだ。本には終わりがなかった。ひたすらに名前が綴られていた。
 「これ、どうやら死んだ下界の方たちの名前が載っているみたいなんです」


  そのあと、時間も忘れて悟飯はデンデとその本について話し合った。なぜこんな記録があるのだろう。どのくらい前から記録されているのだろう。先代の神で記録は絶えているのだろうか。いつまでも終わりのないページ、この不可思議な構造はどうなっているのだろう。ミスター・ポポが夕餉の知らせにくるまでふたりはその本に夢中になっていた。

  「死」についてまとめられた、神の蔵書。いままでに死んでいった人間のおびただしい数の名前。そこにいつか、自分も載るんだろうか。悟飯は思う。神殿のベッドの中だった。ミスター・ポポが用意してくれた客間に悟飯は居た。あの本のことが忘れられなかった。もう一度書庫に行って眺めたい気もするが、夜更けにがさごそと人の家を、ましてや神の住まいを歩き回るのは気が引けた。おとなしく寝台のなかで羽毛の心地よさに身をゆだねる。睡魔はすぐそこまで来ているようで、なかなか悟飯をいざなうことはしなかった。
  そういえば、今日はまだあの人に会っていない。
  どこかへ出かけていると、デンデは言っていた。ここに住まうようにはなったが、ふらりと独り、出かけてしまうことがあるあの人は、ときどきこうして悟飯とすれ違う。
  もしも僕が、あの本に名前が載る日が来たならば。
  あの人はときどき――ほんの気まぐれでもいい。その名前を眺めてくれることは、あるのだろうか。
  考える。考えて、すぐに確信する。あるだろう。きっとあるんだろう。優しい人だから。気まぐれなんてものでなく、垣間見るなんてものでもなく、そっとページを開き、ときどきでも、見詰めてくれるんだろう。孫悟飯の名前を。
  そこまで考えると、なんだかとてもくすぐったいような気分になった。胸が心地よさに踊った。死を想うことで、こんなふうになるのはどうしても不謹慎に他ならないのに、あの人の優しさを、優しい視線を、名前に触れるだろう指先を思うと、みぞおちから食道にかけて、するりと甘さが流れ落ちてゆくような、そんな心地よさが先立つのを止められなかった。
  そうしてついつい眠りから遠ざかりがちな夜を過ごしているうち、寝台から離れた窓辺に大きな影が映った。
  あれ、と思う間もなく、影はするりと窓を飛び越し室内へと入る。常人よりも長身のその人は、まぎれもなく、たった今悟飯が胸に描いていたその人だった。

 「ピッコロさん」

  思わず身を起こし、かの人の名前を呼ぶと、寝台の横へ降り立ったその人は一言だけ、静かに呟いた。「あの本は、そう眺めるな」
  どうしてですか。訊き返すまえに、また呟かれる。「死に浸るな」
  お前は今、生きているのだから。
  上半身を起こしただけの状態で、寝台の上で、隣に立つかの人を見上げる。その表情は、宵闇に溶け込んで見えない。だが声音は分かる。静かだった。静謐で、丹念で、そして優しかった。
 「分かりました」
  悟飯は答える。声が客間に反響する。
 「けれど、もし僕が星になったとき、」
  あの本に名前が載った時は、きっとその名前を撫でてやって下さいね。
  すると、頭上に大きな手のひらが、ひらりと舞って降りてきた。
  躊躇うことなく、迷いなく。悟飯の頭を、その手が撫でる。撫で上げて、髪をすくわれて、前髪ごとくしゃくしゃにされる。
 「撫でるくらい、今、やってやる」
  くしゃくしゃにされた髪のまま、悟飯は茫然とする。
  珍しいこともあるものだ。
  ふふ、笑いが漏れた。
  憮然とした彼の顔は、悟飯には見えなかった。
 「ピッコロさんは優しいなあ」
  星になる前に、あなたを残してゆく前に、
  たくさん、この頭を。その大きな手のひらで。撫でてくしゃくしゃにして欲しい。
  悟飯は心からそう思った。



#魔師弟 #短編

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,るろ剣

ひとになってはいけなかった話

 どうして、人を殺してはいけないのか。

 そんなことを考えてしまう瞬間がある時点で、その人間はなにか、どこかに歪みを生じているに違いない。そんな風に思って、ちがう、こんな疑問、幼子でだって時折考えることだ。そう言い直して、ちがう、そんな疑問、まともな人間が思いつくこころではない。また、自分を追い立てるような言葉を繰り返す。頭の中。俺の頭は、きっとせわしない。「穏やかね、剣心は」そんな風に云われて、苦笑いを返したことの、数えきれない思い。ちがう、君にこの心のせわしなさを見せてみたい。きっと失望するだろう。殺してはいけない理由を知っているのに、殺さなければいけなかった理由に絶望している俺になど、きっと君は失望するだろう。見せてみたい。俺は笑う。「そうでござろうか」俺は嘘を吐く。

 殺す瞬間。

 あまり、血を浴びることはなかった。よっぽどの強敵でない限り、その身に傷を負うことさえなかった。

 殺す瞬間。

 死にたくないと、蠢く声に、ただ刃を振り下ろした。

 どうして、人を殺してはいけないのに、どうして、人を殺してしまえるのだろう。

 幼いような、声が聞こえた。

 そんなこと、俺だって知りたかった。

 どうして、どうして、どうして。そんな呟きを繰り返すいとまさえなかった、少年の自分。子供の分際で、ひとびとのさいわいを守りたいとぬかした、げに愚かしき、人斬りの自分。

 どうして、殺してしまえたの。

 考えることをやめて、殺し続けたの。

 清廉な声が聞こえる。


 このまま人を、殺め続けるおつもりですか?


 はっとする。
 なんとはなしに気付く。


 俺は、ひとになってはいけなかったのだ。

 殺してはいけない理由を知っていながら、殺すことを選んだ自分は、人斬りは、



 人間になどなってはいけなかったのだ。



(それでも、貫かねばならぬものがあった)


#抜刀斎 #緋村さん #掌編

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,るろ剣

生まれたての春を殺す

 春を何度繰り返しても、慣れぬものがある。
 
 笑顔は苦手でなくなつた。浮かべるのすら難しかつたのに、今となつては処世術でさえある。浮かべていれば、たといその場しのぎの不実であつても、おおかたが許される。赦してもらえる。踏み込みすぎねばよろしい。そのための笑顔だ。そんなだから、苦手であることさえ失くしてしまつた。そのことを哀しむ人間は、居ない。己でさえも、ああ些末であると、笑いもしない。微笑み。生きてくための術。あの雪の日に失つたかと思つていた其れが、ただ繰り返す春の先、俺の生きる術にすげ替えてくれる。

 では何が慣れぬものか。

 その笑みを信じてくれる、本物である。

 流れる足の向く先、困り果てた人など星の数ほど居た。ただ草鞋の鼻緒が切れただけの者も居れば、一瞬先の命の行方さへ惑う者も居た。ひとりひとり、ひとつひとつ、そのひとときに触れて、何か助けにはなれぬかと、手を伸ばした。さうすると、不審に思ふ者さへ居れど、たいていは、おずおずと己が手は握り返される。その結果、礼を云ふ者も、罵声を浴びせ追ひ立てる者も、十人十色、種々さまざま。

 そのなかで、につこりと、花開くやうに笑みかける人間が、居る。

 おそろしきことに。

 こんな、流れるだけの人間を、心から信じきるにんげんが。

 その笑みは、空恐ろしい。心底から、我が身のふるまいを信じ切っている、その笑みに恐怖する。
 大袈裟か。しかし、この手の温度を、その人間は「やさしい人なのね」と握り返した。俺はそうだろうかと、困り果てて空々しき笑みを浮かべた。やさしさを感じ取るのは、その人間がやさしいからだらうと、俺は「あなたが優しいのです」さう言葉にする。

 すると、その人がまた微笑む。「あなたに逢えて良かつたわ」

 俺はまた戦慄する。

 いけない。良くない。

 こんな男に、そんな笑みは、よくない。

 罰の意識が昇る。胸の底が軋む。

 こわいのは、笑みではないと気付く。

 其れを見ないふりをする。

 俺はすぐにその手を離す。俺はすぐにその温度を忘れようとする。

 知つてしまつたのは、いつかこの手で壊すかもしれない恐怖と、いつか喪うことを理解した後悔だ。

 やさしさはこわい。
 えがおはなれない。

 雪の日に、あの静かな雪の降る日に、俺はまた、この手のひらのなかのものを、みんな失う。

 春が来ない。何度も来るのに、めぐりめぐる季節が、春を呼ぶのに。


 俺の頭上には、雪がちらつく。


#抜刀斎 #掌編

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,るろ剣

やさしさの、通り雨

 ととと、と瓦屋根が軽快なリズムを奏でた。雨だ。雨が降り出した。

 剣心はこれまた軽快な足音を立てて、とたとたと廊下を駆けて行く。「洗濯物、洗濯物」歌い上げるように、慌てた素振りの横で呟く。廊下を抜けた先、庭には洗いざらしの敷き布と、神谷道場の人間の肌着や細々とした洗濯物が隙間なく干されていた。久しぶりの晴れだったから多めに干したのだ。そこに、急なにわか雨がやって来た。台所で野菜を洗っていた剣心は、雨どいを叩く小さな音にすぐに気がつき、ととと、と、同じような軽い音を立てながら庭へと駆けて行った。

 軒下に、ほとんどが乾きつつあった洗濯物たちを避難させる。最後の敷き布を縁側に置いたときには、急いでいたせいか少しのため息が漏れた。先ほどまでは晴れに晴れていたのに。白い布生地からは太陽の香りがまだほのかに残っている。大気には湿った風が徐々に徐々に浸透しつつあるのに、この洗濯物からは暖かな日差しのぬくもりが残っているようだった。
 あたたかい、と、縁側に腰を下ろし、敷き布に鼻先を埋めてみて、剣心はひとりごちた。そのまま板張りにごろりと横になってみる。敷き布にくるまってみる。珍しいことをしているな、という自覚があった。何かに甘えているような素振りだった。胸がすぅ、とほの暖かにぬくもる気がした。あたたかい。この家は、あたたかい。

 雨の音が、ぱらぱらと。続いて止まない。

 真っ白な敷き布に顔を埋めたまま、目を閉じてみた。瞼の裏には、雨の音ともに、真っ暗な情景が浮かび上がっていた。
 
 そこは太陽の沈みきった森の中だった。墓石が見える。るろうにをしていた、何年か前のとある場所の光景だ。流れるままに身を委ね、ふと見つめた情景だ。常緑樹の生い茂る森の奥に、ぽつねんとひとつの墓石がそびえていたのだ。誰ぞの墓か、参った形跡もなく、打ち捨てられたように荒れている。太陽は沈みきり、灯りは剣心の持つ提灯のみだった。その灯りも、墓のたつ森の奥、陰の隅までは映し出せない。不気味といえば不気味だったのかもしれない。けれど剣心には、その光景はむしろ、ただうらさみしいだけの、小さな哀切に満ちた場所に思えた。寂しそうだったのだ。打ち捨てられたことがか、こんな場所に死して取り残された死者のことがか、何かにかは分からない。ただひとつ、さみしい場所だと、そう思ったのだ。
 
 剣心は歩みを止めて、墓から少し離れた場所の木の根に腰を下ろした。今夜はここで眠ろうと思った。
 剣心の眠りは浅い。夢見が悪いわけでも休めていないわけでもないが、なんだか、こんなさみしい場所でなら、その浅い眠りも、打ち捨てられた墓場の悲しさと共に、泥のように深く沈み込んで眠れるような気がした。

 刀を抱きしめ、そっと目を閉じる。そうして少しして、頬にひとしずくが当たった。雨だ。小雨が降ってきた。それほど強くはない。強くなりそうもない。小さな通り雨。

 ぱたた、と、森を打つ。木の葉を叩く。その滴が、剣心の頬に落ち、十字傷を撫でて滑って、顎を伝って、落ちていった。

 途端。

 なにか、声が聞こえた。

 驚きで瞼を上げると、少し寝入っていたのか、剣心は縁側で敷き布にくるまって丸くなっていた。ゆるゆると起き上がり、声のした方を探す。探して、気付く。ああ、道場の方だ。弥彦の声だ。稽古の途中なのだろう、威勢のいい掛け声を発している。続いて竹刀の、ぱーんっ、という、薪を割ったような小気味のいい精錬な音が響く。薫の声も聞こえる。
 剣心は縁側で半身を起こしたまま、しばしその音に聴き入る。雨の音が、そのなかに混ざる。ぱらぱら。弥彦の掛け声。薫の声。雨の音。瓦屋根を叩く、雨の音。

 ふと、夢に見た墓場の情景が思い返される。

 あそこは、とても寒かった。暗かった。寂しくて、悲しい場所だった。そのかたわらで、自分が眠っていた。果たしてあのとき、自分は深く眠れていたろうか、もう思い出せない。ただそこは、とても自分に似つかわしい場所に思えた。こんな風に、あたたかいと呟いて、太陽の香りのする、洗いざらしの敷き布にくるまれて眠るような、そんなことは考えもしなかった。思いつきもしなかった。そんな日々の中で、ただ流れていた。そのはずだった。

 それが今、自分は。

 ここに帰ってこようね、と、ひとまわりも離れた娘に微笑まれた。一度はさようならをした場所だった。それでも、生きようという心と共に、剣心はこの家に、この場所に、このあたたかな場所に、帰ってきていた。それが全てだった。自分は、帰ってきたのだ。ここに。帰っていいと、ここに居ていいのだと、微笑まれたのだ。

 それは果たして、赦しにも似たような。

 雨の音が続く。弥彦と薫の掛け声も、まだまだ止みそうにない。
 剣心はもう一度敷き布に顔を突っ伏し、そして離れると、取り込んだ洗濯物を丁寧に畳み始めた。その頬の十字傷には、涙のような雨のひとしずくは、伝わなかった。


(やさしい記憶をつくってゆく)


#緋村さん #短編

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呟き

サイト稼働だ~

ついに過去作をほぼ全部アップすることに成功したぞ~~~!!

二次創作から4年ほど離れてきたので、ここらでリハビリをしていきたいと思い設立&建設工事をしたわけですが、これも友とフォロワー様に勇気をもらえたおかげです。改めてこの場でお礼を述べさせてください。ありがとうございます。

もう長いことTwitter(とまだ呼び続ける)にこもってるので、こうして日記みたいな長い記事を書くことすらなくて、「昔って何書いてたかなあ……」とぼんやり考えてみたんですが、益体もないことしか書いてない。そんな記憶しかない。
ガラケーサイト時代なんて、若さゆえの過ちで愚痴まがいのことまで書いてた気がする。生き恥……サーバーごと消えたと思うのでまあいっか……。

ブログって昔からある文化で、今はだいぶ潰えている文化だけど、いいものではあった気がします。
なぜかというと、「誰かの目に留まることを想定した、自分の言葉で綴った思いの文章」を書くというのは、思いのほか頭を使うし、そしてSNSで発散する言葉ほど直通ではないというか、そのままではなくて、「生っぽくない」というか。自分なりの、自分自身による校閲が入っている気がしてます。

こうやって自分の言葉を綴ること自体が、いろんな意味でのリハビリになりそうな気もするので、ちょいちょい書いていきたいな、と思う所存。

とりあえず、昔の自分、結構文章書いてたな、と感慨深くなった日でした。あと湿気がむわってしてて暑かった。10月なのに……。

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案内

BOOKMARK

※敬称略・順不同

電脳南蛮船|http://dennan.net/
kiss The Moon|http://kissmoon.net/
巣箱|https://pipi.noor.jp/pp/
zacos|https://zacos.lsv.jp
うさぎパラダイス|https://usa.pupu.jp/
SALAMI(薄味)|http://salami.mmz9.net/
古唄|http://hururu.moo.jp/
スイートピーの恋|http://haruka.saiin.net/~piccolo/
浪漫エトランゼ|http://etranger00.web.fc2.com
side-A|https://78b.daa.jp/sidea/sidea.html
ジプシー|http://speena37.web.fc2.com/
2no|https://2nomo.tumblr.com/

『Thank you FFXV』  https://ourffxv.wixsite.com/thankyouffxv

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,銀魂

春と修羅


2013年10月に発行した土沖。

原作のいつかから数年を経た未来捏造話です。
土方×沖田メインですが、一部神威×沖田の描写を多く含みます。
また、特定のキャラの死ネタ・無理矢理・暴力・血・女装ネタを含みます。
(といってもぬるめです)
直接的な性描写はほとんどありませんが、15歳未満の方は閲覧をお控えください。
以上よろしければどうぞ。



────────────


心象のはいいろはがねから

あけびのつるは くもにからまり

のばらやのぶや 腐植の 湿地

いちめんの いちめんの 諂曲(てんごく)模様(もよう)

(正午の 管楽よりもしげく

琥珀のかけらがそそぐとき)


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脣星落々

(明け方の星々は消えゆき わたくしはそれが哀しい)
 


 

 絶対に向いていないだろう接客業というものをやり始めて早一年。やっぱり向いてねえわという今更の当たり前な確信以外に得られたものといえば、一冊の詩集ただひとつだけだ。やけに古ぼけたそれは古書店に置かれている代物なだけあって古い。しかも汚い。そしてかび臭い。あまり触りたいと思わせない、そういう雰囲気を醸し出している。実際に匂っている。けれど、何故だか題名が気に入っていて、ろくに読みもしないのに、度々、その表紙を撫でては見詰め、そして読まず、やはりただ見詰めている。知識も教養も浅はかで、知的好奇心とやらも底辺の俺にはその一冊の価値など知るべくもないが、店主いわく、「レア」らしい。どうやらその界隈では高値で取引できる代物のようだ。
 実は、これはまだ店の品物であって俺のものではない。職権乱用でちゃっかり私物化したのである。真選組の頃から職権濫用は俺の十八番だ。得意技だ。いや、土方さんの方がその頻度としては高かったかもしれないが、どちらにしろ、あの真選組という組織は、不正とか権力の乱用とか支離滅裂とか、とにかくしっちゃかめっちゃかのやりたい放題の素敵に最低なバラガキ共の巣窟だったので、なるほど別に詩集を一冊ちょろまかしたことくらい可愛いものだろう。と、俺は自分で自分に納得する。俺ってすごく賢い上にほんの少し馬鹿だ。バランスがすごい。
 勿論店主は怒った。が、ほとんどが店にはいないので、結局なんやかんやで有耶無耶になった。あの店主もなかなかに阿呆でちょろい。誰かさんみたいだ。そういう阿呆は、嫌いじゃない。都合がいい俺の思考も嫌いじゃない。
 
 店主は江戸の町に古くから古書店を経営していた。だが、ここ数か月に持病を悪化させたらしく、今は人里離れた場所で療養している。大切な店を俺みたいな素人に預からせて良いのかと訊けば、「近藤からの預かりものだ。信用してるよ。どの道、この店もこの体も、この町だってもう長くはねえさ」とのことだった。やだねえ年寄りは自暴自棄でいけねえや、と思いつつも、その全てに頷けもした。
 
 まず第一に、この店はもう終わるだろうこと。客も来ないし、売上なんて月に二、三冊で御の字状態。加えて云えば、物理的にもボロクソだ。いつ倒壊してもおかしくない程度には、店そのものがもう老朽化を極めている。なのでこちらも、下敷きになって死ぬことのないよう、いつでも逃げる用意はできている。
 そして第二に、店主の余命もそう長くないということ。幕府の元暗躍者で、真選組も幾度かその手を借りていた人物ではあったが、色々無茶の多い奇天烈な人生でも送ってきたのだろう。まだ初老だってのに、内臓もなにもが既に再起不能だ。「まあ派手で悪くねえ人生だったよ」とのことなので、俺がとやかく云うつもりも毛頭ない。本人が満足しているのなら、そのままポックリ、逝ってしまうのもまた華だ。
 けれどそれが。
 本当にそれが、正しいことかどうかなんてのは。
 あの日、あの人の首を目にした俺が、何を判ずることも出来やしないし、したくもないことだけれども。
 
 首。
 
 それは、第三の理由だ。店主がどうせと謳った、もう長くもなく、先もなく、展望すら望めない、老い先短い糞のようにどうしようもない理由そのものだ。
 江戸の町は、もう長くない。
「違うな」
 嘘を吐いた。
 
 江戸の町は、長くも短くもない。
 
 もう、“無い”。
 
 指先で詩集の表面を撫でる。なぞる。装飾はなく、質素で、悪く云えばつまらない見かけ。紙の種類なんて知るわけもない。だから、ザラザラしているだとか、黄ばんだ色が優しくて哀しくて情けないだとか、そういう、素人のありふれたような感想しか抱けない。分からない。中身だって知らない。読んでいない。本の価値も計れない。知りたくもない。重みなくて、薄くて、だけど手放せない。汚くて黄ばんでてかび臭くて、本当なら出来れば触りたくもないような。
 
 それでも、それでも撫ぜる。なぞる。愛しさは指先から溢れて涙の染みを作る。俺はこの本を愛せない。だって中身を読んだこともないのだ。でも、手放さない。手放せない。ちゃっかり私物化して、何度だって無意味になぞって、さすって、頭なんか俯けて摺り寄せてみたりして。そうしてその首を項垂れて、目を瞑って、待つ。いつも。
 いつも。
 すると、近い場所から、遠い何処かから、ごとん、重たい音がするのだ。響くのだ。
 俺は首をもたげて、ゆっくりと緩慢に、音の方向を見詰める。そこには期待と焦燥と、絶望とが入り混じっている。いつだって待っていて、できることならもう二度と見たくもない光景が、広がっている。俺はそれを信じている。知っている。もう二度と見たくないと知っていて、それでも信じて見詰める、そういう光景が広がっていると知っている。
 逢いたかったのだ。その光景の先に、否応のない別れを確信すると思い知っていて猶、それでも俺は、逢いたかったのだ。
 ただもう、単純に。
 俺はあの人にもう一度逢いたかった。
 
 江戸の町はもう無い。其処には「東ノ都」という新しい都が在る。そして都を統べるのは江戸幕府ではない。一年前に討幕は成され、新政府が樹立した。幕府は解体され、真選組も無くなった。
 そして俺が視線を辿る先には、あの日落とされた近藤さんの首が、いつだって其処に、転がっている。
 
 本当は死ぬつもりでいた。目の前で刑が執行されるとき、俺はその場の全員を殺して近藤さんを助けるつもりだった。他の人間なんて簡単に塵にも芥にも肉塊にさえもできた。簡単なことだった。あの人の首を落とされるくらいなら江戸の人間全員の首を転がす方が何万倍も良い。俺はそちらを選ぶはずだった。選んでいたはずだった。けれど、近藤さんは笑った。笑って云った。躰を拘束されて首を差し出して、大きな背中を丸めて、頭上に刀が振り下ろされるその瞬間まで、笑っていた。俺に云った。「もういい」と。
 
 もう、殺さなくていいんだ、総悟。
 
 泣き出しそうな笑い方だった。泣くほど目を見開いていたのは俺なのに、慟哭の手前に居たのは俺だったのに。近藤さんは、ごめんなァ、と笑った。俺のせいで、たくさん辛かったろう。ごめんな、総悟。
 もう、哀しんでいいから、苦しんで、いいからな。もういいからな。お前はもう、殺さなくて、いいから。ごめんな。
 俺のこと許さなくていいから、
 だから、死なないでくれ。生きてくれ。
 
 言葉が終らぬうちに、刀が振られて、赤くなった。でも、聴いていた。近藤さんが何を云ったのか、俺は聴いていた。大きな身体から、陽だまりのような匂いと時々カレーみたいな匂いとが混在して無闇に愛しく大好きだったその躰から、俺の全てで世界だった、その笑顔の箱舟の首が、落ちて、意外にも軽く、呆気ない音がするところまで。
 俺は、聴いていた。視ていた。
 
 だから、本当はその瞬間に全員殺して俺も死ぬつもりだった。助けられないならそうする他するべきこともないと確信していた。そのはずだった。
 そのはずだったのに。
 でも、俺は聴いていた。確かに。言い終わらない言の葉の最後まで。全部。
 だから死ななかったし、殺しもしなかった。
 全部やめた。
 
 *
 
 理性的に理由を述べれば、そんなものは簡単で、その場で誰を殺しても俺の死傷率が上がるだけだったから。理由なんてその程度だ。そして殺さずに逃げに徹すれば、近藤さんの望みも叶えられる。その確率が上がる。だから誰を許したとかでもない。絶望したとか希望だとか、そういう感傷めいたものは一切含まない。そうじゃない。そんなものはどうでもいい。近藤さんが最期にそう望んだ。理由なんて、ただそのひとつでいい。それだけで俺は拘束を振りほどき、逃げて、生き延びた。我ながら一途だと思う。そして不誠実だとも思う。
 真選組は解体され、攘夷志士たちの憎悪の矛先として真っ先に槍玉に挙げられた。猶予も何もない、公開処刑が始まった。局長の首を筆頭に、隊長の座に居る者、その他隊士全員一切合切の例外も認めず漏れず、軒並みその首を、順繰りに。
 志士どもは浮かれていたし、興奮もしていた。大衆も、時代の転換期だとか喚いては、見世物小屋の虚像でも見るように、画面越しのドラマでも視聴するかのように、胸を高鳴らせて待ったなしの連続の処刑を観賞していた。祭りとそう変わりないのだろう。そんなものだ。人の生き死になんて。だったらやっぱりあのとき全員殺しておけば良かったと、俺はあの詩集の先、あの人の首を見詰めるたびにそう思う。でもそうするとやっぱり近藤さんの本意とは違ってしまうので、これがいわゆるジレンマというやつか、と毎回毎回歎息するのだ。いい加減学習したい。
 
 逃げたあとは迅速だった。俺がではなく、山崎がだ。隊士それぞれ救えた分の身柄をどうにか自由にし、新政府の手の及ばぬ場所まで逃がす。そういう必死の暗躍を、山崎と土方アンチクショーの二人が画策していたのだ。その結果、俺は江戸の町外れに隠れるように存在していた例の店主の元へ逃げ込むことになり、今もこうして、古書店の店員として身分を隠した生活を続けている。
「しかしよくもまあバレねえもんだよなァ。ていうか他の奴らはとっくに江戸から出たってのに、なんで俺だけまだ江戸?」
「副長の指示ですので、俺からは何とも……。あと、バレないのは沖田さんの変装が完璧すぎるからですよ多分。すごいですよね、なんかもうほぼ別人ですよ。詐欺ですねこれ」
 ある日、店に顔を出し、定時の連絡を入れに来た山崎が云った。そして、俺の今の姿を見遣って、「やっぱり詐欺ですね」と引き攣った笑みを浮かべている。俺もまたその視線の先を負い、自らの姿を、今着ている着物に改めて意識を向けてみた。そうして歎息も何もせず、ただなんとなくむかっ腹がたったので、目の前の地味な黒髪の頭部を殴打しておいた。
「いっでええええ」
「ジロジロ見てんじゃねえやザキヤマがよォ。鑑賞料とんぞ」
「いやでも本当にそこまで違和感がないのも逆に凄いというか……あ、やめて殴らないでお願いします刀仕舞って下さい隊長」
「もう隊長じゃねえよ」
 苦笑いされる。
 俺がこういう皮肉を云うと、こいつはいつも、こうして困ったように笑う。
 そして俺は、意外なことにこの笑顔が好きで、そう思う自分のことが嫌でたまらなかったりした。
 こんな恰好に慣れつつある自分のことも、嫌でたまらなかたり、した。
 後者はまあ、当然のことでもあるのだけれど。
 
 女装なんて定番すぎるもの、却って見つかりやすいんじゃねえの。俺は初めの日に訊いた。すると山崎は云いにくそうに眉間を歪めて眉尻を下げて、「副長、が」そう漏らした。その一言を聞いただけで全てがどうでもよくなった。あの野郎いつか絶対復讐してやる。同じ目に合わせる。
 いや、というか、近藤さんも姉上も喪ってしなったしまった今、何もあいつを生かしておいてやる意味なんてないんじゃないか? そうも思考した。でも結局その答えはノーだ。姉上と約束した。近藤さんが望んだ。ならば俺はもう、あの人たちのいない世界で刀を振るわない。そんな無意味なことはしない。俺はあいつを殺してやらない。なるほど、その方が良い。断然。
「だからって俺ァ女装を容認した覚えなんてねーんだけどな」
「現実に一年ものあいだ世を欺けているわけですから、結果オーライっすよ」
 さすが副長ですね。山崎が笑う。先ほどの笑い方とは何もかもが違う。期待感の滲んだそれだ。嬉しそうで、誇らしそうで、ほっとしているかのようだ。やめとけよ、ザキ。よっぽど云ってやりたくなる。もうあいつは“副長”じゃねえし、お前の期待は叶わねえよ。絶対に。
 あの人がいないんだからもう真選組なんてものは帰ってこねえよ。
 よっぽど、そう諭してやりたくなる。
 
 夕刻も過ぎて、陽は既に傾ききっていた。この店には窓が少ない。本が日焼けすることを避けるためだが、そうなると、僅かでも陽が落ちてしまえばあっという間に薄暗くなる。だから少し早めに壁に備えられた灯りに火を入れてやらなければならない。が、今日は山崎が居る。勘定台の目の前に円椅子を引っ張ってきて、俺の目の前で何やら書類と格闘している。「何見てんの」と問えば、「えーと」と言葉を濁す。先ほどからこの調子だ。客もいないし、暗くてつまらない。女装のことを突かれた上にこの微睡むような眠たい静けさが、なんかもう疲れる。今日はもう閉めるべきかもなァ。しかし、目の前の地味男は帰る気配もない。仕方がないので、立ち上がり、壁に設置されているランタンに火を入れてやることにした。
 
 女の恰好でまず何に驚くって、その恐ろしいまでの動き辛さだ。袴と違い、裾が広がらないし胸部は必要以上に圧迫されるし、そのせいで呼吸は浅くなるし刀を下げる帯すらない。廃刀令の布かれた今の世で仮にも女の様相をした奴がすることではないと分かってはいるが、これではあまりにも心元なさすぎる。はっきり云ってしまえば命を狙われているような立場の人間のくせにこんな動きにくい恰好を日がないそいそ着込む自分が馬鹿馬鹿しくすらなってくる。そろそろ俺も江戸から離れていいんじゃねえの。そうすればこんな茶番染みた恰好しなくて済むんじゃねえの。何度も云ってきた。しかし、土方への伝令役としてやってくる地味男もとい山崎ジミーは何も云わない。
「俺は言伝(ことづて)を伝えにきてるだけなんでなんとも……」だと。阿呆か。馬鹿にしているのか。だからお前は地味男なんでィ。
「まだジミーの方がマシだったんですけど!」
「聞こえてんなら早く帰ってニコチン野郎に伝えてきやがれ」
 真っ先に暗がりになる北向きの壁に最後の灯(とも)りを落とす。すると、書架と書架の随(まにま)に、ぼんやりとした黒い影と影との懸け橋が出来て連なった。ランタンを逆光に、俺の影もまた色濃く伸びて、その橋に溶け込み繋がった。そしてそれは橋の様相に似てはいても、その手前に人の形を取り持って保ってはいても、明らかな黒い落とし穴だった。床に落とし穴が出来ていた。それは人の形をした暗がりの落とし穴だった。ぽっかりと口を開けたそこに、誰ぞ落ちてゆくのだろうかと、誰ぞ深みに嵌り踠(もが)くのだろうかと、そんなことを考えた。考えて、その答えを知っている自分にまず驚いて、そしてその答えそのものには何も、驚かなかった。
 それよりもなによりも、影に見たその姿かたちが、いつかの夕焼けの向こう、姉上がこちらに振り向きその掌をひらひらり振っていた、あの姿に、その形に近かったこと。
 そのことの方が、よっぽどに驚くべきことで、なによりも深く、戸惑うべきことだった。
 ふらふらと、眩暈がした。倒れるかと思った。
 危ういな、と悟った。
「沖田さん」
 背の高い棚の並木をすり抜けて、灯りを点けて廻る俺に山崎が切り出した。
「ようやく用件云う気になったのか」
「……オミトオシ、ですか」
 また、苦笑い。その気配。
「この書類、てか、証言とかなんか色々まとめてしまって、確信を得てからにしたかったんです。で、終わったので、云います。伝えます」
「フーン、で?」
 山崎は円椅子に浅く腰かけてだらしない顔のままこちらを見遣っている。俺は灯りを点け終え、その目の前へとするすると移動した。女の様相の歩幅は小さく、まるで本物の女のような小さな移動の仕方だった。
 山崎は無言でいる。自然、俺がその瞳を顔を見下ろす形となる。視線を重ねれば、なぜか照れたように奴は視線を右へ左へくるくるさせた。訝しげにしてみれば、「洒落にならないくらい似合ってますね」と苦笑いされた。こいつは本当に、困ったような顔ばかり俺の前で晒す。「はあ?」と剣呑な声を出してやれば、意を決した様に居住まいを正し、真っ直ぐに視線を絡ませてきた。やっと本題を喋る気になったらしかった。
 それでも、その顔は依然として困ったようなそれのままで。
 まるで苦虫を噛み潰し、そして自分が苦虫を噛んでいることを理解していて、それでも、承知しながらも呑み込んだような。そんな不可思議に情けない顔を、困ったような苦り顔を、晒していた。
「新政府が傀儡の志士どもで成り立っていることは、すでに沖田さんもお察しの通りかと思うんですけど、」
 くぐつってなんでィ、とは訊かないでおいた。(俺だって空気の一つ二つくらい読める)
「その中枢には江戸幕府時以上に天人の息がかかっています。いや、人間なんていない、と云った方がむしろ正しい。攘夷なんてのは全くの建前で、あの戦はどう考えても天人による明確な侵略戦争でした。志士たちが討幕という切願を成就させたわけでもなく、その志士たちだって、どこまでが維新を志した本物たちだったか知れたもんじゃないですから。志士どもは傀儡で、新しい時代の礎と呼ばれる現政府も傀儡です。実態は天人たちの独裁制度の開発。その準備。そこまでは、いくら沖田さんでももう気付いてますよね」
「お前いまさりげなく俺を貶しただろ? はー、まあ、実際そんなところだろうとは思ってたけどな。あの桂の姿も、高杉の影すら見えなかったんだ。おかしいって思わない方がおかしいだろ」
「ていうか、大戦を生き延びた主だった維新志士どもの姿が欠片もないってのに、あれだけの統率力と武器保持力を有していた時点で、本来はあり得ないことなんですよね。本当に、おかしいと思わない方がおかしい」
「でも、お上はそうは思わなかったんだろ」
 それで、その結果がああだったんだろう。
 将軍一家も幕府重鎮も、そういう市井を信じる意志とかなんとか、そんなので皆殺しの憂き目にあったってわけだろう。
 その憂き目に、近藤さんの首が落とされたんだろう。
 あんな、聞きたくもない軽い音で転がって。
 未だに俺の視界のなかで、赤く晒されて転がされて。
「……おかげでこっちはいいとばっちりだっつーんでィ」
「とばっちり……とは云わないですけど、――でも、俺も悔しいです」
 もう少し俺が早くからうまく立ち回れていたなら、あいつらだって、あの人だって、助けられたはずなのに。
 俯く。
 その頭を、俺は撫でてはやらない。慰めの言葉すら降らせてもやらない。こんな恰好をしていたって、俺は女ではない。俺の声は依然としてテノールだし、低くて、がさついていて、柔らかくもない。拳などもってのほかだ。骨ばって硬いし、いつだってそれは、そぼ濡れたように重たく、赤い鉄の匂いさえするのに。言葉も腕も指先も、殺す以外に役立てた試しがないのに。
 そんなのものは、無理だ。
 だから俺は黙っていた。黙ってその旋毛を見下ろしていた。目が細められた。どこかしら、侮蔑の色を含んでいたかもしれない。そうやって嘆くことのできる、目の前の黒い頭を羨ましく思っているのかもしれない。もうやれることも出来ることもやりたいことも何もかもを失った自分にとっての、最大の嫌味と見えたのかもしれない。そうやって、こいつはまだ希望とか期待とか後悔とか、人間らしい、暖かな心地の場所を求める、人間らしいこころとか行為とかをやめたりしていない。そういう現実が、目の前の旋毛から見えた気がした。
 自分の目は姉上と同じ色だ。臙脂に少し朱の混じった、夕暮れの地上の色のはずだ。けれど姉上のそれは、この室内のランタンのように飴色の暖色で優しくて、俺のそれは血液のように生温い。差異。同じ色をしていて、違いすぎること。今の俺の目は、ランタンの飴色に透かされていてさえも、ただ冷えている。ふうん、他人事のように目の前の男の嘆きを傍観している。あの人がいたなら、こんな瞳の色も、目の細め方も、思い知りはしなかったはずなのにな。
 じゃあやっぱり、とばっちりだな。
 なぜか、苛立ちが先立った。
「そんで? それがどう土方の野郎の言伝に繋がるわけなんでィ?」
 俺は男の葛藤や後悔や憐憫を一切合切省みず、勝手に会話を続けさせた。もう本当に暗いのだ。気温も下がってきた。どうせ客も来ない。さっさと店を閉めてしまいたい。
 すると、意外にも山崎は、違います、とのたまった。
「あの、今日は言伝が目的じゃなくて、ほとんど俺の私用で来たんです」
「……ってーことは俺の女装姿を拝みにきたのか。おい誰か! 警察呼んでください!」
 なんでそうなるんですか! 山崎が狼狽しつつも俺の声を制しに立ち上がった。その勢いで円椅子が転がる。大きな音がした。
 物理的に手で口を塞がれ、黙らざるを得ない。
「じゃなくてですね! 俺が今日来たのは、例の“首落とし”について知らせたいことがあったからなんですってば!」
「ふみおほひ?」
 もごもごと鸚鵡返しに返す。
 安堵したように、ほっと山崎が息を吐いた。
「そうです。“首落とし”です」
 江戸の町がなくなり、東ノ都が正式名称として広まったころ、“首落とし”という辻斬りまがいの横行が流行った。流行った、という過去形は相応しくなく、現在進行形でその横行は続いている。
 凶行内容は、その名のままに「首を落とす」ただ一点。老若男女、大人子供一切合切仔細構わず、ひと晩にひとつ、首を落とす。
 以前、常連の客とだらだらと長話をしている際に訊いてみたことがあった。「なんで首切り、じゃなくて首落としなのかね?」すると客の男は云った。「切るだけなら、なにも遺体の横に転がしとく必要はねえだろうからねぇ」
 なるほど、と思った。横たわる遺体の傍らに、落とした首を添えておく。断絶してこその首。斬るだけでは足りないということらしかった。殺すのなら、一瞬の太刀で頸動脈を裂くのが何より手っ取り早く済むと理解していたので、その遣り口は実に不合理というかめんどくせえという一言に尽きたのだが、首を落とす、なんて鬼のような所業、技巧、それこそ俺や彼の白夜叉以外に可能な者がいるのだろうか。そのときはそちらの方に興味が湧いたものだった。
 まあ。
 あの白夜叉は、勿論そんな真似はしなかっただろうけれども。
 きっと、俺と同じく「めんどくせえ」の一言で一蹴し、鼻くそを飛ばすのがオチだったろう。
 なんでか懐かしくなって、ふと、小さく笑った。
「それで、その首落としがなんだってんでィ」
 まさか俺の身を案じて忠告に来ましたとかじゃねえだろうな。暗にそういう意味を籠めてじとりと睨み付けると、山崎はぶんぶんと首を横に振った。
「沖田さんの心配する暇あったら自分の首の心配しますよ!」
 それはそれでムカつく。
「どうしろってんですか……。そうじゃなくて、俺は、その首落としの犯人について私用に参ったんですよ」
「おめえが犯人だったってこと?」
「もう話の腰折るのやめましょうよ無駄にページ食っちゃって話進まないじゃないですか!」
 山崎があんまり喧しく喚くので巻きで参ります。
「メタ的発現もやめましょうよ隊長……。はい、巻きですねわかりました。分かりましたよ……。いやもう、なんかもうさあー……、……もうヤケあんパン食ってていいですか? っていいのかよ……もう帰っていい?」
 山崎の話は一言でまとめるとこうだった。
「沖田隊長が犯人じゃ、ありませんよね?」
 俺は一度云ってみたかった台詞を、まことしやかなる嘘のように、笑顔を添えて返してみた。
 
 おめーのような勘のいい地味男は嫌いだよ。


────────────

 Ⅱ
 
 まず答えからいこう。
 俺は首落としとやらの犯人ではない。
 近藤さんが首を落とされたあの瞬間から、俺は人を殺すのをやめた。だから人っ子一人老若男女一切問わず、絶対に誰も殺してはいない。これは確信できる。だって近藤さんの望みだ。願いだ。俺が無下にするわけがない。それは世界から酸素がなくなるのと同じくらいあり得ないことで、そして同じくらい死への距離を示している。俺は「生きろ」と云われ「殺さなくていい」と云われた。望まれた。酸素をなくしては死ぬのは当然だ。だったら殺す理由もない。もとよりあの人の劒となるためのこの刀だったのだ。腕だったのだ。それなら、今更誰ぞの首など落としたところで、俺にメリットもくそもない。そんなことしている暇があるなら、まだ土方の野郎の首を落とす予行練習でもしている方がましだ。有意義だ。あと真面目に店の掃除してるとか。
 だったらば。なぜ山崎はあんな失礼千万なことを言い出したのか。
「太刀筋に、というか、斬り方に覚えがあったんです」
 あれは確かに、組内の誰かのものだった。そして記憶が確かなら、それは隊長位の人間のそれだったはずだ、と。
「なら、俺がいちばん怪しいな」
 お前現場に居たの? というツッコミはあえてせず、俺はただ素直に、なるほどなあと肯いた。
 隊長位で生き残っているのは、俺を除いて一人として居ない。十数名の隊士と一番隊隊長、副長と監察。このわずかな者たちが、あの大所帯の暑苦しくて男臭い、それでも確かな温もりを宿して帰る場所として存在していたはずの、あの組織の中での唯一の生き残りなのだから。
 然らば、山崎が俺を疑ったとしてもなんの矛盾もない。
「いやでも俺は犯人じゃねえんだけどな」
 誰もいない空間に向かい静かに独り言ちた。
 冤罪をかけられた腹いせの鉄槌をひと通り食らったのち、山崎は例の苦笑いと共に帰って行った。もうとっくに陽は落ちてしまっていた。
「この家は落日が見えないのが惜しいですね」そう言い残していったので、なんだかフラグぽくて、今夜こいつの首が落とされねえといいんだけど、と思った。
 帰る間際。円椅子から立ち上がり、それを書架の奥の定位置に戻しながら、山崎が云った。「沖田さん、」
「副長のこと、見ててあげてくださいね」
 藪から棒だな、と俺が勘定台の上の古本やら会計冊子やらを片づけながら溢せば、「そんなことないですよ」と返してくる。
「ずっと前から、俺はそう願ってました」
 俺は黙り、その背を見遣った。
 オイルが尽きかけているのか、ランタンの火がくゆり、曲がり、書架と、その奥に背を向け佇む山崎と、照らされた俺との影をぐにゃり、揺らした。揺さぶった。ゆらゆらと、揺れる黒い穴がひっそりと仄めかしていた。囁いていた。
 この穴へ落ちて来い。
 そう、嘯いていた。
「一年前、あんな形で真選組が終ってしまう前から、ずっと、ずっと思っていましたよ。俺」
 床は飴色に染まる。ベッコウアメのように甘く、琥珀のように透かしてまろく、しかしどこか濁っていて、だから温かそうで、優しい色をしている。壁も床板も、書架の側面さえ、そんな色で染めてしまう。染めてゆく。山崎の体でさえそうだった。夜の帳が落ちたのに、宵闇がもう近いのに、壁際の隅には忍び寄ってさえいるのに、それでも仄めいて明るく、優しく、照らすのだ。夜だからこそ見ることのできるその色合いだった。この眺めが好きだった。
 けれど、影は必ず伸びて落ちる。特にこんな夜の、こんなランタンの燈火ひとつでは、猶の事。
 影は穴を開いていた。黒くぽっかりと、口を開けて、落ちてくるのを待っていた。
 俺は、勘定台にひとつ取り残されたあの詩集に、触れようか触れまいか、しばし惑った。
 山崎の影が動く。飴色に照らされた顔が振り返る。
「あのとき死に損なったと思っているのは、沖田隊長だけじゃあないってこと、……忘れないで下さい」
 それが、誰のことを指すかだなんて。
 聞きたくもなかった。
 訊かなかった。
 
 しかし疑問は残る。それでは、毎夜毎夜を彷徨っては、誰ぞの首を、差別もせずに斬り落としていくその輩とは果たして何者なのか、とか。山崎は何を言えずに帰って行ったのか、とか。
 そう。山崎は、あの地味でお人よしの莫迦な監察は、結局何も言えずに帰って行ったのだ。
 私用だと云っていたくせに、首落としなんて体のいい言い訳の話題を並べ、本当の題目は一言も伝えられずに帰っていきやがったのだ。
 あんなにバレバレで、あいつも腕が落ちたんじゃないのかと思う。
「あいつも大概阿呆だな」
 そう呟いて、最後の店じまいを整えた。少ない窓にもきちんと錠を落として、会計誌にまとめた精算済みの金銭を丁寧に金庫に仕舞う。俺もなかなか書店員が板についてきやがった。向いてねえわとほざいた同じ口先で、そんなことを嘯いてみた。
 はあーつかれた。
 ほんとうに。
 つかれたって。
「……疲れたっていってんのに、今日は千客万来だな」
 手元のカンテラひとつが唯一の灯りで、とっぷりと暮れた夜の気配に、一言、放って穿った。
 牽制のようなものだった。
 その間にも、身体を屈め、勘定台の下に設置された戸棚を開く。中のものを取り出す。
 暗がりの向こうから、声が響いた。
 明朗に笑う、快活に殺す、兎のように愛らしい声音の、男の声が。
「ひどいなあ、お客様だよ。神様扱いしてよ」
「誰が神様だってんでィ。仮にお前が客だとしてももう店じまいだわコノヤロー。申し訳ございませんがお引き取り遊ばせお客様」
 軽口を叩きつつも、ゆっくりと姿勢をとる。身体から余分な力を抜き、しかし背筋は張り詰め、指の先まで意識を構える。取り出した愛刀を、すぐにでも抜けるその姿勢をとる。
 暗い。声だけが明確だったのに、姿は一片ですら難しい。
 さすがは夜の兎だ。うざいことこの上ない。
「本には興味ないんだ。俺は強い奴だけ欲しいから」
「だったらドラ〇ンボールの世界にでもいけよ」
 すると、東側の窓辺に影が横切った。「それってなに? 食い物の話?」無邪気にも訊き返してきやがった。そのうえ余裕の歩幅でこちらへ進み、カンテラの光が届くその位置まで悠然と現れ立ち止まりやがった。憎たらしくも愛くるしそうな、そんな笑顔を貼り付けて。
 あー、めんどくせえのが来やがった。
 本当に心の底からそう思う以外なかった。
「用件は?」
「特には。この町もだいぶ入りやすくなったしね、観光がてらに来てみて、そのついでかな」
 町の名前は変わったくせに、吉原の処遇とかむしろ以前に戻ってんだからなんか笑っちゃうよね。からから、けらけら笑う。風車を回すかのように笑う。風なんて吹かせてもないのに勝手に回って笑う。
「それにしてもさあ、なくなったんだってね、真選組。やっぱ自然淘汰ってあるんだと感激したよ俺。弱い奴はやっぱ無くなってくし、死んでくんだよなあ。その証拠にあんたは生きてるっぽいし」
「俺が強いっていってんのか?」
「それを証明して欲しくて来たんだよ」
 ああつまり。
 嫌な予感がばっちり命中してしまったことに、どうにもこうにも嘔吐感がせり上がってくる。生理的に気持ち悪くなってくる。興味のないままごとに無理やり参加させられる幼児の気分だ。どうでもいい賛辞に罵声が飛び交う観衆の気分だ。
「殺し合いのお誘いに」
 お断りです。
 
 *
 
 そういうわけにもいかないらしかった。
 こういうとき、権力を傘にきるよりも、実力と物量で物言わせる方が結局はいちばん適格に効果的だなと感じざるを得ない。そういう点では、その両方を振りかざしていた俺のいつかの所業こそが、効率よく且つ最高に効果的だったのだと云えるだろう。
 そしていざ実際に自分が振りかざされる側になれば、それはもう堪ったもんじゃないということも不覚ながら十分に理解した。
「俺今なら何枚でも処罰書書けまさァ」
「今更書くような機会もないよ」
 それもそうだった。
 利き腕を踏みしだかれる。筋を踏みつけられたことで、指先に力が入らない。刀は既に床に放られ、俺の体も床と抱き合っている。やはりこの恰好での戦闘は無理があった。全然動けねえし、抜刀するのが精一杯とか。だめだ。負けた。土方殺害が決定した。
「自分より弱い奴には用はねえんだろィ。とっとと殺すか退くかしろよ。重てえんでィ。腕が折れる」
 俯せに床とハグした状態で、肩越しに相手を見上げる。そういやこいつなんて名前だっけかと思うが、思い出せない。右腕の感覚がなくなってきた。めりめり、みしみし、嫌な音がしている。やっぱり折るつもりなのかこいつ。明日から仕事出来なくなくなっちまう。店主にどやされるなあ。あ、殺されるのか。どっちだ。なんでこいつは動かないんだ。
 カンテラはとうに吹っ飛ばされ、明かりも灯りもない。暗い宵闇で、暗順応した視界だけを頼りに男を見上げた。見上げ続けた。しかし反応がない。腕が痛い。背骨も痛い。折られた肋骨も痛い。依然として反応がない。応答もしない。なんなんだ、なにしてんだこいつ。
 痺れを切らし、というかこれ以上の苦痛の継続に耐えきれず、残る力を振り絞って、不審な音をたてる肋骨を制して、勢いよく体を捻った。男をねめつけた。睨み上げた。
 すると。
 ぽかんとした顔で。
 俺の右腕を踏みしだき、背骨を膝で抉りながら。
 男は虚を突かれたような、幼い顔つきをして。
 きょとり、首を傾げた。
「……ああ!」
 そしてひとつ、大きく首を上下して頷いた。その背後でおさげが愛らしく揺れた。
 は?
 意味が分からず、意図も分からず。
 だが、訝しさと不審に問い掛ける間も、その逡巡さえも与えられなかった。
 そのまま強引に前髪を掴まれ、無理やりに首を逸らさせられた。ぐえっ、と蛙が踏みつぶされたかのような、くぐもった醜い声が漏れた。喉奥が変な形になる。首が折れそうになる。気道が塞がれ、呼吸ができなくなった。ひゅっ、と隙間風のような音が聞こえた。目の裏の奥が、ちかちかと爆ぜた。苦しい。いきができない。
「かはっ」
「そういえばアンタさ、なんでそんな恰好してるの?」
「……ッ」
「ああ、答えられないか」
 まあいいか。
 そう云うや否や、男は人の口を自分のもので塞いだ。
 乾いていたのは自分のもので、男のそれは、人の血の(ていうか俺の血の)おかげで滑っていた。湿っていた。
 ぬるい温度で、口づけられていた。
(いみっ、わかんねー!)
 酸素の出入口も塞がれ、気道もよじれ、だんだんに意識が遠退きかける。触れるだけのそれとはいえ、あまりの不躾と非道さに、厭きれと怒りばかりが湧き出た。朦朧としているのに、感覚だけが鮮明だ。なんでこいつ接吻してんだ。殺すんじゃなかったのか。せめて腕と背骨を自由にしろ。首が折れる。死ぬ。きもちわるい。くるしい。むり、いたい、しぬ。
 しんじ、ま、
「――――っぷは!」
 一斉にすべての拘束が放たれた。盛大に床へと倒れこみ、痛みに軋む背骨と腕とを痛まぬ位置まで丸め込んだ。自由になった気道へ目掛け、多すぎる空気が運ばれた。当然のように咳き込む。酸素があるのに息ができない。視界が滲む。涙が出てくる。畜生、屈辱だ、殺してやる。ぶったぎってやる。
「て、めえ」
「うん、決めた」
 男がひとりで首肯している。知ったこっちゃなく、俺はひゅう、ひゅうと、浅い息ばかり何度も何度も繰り返す。だのにうまくいかない。嘔吐いて、涎が溢れて顎を伝った。整えようとしているのに、必死に胸を上下させているのに、女の着物が圧迫してくる。邪魔してくる。食い込んで、余計に苦しい。なんだってこんな恰好してんだ俺は。土方殺す。絶対殺す。目の前のくそ野郎も殺す。いや殺されるのは俺だったんじゃなかったか、くそ、思考が定まりやしない。鼻の奥が熱くて痛い。つらい。鼻血でんじゃねえのこれ。
 男がなにか云っている。「ねえ」 うるせえ黙れ。
「俺のこども産んでよ。ちょうどよく女の恰好してるしさ」
 こいつぜってーばかだぜったい脳みそうさぎ以下だ。
「くそ野郎が、婦女暴行だぞ……」
「あ、女なわけ? やっぱり」
「んなわけねえだろ! しょっぴかれてえのか‼」
「じゃあ婦女暴行じゃないじゃん。ならいいでしょ」
 ていうかもうあんた警察じゃないよ。
 真選組なんて、もうないんだよ。
 くるくる、からから。
 かざぐるまを、まわしたみたいに。
「おとこは孕まねえだろうが!」
 左腕で、放られた刀の柄をとる。そしてそのまま、抜身のそれを背後へ振り上げる。体ごと刀を振る。太刀などないほど、無茶苦茶に、振り上げる。
 切っ先は笑顔の先を掠め、確かに、夜の兎の頬を裂いた。暗がりの白と黒の視界のなかでさえ、鮮烈な赤色が、ぱっと咲いた。散った。床に、卓上に、散乱した本に。飛び散った。散逸して、赤い絵を描いた。
 けれど男は笑っていた。笑みを象る唇が、赤かった。
 俺の血だった。
 背筋が泡立つのを感じた。
「じゃあ、猶更でしょう」
 大丈夫だよと、男が明朗に欹てる。
 たとえ男だとしても女だとしても、どっちでもさ。
 どのみち同じことだよ。
「ちがう、」
「だって、それじゃあ、なんでそんな恰好してるの?」
 女じゃないんでしょ?
 
(女じゃ、ないんですよ)
 
 だから俺は、姉上の代わりになんかなれません。
 ぜったいなりませんし、
 なってもやんねえ。
 
 いつか自ら口にした、その言葉が。思い出されて、何度も何度も、耳の奥で残響して。こーん、と、無機質な音をたてて。こだまさえしないのに、繰り返し、繰り返して。自分の言葉が、単語が、声が、音が、なんどでも、耳の奥で。
 頭のなかで。
 いつだって。
 いつだって、否定してと喚いている。
 哭いている。
 
 じゃああの人はどうして俺を抱いたのだろうかと、
 本当はいつだって考えている。
「殺せばいいんだよ、簡単でしょう。こんな服着てるから、できないんじゃない」
 はやく殺してしまえばよかったんだ。
 夜兎が笑った。組み敷かれて見上げた先に、仄暗い笑みが在った。


────────────


 Ⅲ
 
 土方さんに初めて抱かれたのはとある春の終わりの夜だった。腐臭のする夜で、雨が降っていた。眠たくなるような、泥濘(ぬかるみ)のような花の匂いがしていた。雨が降れば世界は匂いを増す。恐らく大勢の人間が知っていることだ。そのとき俺は、土方さんの黒髪を見上げながらその匂いを嗅いでいた。花が死んでいく匂いだった。狂い咲きのあとの、死の匂いだと知っていた。一昨日終わった姉上の葬儀を思い出した。どこか遠い知らない場所では、死者の眠る霊安室を「薔薇の別荘」と呼ぶらしい。その薔薇は、果たして狂い咲きのそれだろうか。死臭と腐臭と、泥濘のような匂いを充満させたそれだろうか。そんなことが気になった。躰が揺さぶられていて、変なところに変な違和感があった。意識は散漫で、感覚も暈けていて、痛みだけが確かだった。こんなことをして、この人は気持ちいいんだろうか。痛くないんだろうか。辛くないんだろうか。珍しく、心配のようなものまでした。悔やんでいるのだろうに、悲しんでいるのだろうに、自分で傷口を広げてどうするのだろうと、やっぱりこの人莫迦だなと。そう思えば、この痛みもそれほど重要ではないのかもしれないとさえ思えた。
「俺は女じゃありやせんよ。姉上でも、ねえんですよ」
 そう伝えた。確かに伝えた。「だからだ」と答えた声も、言葉も、確かに聴いた。
 慰めにならないからこそ、この人は俺を抱くのだろうと、そう思ったのだ。
 
 女だから抱くのではない。姉上の代わりだから抱くのではない。そういう了解を交わした。それくらい信じていてやるつもりだった。
 葬儀が終わって、躰を半ばなし崩しのように許して、それからも真選組は在って、俺の日常と土方さんの日常は続いて、あの人の笑顔も続いた。奪われた恨みも隠した妬みも、いつしか収束して、穏やかな日々へと替わった。赦せたかもしれない、そう思った。あの人は懺悔だって贖罪だってしてみせない。そんなまやかしは望まず、臨まない。それが嬉しかったのかもしれない。口先は相変わらずに「ころしてやる」と伝えていたが、そんな気ももう無くなっていた。幸せだったかも、しれなかった。あの夜嗅いだ春の腐臭も、常に香る指先の赤も、いつまでも忘れられなかったし、どこに居たって鼻先を掠めていたけれど、それでも俺は、手に入れた日々を慈しむまるで人間のようなこころを持てていた。近藤さんが笑っていた。土方さんを、俺は赦せた。それだけでよかった。姉上が死んだ日のように、いつか全部死んでしまう日がくるなんて、そんなものは知らなかった。知らないふりと見ないふりをした。
 あの人の首が落ち、全てから逃げた夜だった。殺すのをやめた夜だった。逃げ延びた廃寺で土方さんと落ち合った。そこでまた、抱かれた。二回目だった。「俺は女じゃありやせんよ」もう一度訊ねた。女にするなと、代わりにするなと制した。土方さんの頬には血がついていた。その頬を撫でてみた。冷たかった。冷えていた。
 土方さんは何も云わなかった。外ではまた、雨が降っていた。
 俺はその日、殺すのをやめた。
 けれどその日、俺は目の前のこの黒く寂しい男を、再び殺そうと思った。
 
 寒さと不快感に、一旦手放しかけた意識が引き戻されていく。
 瞼を上げれば、目の前には桃色の髪を散らした夜兎がいて、俺に覆い被さっていた。挿入こそ既にされてないにしろ、下半身には変わらず異物感が広がり続けていた。
 孕めと云われた。冗談ではないし、というか孕めるわけがない。普通に考えて無理だ。俺はどう足掻いたって男だ。俺の切れ切れの返答も待たず、そんなものはどちらにしろ同じことだよと、男が笑った。同じなわけがない。第一お前が今挿れてた穴だってまったく別のところにあるまったく別のものだろうが。分かってんだろ。其処は、女が男を受け入れてくれる優しい場所なんかじゃないって、知ってるんだろう。似ても似つかなくて其処はただの排泄器官でしかなくて、其処はただ、あの莫迦な人を更に寂しくさせる虚しくさせる、そういう無意味な場所でしかないんだと。分かっているんだろう。違う。分かっていたのは俺だ。だめだったんだ。赦すだなんて、そんなことをしてはいけなかったんだ。俺は赦してはいけなかった。あの夜、女のような真似を、姉上の代わりみたいな真似をするべきではなかった。土方さんに抱かれてはいけなかったんだ。あの男を赦したりなんか、幸せだったかもなんて思ったりしては、いけなかったんだ。姉上の死をいつまでも抱えて苦しむべきだったんだ。約束したのに、誓ったのに、姉上と約束したのに、貫くって約束したのに。それなのに、貫く場所も貫く刀も、護りたかった人でさえ、ぜんぶ、亡くしてしまった。喪ってしまった。死んでしまった。俺のせいで。
 春の終わりの匂いがする。花が死んでく匂いがする。雨がそれらを色濃く彩っていく。狂ってく。土方さんの汗の匂いが混じる。俺の吐き出した精の匂いが混じる。きたない。狂ってく。雨の音がする。終わってしまった記憶。
 俺は間違えたんだ。俺が間違えたんだ。
 俺が間違えたから、近藤さんは死んでしまったんだ。
 
 女ではなかった。姉上でもなかった。ただ近藤さんを護る劒でありたかった。けれどもう、近藤さんはいない。俺はもう人を殺さない。近藤さんがそう願った。俺は女ではない。土方さんは俺を代わりにしたりしない。信じていたはず。ほんとうに? だったら、どうして。
(女でもない。もう人殺しにもなれない。護る劒でさえない。だったらば、俺は)
 一体、俺は、
 誰なのか。
 頭がいたい。腹がいたい。足がいたい。腕がいたい。むねがいたい。涙が止まらない。なにもわからない。なにも考えられない。いたい。いたい。
 ふと、ゆらゆらと揺蕩(たゆた)う視界の端で、なにかが見えた。あの詩集だった。中の詩が、文字の羅列が、こちらに開かれていた。それらを掠め見た。「まことのことばはうしなはれ」視界が滲む。涙がうっそりと溜まり伝う。読めない。めいいっぱいに目を瞑り、涙を絞り落とす。振り絞る。もう一度、「ああかがやきの四月の底を」「はぎしり燃えてゆききする」指を伸ばして、その詩のその文字に、触れた。
 
 おれは ひとりの 修羅なのだ
 
 カンテラごと勘定台を吹っ飛ばされたときに落ちたものを、万年筆を、俺は掴んだ。そしてそれを怯みも躊躇も一切せずに、男の眼球へと振り上げた。
 男は目を瞠り、咄嗟に左手で薙ぎ払う。その隙をついて、持てる力の限りを以て男の剥き出しの急所を膝で蹴り上げてやる。予想したとおり、寸でのところで男はそれを回避し、俺の上から退(の)いた。にやり、俺は虚勢で笑ってやる。眼球も急所も潰せなかったが、意表は突いてやった。そんなもんでいい。「ざまあ」
「ふふ」
 夜兎も可笑しそうに笑った。お前は笑うなムカつく。
「やっぱ面白いよネ、アンタら人間って。特に強い奴らの方は」
 にこり、微笑まれる。
「るっせえんだよ、強姦魔が。女の着物なんか着てなかったらお前なんか瞬殺だったんだ、長生きできたことに感謝しろィ。今からぶっ殺してやるからそのイチモツぶら下げながら念仏唱えてやがれ発情兎の下種野郎が」
「へえ、殺すの? さっき殺さないってうわごと云ってたのに」
「俺は莫迦じゃねえからな。もういいんでィ、そんなのは」
 あの人みたいに。
 あの、寂しくて悲しくて、涙で濡れてしまった、鴉の濡れ羽色の男みたいに。
 俺は優しくないし、莫迦じゃない。
「近藤さんは確かに殺さなくていいって云った。生きろって云った。けどそれは、別に“殺すな”、じゃあねえからな」
 笑ってやった。未だ万年筆を握りこんだまま、俺は痛む四肢を無視して腰を上げた。そして視線を走らた。探し物は勘定台の向こう側だ。一足飛びに向かうには少し遠すぎる。そして女の着物ではそれは難しい。邪魔だ。ならば、ほとんど意味を為していない着物などはこの際脱いでしまっていいだろう。脱いで、男にでも投げつけて隙をつくるか。そして走るか。愛刀の元へ。人を殺す道具の元へ。
 算段。闘う算段。殺すことを考える、笑い方。
 それでいい。
「あれは、俺に選べって言葉だったんだ」
 だったらまずは、テメーをぶっ殺すことを選んでやりまさァ。
 口角が上がる。笑いが止まらない。それは向こうも同じなようだ。お互いにくすくす笑ってやがった。薄気味悪い空間だ。暗闇で明かりさえないのに、性の匂いも血の匂いも生き物の匂いがどこまでも色濃くてやまず、だからか互いの存在が不思議と明瞭だ。きもちわりい。いみわかんねえ。ああ、可笑しい。
「ああもう、おっかしいなあ。アンタやっぱり良いよね。強い奴は好きだよ。うん。好きだなあ。でもやっぱ、孕ませられそうにはないネ?」
「最初っからわかりきってたことだろうが」
 そう答えて、手の中の万年筆を投擲(とうてき)した。
 
 ごめんなと笑ったのは、最期だったからだ。殺さなくていいと云ったのは、きっともうずっと長いこと、そのことを後悔していたからだ。近藤さんは、俺に人を殺させてしまったことをずっと後悔していたのだ。
 俺を武州から連れてきて、真選組に入れて、人を殺させてしまって、たった一人の姉まで喪わせて。挙げ句、自分の最後を押し付けることになってしまって。それらすべてを、あの人は後悔していたのだ。そんなものは全部単に俺の選んだことであって、後悔も責任も俺だけが所有するものであって、決して自分が関与して嘆いていいようなものじゃないと分かってはいても、優しいあの人はずっと、ずっと、後悔していたのだ。自分が死ぬその直前まで。
 俺を心配していたのだ。
 俺を愛してくれていたんだ。
 だから笑った。笑って云った。遺した。
 生きてくれ。殺さなくていい。もう、いい。
(幸せに、なってくれ)
 その首が落ちる、そのまたたきの瞬間まで。
 笑って。
 だったら、俺は。
 その気持ちを無下になど、絶対にしない。
 
 投擲して直ぐ、手筈どおりに着物を脱いで投げた。帯は解かれていたしほとんどが肌蹴て袖を通しただけの状態だったから、さして手間もかからなかった。突然の投擲物を避け、そしてそのあとすぐに視界を覆った何かを男は薙いだ。その隙を突き、走る。ぶっ倒された勘定台を跳躍して跨ぐ。着地と同時に床に転がる愛刀をかっさらった。腰や躰の奥の違和と痛みに顔が歪んだが構わない。構うことでもない。こんなものは無視できる。背後を振り返りつつ、刀を構えた。鞘はないが抜刀の構えに入った。くっそ腰がおもてえ。足がいてえ。なによりさみぃ。今何月だと思ってるんだ下着一丁って阿呆か完全に黒歴史だわ。
「……殺すのかな?」
「殺すぜィ」
 ふふ。また、笑う。その笑みで分かる。ああこいつも根っからの同類だ。けれど俺とはまったくの異属だ。ぜんぜん違う。同じ匂いはしても、同じ色をしていても、同じではない。こいつは選ばない。選ぶ猶予もいとまもそんなのものは何もなく、生まれた瞬間に選ばさせられた生き物だ。それに殉じる赤い生き物だ。護るものさえ、貫く約束さえない。同じじゃない。
 でも、俺は、有る。俺は自分から選ぶ生き物だ。俺は自分から、赤くなる生き物だ。
 俺は選ぶ。俺が選ぶ。それが俺の幸せなら近藤さんは笑って許してくれる。背中を押してくれる。あの言葉の意味は、そういうことだ。
 
 俺は、ひとりの修羅となる。


────────────


 Ⅳ
 
 雨の音がする。優しい音だ。春の匂いがする。腐ってゆくそれだ。土方さんは俺を掻(か)き抱(いだ)く。素肌ではなくて、濡れそぼった着流しで、ああこの人雨に打たれてきたなと分かった。屯所の門の下、真っ暗闇の雨雲の下、手に持つ行灯(あんどん)の灯(あか)りだけが、飴色に俺の指先とこの人の横っ面とを照らし出している。
「風邪、引きますぜ」
 手を伸ばして頬を撫ぜてやった。無言だった。掻き抱く力だけが強かった。言葉を喪ったのだろうか。どこに落としてきたんですかィ。どこに殺してきちまったんですかィ。無言。雨の音がする。俺も濡れていく。しとどに濡れそぼってゆく。隊服はもともと黒くて、暗くて、夜で、濡れると余計に暗くなっていって、ああ、夜に溶けてしまう。そう思う。けれど、仄かに飴色の、行灯の灯(あか)りが、ひかりが灯(とも)る。優しくて甘やかで、春の腐食に溶け込むあかり。溶けてしまう。雨に、春に。
 思ったらば、泣かないでくだせえよと。そう云うしかない。今度は頭を撫ぜてみたら、少し反応があった。
「雨だ」
 ああそうですか。
「雨なら仕方ねえでさあ」
 春が終わって、姉上の葬儀が終わって、あの春の夜の、雨の音さえ静まって、終わって、そして初夏が訪れた。その夏も終わって、秋がきて、それも終わって、死にゆく季節が到来した。冬。冬はみんな死んじまいますね。土方さんに云えば、「俺ァどの季節も大概好きじゃねえ」と返ってきた。
 四季の方もアンタなんかに好かれたらたまったもんじゃねえでしょうよ。笑ってみた。優しい笑い方になってしまった。そのことに驚いた。土方さんも目を瞠っていた。
「お前は夏生まれらしくねえよな」
 どういう意味かは分からなかったが、とりあえず殺しとこうかなと思った。
 可笑しくて愉しかった。
 そういう嘘と戯れ(ざ)合いとが、いっとう好きだった。
 言葉など要らないと、思うくらいには。
「山崎ィ、洗いざらい吐いちまいな」
 前回訪れてからきっちり一週間後。いつも通りの時間帯に訪れ、いつも通りに控えめに店の扉を開いたその男に、俺は開口いちばんそう云ってやった。きぃぃ、と控えめに開いて猶、扉は歪に侘しい音をさせる。立てつけが悪いとかでなしに、それはただ単純に、年季と寿命とを伺わせる音でしかなかった。
 そろそろ終わりが近い証だ。
「な、んですか、沖田さん。藪から棒に」
 狼狽しつつも、山崎は店のなかへ入ってくる。また、あの困った笑い方をしていた。
「俺的にはこの場合出てくるのは棒じゃなくて蛇だと思うんだがなァ」
「なんか、あったんですか?」
 流石に察しはいい。だがずれている。
 それとも意図的にか。
「俺にはなにもねえよ。あったのはお前にだろ」
「俺だって別に、特になにもないですよ。そうです、今回はちゃんと言伝(ことづて)ありますよ、副長からの指示で、」
「山崎、」
 言葉を遮り、途切れさせる。山崎の肩が揺れた。「あれ、」そこでふと、今気付いたかのようにその眼を瞠目させる。「隊長、今日の服、」
 それさえも俺は云わせなかった。
「この前云おうとして云えなかったこと、今云え。吐け」
「いや、俺ちゃんと云ったんじゃないですか、首落としが横行してるって、」
「それは世間話だろ。おめーの本題じゃなかったはずだ」
 沈黙。肯定と、首肯の意味の沈黙。無言。
 こいつは基本的にお人好しだ。あの人たちと同じだ。だから肝心なことに嘘が吐けない。優しくないふりができない。突き放すこともできなくて、結局は自分が泥沼に抱え込んで苦しむことしかできない。そういうものしか選べない。つらいときにつらいと云えない。話して、放してしまいたいものがあっても、抱え込むことしか知らない。
 莫迦なのだ。みんな。
 男臭くてむさ苦しくて、息も詰まるほど優しい場所の、確かに在った温かな帰る場所の、そういう真選組というあの人の作った在り処の、其処に居た人間たちの。
 そういう莫迦なところが、嘘みたいに熱くて臭くて喧しいところが、優しいところが。
 俺はとても好きだったのだ。
 だからこの、目の前の地味な監察の優しくも不器用な嘘を、俺は暴いてやるしかない。
 だって俺は真選組一番隊隊長沖田総悟なのだから。
「黙るってことは肯定ってことでいいよな?」
「沖田さん、でも、」
「土方の野郎か?」
「……」
「土方の野郎がやってんだな? だからお前、見ていろとか云ったんだろ?」
 観念したように、山崎はゆっくりと首肯した。
「……土方さんは、」
 もう、限界なんだと、思います。
 最初から。ずっと前から。
 あの日あのとき、あの瞬間。
 俺の背後で、あの人の首が落ちて赤くなってくのを見詰めてしまった、あのまたたきから。
 ずっと、もう。
 山崎が嗚咽を漏らす。膝を落とし、左腕で乱暴に顔を覆う。拭う。「俺には、なにも」
 勘定台の奥で円椅子に腰かけながら俺は云った。お前は悪くねえだろ。土方さんが阿呆だっただけだ。お前のせいじゃねえよ。ぜんぶが莫迦なだけだ。悪いのは世の理不尽で、つまらないのは人間の基本だ。お前のせいじゃねえよ。
 誰も、悪くねえよ。
 腰かけて、勘定台越しに山崎の嗚咽を聴いて、扉の向こうの静かな町を思う。喪われた姉上の滑(すべ)らかな指先を思う。近藤さんの髭の感触を思う。なにもかもが鮮明で、だから暈けている。きっといつか忘れる。一年前に終わった世界とか、俺から姉上を近藤さんをそして俺自身でさえも奪ってった男の涙の温度とか、その男を思って躰を赦した俺のこころとか、いつか江戸の町で嗅いだ団子の匂いとか、軒先に死んでいた蛙の表面とか、隊服の着心地とか、一日も同じでなかった空の色とか、チャイナ娘が激昂した理由とか、地味な眼鏡のフレームの形とか、万事屋の旦那がこぼしたいやらしくも良い感じの笑い方とか。
 あの雨の匂いとか。
 春の夜の感触とか。
 いとおしさとか。
 戻らない日々を、扉の向こうの陽々(ひび)に思って。
「俺がやる。だから、お前は黙ってあの野郎の居場所だけ吐いてけ。あとは夜の動向の案内な」
 袂をたぐり、煙草を取り出した。銘柄を見詰め、しかし開封もせずにそれは懐に入れてしまう。襟を整え、立ち上がった。女の着物ではなかった。煌びやかな帯もなかった。だから立ち上がれども、髪飾りは揺れない。どこにもない。袂に花は描かれない。どうせすぐに赤くなるのだ。花は否応にも咲いていく。だからもう、女のものなど着ない。店主にはもう伝えた。一年間有難うよ、世話になりやした。もう、此処にも戻らない。
「別にもう先なんざねえんだ、構いやしねえよ」
 江戸っ子の心意気だねえ。笑い合った。
「土方さんが、首落としてんだな?」
 山崎は黙っていた。
 
 *
 
 優しい記憶は、なぜか秋から冬にかけてに多くある。鮮烈に美しいそれなら夏にだって春にだってあるのだけれど、不思議と柔らかで、寂しくなるほど切なくなる優しい記憶は、いつも何故かしら秋から冬にかけての記憶に集中する。秋晴れだったり秋雨だったり、金木犀が薫っては曼珠沙華は赤く散らばっていたり、そうしていつの間にか茶色く落ちて枯れていたり。崩れて、気付いた時には木々も裸で、寒くて、冬服を着ていて、マフラーが温かい。暖房が温(ぬく)くて、小さく丸まって、それが苦しくなるほど安らかだ。夏に生まれたけれど、夏は苦手だった。好きだったから苦手だった。姉上の横顔が祭りのぼんぼりに照らされている。赤く明朗に輪郭が浮き彫りになっている。その隣に黒色の男が髪を揺らして立っている。屋台の喧噪が遠くに響く。姉上が笑っている。俺は小さくて人の波間に流されそうだ。その手を近藤さんが引いてくれた。迷子になるなよ、総悟! 笑っている。笑顔が赤い灯りに照らされる。雑踏。足音。鼈甲飴(べっこうあめ)を買ってもらった。手を繋いでいた。四人でいた。夏の記憶は、だから切ない。春の終わりの雨の季節、あの人が俺を抱いた季節、姉上が居なくなってしまった季節、だから梅雨も悲しい。冬から春にかけては始まってゆくから忙しい。忙しいのは好きでも記憶は早すぎて留まり難(にく)い。だから必然的に、秋から冬にかけて。消去法のように、優しい記憶が其処に重なる。留まる。停滞する。降り積もる。じゅくじゅくと安寧の痛みを伴う。終わってゆく季節だから、やっぱり、優しい。
 然らば、冬は。
 ちょうど今の頃合いの季節だったろう。いちばんに世界が白く死んでゆく世界だったろう。雪が死体に覆いかぶさる。木々の枝に降り積もっては、重みでその腕を手折ってしまう。花を殺す。温度を殺す。人の最期を覆って隠す。空が低く閉じてゆく。雪雲はどんよりとしていて、しかし白く明るい。おかしな季節だ。ちょうど、今のことですね。そうは思いませんか土方さん。答えはない。応え(いら)もない。笑えばよかったのに。俺はそう思う。
 
 夜兎が襲来した夜に、あのまま俺と夜兎は戦闘に入った。どう考えても犯された側の俺に不利な殺し合いだったが、一度瞳の奥が冷たく赤くなってしまえばそんなものはどうとでもなるほどに微細なものだ。関係ない。振り上げて首を狙う。頸動脈を狙う。人を蹂躙したそのイチモツをまず最初に斬り落としてやっても良かったが、(因みにいつの間にか自分だけ着衣を正しており、イチモツも収められていた。死ねばいい)俺の刀が穢れるだけなので止めておいた。死体損壊の趣味はないのだから、綺麗なままに一太刀で殺してやろうと。
 そう、一太刀で。殺して。
 首を。
 死体の、損壊。
 男が太刀を避けて身軽に後方へと跳躍する姿を見止めながら、俺はふと浮かんだ疑問を投げかけてみた。
「てめえが“首落とし”やってんのか」
 すると、男はきょとりと首を傾げながら云う。「心外だなあ」
「俺はそんな、悪趣味な真似はしないヨ」
「ってことは存在は知ってんだな」
「アララやぶへび」
「天人の仕業じゃねえのか」
 距離を取られたので、乱れた姿勢を整えつつ再度抜刀の構えを取り直す。一歩、ずりり、床を摺るように踏み出して、膝をバネにこちらも大きく跳躍のように駆けた。倒された書架から本が散らばる。それに足を取られるよう仕向けて、相手を壁際に追い込む。
「違うと思うよ」
「根拠はなんでィ」
 追い込まれた男の右隣り、窓から僅かな明かりが漏れて、男の肌をうっそりと照らした。輪郭を仄めかし、それが白かった。口の端が赤かった。俺の血か。固まってしまっている。不味そうだ。
 刀を上段に構えた。胸か、首か。額にか。
 その前に吐かせる。
「俺はこの通り夜兎だからね、夜に活動することが多いんだ。で、この前見たんだよね。ちょうど首が落とされるところ」
「へえ」
「顔もね」
 あれは、天人じゃあなかったなあ。
「じゃあ、誰だった」
「黒かったよ」
 強いて云うなら、鴉の濡れ羽色みたいに。



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幾星霜にも邂逅しては


(春の雨と秋が閉じてく
 
 あなたのための雪が降る)


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 死んでしまったのは冬だった。喪ったのは晩春だった。始まりがいつだったか、予兆がいつだったか。そんなものは知らない。考えない。結果が全てで生きてきて、それでも拭えない愛しさは在った。
「お前は、トシは充分、優しい奴だよ」
 アンタが笑ってくれたのがいつだったかも、もう分からないのに、だ。
 
 倒幕が為されたのは秋の終わりで、江戸幕府が消え去ったのは冬の始まりだった。そしてあの人の首が落ちたのは真冬だった。雪が降っていたのを、よく憶えている。切腹という武士らしい最期さえ選べず、打ち首になったのち、深々(しんしん)と降る新雪の白の中、川沿いの土手にそれは晒されていた。俺はと云えば、佐々木異三郎による強引な遣り口で処刑を免れた。副長の首がないことに志士どもは騒いでいた。そのうち、隊長各位の身柄が拘束されたと聞かされ、頭を下げ、乞うた。「頼む、他の隊士たちを、」
「私は貴方を助けたわけではありませんよ、新政府などというまやかしに取り入るにあたり、あなたが利用価値のありそうだという、ただそれだけの話なのです。他の芥にそれはない」
 素気(すげ)無い口調がこれほど恨めしく思えたこともないだろう。
 俺に利用価値などあるはずもない。てめえのような家柄も地位も権力も何も持っちゃいねえよ。そう云うと、「勿論です」と返ってくる。
「私が期待するのはその生き汚さとバラガキ根性だけですよ」
 幕府は潰れる。もちろん幕府重鎮のお家柄である佐々木家の没落も免れない。そして新政府が天人による傀儡(かいらい)であることなど鼻から丸見えだ。ならば没落した佐々木家の名前無しに、生き抜き、登り詰め、のし上がるための捨て駒は、少しでも多く所有しておくに越したことはない。それはこれからを生き残る戦略だ。そして駒は駒でも、少なからずの賢(さか)しさがなくては話にならない。どうやら俺はその御眼鏡に叶ったらしかった。
 そうして逃げ延び、ただ一人具(ぐ)すことを許された山崎と共に、問答無用の形で、この品を装う悪党の元へ隠れることになった。
 だから俺は、隊士全員を裏切り見殺しにし、あの人の仇討ちをすることさえしなかった、そういう下種野郎へと成り下がることになった。
「望む望まない、望む望まれないではないんですよ土方さん。これは戦略です。貴方は仇討つのでしょう。復讐するのでしょう。だったらば、生きねばならないのでしょう? そしてそのためにいつか貴方も私を利用すれば良い。貴方は割り切れる人間だと思いますよ、私は」
 悪魔の声とはこういう感じなのかもしれないと、そのとき思った。
 それでも断ち切れないものはあった。どんな下種にも屑にも成り下がっても、それでも駄目なことはあった。
 
(十四郎さん)
 
 ある春の終わり、約束をした。雨が降る夜、花の匂いが鼻腔に擡(もた)げる、濃密に春の終わりを思う夜に。約束をした。腕に囲い込んで、抱き込んで、代わりになどしないと、約束をした。
 
(あの子をお願いしますね)
 
 異三郎の目を盗み、山崎を自由にさせ、ありったけの隊士を見つけて逃がせ。命じた。だが、幕府が崩れ将軍の首が落ちてひと月も経たないというのに、俺と山崎と、他隊士数名、そして沖田総悟を残して、ただ一人の隊士も残さぬまま真選組は崩壊し解体された。
 皆殺しだった。
(狂ってやがる)
 異三郎の手を借り、比較的自由に動ける山崎と無論自分自身も暗躍して、なんとか生き残った隊士たちの亡命先を拵えた。沖田を残し、他は全員江戸から出した。完全に新政府が樹立し、あらゆるものが掌握されてしまう前にやってしまわなければならなかった。
 必死で、ほとんど意識もないような日々が続いた。何を考えて生きていたのかも判然としない、カラクリのような無機質なまたたきばかりが連なった。気付けば自分は新政府内部の人間になっていて、役どころこそ名前もあってないようなものでしかなかったが、それでも戦略は残されていた。生き残らねばならなかった。まだ、生きていた。
 
 そうして、始まりも知らないたった半月の激動の間に、俺は大切な人も居場所も、生きてく場所さえも喪った。
 それが師走のことだった。
 
(今からちょうど一年くらい前、か)
 
 異変を感じたのはつい最近だ。躰に限界がきているのか、日中夜問わず意識が混濁することがあった。それも、だんだんに頻度が増してきている気がする。きっとあの憎たらしい子供なら「痴呆」だとか「夢遊病」だとか悪態の限りを尽くしてくれるのだろう。もう随分と顔を合わせていない。山崎を仲介に定期的に連絡はいれているが、あの子供に接客業やら書店員やらをこなせているとは到底思えず、押し付けてしまったあの古い馴染みの店主にはなんというか悪かったなあと少し自嘲めいて笑ってしまった。可笑しかった。あの餓鬼にできるのかねえ。くつくつと笑みが漏れる。束の間の安らぎだった。
 安らぐほどには、その子供に執着している自覚があった。
「どうして沖田さんは江戸から出さないんですか」
 一度、山崎に問われた。それに対する明確な答えを持たない自分にまず、驚いた。
 執着しているから。そう答えるのは容易い。けれど的を射てはいない。彼女の弟だから。あの人の忘れ形見だから。約束した、子供だから。どんな言葉も簡単だ。簡単すぎて、違いすぎた。反吐が出た。そんなもののために、あんな子供の一生を駄目にする気はない。今や命の危険しかない、そんな町へ留まらせる理由にもならない。
 だから、言葉を探している。きっと一生見つからない、あの榛(はしばみ)色の青年との、子供との名前を、俺はもうずっと長いこと探し続けている。
 ある夜の夢で、近藤さんが笑って云っていた。
「そんなものは簡単だよ、トシ」
 なら教えてくれれば良かったのに、目が覚めればその人はもう笑ってもくれなかった。
 
 そういう朝を、幾度も繰り返していたからかもしれない。意識の混濁は未だに続いている。むしろ酷くなりつつある。眠る前の記憶がない。いつ眠ったのか、憶えていないのだ。異三郎の用意した佐々木家の別邸を住まいとしているが、職務のあと、そこへ向かう途中、早いときにはその時点で前後が不覚になることさえある。惜しむらく命でさえないが、だが、それでも今死ぬわけにはいかないと、そんなのは当たり前のこと過ぎて、今更で、分かり切っていた。
 つまりは。
「あの子をお願いします」そう願われた。
「生きてくれ」そう望まれた。
 その言葉だけが俺の在処で、拠り所で、逃げる場所で、逃げられない場所だった。
 それだけのことでしか、ないのかもしれなかった。
 
 ある晩、俺は眠っていた。すると腕を掴まれ、激しく肩を揺さぶられた。いてえ、と睨み返すと、何故か目の前に泣きじゃくる山崎の顔があった。
「あんた何してんですか!」
 こいつは夜中に人の寝床で何をほざいているんだ。そう云い返す。すると「目ェ覚ましてください!」と逆に怒鳴り返されてしまった。様子がおかしいと、とりあえず煙草を取り出そうとして、手に違和を感じた。掌が生温かかった。寝床で横になっているはずの躰は外気に触れていて、しかしやはり夜中で、見下ろせば地面には愛刀が転がっていた。赤く染まっていた。頬を撫でてみると、そこも赤かった。まるで人を殺したあとのようだった。足元に、髪を伸ばした達磨が転がっていた。久しぶりにこの鉄臭さを嗅いだ気がした。
 山崎は泣くのをやめて、足元の達磨と首のない誰かとを手早く検分しはじめた。
「俺が処理します、お願いです、副長は早く、はやく逃げてください」
 真っ白な顔を見て、これは只事ではないなと悟った。
「お前も一緒に来い」
「俺はこれをどうにかしてから行きます」
 これと呼ばれた、首のない誰かからは滔々(とうとう)と血が流れ出ていた。
「なんなんだよ、こいつぁ」
「もういいから、いいですから、お願いです、はやく。憲兵が来ます。早く逃げてください」
 俺は真選組の誰にももう、死んで欲しくないんです。副長まで捕まってしまったら俺は、俺は。
 俯きながら、震えながら、山崎が云った。
 哭いていた。
 
 それから一週間ほどして、なんの音沙汰も連絡もなく、あの榛色の子供が突然訪れてきた。


────────────


 Ⅱ
 
 久しぶりに顔を合わせても、特に浮かぶ言葉もないというのもまた可笑しな話だろう。
 あの人であれば快活に笑って再会を喜ぶだろうし、彼女ならば躰の心配をし、労りの言葉をかけるのだろう。だが、俺にはそれらがない。浮かぶ言葉はなく、浮かぶ感情も名前を持てず、ただ「お前なにしてんだ」そんな言葉しか発せられない。仏頂面で、煙草をふかそうとするのに肝心の煙草が見当たらない。買い忘れていたのか、ずっと見当たらない。ずっと買い忘れている。忘れている。ずっと。
「久方ぶりの逢瀬だってのにツれねえお方ですねェ。もっと久闊(きゅうかつ)を叙(じょ)しやしょうぜ」
「なーにが久闊を叙すだ。どこでそんな難しい言葉覚えたんだ。そんな無駄なことに脳の容量食わせてんなアホ。もっと別のことに頭使いやがれ」
「別のことですかィ。……例えば、こんな風に目立つ行動は控えるよう慮(おもんぱか)れ、とか?」
「わかってんじゃねえか」
 つまり分かっていてやったわけだ。相変わらず質が悪い。
 沖田は俺の首筋に刃を当てて、「そんなことずっと前からご承知でしょうに」と嘯いて笑った。
 
 江戸城跡地に建設された議事堂前で、その凶行は行われた。行き交う市民も憲兵も、果ては官吏の存在すらお構いなしに、沖田総悟は、榛色の子供はふいに現れ、そしていつかと同じ質の悪さをおくびにも出さない笑い方をして、そうして俺の首を捕った。いや、まだ獲られてはいないが、今すぐにでも頸動脈を切り裂ける位置に刀を構え、躰の自由を奪ったのだ。背後から肩に小さな顎を乗せ、腕を回し、刃で俺の首筋を冷やしてくる。何が可笑しいのかずっと笑っている。「狂ったのか?」と問うと、「それはアンタでしょう」と返ってきた。
「アンタ、どこまで自覚してたんですかィ?」
 まるで明日の天気でも尋ねるかのように問うてくる。
「今でもほとんどしてねえな」
「最低ですね」
 言葉の割に、子供は意図せず上機嫌だ。理由は分からない。分からないが、何を云おうとしているのかは分かる。この前の、山崎が泣きじゃくりながら止めた、止(や)めさせた、俺の奇行の話だろう。
「毎夜毎夜徘徊しては、首を落として廻って、それで自覚がないってなぁちょっと言い訳になりやせんよね?」
「ねえもんはねえんだ、どうしようもねえだろ」
 返せば、くすくすと。
 また、笑っている。
 こんなに笑う奴だったろうか。こんな風に、優しく話しかけてくるような奴だったろうか。分からない。懐の奥の買い忘れの煙草のように、どこかに落としてきてしまったかのように分からない。忘れている。落としてしまっている。落とす? 首? なにを?
「俺、考えてたんです。一年間ずっと」
 ざわざわと、ひそひそと。足音と話し声とが増えていく。人だかりが出来始めていた。早朝とは云え、既に一般市民は活動時間だ。おまけに往来より遥かに敷居の高い議事堂前での凶行。目立たない方がおかしい。お巫山戯(ふざけ)にしても度が過ぎている。
 なにより、こいつは今やお尋ね者、命を狙われる身だ。憲兵の目にでも触れれば一発でお縄だ。しかも変装もしていない。帯刀までして、おまけに抜刀済み。現在進行形で首を獲りにいっている。言い逃れは不可能だ。匿うこともできない。どう考えてもこいつの方がとち狂ってやがる。
「総悟、やめろ」
 だが、子供は続けた。
「俺、あのとき云われました。“死なないでくれ、生きてくれ”って。でも、知ってたんでさァ。あれは俺だけじゃなく、そのずっとずっと背後に居た、アンタに云った言葉でもあったんですよね? それでアンタは、その言葉を馬鹿正直に受け止めて、狂っちゃったんですよね?」
 ひたと。首筋を撫でて擽る刃が冷たい。心地良い。それがおかしい。
「やめろ、」
 誰かの口が動くのを視た。人だかりのなかに知らないはずの首が転がっている。首のない誰かがひそひそと話している。みんな、俺がいつか落とした首か。
「本当はみんな殺してぜんぶ殺して、自分も殺して、終わってしまいたかったんですよね?」
「やめろ! 総悟!」
「……でも、終われなかったんですよね?」
 笛の音が鳴り響く。人だかりの奥で、騒ぎ声が近づき始めていた。
「生きろって云われたから」
 だから、狂うしか、なかったんですよね。
 
 *
 
 忘れていたことがあって、もう思い出せないことがある。忘れたいことがあって、けれどきっと、もう一生、拭えずに憶えているだろう瞬間がある。
 そういうものを抱えて生きることを、その意味と苦痛とを、俺は知っていたつもりでいた。本当はそれすら忘れてしまって、首のように落としてきてしまっていただけだったのに。
「俺もね、あんな隠遁生活送って、女なのか姉上なのか人殺しなのかそうでなかったのか、そんなことも分からなくなってしまうぐらいには狂ってってたんだと思います」
 今思うと、ですけど。
 声は優しい。聞いたことのない声音で、透徹に澄んで慈しみが流れている。
 これは本当にあの子供だったろうかと疑念が沸いてくる。
 人の随(まにま)から怒声が近づいた。騒ぎが次第に大きくなっていく。もうすぐそこだ。誰かが携帯を手にしている。通報したのだろうか。人だかりは既に群衆になっていた。
「でもやっぱり俺は姉上じゃなかったし、俺は人殺しの真っ赤な生き物でしかなかった。それに、あの人が、近藤さんが居ないんだ。そりゃ狂っちまったって致し方ねえでしょうよ」
 どけ、と荒声が響く。重底のブーツを蹴るようなけたたましい足音が響いた。
「総悟、もうやめろ。憲兵が来る。とっとと逃げろ」
「そう考えたら、アンタが首落としてるのも分かるっていうか。――だって俺もアンタも、こうして江戸も真選組もなくなって、世界が変わって壊れてしまってさえも、自分が狂うほどには、やっぱり同じ人たちが大好きで、」
「総悟!」
「それってなんだか、共犯者みたいじゃねえですか」
 いちばん理解し合ってるみたいな。
 そう思ったんでさァ。
 沖田は笑っていた。
「貴様! 何をしている!」
 群衆が割れる。その奥から濃紺の制服を着た憲兵たちが駆けてくる。軍刀(サーベル)を抜き、構え、なにごとかを叫んでいる。それどころじゃない。やばいはやく、こいつを逃がさなければならない。そればかりを考える。唱える。首筋に当たる刃が邪魔だ、「総悟!」怒鳴る、なのに動かない。焦れて踏み出す。当てられた切っ先が、擦れて、痛みを、
 熱。迸る瞳の奥と、首筋の赤。
 ふいに、声が聞こえた。
 雑踏が遠退き、憲兵の怒声が遠退き、視界のなかの全てが色を失っていき。ただ声だけが確かで、背後から榛色の子供の声が、聴こえてきて、たったひとつ、それだけが俺の意識へと潜り込んで浸して透かして、溶け込んでいった。
「だから俺、アンタを呪縛から解いてやります」
 アンタを侍に戻してやります。
 俺もアンタも、そのために生きてきたんだ。あの人についてったんだ。姉上を置いていったんだ。約束したんだ。
 世界が変わったって、終わったって、俺とアンタは共犯者だ。そして侍なんだ。
 ね、だから。
 
 優しい、声。
「大嫌いです。憎んでました。だから信じてます」
 そう言い終わるなり、体を強く前方へと突き飛ばされた。煉瓦敷きの床へと倒れこみ、体をしたたかに打ち付けた。その俺を無視し、沖田が駆け出す。袴を翻し、薄い色素の髪を棚引かせ、前方で軍刀を構える憲兵たちへその細身ひとつで突っ込んでいく。「そう、ご」打ち付けた肩を庇い首を上げた。ぬるり、ぽたり。血が流れ出ている。首筋が薄く裂けていた。切れていた。それだけでなかった。あっという間に、目の前の憲兵の首が撥ねられ、飛ばされていた。宙を舞い、呆気ない音をたて、ごろんと落ちて転がった。だから簡単に、次々に周りは赤くなっていった。俺の首筋の赤など意に介さぬ勢いで、赤く。
 悲鳴、怒号、叫喚。蜘蛛の子を散らして群衆が逃げ惑う。「貴様ァ!」叫び声。軍刀が沖田の頭上へ振り下ろされた。だがその刃さえ爪弾かれ、いとも簡単に宙を切り先き回り落ちて、かしゃん。空しい音をさせた。煉瓦が硬く冷たい。脳が動かなかった。何が為されているのか理解できなかった。
 だから、躰もまるで金縛りのようで。動かず。
 汗が顎を伝い落ちた。
 次の首が落ちた。
 騒ぎを聞き付けたのか、更に周辺の天人たちが集まり始める。役人だ。行政庁で見かけた顔だ。だめだ、逃げろ。言葉が出てこない。声にならない。汗が流れ落ちる。猶予も躊躇も垣間見せず、更に沖田が駆けてゆく。一瞬で懐に入り込み、喉を裂いた。また一つ、首を撥ねた。
 違う。こんなのは。
 こんなことは、絶対にあの人も彼女も望まない。俺も望まない。あの人の約束とちがう。たがっている。まちがっている。
 だから、叫ぶ。
「総悟やめろ!」
 するとふいに。
 頬と袂を染めた子供が振り返って。
 ふふ、と、笑った。
 嬉しそうだった。
「お偉い維新志士ども並びに天人様共々心して聞きやがれ! 夜闇に闊歩し、赤き椿が首落として廻る、江戸の亡霊悪鬼、“首落とし”はここに居るとな!」
 声を張り上げ、逃げ惑う群衆、取り囲む役人憲兵、そして首を落とされた遺体に向かい沖田が叫ぶ。高らかに叫ぶ。その得意げな言葉と、挑発的な笑み。それらで悟る。すべてを悟る。こいつが今、何をして、これから何をしようとしているのか。
 こいつは。
 俺のしたことを、負おうとしているのだ。
「やめろおおお!!」
 気付いた時には動いていた。痛みも無視し、平伏(ひれふ)した遺体から軍刀を奪い、沖田へと斬りかかっていた。力づくでもいい、双方が手負ったとて構わない。させてはいけない。やらせてはいけない。止めなければならない。俺は、この子供を守ると約束した。生きろと願われた。こんなところで、何もかもを終わらせるわけにはいかないのだ。
 だから。
「それが呪縛だってんでィ。アホ土方」
 刀を交えた先で、沖田がうっそりと、くつくつと、意地悪そうに、けれど小さな子供でも諭すかのように。云う。笑う。笑いかける。ゆっくりと。
「もういいんですよ。生きろって云われたからって、それで生き方曲げるこたぁないんですよ。そんなんじゃ、死んでるのと一緒でしょう。狂って首落として、それでなんになるってんです。もういいんですよ。土方さん」
 互いに怯まない。引く気もない。
 ぎりぎりと、刃先が火花を散らした。
「自分で局中法度犯してちゃ世話ねえやってことです。互いに、侍に戻りましょうよ」
 それこそが、姉上が望んだことで、近藤さんが託していってくれたことですよ。
 ねえもうアンタ気付いてんでしょう本当は。
 ずっと前から。
 刀越しにですら、優しい、声。音。
「アンタ、優しいですからね」
 そう云って笑う沖田に。
 どっちが、と。
 そんなことは、云えなかった。云っては壊れてしまうと、分かっていた。
 俺は嗚咽の一歩手前で、本当は煙草なんてあの日に辞めていて、無くしたわけでも忘れたわけでも、本当は、なくて。
 それでも、ただもうこの刃を引くわけにはいかなかった。
「さあ、永訣の朝です土方さん」
 俺のすべてのさいわいをかけて願いましょう。
「さようなら」
 血を流しすぎたせいだろうか。力が入らず、足りず、ついにこちらの刀が弾き飛ばされた。
 柄でこめかみを殴られる。躰が再び地に伏せ倒れこむ。意識が遠退く。声が、遠退く。
 
 最後に見た笑い方が、彼女に似ていた。
 けれど、決して。
「お前を代わりだと思ったことなんて、」
 一度だって。
 
(知ってましたよと、笑い声がした。いつか嗅いだ春の終わりの夜更けの匂いだった。薫って、たったひとりで、彼女では絶対になくて、愛しくて、いつでも唯一の、共犯者だった。愛していた。そうだ、それが探していた名前。愛している。ずっと)


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草地の黄金を すぎてくるもの

ことなくひとの かたちのもの

けらをまとひ おれを見る その農夫

ほんたうに おれが 見えるのか

まばゆい 気圏の 海のそこに

( かなしみは 青々 ふかく )

ZIPRESSEN しづかにゆすれ

鳥はまた 青ぞらを截る

( まことのことばは ここになく

修羅のなみだは つちにふる )


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 冬が訪れ、歳の瀬が目前になった。
 議事堂前の騒ぎからすぐのち、俺は逃げた。逃げて、“逃げる”ことをやめた。背けることをやめた。あの人も忘れたふりを辞めた。そうして、内と外から江戸を守っていく誓いのようなものを、何時の間にか交わしていた。勝手な信頼だった。それが心地よかった。あの人は首を落とす必要を亡くした。
 数か月して、天人の企てにより人間同士の戦争が起こった。狙いは人間同士の殺し合い。疲弊。そういうこと。掌握したいという、そういう戦略。なるほどあの人の首が落とされた瞬間から、人間などなにひとつ変わるはずもないんだなあと、俺は裏路地の奥で静かに思った。雪が降っている。寒い。いい加減根なし草生活もなんとかしねえとと思うも、別にこれでいいとも思う。逃亡生活も、勝手な価値観と大義の名のもとに天人の首を狩るこの日常も、なかなか悪くはないのかもしれない。きっとこれが世迷いごと。それもまた修羅の道らしくていいんじゃねえかな。ああ、寒い。
「沖田さん」
 約束の時間。声をかけられる。相変わらず時間に正確な奴だと感心した。
「よお」
「持ってきましたよ」
「ん」
 羽織の懐から取り出した白い封筒を、山崎が差し出す。
「いまどき遺書ってのもまた重てえよなァ」
「副長らしいじゃないですか」
「違いねェ」
「それ、どうするんですか? 読むんですか?」
 雪が降る。しんしんと。鼻頭が痛む。赤くなってゆく。山崎の鼻も、どころか頬も指先もすべてが赤い。痛そうに赤い。だのに、笑みは深く、そして痛ましくはない。切なそうではあったが、少なくとも悼むようなそれではなかった。期待ではなく、信頼のそれだった。
 ああ、こいつも信じてるんだな。
「いや、必要ねえだろう。たかが天人主催の人間同士のお祭りだ。あの人が死体で還ってくるとは思えねェよ」
「俺もです」
 ふふ。笑い合った。地味なくせに可愛いらしく笑いやがる。俺の方が絶対可愛いけど。
「じゃあそれ、どうするんですか?」
「ちょうど詩集の栞を探してたんだ」
 山崎が苦笑いした。
「どこへ行ったって、いつになったって、沖田さんはきっと、沖田さんのままですね」
「俺は修羅に落ちても侍のままでさァ」
「刀がある限り、ですね」
「刀がねえお前だって侍だろ」
「いや、俺はいつだって真選組の監察です」
「うるせえドヤ顔すんな」
「土方さんもおんなじですよ、きっと」
「あの人のドヤ顔ホントうぜえよなあ」
「いやそういう意味じゃなくて」
 知ってる。分かってる。
 あの人、俺のこと大好きだもんなァ。
 ねえ、沖田さん。山崎が問う。

「まだ、首は見えているんですか?」

 雪。白。薄暗がりの、世界。どこか明るい、斜めの光の静かな世界。
 空は低かった。雪が降っているんだ、そんなものは当然だ。閉じて重たくて、鈍色で憂鬱で、薫りも死んで花も死んでいる。そういう季節だ。知っている。
 それでも、あの春の夜の薫りは、今も鼻腔に届いている。

「さあな」

 静かに笑いあって、それ以外には何も云わなかった。
 







【以下当時の本のあとがきからいらない抜粋】

土方さんと沖田くんの間に流れる共犯めいた名前の付けがたい・つけようのない関係性にいつまでも惹かれ続けておりましてそんな原作の素晴らしさを少しでも描けたらなあと思ったんですが、想像を絶する難しさでだからこそ惹かれるのだなあと改めて認識するに留まる結果となりました。だめじゃん…。でももし彼らが簡単に「愛している」と云えるような関係であったならお互いを「いちばん」に出来たならきっとこんなにも惹かれることはなかったのだろうなあと思うのです。同じ人たちをいちばんに愛していてお互いは絶対にいちばんに為り得なくてだからこその唯一無二の相手と成り得るのだというか、そういう複雑にみえてまあ実は単純に相手の事を信じていて認めている只それだけでしかなかった二人のあるかもしれない?未来を勝手に捏造してみた本でした。それにしても神威兄さんが当て馬のように見えてしまったらどうしようと不安でいっぱいなのですが、彼にとっても沖田はただひとりの唯一無二に成り得るかもしれない同族みたいな感覚かもしれないと碌に原作に絡みもないのに捏造してしまった次第です。てへぺろ!兄さん好きです。神楽と神威と沖田のお話とかいつか書いてみたいです。とりあえず土方さんと沖田くんは近藤さんとミツバさんと為五郎兄さんと真選組のみんなと早く幸せになってください。

あと自分で書いてて思ったけれどこの話めっちゃ山崎がヒロイン。畳む



#長編 #土沖 #神威 #R15

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,銀魂

深海の色に撥ねた首


ミツバとの別離を迎えた土沖。※沖田女体化注意


 慟哭なんてあげもしない。涙一筋見せやせずに、一体あの人はどうやって泣くのだろう。泣いてるんだろう。
 誰が嗚咽を許さなかったんだろう。

 黒い群れだ。一面が黒い。黒い頭で黒い服に黒い靴。寺の中から外まで黒、黒、黒。まるで夜の黒い海を漂う気分だった。音だけがさざ波をたてて打ち寄せては返す。姿はなく、音だけが。海を漂う自分はそのことにひどく怯えているが、差し延べられる柔らかな手の平は濡れていて、その人はこの黒い海の底へ眠りに落ちていった人だから、だから、怯えるまま、何に怯えるのかも、何を悲しんでいるのかも、分からなくなる。停止した思考にきっと触れる手のひらの冷たさは沁みるだろう。にじんで、濡れているのは一体どっちだったのだと、気づくのだろう。頬をぬらすのは、その人の、黒い海の底で眠る人の、姉上の柔らかな手ではなく、自分から溢れたそれだと、ようやっと気付くのだろう。あの人はきっと、まだ気付けては、いない。

「こんな所にいたんですか」

 目の前の黒い人間に話しかけた。濡れ羽色を纏う男は振り返ることなく、自分に背を向けながら、遠い麓の家々を見つめ続けた。

「もう葬儀は終わりましたから」

 帰っていいですよ。暗にそうほのめかしてみた。黒の男は動かなかった。もしや耳が付いていないのかもしれない。一歩だけ、近づく。男の足元で枯れ落ちた紅葉がかさりと音をたてる。寂しいね。音もない微風に揺れる紅葉がちいさくちいさく自分に呟いた。抜けるような秋晴れ、紅く色づく命を枯らせる前の山の木々。小鳥のさえずりさえ募る寂寥感に呑まれて悲しみ色の涙になるから、もう、どうしようもないなと思った。何を見てもすべてが涙の結晶の内側で透かされて万華鏡のように煌めく。鮮やかな秋の色づきや秋桜の薄桃も例外なく。きらめきは、何に似ているって、零れ伝い落ちる瞬間の、涙の瞬きだ。
 寂しいね。紅葉の呟きを、自分も呟いた。
 いわし雲の流れる薄水色の空を、男の濡れ羽色の頭越しに見詰めて、風のささやきを聞く。どうしてこんなに、きれいなんだろう。なにもかもが、おかしいくらいに透明感を伴って、視界に入る。視界を汚す。
 こんな、綺麗な景色。意味なんて、ないのに。
 姉上のいない世界で、こんな景色。

「帰らないんですか、」

 男はまた何の応えもよこさなかった。
 いい加減にうんざりしてきたので来た道を戻ろうと男に背を向ける。それでも男の反応はない。自分はそのまま黒い喪服の重みに引きずられるように、重い足取りで、涙色の万華鏡の如くきらめく美しすぎる景色を去った。

 黒い。夜の海は暗く、うごめくような闇で満ちている。ただ、暗く、黒い。水平線は溶け込んで、星も映さぬ空と同化している。波の打ち寄せる音がする。ただ、それだけ。音だけの黒い海。
 なぜ、こんな場所なのだろう。姉上は、この向こう、沖の沖の、ずっと深い水底で眠っている。なぜ、こんな悲しい場所で。儚げに笑む姉上の顔を思い浮かべた。其処は、寂しくはないですか。冷たくは、ないですか。安らかな眠りですか。暗くはないですか。
 私も、其処で、姉上の隣で眠りたいと言ったら、怒りますか。
 一歩踏み出す。足に闇色の水が触れる。また一歩踏み出す。膝下まで侵される。温度はない。感じない。そのことに、無性に泣きたくなってくる。目頭が熱くなる。鼻に抜ける痛み、圧迫される胸、胃、臓器たち。視界がぶれて、頬を、涙が焼いた。

 「総、」

 目覚めると視界に飛び込んできたのは浅葱色の湖だった。体を起こせば、ほかにも茜色や臙脂色、山吹色などの淡い色彩の洪水が部屋一面に起こっていた。それらはすべて、姉上の着物や反物、帯だった。眠りに落ちる前、整理するという名目で、すべての箪笥という箪笥から根こそぎ引き出し、ひとつひとつ眺めては、姉上との思い出に、今は冷え切っているその自分の手で、慈しみの感情をかぶせて触れていたのだ。

「ちゃんと布団しいて寝ろ。風邪ひくだろ」

 声を掛けられ、そうか自分は名を呼ばれて目覚めたのだと思い当たった。目線の先、僅かに開いた襖の向こうで濡れ羽色の男が立っている。彼が自分を起こしたのだろう。

「土方さん」

 男の名を呼ぶ。次は「なんだよ、」とだけ応えが返ってきた。
 逡巡して、自分もなんでもないです、とだけ返す。

「今夜は泊まってくんですよね。今、客間に布団敷きやすんで」

 男の視線が自分にではなく辺り一面でその色を晒している物たちへ注がれているのを感じつつ、ゆっくりと立ち上がった。膝にかかっていた山吹色の反物が畳へパサリと音をたてて落ちた。

「近藤さんからさっき連絡があった。一緒に居てやれなくてすまねえだと」

「そうですか。別にいいんですけどねィ。家の整理くらい自分で出来やすし。なんならアンタも帰ってくれていいんですよ」

「そうかよ。」

 男の目の前に立ち、その瞳を見詰めた。ゆらゆらと揺らめく鴉の濡れ羽色の水晶が、自分を映している。自分ではなく、自分の後ろにある、姉上の思い出たちを。
 吐き気がした。衝動はみぞおちの辺りからこみ上げて、脳を沸騰させた。馬鹿な男だと、罵ってやりたくなった。意味など、意義など、存在し得ない。みんな死んだのだ。姉上は死んでしまったのだ。海に沈んだのだ。暗い水底へ、手も届かない、触れることすらかなわない、黒の深海へ。
 男の横をすり抜けて、客間の方へ向かう。
 数日前に姉の葬儀を終え、実家と姉の遺品の整理のために武州へと自分は帰ってきた。付き添いとして土方さんと近藤さんもついてきてくれていたが、近藤さんは幕府のお偉方に呼び出しを食らい、着いて早々に江戸へ戻ってしまった。おかげで自分は土方コノヤローと二人っきりで一日の大半を過ごす羽目になった。
 遺品の整理といっても、一日やそこらで終わるわけもなく、自分は後数日ここに残る。土方コノヤローもまた、お偉方と会合があるだかで、明日の朝起つらしい。早く夜が明けて帰ってくれればいいのに。
 押入れから客用の滅多に使うことのない敷布団と掛け布団を取り出し、畳の上に敷く。背後に男の気配。振り向きもせず、顔も見もせずに、また横をすり抜け去ろうとすると、ふいに腕を掴まれ、歩みを止めることになった。
 何をするんだ突然。

「…なんですか、」

 からだは客間の外へ向けたまま、男に尋ねた。また、返る応えはない。ひどくいらいらした。掴まれた腕が、濡れそぼったように、冷たく、重い。
 きっと、あの黒い海の水だ。雫がこぼれる幻覚を見た。

「用がないなら離してくだせェ」

 乱暴に、掴まれた腕を振る。たやすく男の手は離れた。それがまた、苛立ちに加速をかける。離すくらいなら、つかんだりするな。そんな目で、ゆらゆらと揺れる哀しい瞳で、姉上との思い出たちを慈しむくらいなら、見詰めるくらいなら、

「…朝になったらちゃんと勝手に起きて下せェよ。」

 呟いて、襖を閉める。

 あまりにもひどく穏やかな夢を見た。突然の目覚めに、障子越しに差し込む月明かりさえもが柔らかく、だからふと、この部屋に居る人間が自分ひとりなのだという現実に、愕然とした。ぬくもりに溢れた慈愛の手は、もう自分の頬には触れず、優しさで彩られた声は届かず、包むような温かさをもったあの笑顔は、何処にも、一生、何処にも。
 眠れないと姉上の布団にもぐりこんでは、その手に髪を梳いてもらいながら、子守唄を奏でる声を聞きながら、安らかな夢の底へ沈んでいった。目覚めた瞬間には、いつだって姉上の「おはよう」が耳を優しく泳いだ。
 うしなってしまった。なくしてしまった。もう戻らない日々が頭を巡り巡り、神経の糸をぷちぷちとその勢いで断ち切ってゆく。どば、と、涙が溢れ、鼻がつんとした。顔が歪むのが分かった。でも、そんなの、関係など、ない。
 姉上。姉上、姉上、姉上、姉上。

「姉、う、え、」

 嗚咽は静寂に吸い込まれて空気に染みこんでゆく。大気を揺らし、もしかしたらその揺れがあの男に伝わっているかもしれない。いや、伝わっているだろう。彼はそういう男だ。だから姉上も、奴が好きだったのだ。

「…総、」

 襖の開く音がして、男が現れる。本当に来やがったよこいつ。顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら、心の中で悪態をついてやった。本当に、だからこいつは気に食わないのだ。
 顔はあげないままに、しゃくりあげながらも声をあげ、応える。

「だいじょうぶ、でさ、」

 涙はとめどなく溢れ、零れ、布団に染み込んでは、跡もなく消える。繰り返されるしび連鎖。それにすら失くしたものへの感情をおぼえるなんて、本当、自分はどうかしているのではないだろうか。
 それでも、「大丈夫なんでさァ」そう、自分は云うのだ。しきりを隔てた向こう、立ち尽くしこちらを困ったように見詰める男へと。

「約束したんです、姉上と」

 唐突にそう切り出せば、予想通りの声音で男は「約束?」と訝しげに問い返してくる。

「はい。約束したんです」

 死の間際見た、姉上の儚げな笑みが脳裏を掠めた。

「振り返らない。決して。そして、俺が決めたこの道を、絶対に、貫くと。」
 あの人と、真選組を、守り抜く剣で在ることを」

「だから、俺は大丈夫なんです」

 誓った道を、振り返ることなく、貫き、まっすぐに、歩いてゆくと。
 背中に今はもう失われたぬくもりと慈愛に満ちた微笑みを感じながら。

「ただ、ここは、姉上との思い出が、残りすぎていて、」

 枯れるほど泣き尽くしたはずの涙は一体どこから溢れてくるのか。ふと、足元に黒いさざなみをみた気がした。
 顔をあげて、男の顔を見れば、ひどく情けのない表情をしていた。なんて阿呆面。馬鹿な男と、幾度も繰り返した科白を心の中ひとりごちた。

「…すまねえ」

 そんな情けない表情のまま、男は呟く。云うに事欠いて、すまないとは、本当の馬鹿なのかこの男は。また、吐き気にも似た感情がこみ上げて、それはどこから生まれたのかも分からないのに確実に胃を焼き食道を焼き、喉を焼いた。焦がした。溢れる雫が、とまらない。感情のうごめきが外へ放り出された。夜の海の色をしていた。

 黒、い。

「なんで、アンタが!俺に!謝るんでィ!」

 無意識のままに、立ち上がり、男の胸倉を掴んで、揺さぶる。男の髪が、夜の暗さに溶けて、溶けているはずなのに、空に乱れる。

「俺は、約束したんだっ、姉上と、振り返らないって、自分の道を、貫くって!」

 どぼどぼと音さえ聞こえてきそうな自分の涙が視界の邪魔をする。男を見えなくさせる。それが疎ましくて、搾るようにぎゅっと眼を堅く堅く閉じれば、おかしなことに、もう眼を開くことはかなわなかった。きつく閉じた暗闇の中で水面が漂う。たゆたうその色は、今その胸元を掴み上げている男と同じ、黒曜石の輝き。

「返せよ……、それは俺のもんでィ。俺が、貫くために、……俺が、おれが、」

 掴む力を緩め、かわりにその胸をどんと、拳で叩く。弱弱しすぎた力が、余計に涙の本流へ勢いの拍車をかける。

「だから、返せよ。謝るな。謝ったりすんな、俺はそれを背負って、背負ってくんだから……姉上と、約束……っ、」

 優しく自分の名を呼ぶ、その声音の温度が心地よかった。見詰める淡い水晶体の色に、心が眠る安らぎを覚えた。この男を想う、その可憐な、自分には持ち得ない横顔が眩しかった。なにもかもが、取り戻せないものだった。悲しい以外の、何を叫べば、自分はこの海へと沈むことが出来る?あなたの隣で眠りへと、安らぎの深淵へと、温もりの最果てへと、辿り着ける?

 どうすれば、涙はとまる?

「あああああああああっ!!」

 言葉にもならない感情を、すがるように胸を握りしめたまま、男へとぶつける。呑み込もうと、決めたはずなのに。目の前の、ゆるぎない決意に揺らめく黒曜石の瞳の存在を、許そうと。そうして、男へ抱いた憎悪も嫉妬も、羨望も憧憬も、気付かずに終わるだろう密か過ぎた恋心も、ぜんぶ、この身に背負って、あなたとの約束を、振り返らずに果たしに行こうと、そう決めたはずなのに。
 吐き気がするなど嘘だ。本当は分かっていたのだ。それは自己嫌悪の味なのだと。決意したなどとのたまいながら、あなたとの思い出にひとたび触れるだけで、こんなにももろく決壊する自分をひどく嫌悪する、そういう感情なのだと。認めたくなかった。それがまたうごめきの感情に闇色を注いだ。きっと涙腺は、破れ千切れた花弁のように儚く消えてしまった。だから、涙は永遠に止まらない。終わらない。終われない。
 どれほどの時間をそんな風に泣きじゃくったのか、未だ止まない感情の豪雨の中、男はポツリと、また、「すまねえ」とだけ呟いた。謝るなと云っているのに、どうやら本当に耳は付いていないらしい。馬鹿だ。馬鹿な男だ。もう何度呟いたかも分かりたくない科白を、また、心の中で呟いた。

 目覚めると小鳥のさえずりが遠慮がちな微かさでわずかに聞こえて、夜が明けたのだと知った。ぼんやりとしていたが徐々にはっきりとしていくにつれて、自分の今の状況に軽く困惑を覚えた。自分は、男に抱きしめられるかたちで布団に転がっていたのだ。まわされた男の、細すぎず太すぎず、たくましく形良い筋肉のついた腕に眩暈がした。身動きをとろうにも、自分を閉じ込める両腕はきつく固く抱きしめる形のまま頑なに動かない。
 自分の状態に気をとられて気付かなかったが、なんだか両目がはれぼったかった。そこでふと、ようやく今の現状を生み出した経緯を思い出す。そうだ、自分はまるで子供のようにわめき叫び泣きじゃくり、この人は一晩中そんな自分に付き添ってくれていたのだ。あげく泣き疲れ眠ってしまった自分をひとり残すことも、馬鹿で優しいこの男は出来ず、こうして温もりの優しさで自分を閉じ込めて、囲んで、守って、一人用の布団から半分体をはみ出させながらも、共に居てくれたのだ。
 本当に。本当に、この男は大馬鹿者だ。でも、だから、姉上もこの男を愛した。突き放され置いて行かれ、それでも尚、彼が己で定めた信念の元に生きていくことを願い祈ったほどに。そうして、多分、自分も。
 ゆるく呼吸する至近距離の男の顔を見詰める。鴉の濡れ羽色を白い敷き布に散らして、産毛を大気に震わせ、、浅く開いた口で命の息吹を続ける。自分もまた、おそらくこの男に恋をしていた。それは昨夜の自らの慟哭の中で嫌というほど思い知った。
 だけれど、自分と男には、それ以外にもあまりに多くの感情がありすぎた。多くの面を知りすぎた。そして自分は、彼以外の者を愛することを、もう止めることは出来ない。この右手に握る刃は近藤さんのために。自身の貫くべき道のために。そしてその誓いは、今は亡きあなたへ、姉上へ捧げるために。
 かろうじて自由のきく右手で、そっと男の頬に触れてみた。こんな風に触れたのは初めてだった。象牙色の、乳白色に彩られた優しさが愛おしさが、自分の触れる指先から染み出る錯覚を覚えた。
 ゆるやかな、けれど骨張った輪郭をそっとなぞり、目を閉じる。今触れる指先は、自分であって、自分ではない。姉が愛し、近藤の信頼する、土方十四郎という一人の男を想う、淡い色彩の心を持った、ずっと隠して知らない振りをし続けた、自分だ。そして、今この瞬間、さよならを告げる、自分だ。
 姉が想った人を想うという罪悪感もあった。だが、それ以上に、自分が恋した土方十四郎は、沖田ミツバを愛するその人だった。そして自分のこの右手と信念は、真選組局長、近藤勲のために。
 だから、淡い色味で、永遠に訪れない春を芽吹く少女の私の心よ、さようならを。この右手で、その首を今、撥ねる。

 男も目覚めたのち、台所であり合わせの朝食を作り、済ませ、彼が先へ江戸へ戻るという時分になって、切り出した。

「約束してほしいことがあるんです」

 男は玄関先、振り返りながら訝しげな表情でこちらを見詰め、言葉の続きを待っている。朝日は秋の空に見合う涼しさと柔らかさを秘めて自分と男へ降り注いだ。眩しかった。

「昨日はうまく言えやせんでしたが、俺、姉上と約束したんです。振り返らない。貫いてゆくと」

 男の黒曜石の瞳が揺らめく。さながら暗い水面のように。ゆらゆらと、たゆたうように。

「アンタにも、約束して欲しいんです。姉上へ。決して振り返らないと。貫いてみせると」

 秋の早朝の冷えた廊下が、裸足の指先から徐々に徐々に体温を奪う。
 男の微動だにせぬ顔を見詰め、答えを、応えを、待った。
 彼女の死の先、自分たちがその命の尊さを以って得なければいけないもの、進まなければいけないその道。
 今度こそ、もう後戻りの許されぬ、本当の信念の道へ。

 誓いを。

「……分かった。約束する。」

 男の低いテノールが耳を幾度もこだました気がした。
 静寂は漂い空間を支配する。耳の奥のテノールはその支配の外側で自分の中へ染み入る。伝達され、理解する。
 ああ、これでアンタも私も、もう逃げられない、ね。

「……ありがとうごぜえやす。それじゃ、俺はこのまま家の整理で2、3日こっち残りやすから。近藤さんやあっちのことはまかせましたぜィ」

 いつも通りの声音でいつも通りの会話が流れる。破れほつれるように静寂はほどけ、日常の空気が戻ってくる。

「しっかりやれよ。じゃあな」

 そう云うと、濡れ羽色の男は背を向け、玄関の戸を音をたてて閉めた。

 暗い。夜の海。姉上がその沖の、深い深い場所で眠る、夢の中の、暗い闇色の海原。自分はその波打ち際に立っている。触れたはずの潮は感触を伴わない。
 姉上。声にならない声。
 もう、私は、そちらへ行こうともがくのは、やめにします。
 打ち寄せるさざなみ色は、あまりにも深い、黒。
 あの人の色だと、すぐに気付いた。
 あの人はいつ泣くのだろう。慟哭も嗚咽も零さずに、負った道の代償を誓いの果てに心へ刻んで、ああ、だからこの海は、夜は、こんな色なのだと気付いた。理解した。
 姉上を包む海はあの人の色だ。姉上を濡らす水はあの人の流せない涙だ。聞こえないさざなみはあの人の殺した慟哭だ。

 愛して、いたんだね。

 声にならない呟きを吐く。

 分かっていた。あの人が姉上を想い、愛し、それ故に突き放した罪悪の糸に絡み取られ首を絞められ、ともすれば後悔という鋭利な刃で自分の痛みごと自分を切り刻んでいたこと。苦しんでいたこと。
 初めてあの人にその意味で触れた指先から、感情がぷくりと泡立ち、落ちる。海に溶けて同化する。愛しい。姉上を想う故に馬鹿みたいに自分を傷つけるあの人が。ひどく、愛しい。
 でも。でも、さようなら、なんだ。私は私を、あの人を想う少女の心の私を、殺したから。

 さざなみから一歩後ずさり、浜辺へ足を後退させる。
 さようなら姉上。俺のこの道の行く末を、どうか見守っていてください。そして、いつか、その果てに、迎えに行きます。


#中編 #土沖 #女体化

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,銀魂

溶けあえない


 雨が降つたあとでもないのに、むつとするやうな土の匂ひが辺りには立ち込めていて、土方は閉じた瞼の裏、真つ暗な世界の中でその濃密過ぎる自然の気配にとある瞬間を思ひ出していた。

 鼻孔を塞ぐ土の匂ひ、舞ひ落ちる花弁、風はなく、見下ろすやうな空の蒼さは今とは少し違ふ色味を帯びていて。「馬鹿だなあ、」と呟ひたのは土方ではなく沖田だつた。白い着流しに白い肌に彼を囲む存在の薄い初夏の空気。全てはあの日の光景であつた。土方は眼を開いた。誰も居ないし、誰も呟かなかつた。「馬鹿気てる。」そう云ったのは土方だつた。

 後ろに直立する桜の幹へ寄りかかれば、現実が見下ろしている。木の肌の感触はここは彼の眠る部屋ではなく、吸い込む桜色の春の気配は彼の居た季節ではないことを土方へ教へた。

 遠く彼方、土方の佇む桜の連なりから離れた場所、近藤が何事かを叫んでいるのを土方は開けた視界から捉へた。

 「近藤さん、」土方が片手を上げてそう声をかけるが、近藤は気付かず木々の隙間へすつとその姿をくらませてしまつた。遠ざかつてゆく彼の聞き慣れた声に、しかし土方は更にまた声をかけることはなかつた。土方は再び瞼を下ろし、さうして黒曜石の瞳を外の世界から隠し、覆ふ。まだ、現実に戻りたくなかつた。沖田の呆れたやうな馬鹿にしているやうな声音を言葉をもう一度聞きたかつた。

 亜麻色の髪を必死に記憶からたぐり寄せて、さうして思い起こすのはあの初夏の日ではなく、うすら寒い冬の夕暮れであつた。沖田と初めて接吻を交した時のことだつた。
「かうして交はすことに何の意義があるのでしやうね。」

 ついばむやうに沖田と繰り返し互いの唇を触れ合はせた。沖田はさう云っていたが、しかし顔に彩られた笑みの色が、世界をちらつく粉雪のやうな透明さと儚さを伴つて、しあはせを薫らせるから、土方の胸を締め付けて止まないのだつた。

 街灯の照らす橙色の灯が街ではなくスポツトライトのやうに沖田と土方を囲つて照らして世界から遮断していた。雪は音を吸い込んで、傾いた日は暗闇を呼んで二人の距離を近付けた。「意味なんて必要ない、」さう云ったのが土方なら、笑つたのは沖田だつた。「違えねえ。」

 だうしたらそのやうな輝きを灯せるのか分からない程、小さく、ほのかな、まるですべてのさいわいを溢したかのやうな綺麗な笑みだつた。

「でもね、かうして唇触れ合はせて、言葉を紡いで、それでも俺とアンタは、俺とアンタのままなんですよ。」

 目の前の沖田の顔に確かに土方は触れた。寒さに赤みの帯びた両頬を慈しむやうに守るやうに包んで、そしてその手と沖田の鼻先に、舞い落ちた雪が触れて、体温に溶けた。

「溶け合ふわけでもなしに、」

 同じにもなれやしねえ。

 さう云って沖田は背伸びして、土方の唇を食(は)んだのだ。

 土方はその言葉が耳を通りゆつくりと躯を降下していくのと同じくして瞼を下ろし、また幾度となく沖田の唇を食んでいったのだが、その一方、沖田の心が見えぬやうな、しかしその言葉が妙に肝にすとんと収まつてしまつたやうな、何とも云えない気持ちになつて、もう瞼を閉じ続けることは出来ず、またゆつくりとその黒曜石を外界へと晒すのだつた。

 そして、開ききつた瞳には、冬の日暮れきつた街の灯の中で愛しく思つた沖田の姿ではなく、春うららかな、淡い色彩に溢れかえつた優しすぎる景色が映つた。

「かうしていても、俺とお前は、俺とお前、なんだな。」

 あの雪のひとひらのやうに溶け合へるわけでもなく、ただ/\お互いが在るといふ現実と、別々であるから触れ合へる唇があるという事実だけが在つた。

 けれど今、こうしてうららかで温かな景気の中に居るといふのに、凍える色彩のないあの雪の日ばかりに思いを馳せてしまふ、そんな、ただそれだけの、辛すぎる現在もまた、間違いなく存在しているのだ。

 ただ云へるのは、離れたくなど決してなかつたといふこと。別個の存在ゆえに触れられた日があったとしても、こんな思いは、こんな気持ちは、知りたくなかつたと呟ひたら、お前はまた馬鹿なお人だと笑ふだらうか。笑つてくれるだらうか。

 土方は瞳に映る雪のやうに舞い散る桜の花弁へさう問ひかけるしかなかつた。遠くから、葬式の開始を伝へ、また土方を寺へと連れ戻すべく彼を探し続ける近藤の声を、聞いた。



(唇を寄せて言葉を放てども)
(わたしとあなたは わたしとあなた)




#掌編 #土沖

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,銀魂

きみとゆびきり

「約束なんかするつもりもなく、交わす言葉すらなく宛てる思いもなく契る誓いもなく伝える心もない。それが互いの関係だなんてうそぶいたりもしない。ないない尽くしで涙がでることもない。つまりはなんもない。いつかの空を見て誰かが虚空なんて言いましたが、それはいい言葉ですよね、俺とアンタは虚空です。”こくう”、こく、黒とも酷とも取りがたい、なんてまあ面白いじゃありませんか。なんの話かって、そうですね、じゃあこうしましょう、俺の世界はある人とある人が大黒柱として支えることによって成り立っています。つまり彼の人たちなしに俺はあり得ないんです。柱を折られた時点で俺は死にます。消えます。それを承知かどうか知らずにある男が現れる。男は俺から彼の人たちを奪う。柱を失い俺の世界が崩れました。がらがらあ。そして残ったのは、ぽつねんとしたほのぐらく蒼白くぼんやりとした心だけ。置いてかれたんです、奪われたんです。何故って、そんなの愚問でさァ。自分で考えろよ。さてひとりきりのその心はどうなったかというと、これもまた奪われてしまいました。いや、殺されたと言ってもいい。ゆっくりじわじわ浸されて犯されて腐って、そして、さあ、もう分かりやしたね。今こうしてアンタが俺に首を締められている理由が。本当はもっともっと前から気づいてたんでしょうに、ああだから俺たちは虚空でしかなり得なかったんですね。お互いに知ってるふりと知らないふりを重ねて、同じ人たちを愛して、共犯染みた繋がりばかり築いた。憎い?恨んでる?そんなの、それこそ今更。ねえアンタ本当に分かってるんですかィ?俺がこうしてる理由。どうして奪った?どうして返さない?…はは、すいやせん、それこそ意味のない問答でした。じゃあ1つだけ。答えてくれたら、この指を離しましょう。『どうして俺まで奪ったんだ』。」

 総悟はつらつらといつもの無表情でそう言った。朴訥としていて、あまりにいつも通りで、だから、この状況が如何ともし難いほどに、奇妙さに欠けて思えた。命を狙われるなんて慣れたものだが、ただ一つ違うのは、あの、表情だろうか。無表情なくせに饒舌で、声色はひどく苦しんでいる。奪ったとか奪わないとか、そういう問答も、必要ないのだろう。肝腎なのは、俺の生死の如何でもなく、お前の苦しみでもなく、お互いの虚ろな関係でもなく、居なくなってしまった彼女と約束したこと、いつか失うかもしれないあの人に誓ったこと、俺とお前を繋ぐ糸をたぐること。なあ、俺は殺されるわけにはいかないんだ。契りも誓いも果たしてないんだ。それを一番よく分かっているのがお前だろう。お前も一緒なのだから。だから、俺を殺すなら俺はお前を殺すよ。それはきっとお前が一番望んで一番望まない結果だろうけど。でも、そうだな、問いには答えなければな。さあこの指をほどいてくれ、そしてその小指で約束しよう。彼女への約束、あの人への誓い。果たすべきすべてを互いに交わそう。

「『お前が好きだからだよ』。」


#掌編 #土沖 #近藤

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,銀魂

落つる泪に約束を


約束を交わしてさようならをする、唯一無二だった土沖。※喀血描写注意


夢の降る場所ならよかった。星と同じように、隕石にならないうちに、尽きて消えて、霞んで死んで、そういう場所であればよかった。それが優しかった。
そうであって欲しかった。
俺は、何も失いたくなかった。

1.

 黙っていた。それしか出来なかった。機械の無機質な音が聞こえた。それらは振幅もなく、ただ一定の音を放ち続けている。姉上の心臓が止まったことを知らせる音だった。ぴー、と。間の抜けた高い音。ずっと、耳の傍で続いている。いつもだったら、きっと耳障りだと云ってバズーカででもなんででも吹っ飛ばしていただろう。けれど俺は黙っていた。それしか出来なかった。姉上の心音は止まっていた。それだけが、そのたった一つの現実と事実とが俺の時間を止めていた。筋肉は繊維でなくただの肉塊となっていた。脳みそは信号を発しない。俺は動かない。目と、耳だけ。そして握った拳の感覚だけ。それだけが機能する。先ほどまで笑っていた姉上の綺麗な顔と、一瞬前まで確かに俺の拳を握り返してくれていた白い指先と、そしてそれに触れる肌の柔らかさと、それらだけを、俺は今、認識している。
 それだけを。
 病室は静かで、白かった。やわらかさとは程遠い無機の白さだった。仄暗くも視えた。機械に囲まれて、姉上はそれらに繋がれている。ああ、苦しかったろうな、と、俺は黙って考えていた。そして思う。ああ、喪ったんだ、喪ってしまったんだ、と。認識。繰り返すように、理解するように。何度も。悲しんでいる、ふり。
 いや、悲しんでいるんだ。俺は、きっと悲しかった。ただ握り締めた姉上の白い手の感触だけが確かだった。冷えて失われていく体温だけが、同時にまた、確かだった。
 これが喪うこと。喪われること。死んでしまうこと。
 冷たくなっていく姉上の指が、ほっそり伸びやかに、美しい。
 だのに、俺は。
 嗚咽しているはずなのに、泪が流れているのに。
 自分の感情がどこにあるのか、俺には分からなかった。



 泣いているんだろうな、と。考えていた。そして、ひどく困惑しているんだろうな、とも。自分の感情と向き合えない子供は、きっと、自分が泪するその感情をうまく呑みこめないでいるだろう、と。子供は、別に感情がないわけではない。その機微に気づかないわけでもない。ただ、思い込んでいるのだ。自分は欠けていると。自分は感情を知らないと。自分は人の痛みを知ることができない、と。思い込んで、冷たいふりをして、そうして生きてきたものだから、いざ本物の感情を、悲しみを目の前にしたとき、それが何なのか、名前はなんというのか、自分が抱くもので正解なのか、何も、確かなものだと分からなくなる。実感を得られない。自分が悲しむわけがないと、どこかで疑心を抱く。そういう子供だったから。沖田総悟は、そういう優しい子供だったから。きっと、最愛の姉の死を前にして、自分の泪の意味を量れないで、自分が泪することを、悲しんでいるという自分の感情を、悲しみを、信じられないでいるのだろう。困惑しているんだろう。そう考えていた。そしてそれは、全てが全て、俺に返ってくる思考だった。
 泣いているのも、困惑しているのも、俺だった。
 屋上で、彼女が好きだったスナック菓子を貪った。そして泣いた。この屋上の下の下、階下の白い病室で、大切だった姉と弟は、永遠の別れを交わしている。さようなら、と、悲しい最期を、交わしている。大切だったのにな、と、俺はスナック菓子を貪り続ける。
 彼女と、彼女の弟とを守りたかった。思い上がりで、自己満足で、そう思っていた。けれど実際のところ、自分がしたのはただあの姉弟を傷つけて引き裂いてどうしようもない悲しみに追いやった、それだけだった。彼女を突き放し、子供を突き飛ばし、そして最期の帰結が、これだ。
 ああ、全部俺の罪だ。咎だ。
 泪は流れていた。口の中は辛さで痺れて、もう何一つ感じたりもしない。ただ抱くのは、確かなのは、もう取り戻せない、その喪失感。虚無感。泪を流すことさえ、罪深い。
 ああ、俺は、人を不幸にする者だったのだと。昔から分かっていたのに。
 俺は人の子ではなかったのに。
 分かっていたのに。
 俺は、

「人の子じゃない?鬼の子?アンタ馬鹿なんですかィ?」
 ふと目を開くと、目の前には屯所の庭があった。俺は縁側に腰掛けていた。紺の着流しに、痛んだ草履を履いていた。屯所の庭は、少し荒れている。雑草が目立った。山崎め、手入れを怠ってやがる。
 空を仰ぐと、抜けるような快晴だった。空が高い。遠い。青さよりも蒼さが際立っている。雲はない。だが、天人の船が時折一本の白い筋を残して空の蒼を汚していった。
 夏、か。俺はぼお、としながらそう思う。
 右手には煙草があった。火が点いていない。こいつの前では吸えないのに、無意識に手にしていたらしい。それを俺は懐へしまった。
 背後で、ごほごほと咳き込む声が聞こえた。「ねえ土方さん、」総悟の声。
 す、と。
 首筋がふいに冷たくなった。
 視線だけを移せば、首筋に冷えた刀身が当てられていた。背後に総悟が立っていた。先ほどまで布団に臥せっていたのに、一瞬の動作で身を起こし、抜刀し、俺の首を捕りにかかっていたらしい。病にかかり、身体を衰えさせてなお、こいつの傍らには刀だけがあり続けた。
 俺は黙っていた。
「鬼の子っていうのはね、」総悟が虚ろな声音で続ける。
 刀が首筋を刎ねないように、ゆっくりとした動作で後ろを振り返った。すると、白の着流しを着た子供が、こちらへ刀を向けていた。少し伸びた亜麻色の前髪の奥で、臙脂色の瞳が覗いていた。光のない水晶体。顔色は悪い。青白い。心なしか、以前よりも一層頬がこけた気がした。青白い陶磁の肌の上に、唯一赤みを残した薄い唇だけが置いてけぼりだった。
 病は確実に、彼の身体を蝕んでいた。
 ごほ、と。一つ、せり上がるような鈍いくぐもった音をさせて、総悟は咳をする。空いた方の手で口元を押さえていた。その指の隙間から、赤いものが見えた。ぴちゃりと、それは床に落ちた。そして更に激しく咳き込む。ごほ、ごほ。ぼたぼた。赤く生温い液体。落ちて痕を作る。床を浸す。俺は黙っている。赤は飛んで、俺の着流しの裾と胸とにかかった。俺は総悟を見詰め続けた。
子供は、荒い呼吸を治めながら、俺の首筋にぴたりと刀身を当て続けている。それだけは離さずにいる。「鬼の、子はね、」苦しげに告げられる言葉。
「鬼の子はね、俺の、俺の役目でさァ。アンタになんざ、譲ってやんねえよ」
 赤い口元を歪ませて、俺に刀を向けて、総悟は云う。
 だから。
「だから、安心して、後悔しながら死にやがれ」
 子供は赤いまま笑っていた。口元は歪んで弧を描いていた。だのに、こけた頬は緩やかで、目尻は優しく、細められた瞳は穏やかだった。
 子供は優しい笑みを浮かべていた。
 その笑みを長く見詰めるいとまもないまま、総悟の身体は崩れ落ちた。俺の胸へと、小さな形よい亜麻色の頭が落ちて被さる。首筋に当てられた刀は、その動作とともに俺の肩を掠めて床に落ちた。首の皮を傷つけずに。肩を切り裂かずに。器用なやつだ、と思う。
 胸の中へと崩れ落ちた子供の身体は、成人を向かえた男のものにしては、あまりに貧相で、貧弱で、そして脆弱だった。華奢だった。それが、悲しかった。いつかの彼女の最期を思い返させた。
 荒い呼吸は続く。薄い肩が、上下している。
 俺は目を閉じて、その身体を抱き締めた。
 すまないも、ごめんも、何も云えなかった。

(お互い嘘を吐きすぎやしたねィ、土方さんよ)

 総悟の声が聞こえた気がした。

2.

 土方と殴り合いをした。いつもよりも少し激しい殴り合いだった。拳を交えるとかそんな綺麗なものではなく、相手が拳骨をしてくれば俺はその脛を蹴り上げて、それに反撃で胸ぐらを掴まれれば、その額に頭突きを返してやる。そういう汚い土煙の喧嘩だった。見かねた近藤さんが止めに入ってくれなければ、俺は次に奴の長い後ろ髪を抜き取ってやるところだった。惜しかった。
 家へ帰ると、姉上が救急箱を手にして待っていてくれていた。不安そうな顔だった。このとき俺は初めてほんの少しだけ反省した。あの野郎の毛根が死滅したところで何一つ思いやしないが、姉上が不安そうにしているのはだめだ。それはよくない。一番よくない。でもあの野郎はむかつく。幼い俺は板ばさみだった。だから、その日俺は姉上の顔を見ても不機嫌なままだった。
「そうちゃんはどうして十四郎さんが嫌いなの?」
 怪我の手当てをしながら、姉上が困ったように訊いてきた。小首を傾げて、俺の顔をまっすぐに見ながら。不安げというよりも、それは困惑の顔だった。俺はぶすっとしながら、その言葉に何も返さず、返せず、庭の向こう、山の波間に落ちていく夕日を見ていた。
「そうちゃん、」
 姉上が促す。俺はしぶしぶ口を開いた。
「……あの野郎は、嘘つきで卑怯な最低野郎だからです」
 ちら、と、落ちてしまった夕日の名残から目をそらし、姉上を見た。姉上は、夕焼けの朱色に染められながら、俺の顔を見続けていた。きょとんとしていた。もう一度小首を傾げた。不思議そうに、俺と同じ臙脂色の瞳を瞬かせて、云う。「そんなことないわ」
 「そんなことないわ、そうちゃん」
 姉上は微笑んでいる。俺の腕を取りながら、軒先を背景に、夕陽を背負って、逆光に輪郭をきらきらさせながら。
 微笑みというよりは、それは静かだった。静寂の表情だった。静謐に、姉上は笑っていた。
 それは受容のような、慈愛のような、諦観のような、どこまでも透き通った、形容しがたい美しさだった。弟ながら、こんな会話の中ながら。なんて美しい人なんだろう、と俺は思う。
「あの人は約束を守る人よ」
 消毒液を塗っていた片手と、もう片方、包帯の巻かれた手とを、姉上がとる。透明の薄い貝殻のような丸みを帯びた爪が、くるり、つるり、光った。それら一連の動作と輝きとを見詰めながら、幼い俺は黙っていた。
 夕陽は傾きすぎて、俺と姉上の影が、何もない畳の間の中へと細く長く伸びている。
 夜が近かった。
 姉上は云う。
「十四郎さんは、誓いと契りをまっすぐに貫く人よ」
 大丈夫だもの。俺の両手を自分の両手で包み込みながら、姉上は満足そうに溢した。俺の両手は幼く、丸く、姉上のほっそりとした拳の中にすっぽりと埋まっていた。幸せにくるまれていた。温かかった。熱かった。肉体と命との温度だった。
 けれど、夜は近づいていた。俺の背後に忍び寄っていた。いつしか朱色の陽光は傾き、無くなり、伸びた影はそのまま宵闇へと同化してしまう。二人分の影などはじめからなかったかのように、畳の間はただの暗がりの箱へと変貌してしまう。
 暗かった。
 そして、その暗がりの中、握り締められた両手は、次のまばたきの間には温度も感触も変わってしまった。温かさは冷たさに、幸せのくるみは哀切のそれに。
 何より、俺の拳が変わってしまっていた。無骨にごつごつと骨ばった指先は、姉上の白い指先の中にはもう納まることができなかった。
 髪を結い上げ、山吹色の着物を着ていた姉上は、いつの間にか髪を切っていた。患者服を着ていた。顔に赤みはなく、手のひらの中に命の温度は僅かだけ。
 闇夜のいつかの畳の間で、隊服を着た俺ともう長くない姉上とが、両手を握り合っていた。
「ね、」か細い姉上の声。「云ったとおりでしょ?」
 それは、病床の人間が発したようには思えないほどに。
 とても嬉しそうな声だった。
 自慢げに、誇らしげに。安心したように、安堵したように。
 これでよかったのよ、と。
「あの人は、約束を守ってくれたでしょう?」
 そうちゃん。
 そうして別れの宵の明けは、すぐそこまで。

(でも、姉上を選ぶことだって、あんたには出来たはずなんだ)
 誰もいない暗がりの箱の中。いつか姉上と暮らした家、部屋、畳の上で、俺は一人立ち尽くしている。夜は更けきって、もうすぐに山の間に間に、突き刺すような朝日が差し始める。
 見たくもない感じたくもない、姉上のいない世界の夜明けが。
(あいつが姉上を殺したんだ。俺から奪って、挙句殺したんだ)
 眼の奥が熱かった。焼けるようだった。それが泪の前触れだとは知っていた。けれど、泪は流さなかった。篭る熱はおびただしい憎悪だった。こんな感情で、姉上のためと泪したくはなかった。そんなのは許せなかった。
 瞳が、水晶体が、虹彩が。赤く赤く染まっていった。

3.

 廊下を歩くその人の後姿に、俺は云った。「なあ、」
「アンタはどうして、俺を抱かねえんですかィ」
 土方さんは訝しげにこちらを振り向く。若干煩わしそうだ。
「はあ?」
「アンタ、俺のこと好きでしょう」
 さも当然のように、おはようございますと挨拶を交わそうとするような気軽さと手軽さで。俺は問う。
 屯所の廊下に人通りはない。皆、公務に勤しんでいるらしい。勤勉なことだ。俺は勿論サボりだ。
「なら、なんで抱かねーんですか」
 不思議そうな声音を繕う。
 土方さんはその俺の様子と態度に眉根を寄せていた。意味不明の生物を見るかのような、不審と疑心と猜疑との瞳だった。
「男を抱く趣味なんざねえよ」
 阿呆らしい、仕事しろ。土方さんは顔を背け前に向き直ると、そのまま歩き出していってしまった。
 さいですか。 
 乾いた思考。
 けど、その後姿に、俺はさらに問う。追い討ちをかけて突き落とそうとする。
「姉上を抱けなかったからですかィ?」
 ぴたりと。
 土方さんの歩が止まった。
「アンタは、ただ怖いだけなんだろ。姉上と同じ顔の子供を抱くのが。知ってるんですぜぃ」
 アンタが何で抜いてるのか。俺は知ってますよ。
 笑みを含むでもなく、嘲りを含むでもなく、嫌味ったらしくもなく。
 ただ突きつける。単調と淡白の刃で、目の前の男を殺そうと目論む。
 アンタはこの顔が好きなんだろ?
「遊郭へ行っては、亜麻色の髪の女を探してるそうじゃないですか」
「姉上じゃなきゃ駄目なくせに。俺も抱けないくせに」
「そのくせ離さないんですね」
 女々しい野郎でぃ。
 俺は言い募った。
 土方さんが、緩慢に振り向く。黒髪に隠れてその表情は伺えなかった。けれど、きっと傷ついたような顔をしているのだろう。怒りに震えているかもしれない。汚物を見るかのような眼で、俺を見返しているのかもしれない。それとも、軽蔑の瞳をしているのだろうか? どちらでもいい。こいつを言葉の刃で傷つけられるのなら、それでいい。
 たった一人を選べなかったくせに、
 俺のことだって選べなかったくせに。
 土方さんは完全にこちらを振り返ることなく、肩越しに、その瞳さえ覗かせずに云った。
「自分の云った言葉で、傷ついてんじゃねーよ」
 
 何を云っているのだろうかと、つかの間思う。土方さんはこちらへ完全に向き直ると、まっすぐに俺の目を見た。瞳を、鴉の濡れ羽色で射抜いた。見透かされたような心持ちになった。肩が少し、跳ねた。
「……何を云ってるんでぃ。耄碌したんですかぃ? 日本語通じないんですか?」
「そんな泣きそうな顔して、何が抱くの抱かねえのだ」
 躊躇なく、目の前の男は続ける。
 彼の背後の廊下の奥が、底の見えない、とても深くの宵闇に見えた。その先に、あの一人きりの畳の間が続いてる気がした。
「ガキには十年早いんだよ」
 懐から煙草を取り出す。火を点ける。宵闇の手前に、灯かりが射す。
 そうして、土方さんは廊下の奥へと歩き出そうとする。
 暗闇のその向こうへと。
「そうやって」
 俺は、その後姿に投げつける。
 感情の塊。
「そうやって、アンタがいつも逃げるから!」
「だから姉上は死んだんだ!」
 吐露。
 激昂の汚濁。
 汚水。
 本音ともいう、それ。
 吐き出したら、驚くほどに簡単だった。
 こいつのせいだって。 
 本当は、そんなこと、もう微塵も思っていやしないことに。
(殺してやる)
(お前なんか)
 感情と理解の齟齬。ちぐはぐに噛み合わない自らの全て。
 それらに、俺は唇を噛み締めた。
 血の味がした。

4.

 知っているんです、姉上。俺は、知っているんです。
 全部、姉上の云うとおりだったってこと。
 アイツが、姉上との約束を、契りを、誓いを、守り通して生きていく男だってこと。
 俺がアイツを殺す道理は、すでに破綻していて。
 もう逃れられなくて。
 けれどほころびは、ほころびのままで。姉上は死んでしまって。俺は一人で。アイツはやっぱり、姉上も近藤さんも奪っていってしまって。俺はアイツがどう足掻いても嫌いで、憎くて、妬ましくて、疎ましくて。
 どこにもいけないんです、姉上。
 俺は、苦しいです。
 手の平ばかりが、赤いのです。
 今、どこに居ますか。どこで笑っていてくれてますか。
 ……姉上は、あいつを、許していますか。

 愚問だと分かっていた。姉上は初めから全て分かっていたし、全て許していたのだから。
 だから俺は、ただ姉上の死を受け入れる。それだけでよくて、それしかなくて、それだけの話なのだ。彼女の死を受け入れて、あの男の背中を、誓いを貫くその姿を最期まで見届けてやれば、それで、それだけで。本当は、そんな風に単純な話だったはずなのだ。
 でも、
「……できません、姉上」
 俺はあの畳の間で丸まっていた。
 宵闇は濃く深く広がっている。視界は悪く、畳の匂いとすべらかな感触とが確かだった。懐かしいそれらだった。だから、横顔を押し付けてそこに丸まり続けた。
 明けない夜の部屋の中、俺はそこから出ることが出来ずにいた。
 腕の中には愛刀がある。畳の暖かさとは裏腹に、鞘はひどく冷えていた。鈍く黒光りを放ち、俺の腕と胸との中で眠っている。その刀身を強く握り締めた。指先が潰れてしまうのではないかと思うほど、ぎゅっと、強く、痛く、傷みで握って。そして、意味もなくその力を緩める。握り締めた刀身が、指先から温まることなどなかった。
 殺してしまえれば、楽なのに。
 暗闇。宵闇。仄暗い世界。丸まって、目を閉じて、世界と現実を遮断して、ただ一人の笑顔を思い浮かべる。
 知ってる。
 俺は、知っているんです。
(俺は怖いだけなんだ)
(姉上が死んだことを受け入れるのが、怖いんだ)
 遮断された世界と視界の向こうもまた、暗かった。黒かった。怖かった。思い浮かべたはずの姉上の笑顔さえない暗がりだった。怖かった。だから、また目を開いた。瞼を上げた。
 そこは、畳の上ではなかった。俺は隊服を血に染めて立っていた。列車の車両の中だった。ごとごとと振動が伝わってくる。動いている。車両の中は非常灯だけが点いており、赤かった。目の前に立ち並ぶ見慣れた顔つきの男たちも、俺の身体も、赤い光で照らされていた。おあつらえ向きの舞台じゃないか、と俺はせせら笑おうとした。だが、表情筋と言の葉とは別のことを示した。俺は何か言葉を発し、男たちへ語りかけると、その刀を抜いた。振るって落として斬りつけた。肉を削いで裁って刻んで、血しぶきが盛大に散って。そして俺は笑っている。死んじまいなァ、と、にんまり、鋭利な口角を吊り上げて笑っている。
 男たちはまだ残っていた。だから俺は歩き出した。斬りつけて斬り捨てて斬り破って殺してしまわなければならない。ゆっくりと、右足を、左足を。交互に。歩いて。血のついた刀身を一振り。飛沫。ああ、そうだ、そうなんだ。
(そう、姉上との誓いを妨げる奴らは皆、俺が、この手で、)
 ふらふらと、足取りは緩やかに軽く。軽快に。相手は警戒を強めて。構える。刀。それらをなす術もないままに切り伏せる。横に薙いで、腕先を飛ばす。飛沫。顔が濡れた。生ぬるい温度。
(でも、一番殺したいアイツが、一番、)
(姉上との約束を、守っている)
 右後方から負傷した男が襲い掛かる。上体を前のめりにして、避ける。そのまま斜めに刀を振り上げれば、相手の腹が裂ける。裂けた。男の口から、大量のそれ。被る。背中が濡れた。布を通して、皮膚まで濡れた。気持ち悪い。
(じゃあ、じゃあ俺は、)
(いったい誰を殺せばいいんだ?)
 思考は定まらないのに、動きだけは鋭敏だった。前のめりの上体を更に全身ごと屈めて、前方の男の懐へと一瞬の間に入る。驚愕の瞳と目が合う。引きつるその顔を見詰めながら、動けないでいる上半身へ、刀で貫く。ごぷ。血が溢れていく。俺にかかる前に右足で蹴飛ばした。それを見詰めた。目の奥が熱かった。焼けるように、爛れるように、らんらんと奈落の光を放つように、目の奥が疼いていた。瞳孔が血の色に染まっていくのを感じた。愉悦の色を浮かべていくのが分かった。俺の瞳は、赤くなっていた。
(赤い、眼。鬼の子)
(ああそうだ、俺は)
 あと一人。また背後から襲い掛かる。それを視認せず、空を斬る様に後方へと刀を振るった。俺の視界に納まらないままに、男は倒れた。
 どさりと、重たい音。
 呼吸の絶えた死体が転がった。それらは車両を埋め尽くさんばかりに倒れている。幾つも幾つも、どれもが何もが、もう意味もない有機物の塊でしかなくなっている。意味がない。価値もない。俺が絶った命だった物。それらを見下ろして、息を一つ溢して、俺は、赤く底光りする瞳を細めて笑った。「姉上、」
 目の前に、まるで姉上が立っているかのように。そちらへ向かって微笑みかけて、手を伸ばして、空を掴んで、指先の赤色を滴らせて。
 俺は何もない仄暗い空間に向かって呟いた。
 ねえ、おれ、もういいですよね。
「俺、あの人を許さなくても、いいんですよね」
 誰も居ないから、泣きそうだった。



 お互い嘘を吐き過ぎた関係だから。それだけしか築けなかった繋がりだったから。言葉だったから。だから俺とお前は共犯で、共同体で、そして決して交われない、決して殺せない相手だった。
 だからお前は苦しむんだろうか。だから俺には、お前の幸せを搾取するような人生しか贈れなかったのだろうか。
 総悟は縁側に横たわって、ひゅー、ひゅー、と、浅い息を繰り返していた。肩で息をするよりも、胸の浅い部分で必死に酸素を吐き出しているような様子だった。伸びた前髪でその瞳は窺い知れない。ただ、耳障りに不吉な濁音を混ぜたその呼吸が、俺の鼓膜を揺らすばかりだった。苦しげだった。仰向けに倒れこんだその身体は、やはり白く、細く、まるで幼子の矮躯のように果敢なかった。たおやかというにはあまりに歪に病的だった。そうか、こいつは病だったのか、と当たり前のことを思い出した。
 死ぬのか、とは問えなかった。百年後にまた会いましょうとのたまったのは、どの文豪だったか。そんな希望も未来も、俺と総悟には要らなかった。だから俺は問えなかった。願えなかった。死ぬなと、祈れなかった。
 一際大きく、総悟の肩が上下した。胸が凹む。こぷりと、赤いそれが口から溢れて止まらなかった。口の端から床へと落ちて伸びてゆく。木目を濡らして、広がる。口の中も唇そのものも頬も着流しも全てが全て赤い。赤く、紅く、鮮血よりも尚暗がりを帯びて、黒く、赤黒く。
 俺は子供の前髪を小さく掻き分けた。臙脂色の瞳が覗いた。苦しさに泪眼になったそこから、一筋、雫を溢れた。足早に、美しく頬を撫でて落ちた。臙脂色は水面のように揺らいでいる。たゆたっている。また、もう一つ零れた。生理的なそれ。憎しみのこもらない、愛情のこもらないそれ。純粋な水。
 臙脂色の瞳は、ただずっと俺を見ていた。
 俺もまた、その瞳と赤い口元とを見詰めていた。
「総悟、」
 頬に触れた。
 白い陶磁のそれは、思った以上に冷たかった。
 そして、生身に温かかった。
 生きていた。
(お前は、)
「お前だけは、永遠に俺を許さないでくれ」
 上半身を屈めて、顔を近づける。血と、死の香りがする。
 そのまま、口付けを落とした。
 触れるだけの口付けは、血の味しかしなかった。
 だから尊かった。
 唇を離しても、総悟は何も云わずに俺を見詰め返しているだけだった。臙脂色の瞳は泪でたゆたうだけだった。何も語らなかった。何も伝えなかった。言葉が無益だった。俺は優しく笑うことも出来なかった。
 しばしの間、そうして無為な空間を共有した。
 交じり合えず分かり合えず、理解もできずに、ただもうお互いの存在を望むことさえ、出来やしない。そんな二人のいつかの終わりを、俺は考え続けた。
「大丈夫ですよ、土方さん」
 声。
 雑音交じりに連ねられる。
 ごほ、こぷり、また溢れる赤色。
 見詰め返すその白い顔を、俺はきっと永遠に忘れることは出来ない。
「あの世でだって、ずっと呪ってやりますぜィ」
 そうやって、子供は優しく笑うから。
 だから俺も、何も果たせない約束のように、笑みを返した。




(A promise is made in the tear which fell. )
(good-bye.)



#土沖 #中編

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赤色の他人たち


 まことしやかなる嘘の固まりだったといわれたら、否定できるすべなど一つも持ち合わせては、いなかった。

 人を殺すのは好き?目の前の微笑が残酷な呟きを吐いた。

 別に。俺はそう応えた。あまり納得した顔ではなさそうだった。表情こそ笑みを象ったままだったが、明らかに殺気を帯びている。なんて面倒な奴だろうと嘆息した。

 でも殺すじゃない。好きなんじゃないの?あんなに上手に殺すじゃないか。

 別に。面倒なだけでィ。刀に血とか脂とか残ると始末に困るんだよ。あと返り血とかやだし。服汚れるし。

 ふうん。

 こいつ絶対納得してねえなあ、そう思ったが黙っておいた。なぜって、面倒くさいからだ。不毛な会話はそれだけで時間と体力の無駄だ。総じてしないに限る。俺がもう会話する気のないことを気付いてるくせに、けれど目の前の変な奴はとめどなく喋った。

 でも、好きでしょう?殺すの。強いもん。血が噴き出る瞬間とか、爽快だったりしない?一太刀で斬り伏せたときとか、圧倒的な力の差とか、どう感じてる?

 うるせえなぁ。何にも感じねえよ。しつけーんでィ。どっか行けよ。

 ひどいなぁ、アンタは同類かと思ったんだけどな。俺達ほどではないけど、けれど根っこのところから赤黒く汚れている、血の匂いの染み付いて離れない、そういう種類の人間、いや生き物かなって。
 だからあの弱い奴と、俺の妹とも、あんなにいがみあってるんでしょう?同族嫌悪剥き出しの可愛い喧嘩してさ。

 なんてやかましい奴なのか。いい加減イライラしてきた。懐の広い寛容な俺だって我慢の限界がある。

 斬っちまおうかな。

 今、そう考えた?

 普通の人間だったらそうはいかないよね。ムカつくから斬っちゃえ?強い奴の、圧倒的立場にいる人間の考えだよ、それは。

 ケラケラと、化け物が笑う。俺は切りかけた鯉口を戻した。果てしなく興ざめする奴だ。ていうかウザイ。もう消えろ。視界からいなくなれ。

 考えることは苦手らしいね。俺も好きじゃないけどさ。でも、普通そこまで淡白でいられるもんかな。思考を放棄するなんて云う程易くないよ。君ってどっかおかしいんじゃない?

 化け物が云う。つらつらと、世迷い言を。唄うように。

 てめぇに云われる筋合いは一遍たりともねえよ。

 俺だってないさ。俺は夜兎だもの。でも、アンタは人の子でしょう?

 人の子に与えられた程度を、アンタは軽く超えすぎている。
 おれは大歓迎だけどさ。強い奴なんだから。でも、

 アンタは、人の子じゃ、ないよね。

 ケラケラ、ケラケラ、風車でも回したかのような陽気さと軽快さで、化け物が笑う。俺を笑う。嘲笑うように、せせら笑うように。

 今度闘ってよ、俺と。きっと分かるよ。アンタがどれだけ欠けているか。

 ケラケラ、ケラケラ。

 まことしやかなる嘘かと云われたら、否定し得るすべを、俺は持ち合わせてはいなかった。


#掌編 #沖田 #神威

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銀木犀の行方を知らない

銀時とあの人。生きていくために、貫くために。※過去捏造


「あの香りが好きなのですね。」

 そう云つてあの人は、それほどの高さもなくそびへ、芳烈な香りを薫らせ白い可憐な花を咲かせる一本の木へと近づいた。

「これの名前を知つて居ますか、」

 問われたので、応へた。知らぬ、と。

「これはね、」

 少し背伸びし、あの人は花を一房、摘み取る。そして手のひらにそっと包んで、縁側で黙つたままの俺へと歩み寄って来る。ふわりと香る、鼻腔をくすぐる甘い匂ひがした。
 あの人は俺の隣へ腰掛けた。手のひらの中のそれを、俺の指へ触れさせて、そして、今までついぞ知らぬままだつた花の名を俺へ教へてくれた。その名は名前も持たぬままだった俺へあの人がくれた名と似ていた。

「これには似通った名の、香りは少し違ふのだけれどね、兄弟のやうな名前を持つ木が居るのですよ。そちらの花は黄色をしていてね、きつと貴方も気に入るでしゃう。まう少ししたら、一緒に庭へ植えましやうね。」

 あの人は笑ひかけてくれた。俺は黙つたまま花の香りを嗅いでその甘さに包まれて、今思へば、とてもとてもしあはせだった。芳烈な香りに気を取られていたけれど、そのしあはせの色は、匂ひは、かたちは、教へてくれた花ではなく、あの人のつくつてくれたものだつたのだらう。ただ俺は子供で、何よりもまだ誰も信じられない時間の中に居て、だから知らなかつたし、気付きもしなかつたのだ。あの人の微笑みが俺を見詰めて、包んで、慈しんで、愛してくれてゐた、なんて。

 それから多くの時間が流れて、季節が巡つた。白い花を綻ばせるあの木の隣へあの人と植へた幼い木は、あつといふ間に俺の身長を通り越した。俺は毎日のやうに自分と似た名前を持つそいつを眺め見上げた。時にあの人の隣で、あの人の笑顔に気付かぬままに包まれて。しあはせ、だつたのだらう。その頃にはそのことに薄々ながら気付きかけてはいたが。けれども、それを認めてしまへば、見えないままに息づいていた何かを壊して殺してしまいさうで、怖くて、俺はあの人のくれる、指先にゆうくりと触れさせるやうな優しさと、語り聞かせるやうに紡がれる言葉たちをただ沈黙のままに享受し、ゆるやかな毎日を過ごした。

「守りたいもののために剣をとりなさい。その手の届く人々に、その手で触れて、その手で愛しなさい。その思いのためにとる剣(つるぎ)の重さを、その胸にしつかりと刻みなさい。」

 あの時初めて聞かされたあの木の名を、俺は自分の名を知るたびに思ひ起こす。あの人の笑みが隣で咲いてゐた。薄い水の色を湛えた高い空に、あの木は高く高く天心を目指すやうに伸びてゐた。耳に木霊するあの人の数々の言葉は一つとして記憶から零れ落ちない。

「先生、」「今年もあの木、甘く香つてる。」

白い花と黄色の花、隣同士に寄り添ふやうに、巡る季節の中で咲き誇る。その度に俺の隣であの人の笑顔が、確かなしあはせといふ包みを紐解いて、俺を優しく抱き締めて、咲いて、ゐた。

「お前なんか、捨て子だつたくせに、」
「先生に拾われたからつて、いい気になるなよ。」

 さう云はれても、えぐられる弱さも脆さも癒えて無くなつたのは、あの人と出会つてどれくらいの時間がたつた頃だらうか。俺は黙つてそいつの罵倒を受け止めてゐた。拾はれたのがたとへ事実だつたとしても、俺はまう大丈夫だと、あの人の広げる優しさと香るあの甘い匂ひを忘れない限り大丈夫だと、さう思へてゐたから。こころの苦しみは掬い取られ、耳に響くあの人の声も、縁側を横切る日々の流れも、降り注ぐ陽の光も、何も、まう、俺を拒んだり傷付けたりしないのだと思へたのだ。(後日、俺に罵倒を食らはせた少年は大好きな先生にこつてりと叱られ泣きながら俺へ謝罪した。それから少年と俺と、もう一人少年の幼馴染と云ふ奴との三人、よくつるむやうになり、ああ、またしあはせが香つて、あの甘い香りが季節を飛び越へて華やいで、俺の隣で白い花が、先生が、笑ふ。)

「守るために振るつた刃の重みを、決して忘れてはいけません。傷付けたことを、忘れてはいけません。」

 先生は、或る日居なくなつた。俺たちは大儀と信念と云ふ旗のもとで戦を駆けることになつた。沢山、殺した。血の色を初めて塗れた指先で確かめた。あの人が優しくあの花に触れさせてくれたこの指で、手で、刀を取り、絶ち、斬り、切り伏せた断面から相手のすべてを迸らせて、俺はあの人のくれた名を、なくした。白い夜叉と。甘いあの匂ひとは程遠い場所へ、名前も、存在も、連れてかれる。己が選んだ道だと、固くなつたこころで呟ひた。

「憎しみのままに刀を握ることをやめなさい。その手で掴むものも握るものも、すべて自分で決めなさい。守るものを、その手が届く限りの人々を、見つけなさい。そして、」

 雪が降つてゐた。俺は赤く、紅くて、囲む雪の白ささへ疎ましかった。鉄臭かった。甘い匂ひが恋しかつた。うずくまつて、そして、俺は殺すことをやめた。

 寒さで耳鳴りがした。俺は立ち上がり、走り出してゐた。耳の奥の奥で木霊するあの人の言葉に、なくしたあの木の名前に、遠い噎せ返るやうな甘い匂ひに、むせび泣いて、でも走って、この手で掴めるものを、守れるものを探すやうにただ走つて、彷徨つた。



#短編 #銀時

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夢路の果て


銀時と沖田。守りたいもの。※微グロ注意


 
 覚めた悪夢は遠ざかる。いつもの朝は始まる。それでいいはずの常の温かみが、ひどく自分を責めた。何処からか漂う朝食の匂いに自らの咎を暴かれた気にさえなった。
 
(先生、)(先生、)
 
 目覚めたままの態勢で銀時は頭を抱え、ずるりと引きずる心の痛みと声にならない叫びに苦しんだ。消えた悪夢はしかし銀時の中で汚濁のように流れはゆるいままぬるま湯のような温度を保っている。
 そう、遠ざかりも消えもしてはいなかったのだ。いつまでもいつまでも汚濁は塞き止められて清らかな流れも取り戻せないままこの身のうちで渦巻いている。苦しかった。それでも、
「銀さん、」
 少年の呼び声で、それでも日常は始まりの鐘を鳴らす。生返事を返しながら銀時はゆっくりと布団から這い出た。悪夢に無理矢理の蓋をして。
 
 その悪夢が再び黒い吐息を洩らしたのは午前の終わり頃だった。
 嗅ぎ慣れた匂いが鼻につき、いつの間にか踏み出した足は薄暗い路地の向こうへと続いた。向かう先に待ち受けるだろう景色を銀時は無意識に理解していて。そして、鈍色の空の下、真っ赤な世界は視界に広がった。地面に、路地を囲む四方の家屋に、そして目の前こちらに背を向ける少年に、赤は浸食して、存在した。
 
  「おや、旦那じゃあないですか。妙なところで会いますねィ。」
 
 少年は、沖田は赤で濡れた頬を袖で拭いながら銀時にそう話し掛けた。まるでなんでもないような口ぶりに銀時は呆れたように応えた。

「妙なところってお前が妙なところにしたんだろうがよ。どうしたんだよこりゃあよぉ、」
 「いやね、やっこさんに屯所までご同行願おうとしたら抵抗されまして、仕方なく」

 言いながら沖田はしゃがみこみ赤い池に横たわる遺体をごろりと仰向かせた。だらんと、繋がりかけて、しかし呼吸をするには斬り離され過ぎてしまった揺れる首と、そこに張り付く恐怖の色を浮かべた女の顔を見た。
 
「しかも女かよ……攘夷浪士じゃねえんじゃねえの、」
「こちらの情報を流していた女朗ですよ。うちの隊士がひいきにしてましてね。証拠も掴んだんでしょっぴこうとしたら小刀取り出して振り回すもんだから、まあ、そういうことですよ。」
 
 沖田の口ぶりはやはりどこまでも淡々としている。そのことを不快と感じない自分に、銀時は溜め息をつきたくなった。
 実際に既に彼は大仰な溜め息を吐き出していた。沖田が悪いわけでは、ない。自分が、この色とあの顔に慣れきっている自分が、どうしようもなく嫌になるのだ。
 自分は何の匂いを追ってここまで来たのか、何故あの色を知っているのか。探してはならない答えが見えないふりに抗ってのたうちまわっていた。そして悪夢はごとりと音をたてて蓋をずらす。黒い吐息を吐き出して、憂鬱の眼差しと嫌悪の叫びとを銀時の内でわだかまらせる。鈍色の重濁な空が泣きそうにしていた。
 
「ったくよぉ、勘弁してくれよ。まったく。」
「すいやせん、まさかこんな奥まで人が来るとは思いませんで。隊の奴ら呼んでこれから処分しやすんで、見なかったことにしといて下せェ。」

 沖田は自分の顔を拭い言った。その仕草に、立ち込める匂いに、泣き出しそうな空、赤の浸食する世界、銀時はふと見えないふりをした答えと記憶の一部が重なるのを感じた。赤い世界で同じように自身もまた赤いそれを白い装束で拭い、見慣れてしまった敵や味方の死顔を見詰めて、嗅ぎ慣れた匂いに失くしたものを悼んでいた。
 
「さっき、隊士のひいきにしていた、って言いやしたけど、」

 沖田は、やはり淡々とした口調でこぼす。
 
「本当に気に入りの女だったらしくてですね。証拠掴んじまったときのあの顔といったら、見てられねえもんでしてねィ。ちなみに一番隊の奴なんですけど。本人にやらすのも酷な話じゃあないですかィ。それで俺が出張ったわけですけど、やっぱりいけねえや、俺は。すぐに殺しちまう。」

 沖田の蒼い瞳が、赤い世界を映す。その色は揺れない。そして互いに交じらない。拒絶するように、その色は相反してそこに在る。そして少年の瞳の色は、どこまでも屹然としているのだった。
 そのことにひどく安堵する自分は、一体何なのだろうか。悪夢が、閉じかけの蓋を押し開け銀時を記憶と夢の狭間へ引き込んだ。今朝方見た、あの人の優しい声音の響く温もりの夢。あの人は、微笑み、幼い銀時に言って聞かせた。何度も何度も。時に髪を撫ぜて、時に額と額とを合わせて。あの人は、優しすぎる悪夢のような夢の中、幼い記憶の中、絶え間なく銀時の中の何処かで、ずっと、言って聞かせていた。
 
(守りたいもののために刀を取りなさい。振るった刃のその重みを、胸に刻み、忘れることなく生きてゆきなさい。)

「……旦那? 大丈夫ですかィ?」
 
 いぶかしげに沖田が尋ねる。ずらされた悪夢の蓋は瞬時に閉じられ、銀時は記憶の邂逅から現実へ急速に引き戻された。蒼い壁落のような瞳とかち合った。

「……守るためだったんだろ、」

 唐突な銀時の呟きに、沖田は不思議そうに首を傾げた。そしてそのうちにどこか得心のいった表情になり、「ええ。」とだけ返した。

「一番隊は斬り込み専門のいわば懐刀でさァ。その機密が漏れたとあっちゃあ、俺ら、いや、真選組に何を及ぼすか分かったもんじゃねぇ。」

 だから。斬った。
 それだけの事実。
 
「俺の居場所ですからねィ、」
 
 あそこは。
 沖田はそこで小さな、ともすれば見落としてしまいそうな静かな笑みをこぼした。
  足元に転がるのは死のカタチだというのに、あまりにそぐわない笑みは、しかし綺麗であった。守りたいもののために振るいほとばしらせたあの赤色の意味を、その腕にある力の意味を、罪を、罰を、咎を、すべて知っている、そんな笑みだった。銀時はその笑みを知っていた。鏡に映る、自分だった。
 
(──先生、)
 
 少年の手は相変わらず赤く染め上がっている。そこにまた自分が重なる。あの人の言葉が聞こえる。
 
(忘れない。)
 
 あの日あの時振るった刃の罪を、濡らして散らした赤の意味を、それでも守りたかった、守りきれなかった者たちのすべてを、もう二度と失いたくない人々を、 (忘れるわけが、ない。)
 
「……失くすなよ、」
 
 ふいに呟かれた銀時の言葉に、沖田はきょとりと、どこかあどけなさの残る表情で見詰め返した。そして、「ええ、守ってゆきます。」とだけ応え、銀時に背を向けた。それと同時に遠く銀時の背後から自分を呼ぶ二つの声が聞こえてくる。
 
「銀さーん、」「銀ちゃーん、どこアルかー!」
 
 響き、耳に優しくこだまするその声の人物たちを、銀時はすぐに察した。そして瞬きと共に起こる、過去のフラッシュバック。失くしたもの、守りたかったもの、血に濡れた自分、こぼれ落ちる命、あの人の笑み、あの人の教えてくれた、刀をこの手にとった意味、守れたもの、殺したもの、その罪。罰。咎。それでも、この手に掴めた温もりがあった。あったのだ。
 
「じゃあ、な。」
「ええ、メガネとチャイナによろしく。」
 
 沖田は背を向けたままにどこまでも貫く淡々とした声で返した。銀時は踵を返し、赤い世界から一歩踏み出して、薄暗い路地を出るべくゆっくりゆっくり歩を進めた。泣き出しそうな空は哀咽の叫びを上げている。雨が降れば、いい。そしてあの少年の血に濡れた手を、洗い流してしまえばいい。太陽の光は厚い雲に隔てられているが、しかしこの歩の先には確かな光が差している。守りたい人が、いる。




#短編 #沖田 #銀時

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落つる椿に嘘を


夢で最期の逢瀬をする土方とミツバ





(こんこんと、雪は降る。)


 現実の色を忘れたかのような白い世界だった。実際に、ここは恐らく現実ではないだろうと、土方は確信していた。虚構とはまた一線を画す、いわゆる夢のような其処だろうと。あいまいな世界はぼんやりと白くけぶっている。雪は降っていなかった。けれども足元には新雪が、きしきしと足を踏み出す度に音をたてるほど積もっている。しろくけぶる風景の向こう側には幾本かの樹々が連なっていた。点々と滴をこぼしたかのように其処には赤が散っていた。あれは、一体なんだろうか。
 近づいてみようと歩を進めれば、隣に人がいることに気が付いた。横の人物を窺えば、其処には撫子のように可憐な、この曖昧な世界に溶け込みそうなほど儚い笑みをたたえたミツバの姿があった。

「ミツバ、」

 彼女の姿は昔彼が武州を去ったときの姿と同じだった。土方もまた、気付けば昔着ていた黒の着流しに、後頭に高く結わえた長髪が揺れている、当時の姿で居た。ミツバは名を呼ばれ、改めて土方の視線に気付いたようにこちらを仰ぎ見てくる。微笑みはそのままに。

「十四郎さん、」

 柔らかな響きを含んで自分の名を紡がれて、土方は胸の奥で水面がゆっくりと潮騒の音をたてるのを聞いた気がした。穏やかな空気が流れる。世界は変わらずぼんやりと白くて、そして彼女の姿と自分の姿から、これが現実でないことは明らかになった。それでも関係などないと、土方は生前、とることのかなわなかった彼女の手をとった。冷たかった。

「会えて良かった。まだ、お別れを言えてなかったから。」

 ミツバはそう呟くと、そろりと、握られた手を柔らかく握り返してきた。そして微笑みはたたえたまま、「すこし、歩きませんか、」とだけ言い、一歩、さくりと新雪に足跡を残す。
 二人は黙ったまま歩き始めた。土方は、前方を見遣り、あの樹々に点々と色を残す赤の存在を思った。花、だろうか。

「沢山ね、嘘をついて、生きてきたんです。」

 ミツバはぽつり、そう呟く。

「沢山つきすぎて、どれが本当かも分からないくらいに。」

「…例えば、」

 口を挟めば、彼女は少し意外そうに、目を丸くしてこちらを見上げる。そして小さく笑んで、「例えば、」口を開いた。

「辛かったこと、幸せだったこと。」

「…、」

「…あなたたちに、ついてゆきたかった、こと。」

 土方は、黙ったままだった。

「嘘なんです、これは。私は幸せだった。それは確かなことだから。」

 ただ。ミツバは言い淀むように言葉を切る。土方の方を見ることなく、前方を見つめたまま。

「あなたたちの背中を見つめるだけでいいって。そうやって、自分の嘘も本当も全部騙して、いました。」

 何が嘘かも本当かも、全部気づいているのに、それすら知らないと自らを騙して、そうやって、生きてきた。

「ごめんなさい、突然。でも、もう、」

 もう、お別れ、だから。

 ミツバは静かで、それでいて柔らかな口調でそう呟いた。

「…お別れ、」

 土方がぼんやりと繰り返せば、ミツバはやわくやわく、小さな響きを込めて「そう。」と相槌をうつ。しかし、土方は白くけぶる視界のように、おぼろ気な思考のまま言葉を発することも出来ず、そうして彼女の手を引いたまま立ち止まってしまった。
 おわかれ。彼女を見つめて、何度も反復する。確かめるように、意味を必死にたぐるように、そうして気付く現実は、夢の終わりだった。そう、彼女は死んでいるのだ。死んで、しまったのだ。
 ふと気付けば、既に彼女は、昔の姿ではなく、現実で最後に見かけた、亜麻色の短い髪にうなじを隠した大人の女性の姿でいた。自分も同じく、慣れ親しんだ真選組の制服に短く切りこんだ髪の、現実を生きている姿で彼女を見つめていた。

「どうか十四郎さんに、お願いがあるの。」

 お別れの前に、どうかあなただけに。
 雪は降らない。新雪に残した足跡は、うずまることもなく、ただ二人の行方を知らせるようで、これが途切れる瞬間が自分の最期に土方には思えた。だが、違う。自分は、生きている。どうしようもない切なさといくつもの後悔をはらんだ今を生きて、歩いて、足跡を残している。
 遠く点々と色を落とす赤の存在を、目に映した。赤い赤い、椿の花だった。
 最期だと、呟いたのは彼女の薄桃色の唇だった。土方では、ない。残した足跡は二人分、歩めた道の遠さが、後悔の色で自らを責めたてていた。
 共に歩めていたならば、彼女の凛とした言葉の数々を、今ここで、こうして。白くけぶった雪の世界、赤を落とす椿の色。そんな、現(うつつ)と程遠い、こんな安らかな世界で聞くことにはならなかったのだろうか。
 歩んだ全てが平行線を辿った、その寂しさを、罪の匂いと交わすことなく。後悔と悲しみの色に呑まれたまま、彼女の最期の願いなど、聞くこともなく。
 そう、いられたのだろうか。

「どうか、どうか十四郎さん、」

ミツバは土方の瞳をまっすぐに見つめ、微笑み、最期の願いを言の葉に乗せた。。

「私のついた数々の嘘を、どうか許して下さいましね。」

 赤い椿が、ぽとり、純白の雪に落ちた。

  そこで土方の夢は、途切れたのだ。


(何が嘘かも本当かも失ってしまうほどあなたたちが愛しかった。その背中が好きだった。ただもう滅びゆくこの身に残った嘘だから、どうか、どうかあなたに、許してもらいたかったの。ごめんなさい、ありがとう、十四郎さん、十四郎さん。)


#土ミツ#短編

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十の夜


「百年後にまた、会いやしょう。」

 空は天色。くぷり、雨とはまた違う大粒の雫が、透明で遠く高いそこからこぼれ落ちてくるのではないかと、そう思わせるほどの、その、空の青。雲はなく、圧倒させるように、圧迫されるように気持ちを屈させる、天の人々の乗り物も、珍しく空を覆わずにいた。
 沖田はその空の下、白の着流しに隊服の上着をはおっただけの姿で屯所の庭に立っていた。

「百年後かあ。そりゃまたえらく遠いなあ。」

 縁側に腰掛ける近藤は、沖田の呟きにそう応えた。それは彼の率直な感想だった。

「ええ、遠いです。織り姫と彦星の逢瀬もびっくりでさァ。でもね、太陽が昇って、それから沈んで、冷たい朝や温かい夜や、暖色の夜明けや冷色の夜更けがなんべんもなんべんもやってきたら、そしたら、俺は近藤さんに会えるんです。本当はもっと早くに会いたいけど、でもきっと、百年かかるんです。」

 沖田は裸足だった。白い二本の棒切れのようなそれが、昨夜の雨でぬかるんで色も香りも増した土の上にほっそりと立っているさまは、ひどく危うげで、頼りなく思えた。肉付きのないその素足に、桜貝のような爪の中に、湿った土がじとりと染み込むように付着している。しかし沖田はそれらを意に介さず、淡々と話続けた。

「俺ァ、死んだら星になるとか天国行くとか、さらさら思いやせん。どこへも行かないし、きっとどこへも行かれない。」

 近藤は天色の空を見上げた。沖田も同様に見上げていた。雲もなにもないその一面の広さは、常なら見とれるだろうに、しかし今はただ恐ろしく思えて仕方がなかった。色の濃淡すら存在しないのっぺりとしたあおいろの天井は、まるくたかく、何よりも広く深く、だからやはり、恐ろしい。何の色だろうかと近藤が思案すれば、それは沖田の瞳と同じそれだった。澄みきっていて、感情を映さない。さざめくことのない水面。涙の雨も降らない、潤った空。
 沖田の瞳を見て、その虚空の空にうろたえる者は多い。誰もが彼の思惑を悟れないし、感情を読めないし、何より人のこころを見つけられない。そう、呟く。近藤はその呟きを耳にするたび、左の胸より少し真ん中にずれた箇所が、ずくん、と痛んだ。

「星にならなくていい。一年に一度会うなんて贅沢もいらない。ただ俺を埋めるときに、姉上の好きだったあの花。あの花の種を詰めてくれたら、きっと、」

「総悟、」

 言葉を遮り、近藤は彼の名を呼ぶ。
 空を一心に見つめていた沖田は近藤に視線を合わせた。ろうろうと言葉を発していた口はつぐんで、何も言わない。瞳は揺れない。沖田は剥き出しの素足が、初夏だというのに何故だかひんやりと冷えてしまったふうに思えた。足元を見遣って、そして庭にいる自分と縁側に座る近藤との距離に、やはり何故だか寂しさを募らせた。
 遠い気がした。たかだか数歩先の彼の人が、とても遠い、気がした。
 近藤はといえば、揺れない沖田の瞳と、ほっそりとした沖田の身体と、彼の後ろに広がる空とを視界に入れて、自然笑みが漏れた。
 彼の感情を映さないすべてに、瞳に、表情に、手足に、こころに、もどかしさを覚えないわけではなかった。恐ろしいと呟く隊士たちの声が、こころの底にひやりと染みをつくった。だけれど。いつか見た、武州の空の下たたずむ彼と今の彼との間に大きな差異があるかといえば、それには否と答えるだろう。近藤はその確信に満ちていた。知ってしまった血の色があろうと、彼の虚空の瞳は、いつだって澄んだままで、いつだってすべてを真っ直ぐに見詰め続けて、受けとめてきた。折れてしまいそうなほどの真っ直ぐさで、細く頼りないその白い素足で。すべての現実を受けとめて、きた。
 最愛の姉を亡くして初めて迎える、今日この日を、現実を。
 ただただ澄みきったまなこで、映し出し、受容し、立っている。

「誕生日おめでとう。総悟。」

 近藤は縁側から腰を浮かし、沖田へと歩み寄る。二歩、三歩、四歩。その足も素足だった。彼のように白く頼りないとは言い難いが、確かに感じる湿った土の感触は、共に同じだろう。近藤の肉付きのよい足に、かたちの整った四角くひらべったい爪に、やはり土は付着した。
 二人の距離はもはや一歩となかった。目の前に相手の顔が、すぐ近くにお互いの存在が、ある。沖田はそのことがひどくひどく切なく思えて、どうしようもないむずがゆさを覚えて、やはりこの人にはかなわないと、そう感じた。遠いと心で呟いた拍子に、ひょいと一歩二歩とその距離を縮めてしまう。にこりともしない自分に笑いかけて、おめでとうと、言葉をくれる。

「実は俺は、お前の言いたいことがさっきからちいっとも分かんないんだ。」

 へにゃりと、笑みを崩しながら近藤は言う。「だけどよう、」

「百年先なんて言わなくても今会ってるし、明日また会う。明後日も会えるし、し明後日だって会える。いつだって会える。来年の今日だって、俺らは会える。だからまた、そんときなおめでとうを言うよ、総悟。」

 わしゃり。大きな手が、沖田の頭をかきまぜるように撫ぜた。
 沖田は思う。澄んだ瞳に現実を、笑う近藤の姿を映して。明日会える可能性も、来年おめでとうを言ってくれる可能性も、本当はどこにだってないのだと。もしそれが本当だなら、今日この日に、姉は生きて、自分へ笑いかけてくれたはずなのだ。だからそれは嘘なのだと。澄んだまなこはそう現実を映す。なのに。まなじりには感情のかたまりが、雫となって溜まり、鼻の奥がぎゅっと縮まるのに、頬や口は緩み、自然、ほころぶような笑みがこぼれて、沖田は笑っていた。

「ありがとう、近藤さん。」



#短編 #沖田 #近藤

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,銀魂

レテと羊水


回顧する土方さんと、彼が大切にした人たち。※未来捏造注意




(まどろみにみたゆめにたとへあなたたちがいなくとも、)
 

 
 星が降る前にそのおとがいへ指を這わせて唇付けたかつた。遠い昔の話だ。少年を象るすべてはもう、思い起こせぬ。昔過ぎるからかつて、それは違ふ。忘却は優しさだから、そう、人間は忘れて、しまふから。例へば榛(はしばみ)色の髪の一本一本を、緩やかな曲線を描く輪郭の角度を、首筋にうつすら浮かんだ血脈の青さを、彼を包んでいた黒衣の暗さを、其処に散る滲む澱む血の、色を。 すべては、忘れてしまつたことなのだ。
 
 永遠がないから、仕合わせなんです。
 姉にそつくりな顔で、少年はかつて微笑んだ。お前らしくない笑みだなと、あの時俺は言つた。すると少年は、忘却は優しさなんですと、俺にまた囁いた。もう、忘れて、いいんですよ。そんなことを言うのだ。やはりお前らしくない。もつとふてぶてしく、にやり笑む奴だつただろう。そう言つてやれば、それも何れの内にか忘れてしまふことですぜィ。優しく柔らかく呟いて、かくして俺はお前を忘れた。あれにはきつと幾ばくかの呪祖が込められていたに違いない。
 
 冬が来たので、外套を羽織つては、外を闊歩する。季節は残酷か、否か。時間に色と温度を纏ったそれは、恐らく非情である。優しいなど、嘘だ。
 焼け落ちたのちの、黒く煤けた土地へ辿り着く。嘗て自分たちの生活を支へていた太い柱も何もが、今は灰となつて淋しくぽつねんとしている。いつかは更地にされてしまふのだらう。何もなかつたかのやうに。誰も生きていなかつたかのやうに。
 何処が、優しいといふのだ。
 
 煤を蹴飛ばしたかつたが、躊躇われたのでやめる。年甲斐もない行動に出ることは、きつとあ奴に笑われるだらうと、思ふ。思つたのち、はつとして、口に手を遣る。
 俺には幾分も度し難いお前だつたが、だうして幾度も幾度も、忘れた筈のその声を聴くのか、そう言うだらうと心が予期するのか、それが解らぬ。豪胆に笑ふあの人の手の平の温度も芍薬の花の彼女の笑みも、心の奥底に染み付き今や我が身のやうに思える程、そう、消化しつつあるといふのに、何故、お前は、そうも俺を揺さぶるのだらう。
 過去にするだなどと言わぬ。だが思い出にはせぬ。忘れて良いと言つたお前が唯ひとり、俺の中の異物で在り続ける。
 誰も、そう、誰も。
 忘れ得ぬすべてが脳裏をスパアクして、思い返されては、地に重なる灰のやう。
 
 忘れ得などせなんだ想ひを抱へて、苦しむやうに歩いた。
(あすこを御覧なすって、十四郎さん、ほらりんだうの花が蕾を付けて、きつと笑つて居るのね、)
 積み重なる積年の想いは、きつと幾度の生を繰り返して抱えてゆくだらう。
(笑えよ、トシ、)
 
(土方、さん、)
 
 灰だけの土地を後にした。
 
 ここにはもう、誰も居らぬ。
 
 ヴエルヴエツトの感触を優しく撫ぜつけながら、簡素な造りのソファアへ深く深く沈み込んだ。眠りが満潮のやうに迫り溜まり溢れさうになる。もう自分も歳だなと、抗ひ難き眠気を静かに感じながら呟く。いつからか口にたくわへ始めた口髭が吐息に揺れる。それが些か煩わしかつた。威厳のためと部下は云ふが、あの人の顎にたくわへられたそれの方が幾分も素敵だつたなどと。他愛もない、考へ。
 
 忘れる優しさを、幾度も考へた。
 さやうならも云わず別れた彼等を、忘れるその優しさを。
 もう、忘れて、いいんですよ。
 彼の呟きは、酷と云ふにはあまり優しく、優しひと云ふにはあまりに酷だつた。
 誰もが望んだ在りもせぬ未来を垣間見てしまうやうな、その鋭利さは、さながら一筋の刃。彼の太刀筋、そのもの。
 あの焼け跡で見つけた真実が、結局はすべてなのだ。
 
 さうして俺は、眠りにつく。意識が白濁して澱んで沈んで、何をもの思ひ悩むことも無くなる。ただ、やがて来る近すぎる未来のあれやこれやが、脳裏を霞め、沈む意識の中を駆け巡る。明日は重鎮共と会議があつたか。部下達は今日の仕事を無事終へたか。結ばれた同盟の草案を、明日には必ず確認しなければ。
 
 ああ、そうか、まだ、やることだらけではないか。
 
 
 
 
 風邪を引きますよと、綿毛布を掛けられた。お疲れさんと、頭を武骨な手が撫ぜた。泣いてんじやねえや、かつこわりいですぜィ、バカ土方さん。憎たらしいほど懐かしい、榛色の童の言葉を聞いた。
 
 それでもう、充分だつたのだ。


#掌編 #土方

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青色の寓話たち

すこしふしぎな沖神。恋になる前に終わったこと。※葬式描写有


 黒いワンピースを着た。質素なつくりで、飾りもレースも一切ない。胸元にギャザーが少し入っているくらいで、本当に質素なものだ。「似合ってるよ、」と新八が言った。そういう新八は黒い袴に黒い羽織り姿で、髪まで黒いものだから、頭から先まで真っ黒だ。「これ、持ってね。」そう言って新八は薄紫色をした透明な玉がいくつも紐に通されたブレスレットのようなものを寄越した。「きれいアル、」そう言うと、「数珠っていうんだよ。お焼香あげるときにこうやって手に絡めるんだ。」といって、手の平に絡めて両手を合わせた。また一つ賢くなった気分。

「うーい、支度できたんなら行くぞー、」

 ぼりぼりと頭を掻きながら、気だるげに銀ちゃんが奥から出てくる。銀ちゃんはいつもの白い着流しから黒一色の着流しに着替えていた。全員まっくろだ。なんか、おかしい。
 外に出る。曇り空。雨が降りそうとまではいかないけれど、どんよりとしていて、あ、誰かが泣いているなと、思った。

「ほら、行くぞ神楽、」



 青いドレスに、白いエプロンを着ていた。頭にはいつもの髪飾りではなくて、大きな黒いりぼん。私の明るいオレンジの髪によく映えていた。というのも、私は今、水面を見下ろして自分の姿を確認していて、そしてここはどこかを思案していたのだ。目の前の水面、湖の畔にはお茶会を開いたかのようにテーブルの上へあらゆる食器やティーポットが並べられている。ケーキやマカロン、プティング、ムースにババロア、おいしそうな洋菓子も所狭しと並んでいた。紅茶の香りも流れてきては鼻腔をくすぐる。しかしむき出しの地面にじかにテーブルを置くとは、いささかシュールな光景だ。
 と、そんな風に周りの状況を観察していると、はらりはらりと、なにか紙、カードが落ちてきた。
 手にとって見てみると、トランプ。それはトランプだった。ダイヤのエース。
 トランプは無数に落ちてくる。蝶の羽ばたきのように、桜の散り際のように。スペードの十、ハートのキング。もしかして、トランプの数だけ降ってくるのだろうか?

「お嬢さんお嬢さん、ちょいとこちらに来ておくんなまし。」

 声がして、振り向く。テーブルに並んだいすの一つへ、誰かが座っていた。



 お経とやらは退屈で仕方がなかった。何度か船を漕いでは隣で正座する銀ちゃんに頭をはたかれて目が覚めた。仕方がないので、せめて眠らないようにと周りを観察をしてみる。皆、一様に黒い服を着て、下を向いている。こん中一人くらい寝ている奴いるだろと怪しみながら、一人一人睨んでみるが、時折肩を震わせる奴は居ても、私のように船を漕ぐ輩はいなかった。ううむ、少し、恥ずかしい。
 きょろきょろと落ち着きのない私の頭を銀ちゃんが再度はたく。しぶしぶ前を見る。すると、お坊さんの座る向こう側に遺影(と言うと、新八が教えてくれた)があり、そこに映る人物とかっちり目が合った気がした。嫌な気分だ。ぷいと、視線を外す。ああもう、どこ見てりゃいいんだ。



 ホールケーキの置かれた席に腰掛けた。正面には銀色の仮面をつけた男が座っている。男、というか、仮面をつけていても分かる。そいつは沖田だった。白のシャツに黒のチョッキ。そして、頭にはふわふわしたうさぎの耳が。うわ、似合わねー。

「何アルかコスプレアルか。言っとくが全力で気持ち悪いし似合ってないアル。」
「コスプレたあお互いさまだ。アンタだってなかなか笑える格好してますぜィ。そのひらひらしたエプロンとかマジキショイ。」
「んだとゴルア!」

 ホールケーキを皿ごと投げつける。ひらりと沖田はそれをかわす。ぐしゃ、がしゃん、ぼと。ホールケーキは哀れ、地面に落ちて見るも無残な姿と成り果てた。

「まあまあ、今回は一時休戦といきましょうや。積もる話もあるみたいだし?」

 沖田はいつものひょうひょうとした態度と口調でそう言った。積もる話だ?どこにあるんだそんなもの。

「私には積もる話なんて微塵も欠片もないアル。さっさと消えるヨロシ。」
「俺だってねーよ。出来ればこんな耳つけてまでお前と話してたくなんかさらさらねーけど、まあ、呼ばれたんだから最期くらい出向いてやろうという、そういうサービス精神みたいな?うわ、俺こころ広すぎー。」
「何言ってんだかわけわかんねーヨ。」

 その時。ぱしゃん、背後で水の撥ねる音がした。
 何故かその音が、ぞぞぞと背筋を這ってうごめいて、私の身を凍らせた気がして、身動きがとれなくなった。
 嫌な予感がした。

「俺を呼んだのはお前だって言ってんでィ。」



「神楽ちゃん?どうしたの?気分でも悪いの?」

 右隣に正座する新八が小声で尋ねてきた。私は口元を押さえて、小さく頭を横に振る。「どうした?」銀ちゃんが更に尋ねてくる。「なんか、さっきから俯いてて、顔色も悪そうで…、ちょっと抜けた方がいいんじゃ、」「神楽、大丈夫か、」「神楽ちゃん、」「かぐら」「  」、

 なんだか、二人の声が遠のいてく。



「どうして私がお前を呼んだアルか、」

 私が強い口調でそう訊くと、沖田は「言いたいことがあったんじゃねーの。」と至極気だるげでやる気なさそうに言った。その態度がやはり勘に障る。ムカつく。

「いっとくがお前なんかに言いたいことなんか米粒一つ分だって存在しないアル。」
「別に俺だってねーよ。」
「じゃあなんでいるアルか。」
「だから、お前が呼んだせいだよ。」
「呼んでないアル。」
「呼んだんだよ。じゃなきゃ誰がこんなところまで来てやるかっつーの。言ってんだろィ?最期のサービス。それも時間制約付き。話は手短に且つ簡潔にお願いしまさァ。」
「このケーキ食べていいアルか?」
「てめえ、人の話きけよ。」

目の前のティラミス(というやつらしいことは知っているが、実は食べたことがない)を見つめながら、私は考えた。沖田に言いたいこと?ない。こんな奴にくれてやる言葉などない。それよりも目の前の宝石たちを咀嚼したい。沖田は大きく大きくため息をついた。そして、幾分柔らかな声で言った。

「最後くらいお互い腹割って話してみろってことなんだろ。」

 ショートケーキに突き刺したフォークと手を止めた。
 沖田を見る。銀色の仮面が邪魔で、表情は見えない。私は少し考えて、思案して、とりあえず、思ったことを言ってみた。

「私はお前が嫌いアル。」
「ふーん。」
「嫌いで、キライで、きらい。それ以上はないネ。」
「あっそ。」
「でも、悲しいのはほんとヨ。」
「…。」
「最後なんだロ?じゃあ、特別サービスで言ってやるネ。私は悲しいアル。」
「かなしい、」
「うん。他に言葉がないくらい。」
「そうか。」
「うん。」
「俺も悲しいかもしんねえ。」
「私と話せなくなることがアルか?」
「それもあるけど、なんなんだろうな、うん、よく分かんねーけど、この気持ちがなんだったのか、それが分からないまま終わるのが、ちょいと寂しいかもしんねえなァ。もうきっと、永遠に分からなくなる。」
「それは私もきっと一緒アル。私、お前のこと嫌いだったけど、でも、宙ぶらりんな感情が、ここに吊るされて待ちぼうけしてるネ。これはなんだったんだろう。ちょっぴり苦しいアル。」
「そうか。」

 おだやかな会話だった。こんな風に話したことが、今までいくつあったろうか。きっと、片手で足りてしまうほどだろう。沖田の顔が見えないことが、珍しく、残念だ。本当に、珍しく。
 ふいに、沖田は懐中時計を取り出して時間を確認した。私はその姿を見て、時間がきたことを悟った。

「仮面、」
「ん?」
「仮面、とって欲しいアル。」
「あ?ああ、これか。別にいいけど。」

 沖田の返事を待たずに、私は目の前の宝石のようなケーキ、美しい陶器の並ぶ真っ白なテーブルクロスの上へ乗り出し、足を踏み出した。紅茶の入ったティーカップをひっくり返させ、真っ赤な苺はショートケーキから転がり落ちる。かまわずテーブルの上をずかずか、沖田の目の前で停止した。沖田は呆れた顔で仮面をはずし、私を見上げた。

「お前つくづくあり得ない女だなァ。」

 はしばみ色の髪から、真っ青な瞳が覗く。丸みを帯びた目のかたち、バランスよい頬骨のライン、薄い、色味を帯びない小さな口。彼だった。沖田だった。なにひとつ変わりなく、沖田総悟がそこに居た。
 私も沖田も何も言わず、互いの瞳の奥の奥、お互いに嫌悪し合った部分をまるで確認し合うように見つめた。私の瞳は海の色をしているが、沖田のそれは空の色をしている。似ていたのだろう。あまりに大きく。似すぎていた。でもね、今気がついた。似ていることは同時に私たちが全くのべつものであるということで、だから、そう、きっと、色んな触れ方が、出来たはずなのだろう。

「いまさら遅いかもしんないアル。
「いいんじゃねえの?なにごとにも遅すぎることなんてないって、なんかで言ってたし。」
「信憑性ゼロネ。」

 ふふ、と、笑って、私はかがんだ。青いドレスに生クリームがべったり。沖田の顔が目の前に。瞳、はしばみ色の睫、整った眉、皮膚の下を這う青白い血流、少し乾いた唇。
 私が落とした影に、沖田が包まれる。
 唇と唇を触れ合わせた。ふにゃ、やわらかい感触、目を閉じて、世界を遮断した、最後に見詰めた沖田は、無言で笑んでいた。笑って細められた目じりが美しく、愛しく、ああ、かなしいと、思った。



「気がついた?神楽ちゃん、」

 木目調の天井が目に入った。見知らぬ天井だ。声を辿ると、横には新八がいた。

「具合悪くなって、ここで休ませてもらったんだよ、おぼえてる?」

 私は黒のワンピースを着ていた。生クリームはついていなかった。

「お葬式は?」「お経も読み終わって、今、火葬場へ皆移動したよ。あ、銀さん、神楽ちゃん気がついたみたいです。」新八が襖を開けて入ってきた銀ちゃんに言った。

 私は布団の上へ仰向けで横になっていた。なんとなく、頭がぐらついている。
「銀ちゃん、」私は新八の横で胡坐をかいて座った銀ちゃんへ、お願いした。

「私、お骨、拾いたいアル。」

 煙が昇るのを見詰めた。どんよりの曇り空に吸い込まれてゆく。誰かが泣いてる空に、燃やされて灰になって還っていく。そう思案した。実にどうでもいい考えだ。
 私は目を閉じた。
 嫌いだった。何かを、誰かを傷つけるのは嫌だった。守りたかった。私は守りたかった。けれど、あいつは守る為に傷つけることを厭わなかった。それが嫌だった。傷つけても平気な顔して、ひょうひょうとしていた。正しいと思い込んでいるような、その曲がらない背筋が嫌い。揺るげよと、毒を吐きたくなる。気に食わない。
 鏡を前にしたかのような、嫌悪感。
 強さに魅入られた存在だと知っていた。私もそうだった。血の匂いにざわめく髪、粟立つ肌。踊る高揚感、ざわざわざわ、ほら、開いた瞳孔がかち合う。同じ目をしている。だから嫌い。
 でもね。あいつを、お前を否定するほどに、私は自分を否定することになっていく。高鳴る心音はあいつが振るう太刀筋に呼応。まっすぐに揺るぎないその刃に血が騒いで、どうしようもなくなる。
 嫌いだと知っていた。同類であると思いたくなかった。こいつと私は違うのだと、憎しみの視線を向けた。それを冷ややかに返したお前の、あの目が忘れられない。
 兄の影がちらつく。私の(狂気の)影がちらつく。きらい。なぐりたい。けしたい。
 すっと、時折ふせたまなこが悲しそうだったのを、本当は知っていた。
 兄の影を見て憎悪した。自分の狂気の影を見て嫌悪した。
 私は結局、お前に自己を投影するばかりで、お前自身を見たことはなかったのだ。
 自己嫌悪を自身に似た他者へ投影して、錯覚を起こしてはいがみあい。
 わたしたちは、そんな関係だった。だから幼かった。恋でもなく、愛にもなれず、宙ぶらりんな互いへのこの感情。どこにも置くことのできない想い。くるしい。かなしい。

「神楽、」

 目を開く。銀ちゃんが手を差し出してくれていた。新八が心配そうにこちらを見ていた。私は大丈夫ヨ、あいつの骨が真っ黒になってるとこ見て笑ってやるネ。そう言うと、新八はへにゃりと眉を八の字に曲げて苦笑した。「骨は燃えないんだよ。」



 湖とテーブルと私が在った。沖田はいなかった。私はテーブルクロスの上でうずくまった。涙が出るかもしれないと思った。でも、出なかった。ひざを抱えて考えた。まるで青色のおとぎばなしのようだと。私はウサギを追いかけて穴に落ちても、恋実らず泡ぶくになっても、ガラスの靴を履いても毒リンゴを食べてもいないけれど、私とお前は、水面を見詰めるような関係だった私たちは、海よりも空よりも私の瞳よりもお前の瞳よりも、碧く、蒼く、青く、あおく。まっさおに、透き通って、歪んで、冷たくて、深く、浅く、鏡のような水面を伴って、かなしい、いとしい、色だった。
 初めてのキスにはなんの味もしなかった。でも、初めてお前に触れたような気が、したんだ。おとぎばなしのように。
 ねえ、総悟。



#短編 #沖神

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春の名前に口付ける


(沖神の娘と土方さん(微土ミツ) ※未来捏造注意)

 少女は春に生まれた。まるで定められていたかのように、麗らかな花と色彩と、息吹の季節に生まれた。そして、少女の父親は春の名を少女に与えた。母親は慈愛の眼差しで幼子を抱いた。一つの家族がそこに形成されていた。家族とはとんと縁のない人生を送ってきた土方には、近寄りがたいもので、そして、遠くから見詰めても嫉妬すら起こらぬほどに美しい領域だった。つまり、在るだけで良かった。自らが呼ばれることのないことが、かえって安らかでさえある。自分には必要がない、と、土方は煙草を吹かした。

 月日の流れは早かった。幼子は少女へ変わり、少女の顔立ちは幼い頃の父親、沖田そのものと判別できるほどになった。はしばみ色の髪もそのままで、唯一違うのは、瞳の色、だった。真っ青な、そして深い海の色をしていた。紫がかっているようにもとれる色味は、色白な少女の幼い顔に、ぽつねんと光を宿す。それがまた、美しかった。子どもは神様の子なのと、昔、彼女が言った。なるほど、この少女の造形は確かに神によるものとしか思えないものだった。生まれたての髪は傷みも汚れも知らない。風にそよいで、柔らかく、そう、壊れてしまいそうな、やわいやわい、造形美。神様の子ども。だが土方は知っている。この子は、あの子憎たらしい子どもだった男と、つつけば毒を吐く、少女だった女との間に生まれた、一つの命、かたち、人間なのだ、と。
 そう、彼女も人間だった。
 同じはしばみ色の髪に、えんじ色の瞳、色白い肌。美しき造形。
 人間だったから、彼女は死んだ。
 土方はそこまで考えて、やめた。思い出は甘美だ。だがその入れ物の蓋は、滅多なこと以外に、開けてはならない。綴じ込んで、外気から遮断して、そう、酸化してしまわぬように、頑なに守らなければならないから。
 彼女に似た少女はすくすくと育つ。はしばみ色の髪を結わえて、山吹色の着物を着て、にっこり笑う。そして、両親に似てしまった毒舌で土方にときどき毒づく。
 それでも、やわいかたちは、造形はそのままだから、ふとした折りに錯覚。そのたびに自己嫌悪。現実と思い出との曖昧な境界を、土方は揺らいだ。辿り着く場所などないのに。

(幸せになって欲しい。)

 それ以外を、少女には望まないほどに。そう願ってやまない。
 贖罪か、懺悔か。はたまた偽善か。

「トシはいつもどこを見ているの?」

 少女はたびたびそう尋ねてくる。土方は答えるすべを持たないから、こう言う。「遠いところだよ。」少女は必ず、不可解なものを見る目で土方を見た。自身に誰かを重ねられているとは、露とも知らず。

(幸せになって欲しいなどと、どの口がほざくのか、)

 自己嫌悪で自己欺瞞を覆った呟きは、決して言葉にはならない。するつもりも、毛頭ない。
少女はある日こう言った。「私はトシが好きだよ。トシは私のこと好き?」
 土方は、言葉に詰まった。少女は目を輝かせるでもなく、ただ自然の表情と当たり前の様子とでもって、土方を見詰めていた。彼女の顔が重なった。しかしすぐに残像は消える。少女の真っ直ぐな瞳は揺らがない。土方の脆い心は揺らぐ。揺らいで、崩れそうになって、慌てて彼は取り繕った。「ああ、」曖昧な返答だった。それでも、少女は満足したように笑って、土方の手を握った。小さな指、爪、関節、たおやかな色白き肌。生前とることのかなわなかった彼女の、手を、思い起こす。

 幸せを願った。それは本当だった。自分ではそれを叶えられないと分かっていた。つもりだった。だが、結局、それは逃げでしかなかった。彼女からの逃避でしかなかった。

(大切なものをいつか失う恐怖。大切なものをいつか壊してしまいそうな、恐怖。)

 それらから、逃げて、自分では幸せに出来ないなんて、戯言にもほどがある。

(幸せになって欲しかった、)

 本当だったのに。それだけは、変わらない真意で、本音で、願いだった、のに。

「トシ、」

手を握る少女が呼び掛ける。土方はなんだ、とだけ返す。少女は言う。「私はトシに幸せになって欲しいから、だから私、トシのお嫁さんになってあげるよ。」
 土方は一瞬、目の裏でなにかが弾けたような痛みと感覚に見舞われた。驚いて自分の手を握る少女を見詰めた。少女は笑っていた。彼女とは違う笑みだった。似ていたが、だからこそ、ちがう、笑みを浮かべていた。ほころぶような、はにかむような、花咲くような。少女の笑み。

「トシ、かがんで、かがんで!」

 言われるままに、土方は若干の戸惑いを覚えながらも、膝を折り曲げて屈みこんだ。少女とおなじ目線になる。
 少女はその小さな、土方と繋いだ手とは逆の手を伸ばし、低くなった土方の頭を、髪を、優しく撫ぜた。近藤がするような、掻き混ぜるような豪快なやり方ではなく、髪を整えるような、毛先を、表面を撫でて梳くような、やわらかい触れ方だった。
 土方は分からなくなった。少女は、確かに似てはいても、面影を残していても、絶対に彼女ではないのだ。それを分かっている。だが、きっと彼女も、こんなふうに弟の頭を撫でてやったのだろうと、そう思考することがやめられないのだ。そしてきっと、恐らくそれは違うのだろうと、少女だから、目の前の少女だから、少女自身であるから、こうしてこんな風に優しさで閉じ込められた触れ方をできるのだとも、思う。
 頭は現実と夢の続きと思い出とで揺らいで止まらない。頭痛を伴いもしないその苦しさは、だが確かに、自分が生きてここに居て、彼女に似た少女と出会えたという事実に変わりはなく。そして幸せを願うこの、こころも。
 苦しいけれど、生きて、いるのだ。
 彼女が死んで、自分が生きていて、少女が生まれて。
 優しさの手の平の感触に、すべての営みの美しさに、狂おしき苦しみを、抱く。


#掌編 #土方

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歪な境界

 渇きを潤す、喉と咽でなしに、涙すら枯れたよな、水分。ミネラルウォーターは摂取されても、歯茎から生えた、白い刃が、すべて足りないと、食い千切る。探しものは水ではなく、細胞組織液でも、リンパ液でも、ましてや涙、鼻水、汗、ちがうもの。強いていうなら、色は赤色のそれですよ。
 追い求めることは、好きだ。渇きは、渇望が、活路を見出だした錯覚で、やすらぐ。しかし、所詮は傀儡と木偶の坊。すぐに壊れてしまうから、あなおそろしや。もっと丈夫な玩具が欲しいよ阿伏兎。
 
 そしたら困った顔して、江戸でも壊滅させて来いと、云われた。嘘はお上手。あしらいは卓越。そうだね、強請らず、また探しに行こう。卑小の愚妹は元気かな? 興味のあるふりで、けれど知ってる。壊れないならどれでもいいんだよ。ああ、虚しい。空しい。
 
 船を降りて、江戸を一望。ターミナルは絶景。さて何から壊して、請わして恋わして乞わして、面白いかな? 違う、疼いているだけさ。ああ、赤色が恋しかろうてなむ、潤いとはいかほどの愉悦だろうか。
 ふとして、餓えが鋭敏に、血の気を悟る。
「私の特等席よ、どけ。」
 *
 
 そいつは私の特等席、ターミナルの展望台の、更に上のはり出窓に、図々しく居座っていた。私はそこから、江戸の街並みを見下ろすのが日課だった。なので、丁寧に、淑女足り得る応対で、其処を退いて下さりますよう、頼んだのだ。するとどうだ、野郎、目を丸くして、私を見て一言。「強い子供を産んでくれそうだね、」
 殺そうと思った。
 私はもう、そんじょそこらのやからには、受ける間もない藪から棒さで、一太刀ずばりと、横一文字、切り捨てた。野郎はけれど、なんとなんと、大きく飛翔して、これを避けた。どんな跳躍力! まるで野兎跳ねるが如く、しばし呆然、けれどすぐに気が付いた。こいつは夜兎だ!
 面倒なものに関わってしまったなァ、と、私は嘆息した。そしてすぐに、次の太刀。野郎ははり出窓のすぐ前に立つ。だから私は、その躰、ちょいと押し潰す。窓に磔。そして右手の刀は、目指せ頸動脈。さァ一振りだ。二人分の体重に、窓は開いて、野郎が墜ちた。私は墜ちない。バランス保って、窓の内側に立った。頸動脈は切り損ねたけど、結果オーライ、さやうなら。
 
 ターミナルの頂からでは、夜兎とてただでは済まされまい。私は窓から外を見下ろした。ざまあみろ。善い印象の与えなんだヤツが悪いのさ。
 
 しかし、だ。その時の私は、不快度指数が頂点と底辺を指していたから、一歩出遅れたのだ。そうである。判断力が刹那に鈍っていたのだ。言い訳。つまり、夜兎の野郎は堕ちてはおらず、それどころか天辺に貼りついて、私を見下ろしていたのだ! 私は、野郎がストン、目の前に降りてきて初めて、知った。あァ、羞恥。失態。殺し損ねた!
「いいね、アンタ、強いね。」
 猫みたいに笑いやがった!
 
 *
 
 恍惚、昂揚、興奮、昂奮、高ぶった心音、動脈迸り、血肉沸き踊る! 素敵な玩具を見付けてしまった、なんともいえない、この嬉々とした自分の瞳! さぞかし爛々と輝いているだろう、にんまり笑ってあげたら、玩具、有りったけの苦虫を咀嚼したような、ひどい顔。脅えてない。怯んでない。それがたまらない!
 しかもね、なんて綺麗な、造形美。玩具はとってもとっても、美しかったよ阿伏兎!
 俺は飛び降りる。玩具は避ける。蹴りをお見舞いしたら、腕で防がれて。なんて、たおやかな腕なんだろう。だから力を込めて、さあ、ぼきり。折っちゃおうか。
 玩具は顔を歪めて、後方へ一足飛び。折られた腕を庇う。俺はまた笑ってあげる。とびきり、可愛い笑顔! 玩具は俊巡。逃げる算段かな、と、思って、駄目だよまだ、潤わないのだから。
 折った腕を掴んでやって、押し倒す。低い悲鳴かうめき声。甲高くない、それもまたいい。
「てめえ……」
 紅い瞳に睨まれた。
 
 *
 
 腕は完璧に折られていた。
 冗談じゃないわこの糞野郎。明日からの勤務をどうしてくれる? しかも淑女を押し倒してのマウントポジション? 愚劣め、恥を知れ。これだから天人は嫌いなのだ!
 殺意を込めて睨み付けてやったらば、また、目を丸くして、きょろり、子供みたいな表情。顔の作りと眼光と、腕力と笑顔が噛み合わない奴。なんなんだ、こいつは。
「脅えないんだね。悲鳴をあげないんだね。助けを求めないんだね。」
 口を開いた。畜生腕が痛い。体重乗せられ、腹部も痛い。
「だれがそんなことするかてめえどけくそあまんと!」
 また、丸く大きな目の淵、更に丸めて、くるり、笑う、相手。
 愉悦に酔うような、恍惚に浸るような。
 頬を撫でられた。髪を梳かれた。
 唇を奪われた。
 
 *
 
 よくよく見れば見るほど、その玩具は美しかったよ。作り込まれた、一つ一つの部品は、あるべき箇所に収まって、うるさくせずに慎ましやか。理性的な美しさに乗せられた、感情的な表情は、矛盾。それが、なにより秘めやか。甘美。
 壊すだけじゃあ、勿体ない。初めて思った。
「殺すのはやめてあげる。代わりに、俺の子供を産んでよ。」
 囁けば、見開かれて、紅い瞳、零れる。



#掌編 #初期沖田 #神威

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足りないもののない国


 満ち足りたこころをくれる、人。穏やかなさざなみを招く人。どう表現してもいいだろう。笑顔が安らかな、褐色の肌。悔しいが、彼は太陽の人だ。

「どうしたんロマーノ?」

 燦然、瞬く笑みで、スペインは振り返った。畑からの帰り道だった。汗がおとがいを伝って、滴る手前で留まるのを、ロマーノは感じていた。あまり気持ちのよいかきかたではない、汗であった。「どうもしねえよ、」とぶっきらぼうに返すと、彼は不思議そうにして、また前を向く。籠いっぱいの野菜が色彩を飛ばしていた。青空の下へ、絵の具が散らされたようなビビッドカラーに、ロマーノの視界はちかちかする。

 トマトの赤、パプリカの黄色、キュウリの緑、その中で、彼の黒髪はとても瞳に残る色だった。強くはなく、優しかった。癖のついた短い襟足から伸びる、日に浴びた艶やかな肌が、てらてらと、汗に光る。ロマーノは目をそらした。まばゆいと思った。太陽の人だと、また考えた。

「今日の昼飯どないしよー。」

 声が、高い空の下で、とおん、と響く。通る。透る。粘り気のない、夏の声だ。ロマーノは、その声を耳にしつつ、前方に人影を見つけて、スペインを呼び止めた。その呼びかけに反応し、スペインが顔を上げる。

「あれ、フランスやん。」

 おーい、スペインが声を張り上げる。畑に広がる緑の向こう、日差しの照り返しに揺らめきながら、フランスが遠くで片手を振っていた。スペインも手を振る。

「なんやろ、昼飯たかりにきたんかいな?」

 なァロマーノ。スペインの呼びかけには応えず、ロマーノはふと彼の白いシャツを見た。赤と黒の虫が、肩に止まっていた。

(黒くつや光のする首筋が白のシャツにすべりこむ、その肩口に、赤、赤、黒。)

 ロマーノは、その虫の背中の斑点を数えた。5つの黒い点が、赤の上に揃っていた。

(5つ星、)

 

「…3つ星ならレストラン、7つ星ならラッキー。中途半端。」

 

 くく、と笑いが漏れ出でた。スペインは、「何が?」と振り返り、訊いてくる。汗が、彼の鎖骨を伝うのが見えた。ロマーノは、また、ぶっきらぼうに「なんでもねーよ。」と返した。青空が高くて、(目の前を太陽が在って、)なんだか昼食が美味しく出来そうな気がした。


#掌編 #親分子分

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