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黒バス

プリオシン海岸のふたり

※怪我描写注意


(ぼくたちどこまでも一緒にいこう。きっといこう。)




〔 Ⅰ 〕

 じゃあ、逃げましょうか。そう云われた。意外だった。怒られるかと思っていたのに、彼はそうしなかった。一緒にどこか遠くへ。逃げましょうか。そう云った。俺は瞬きすら忘れて、けれどただ小さく頷いた。

「遠くへ、とは云ったものの、ボクらみたいな子供の知っている遠くなんてたかが知れていると思うんです」

 電車のホームで黒子っちは呟いた。俺はそうだね、と同意した。吐いた息が白かった。もうすぐ今年も終わる。年の瀬。凍える寒さで、ホームには誰もいない。その凍てた静かさが良かった。二人なんだなあ、と思った。

「お金にも限りがあります。もし君が帰ることを希望したときのために、帰路の分もとっておかなければなりません」
「それはないよ」

 黒子っちが一緒に逃げてくれるのに、俺が帰りたいとか云うなんて、そんなことはありえないッス。
 右隣の黒子っちをちらり、一瞥した。彼はプラットホームの向こう側を見詰めている。電車の来ない線路を見詰めている。どこまで行こうか、それを思案しているのか、俺の言葉の真偽を見定めているのか、どれかは判らない。ただたんにお腹がすいているのかもしれない。そういえば食糧も買っておかなければならないんだなあ、と俺も前を向いた。足元の黄色い線が、右の端から左の端までずっと伸びていた。線路も続いていた。けれど、足元のホームは、黄色い線は、途中で途切れていた。そして肝心の電車は来ない。乗るべき車両はない。線路だけでは、意味がない。

「とりあえず、明日の早朝、ここで」

 黒子っちはこちらを仰ぎ見て、云った。

 がんばりすぎたのかなあ、と思った。疲れたのかもなあ。じゃあ仕方がないのかなあ。教室の窓からの陽光は斜めで、冬の淡さで、出来上がる机の上の影も薄くて、そして頬杖をついて空を見上げる俺は、とても覇気がない。ノートの上の影が薄すぎて、夏の色濃いそれがふいに恋しくなる。斜めの白い冬の陽は、淡すぎて寂しいから、もう少し濃くてもいいのにな、と。ああでもこれが彼の生まれた季節なんだなと思えば、こういう寒さも淡さも別に気にならないな、と。よく分からないとりとめのない溜息を吐き続けた。授業内容なんて端から入るはずもなかった。だってこんなの、俺の苦悩の足しにもならない。微分積分が何を取り除いてくれるだろうか。何を解いてくれるだろうか。何もないだろう。俺が欲しかったもの、俺が手に入れられないもの、俺が失うもの。なにもかもが、誰にも何にも解決できない。取り戻せない。だからこんなのは、無意味だ。無価値だ。

 簡単に云えば自暴自棄だったし、難しく云えば失望と失意だったのかもしれない。絶望だったらまだマシだったのにな、とか。あー、意味がない。

 部活に顔を出さなくなって一月が経つ。どんな顔をすればいいのかも分からないし、どんな言葉が待ち受けているかを考えるのも、正直嫌だ。部員たちは腫れ物に触れるような扱いをする人たちではないと、頭では理解しているつもりでも、けれど理解と感情はリンクしない。嫌なものは嫌だし、無理なものは無理だ。俺はそれが特に顕著な方だし、だから別に、部活なんてもういいのだ。この数年間の、異様な集中力の方がむしろ珍しかった。燕の巣だった。世界三大珍味。なんでだっつーの。

 そんな風だったから、ふいに零してしまったのだ。「逃げたい」と。

 久しぶりに誠凛を訪れて、久しぶりに彼の顔を見た。校門で待ち伏せて、す、と流し目で確認した遠い場所の彼の姿は、相変わらず影が薄かった。そして淡かった。その日はこれまた寒い日で、雪こそ降ってはいなかったものの、世界もどこか白く暈けていた。空気は凍てて、なのに白さに暈けて、淡かった。影の薄い彼は、尚のこと淡かった。果敢ないと形容したくなる静かな危うさで、彼の相棒と校庭を真っ直ぐに歩いて来ていた。
 その淡さが、昼間の教室、ノートの上に落ちていた自分の影と重なった。
 一緒に帰りましょう。強引に腕を引いて連れ出した。彼はしばし瞠目していたけれど、はい、と返して、相棒にまた明日、と告げた。その言葉に、嫌な言葉だな、と思った。

「久しぶりに君の顔を見た気がします」

 少し痩せましたね。黒子っちは云う。ちゃんと食べてますか? 俺の横を歩きながら続けられる言葉。つらり、つらりと。穏やかに、静かに、仄かに。玲瓏とした、響き。俺は黙っていた。いつもだったらば、黒子っち俺のこと心配してくれてるんスか嬉しいッスー! とかなんとかオーバーリアクションかまして彼に抱きつくこと請け合いなのに、今日は無理だった。というか、これから先きっとずっと、無理な気がする。たぶん、不可能だ。出来るわけがない。だから俺は曖昧に笑う。「まあ、それなりに」

「そうですか」

 黒子っちの無表情は崩れなかった。
 それに、とても安堵した。
 気付かれないように、小さく笑った。笑えた。

 それからはお互い無言だった。会話ひとつすることもなく、駅へと向かった。歩幅はとても小さかった。ゆっくりと歩いていた。完全に陽は落ちてしまって、寒さが増して、鼻の頭が少し痛かった。赤いかもしれなかった。暗くて、路肩の電燈だけが煌々と光を落としていて、その下を通るたび、彼の吐息の白さと、彼の髪の薄い色素とが、柔らかく透けていた。こんな季節に生まれたから、こんなに果敢ないのか、この人は。思っても云わない。でも、今日は云ってしまってもいいかもしれない。ぶす、と頬を膨らませた彼に、くだらないことで叱られるのもなじられるのも、不機嫌になる彼を苦笑で宥めるのも、いいかもしれない。楽しいかもしれない。癒されるかもしれない。そう思った。だから立ち止まって、彼が不思議そうに振り返るのを待った。
 どうしたんですか。彼が問うた。静かで優しい、いつもの声音だった。俺は小さく笑った。「 、」そして言葉を声に乗せようとして、

「逃げたいです」

 どうしてか、そう云ってしまった。

〔 Ⅱ 〕

 駅に集合して、二人で早すぎる朝ごはんを食べた。一緒に入って買った、コンビニのサンドイッチとおにぎりを1つずつ。「量、減ったんじゃないですか」何気なく黒子っちが云った。小さな口と小さな動作で、もそもそと咀嚼している様子は相変わらず小動物染みていた。

「そりゃ、そんな動かないしね」

俺はそんな問いかけに苦笑で返す。彼はちらとこちらを一瞥しただけで、表情を変えることなく、そうですねと、自分のおにぎりを咀嚼し続けた。
 なんとなく、ありがとうって云いたくなったけれど、云わなかった。
 彼の前でだけは嘘吐きになりたくなかった。

 始発に乗って、まだ陽の昇らない外を見詰めた。窓辺の向こうはまるで夜だった。車内だけが明るくて、しかし暗闇の民家の間に間には、橙の光がぽつねんと忘れたように浮かんでいたりして。それはまるで夜空の深淵を走っているようだったし、深海の底辺を走っているようでもあった。今日の俺ずいぶんポエミーッスね。ぼおっとしながらそう思った。隣の黒子っちは「さすがにちょっと眠いですね」とだけ云った。彼もぼおっとしているようだった。

「寝ちゃってもいいッスよ」

 俺起きてるから。隣の頭頂部を見下ろしながら云う。すると、「君が寝たらどうですか」と返してくる。くるりと首を捻って、俺の顔を振り仰ぎ、じっと、感情の読めない水晶の瞳で問いかけてくる。俺は少したじろいだ。奥の奥の、 その虹彩の奥の色が、今日は随分と澄んで見えた。それが少し、怖かった。見透かされた気が、した。

「どうして?」

 意図せず、冷えた声が出てしまった。
 それに構うことなく、黒子っちは答える。

「隈、できてます」

 うっすらとですけど。
 俺の瞳を射抜く、彼の瞳。視線。声。言葉。
 意思。

「モデルさんが隈つくっちゃダメですよ」

 めっ。
 そして伸ばされた指が、俺の額を優しくでこぴんした。
 俺は面食らった。唖然としてしまって、ぱちぱちと、まばたきだけを繰り返した。
 そこで彼は、今日初めての微笑をして、ボクが起きてます。君はさっさと眠って下さい。はっきりとした、彼らしい意志のある声音でそう云った。
 誰もいない車内に、何もない空間に、静かな彼の笑みと、何も言えない俺が居た。



 夢を、鮮明に覚えているとき。
 それは美醜に関わらず、大抵が悪夢だ。

 だんだんに近づいてくる車体のリズムに瞼を上げれば、隣には彼がいて、案の定彼も眠っていた。やっぱり眠かったんじゃないッスか。苦笑い。穏やかな吐息の寝息すら届かなくて、煌々とした灯かりの作る陰影で、彼の顔はよく見えない。身じろぎひとつせず、車体のリズムに首が僅かに傾くばかりだ。見下ろしたつむじが小さい。車窓の向こうも未だ薄暗い。吐息もなく、会話もなく、声もなく。笑みもなく、嗚咽もなく、怒声も悔やみもない場所。閉じられているのに、移動している、車内。そこに居る俺と彼。
 なにもないのに、なにもなくても。なにもないまま何処かへと連れてゆかれるその非日常性は、俺の瞳を乾かせる。潤まない。涙は滲まない。

 夢をみていた。
 夢のなかでも、俺は泣いていなかった。

 とてもお世話になった先輩たちが居た。夢のなかで、俺は彼等に謝っていた。必死に謝っていた。縋るように懇願していた。お願いします。だから、見捨てないで。お願いします。
 先輩たちの表情は、覚えていない。立っていた場所の影の濃淡からその場の空気の匂いまで、あんなに仔細にすべてを憶えているような夢だったのに、どうあっても先輩たちの表情が、なにひとつ、思い起こせない。
 あるいは、思い起こせないのではなくて、
 元よりなかっただけなのかもしれないけれど。
 でもただひとつ、俺は心の底から恐怖していたのだ。
 お願いだから、俺を見捨てないで。置いて行かないで。
 いらないなんて、云わないで。

 たたん、たたん、と。
 一定の規則的なリズムが刻まれて、鼓動も関係なく身体を静かに揺さぶられて。
 傾いだ彼の小さな頭が、俺の二の腕に触れた。

 窓の向こうをまばらな光が走った。黒い影の隙間から、白々しい夜明けが垣間見えた。
 それがあまりに、夢の中の美しい絶望の色に近くて。
このまま朝など来なくていい。あんな夢ならもう二度と。
 彼が目を覚ましませんように。
 このまま列車よ、なにもかもを閉じ込めたまま、何処かへと俺と彼とを連れて行ってくれ。
 そんなことを思ってやまないのだ。

(辿り着けなくていい。もう、そんなものは求めない。俺は、ただこの人の手を握っていられれば、それでいい)
(共に逃げてくれるという、この人の手に縋れるのならば、)
(だから不誠実な俺をどうか笑ってください黒子っち)

 きっと、この人は笑ったりしないだろうけれど。

〔 Ⅲ 〕

 事故だった。けれど、そんなに大それたものじゃない。交通事故のように大袈裟でないし、災害のようにドラマ性もない。
 俺はその日、普通に部活に出ていた。その途中で、マネージャーや後輩と一緒に部活に必要な諸々の機材と資材とを運んでいた。校舎の中を談笑と共に移動して、部室へ向かって歩いていた。そして階段に差し掛かったとき、ふいに騒がしさを耳にした。踊り場で複数の男子生徒がもみ合っていたのだ。手の中の荷物は3人に分担しても尚かなりの量で、踊り場に辿り着く前に、俺はマネージャーや後輩を背後に回して、止まった。身動きしにくい今の状態であの騒がしさに差し掛かるのはまずいと思った。
 そこで、男子生徒の一人が相手に向かい手にしていた鞄を投げた。
 それが踊り場の後方、下の段に居たマネージャーの頭上に高く放物線を描いて、落ちていった。スローモーションがかかって、けれど緑間のそれには遠く及ばない乱雑な跳躍で、マネージャーは、自らの頭上に落下してゆく鞄を、空の上に停滞する月か何かを見るかのように、呆けた眸を瞠るだけで。
 彼女の身体は動かなかった。彼女は避けることができなかった。
 そして俺はそれを察知していた。
 感覚的で、反射的で、勝手に動いていた。
 腕の中の全てを放って、彼女に被さった。彼女ごと段を転げた。抱え込んだ彼女は、擦り傷だけで済んだ。
 そしてそのとき、俺は膝を傷めた。

 高校一年のウインターカップ。その時点で、既に故障の兆しはあった。入念なストレッチを心がけたり、先輩方や監督の指示でオーバーワークしすぎない程度の練習量を模索したり、色々、色々工夫していた。きっと、そうやっていけばこのままずっと大丈夫だと、そう思っていた。事実、そうだった。
 だからあれは、ただの事故だった。
 自己責任といえば自己責任で、過失といえば過失で、被害といえば被害といえた。
 けれど、そんなの、いまさら。
 喪ったことが、ただただ現実でしかないのに。

 高校二年の秋にそうなって、しばらくは部活に顔を出していたけれど、冬に向けて練習に励む先輩や後輩の姿を、掻き鳴らされるスキール音を、跳ねて重低音で心を振るわせる、ボールの弾む音も、なにもかもを直視することなんて、俺のこの薄っぺらいメンタルで耐え続けられるはずもなかった。慰めは嘲笑に聞こえて、労わりは罵倒に聞こえた。現実は俺を殺そうとしていて、そうして日が昇って沈んでいた。いつの間にか家と教室とを往復するだけの生活を繰り返していた。殺されないための防御だったのかもしれない。その当時の記憶は、驚くぐらいに、清清しいまでに、ない。おぼえていない。憶えてたりしたら、死んでしまう。だからそれで良かったのだと思う。
 だけど、きっと俺のなかの何かは既に萎えてしぼんで、枯れて腐って、跡形もなく、もう、この身のうちのどこにだって生きてやしない。
 それをふとした折に思い知るたび、耳の少し手前で、震えるような囁きがこっそり耳打ちしてくる。

 そんなのは、もう、死んでいるも同然じゃあないのか、と。

 誰がそんなことを云うのだろう。誰がそんな、残酷なことを、云ったのだろう。考えるけど、何度だって、怖いとか苦しいとか辛いとか悔しいとか、そうやって嘆いて呻いて、嗚咽を漏らして、何度だって。もがいて、考えるのに。考えたのに。
 分かりきっていた。それは俺の声だった。俺の声が、あんた、死んじゃったね、って、笑ってた。諦めて笑っていた。涙すら流さないで、全部諦めて、いつかの俺みたいに、濁った目で、全部を馬鹿にしていた。バスケもバスケに夢中になっていた俺のことも、全部を笑い飛ばそうとして、眉根を寄せて顎をつんと上向かせて、蔑んで、そのくせ、失敗していた。嫌だって泣き喚いても、あーあ死んじゃったって冷めて諦めたふりをしても、けれど、結局、事実は膝の故障。俺の現実から永遠にバスケは取り上げられる。それだけ。俺が何をどう哀しんだって、嘆いたって、笑ったって、諦めたって。
 それだけ。
 それだけなのだ。

(分かりきっている、)

 授業中に見上げた窓辺の向こう、鈍い雲の、そのからだに透けた薄くて淡くて、果敢ない、斜めの冬の光。
 ノートに落とされた、繊細で微細で、微か過ぎる薄倖の影。
 彼に会いたいと、だから、俺は思ったのだ。
 きちんと殺して欲しかったから。
 彼に、彼だけに。

 けれど、それならば何故、俺はあんな一言をこぼしてしまったのだろうか。
 もしかしたら、云うつもりのなかったその一言が意図せず溢れ出てしまったのも、あれが俺の本音と本性だったからなのかもしれない。
 逃げたいって。
 殺して欲しいと、終わらせる一言を下さいと希う相手にそんな言葉を落とすのは。
 矛盾でなく、どう考えたって、

「一緒に死んで」

 そう笑いかける希望のような。
 哀切の愛であったような。

 ごめんなさい、って、誰かに言いたかった。
 許されたかった。
 許されたかったのだ。

〔 Ⅳ 〕

 行き着いた先は寂れすぎた無人駅だった。「なんにもありませんね」彼が言う。空は重く低く、狭く蓋をしていた。早朝だからだろうか。いつもよりもずっと、寒さが身に染みた。

「行きたいところ、ありますか」

 しばらくきょろきょろと周囲を窺っていた頭が、ふいと、こちらを振り仰いだ。俺は、特には、と答えた。けれど、こんなに狭い、券売機すら置かれていないような窮屈で侘しくて、そしてがらんどうに寂しい場所にいつまでも二人で居るわけにはいかない。「じゃあ、適当に」黒子っちがそう続けてくれたので、俺はその隣に立った。歩き出した。こういうとき、彼の無感情にさえ思える淡白な面持ちがありがたい。

 逃げましょう、と。

 そう会話して、決めて、二人で選んだ場所は、何処でもなかった。
 何処という指定もなく、何処へという希望もなかった。ただ二人の持ちうる金銭で、最も遠く、最も知らない、そういう場所へ行きましょうと、彼は云った。せっかくなのだから、知らない場所の知らない景色を、風と匂いを、楽しみながら逃げましょう。黄瀬くん。俺はうっすらと笑いながら、うん、と返した。そうだね。そうしようか、黒子っち。

 楽しもうと、密やかに取り交わしたそれらを意識する。二人で小さな、木製の掘っ立て小屋のような駅舎を出たときに、きょろり、俺は空を見上げた。風はなくて、ほんのり、潮のような、石灰を砕いたかのような、どこか咽奥を掠めるような。懐かしくはない匂いがした。近くに工場でもあるのかもしれない。周囲には住宅地すらなく、ただただ鬱蒼と枯れ草色の茂みが広がる。駅舎の階段を下りたところには簡易なバスの時刻表があった。青の丸い標識で、錆びた茶と白の棒でただ、外気に晒されて立ち尽くしていた。

「この時刻表、最後の更新日が7年前になってるんスけど」
「よっぽど人が来ないんですね」

 不安になりましたか? 悪戯そうに微笑して、黒子っちが見上げてきた。別に全然ッスけど? お返しに、俺はふんと、小さく荒く、鼻で息を吐いてやった。不安半分、むしろ好都合と、半分。そういう心持ちで。

「でも自販機もないんじゃ、ちょっと困りましたね」

 彼は再び、くるくると首と視線を回しながら、近くや遠くを観察していた。今はミネラルウォーター持ってるし、だいじょぶっしょ。あっけからんと答えた俺に対して、彼は云う。一人一本持っているだけなのに、飲み干してしまったらどうするんですか。少し呆れ気味で、面倒くさげで。
 けれど俺は、決めてあった言葉だけ返すのだ。

「だって俺ら、逃げてきたんスよ。ここに暮らすわけじゃない」

 もし何もないとこで飲み干しちゃったんなら、そこで終わればいいんスよ。簡単なことじゃないッスか。そんな慎重にならなくていいんだよ、黒子っち。
 真面目なんだからー! 冗談まぎれにその横っ面へじゃれてみせれば、彼は口を噤んで、何も伝えない言葉で、唇で、表情で。
 やっぱりなんにも。云ってくれはしなかった。
 ただ一言だけ。
 君って馬鹿ですよね。
 それだけがやたら鮮明に、安堵の声音で、しかし心の底からの哀しみで。ぼそりと聴こえて、耳にこだまして、食道を 焼いて、俺の胃の内に根を張った。
 そう、そうなんだよ、俺って馬鹿なんスよ、黒子っち。
 きっとそんなこと、もうたくさん知っていたでしょう。
(たくさん、)

(たくさん、知っていたよね)

〔 Ⅴ 〕

 彼が俺を叱ることは多々あれど、ところがどっこい彼が俺を褒めることだって実は結構あったりする。俺と彼を共通で知っている人たちはそれこそお前のポジティブちょっと悲しすぎんだろうとか云ってきたりするけれど、本当にね、たくさん、あるんスよ。分かりづらいけれど、彼はいつだって俺のことを見ていてくれる人だったんです。そんなこと、誰も信じないでしょう。俺の勘違いだって自惚れだって、そう云うでしょう。それでいいって、俺はやっぱり自惚れるでしょう。
 たとえばね。
 あの、秋の日。

 黄瀬くん。

 揺れず、揺らがず。さざなみよりも静かに。透明よりも尚透徹に、黒子っちは俺の寝台横に立っていた。黄瀬くん。君は俺の名を呼んだ。何度も、俺が返事をするまで、何度も呼びかけた。大丈夫、だいじょぶッスよ、黒子っち。こんなの、屁の河童ッス。なんでもないッス。俺はそう答えているつもりで、けれど唇は一ミリだって上下しやしなかった。口の端にはいつもどおりの人好きのする笑みを浮かべているつもりで、目だって、口よりも物を言う、その澄んだ瞳を見詰めているつもりでいたのだ。けれど、実際の俺は白い寝台の上で白いシーツを被っていて、上体を起こしてさえいても、けれどその背も首も、顎の先さえも、項垂れて、落ちて、何も見えていなかった。瞳は開いていたような、ないような、あまりよく憶えていない。事の顛末を聞きつけて、真っ直ぐに誰よりも早くに駆けつけてくれた彼の顔を、だからこそ、俺は絶対に見ることは出来なかったのだと、今ならそう、納得できる気がする。裏切るわけにはいかない。だからその顔を、目を、見詰めて。安心を与える笑みを届けて、よかったなんでもないようですね本当に君はいつだって大袈裟なんですよ。そう、毒舌まがいの彼の安堵を知りたかったのに。身体は動かない。瞼も動かない。空気さえ止まったままで、きっとあのときから俺の時間はずっと、止まったままでいる。
 裏切るわけには、いかない。本当にそう思っていた。思っていたんだよ、黒子っち。

 君は何も云わなかった。無言で、けれどもう一度、十分ほどの沈黙のあとにやっと、か細く搾り出すみたいに、「きせくん」と名前を零した。
 不安が伝わってきて、動揺が伝わってきて、俺の鼓膜だけが生きていて、その先の聴神経だけがもう勝手に死んでいる。動かない。動かない。動けない。動きたくない。なにも見たくない。なにも知りたくない。なにも分かりたくない。なにも理解したくない。なにもほしくない。

 ……帰って。

 真っ白な部屋。秋の天井からは、抜けるような夕空の、透かしたような美しい陽射しが窓硝子を貫いていた。それは床の上に眩い乳白色の光の窓を切り取り出していて、その窓枠の中に、俺の薄青い影が落ちていた。そして君の足元に広がっていた。君の影は足先から、俺とは別の影へ伸びて、続いていた。俺の影だけ囲われて、途切れていた。まばゆい光景だった。目の奥がちかちかして、ぎゅっときつく目を瞑っても、瞼の裏には赤い閃光の明滅と、そして俺の影が落ちた光の窓枠がいつまでも映っている。いつまでも残っている。移ろいで、いる。
 帰って。
 もう一度そう繰り返した。掠れた声だった。それ以外は一切合切、何もしないし、何も発さなかった。時計はなくて、秒針の音が時を重ねてもくれなくて、俺と、君のいるこの白い部屋は、白い箱は、取り残されて、綺麗で、止まってしまって、けれどこの一瞬から俺の死は始まっていたのだ。
 また、来ます。
 そう云って君は帰っていった。

 君は俺が退院するまで何度も足しげく通ってくれた。何度も病室を訪れては、他愛ない雑談だけして帰っていった。最初のその日のあとには、既に俺の仮面も嘘の聴神経も再形成されていて、上辺だけの雑談に、へらへらと合わせられる程度の受け答えは、もう十分出来るようになっていた。そのまがいものを、君は分かっていた。けれども痛ましさに目を細めるでもなく、同情の色で悼むでもなく、白い箱に訪れては、ただなんとはなしの無言と雑談だけを繰り返した。俺はそれに甘えて、何も云わなかった。何も告げなかった。閉じていった。感覚を、思考を、本当を、現実を、ぜんぶ、閉じていった。そうして退院する前日に、君が項垂れた。清廉な顔を俯けて、一言。

「ごめんなさい、黄瀬くん」

 そんな謝罪は、ずるいと。
 瞳の奥から、虹彩の色彩の端から端まで。すっと、絶対零度の冷気のように。
 腐食のように。
 饐えていった。冷めていった。
 急激に、俺の中の何かがひび割れていった。
「アンタもさあ、大概自分勝手ッスよね」
 ゆらりと。項垂れて、更に小さくなってしまった君の前に、俺は立ち塞がった。
 白い部屋。傾いて短くなって、斜めの陽光さえなく。ただ暮れなずむ世界の向こうの、寂しい暗がりだけがひたひたと忍び寄る、それでも頑なに、暗くて、白い部屋。
 消毒液の匂い。饐えた俺の瞳孔。揺らぐ彼の不安。無い音までが聞こえてきそうなほどに、静かで、寂しくて、辛い場所。部屋。箱。

「なに勝手に、自己完結して謝ったりしてんの?」

 すると君は、驚いたようにぱっと顔を上げて、伸びた前髪の隙間からその透明な瞳の輪郭を覗かせた。
 俺は容赦なく続ける。

「自分の自己満足に、俺を利用しないでくんないッスかね」

 冷たい声だと、自分でも分かっていた。傍観者みたいに、他人事みたいに、傍聴していた。
 それは酷薄だった。告白だった。刻薄に、黒白で、酷薄な。
 なんで、なんて。自分でだって分からない。でも、俺はいつも、なぜか君の前でだけは酷薄に笑うことが多かった。
 それは彼を尊敬するが故の敬慕だったし、けれど嫉妬でもあったのかもしれない。信頼という名前の、勝手な期待だったのかもしれない。だって彼は、俺の認める数少ない人間のひとりで、その中でもありえないぐらいに尊んでいる人で、そして、好いていたんだ。
 君は誰よりも何もよりも、俺の矛盾を見抜ける人だったから。
 それが何よりも嬉しくて、好きだったから。
 だから俺は、いつだって勝手に、身勝手に、君を信頼して信用して、平気で俺の卑劣さを晒せていた。晒せると安心していた。
 俺こそが自分勝手だった。独り善がりの自己完結を、いつもいつも、自分勝手に繰り返していた。
 だからこれさえも、違った。これは、ただの八つ当たりだった。信頼でもなんでもなかった。勝手にまた、自己完結を繰り返して、君に押し付けた幻想や理想や期待を、裏切られた気分になって。失望して。がっかり、していた。何様だって話だけれど、でも、こんな風に、怯えるような不安を露にする人じゃなかっただろうとか、俺のことなんて気にもしないで屹然としていて欲しいとか、もっと俺のために泣いて嘆いてくれればいいのにとか、薄情者だとか、助けてくれねえのとか、あべこべなことを身の内で叫んで、罵倒して、縋って、苦しんで、違うほんとうはちがうって、泣きたかったのは俺のはずだったのに、俺だったのに。

 裏切ったのは俺の方だったのに。

「同情なんていらねえんだよ。こんな毎日まいにち、しかもやっと退院ってときに……人の気も知らないで、馬鹿にしてんの?」

 ぱん。

 軽い音が響いた。
 頬を、打たれた音だった。

「いい加減にして下さい」

 驚きで一瞬僅かに瞠目していると、凛として明瞭に意志を持った、いつかの日に信頼した、尊敬しはじめた、彼の声が聞こえた。逸れてしまった視線を戻した。
 そこには、誠実な眼が、瞳が、視線が、あった。清廉だった。淡水色の、焔の瞳だった。
 
 いつもの彼だった。黒子テツヤその人だった。
 俺は、打たれた左頬を撫ぜる。呆けたように痛みを反芻する。

「哀しいなら哀しいって云ってください。それすらしないで何が同情ですか、頼りもしないで助けて欲しいとか、君こそ、君のほうこそ、ボクを馬鹿にしているんですか? ……ボクをなんだと、思って、いるんですか」

 不安に項垂れて、力なく落とされていたはずの君の両の拳が、わなわなと震えているのが見えた。

「君こそボクのことなんて分かってないくせに、ボクの気持ちなんて、微塵も分かろうとしないくせに、」

 ぼろり。
 涙。

 透明な雫が、透明な瞳の、透明の焔の奥から分離して、零れて、丸みを帯びて。光って。彼の柔肌の上をするりと滑り落ちていった。
 雫は透明なのに、燃えていて、熱くて、そして強い意志の塊だった。
 息を呑むほど綺麗だった。
 呆然とする俺を置いて、君は続ける。拳は戦慄くように震え続けて、ぎゅっと寄せられた眉根は、悲痛に歪んでいた。君が本当に嘆いて、哀しんで、痛んで、苦しんでいるのが、あっさりと分かってしまうくらいに、悲痛な声音だった。表情だった。俺は、間違えたと気付いた。けれど君は続ける。俺を強く睨み付けて叫ぶ。

「ボクは、神様でも、なんでもないんだ!」

 爆ぜたような、痛みの、叫び。
 びりびりと、白い箱に反響する。

「君の、きみのすべてを理解できるわけないんだ! ボクだって、きみのために泣きたいのに、嘆いて、なにも、なにも出来なくてごめんって、でも、なのにきみは、きみはわらうんだ、ごまかすんだ!」

 ぼろぼろ、ぼろぼろ。
 流星が落下していくみたいに。綺麗なゴミ屑が、虚しく排泄されていくみたいに。
 怒りと嘆きと哀しみと、そして真っ直ぐな誠実さで、俺の瞳を射抜く。俺の卑劣を暴く。
 こんなときでさえ、君は俺を見抜いて、見捨てなかった。
 俺の信頼と尊敬のままに、居てくれた。

「思うことすら許してくれない人が、君が、ボクにそんな風に言うな!」

 どん。胸を押される。叩かれる。軽くて痛みもなくて、けれど、鉛より重い拳だった。震えが伝わるようだった。彼の悲しみが移るようだった。
 それは縋りつくものでも、突き放すものでもなかった。
 ただ彼の想いだった。

「ばかやろう!」

 そうして、あの冬の日まで。
 君は何も伝えなくなった。
 俺は君に逢わなくなった。

 あれは君の信頼だった。そして悲痛の激励だった。君はいつだって、俺を信じてくれていた。信じていますって、叫んでくれていた。拳をこちらに突き出してくれていた。全身全霊の信用で、信頼で、信憑だった。
 けれど。
 付き合わせる拳を失くした俺の、その恐怖だって、絶望だって、ぜんぶ本物だったんだ。
 
 だから俺は、一緒に逃げたかったんだと思うよ。黒子っち。
 あなたとだけ。

 あなたと、だけ。



(彼の持つ緑色の切符は天上までゆけるもので、俺の眼前にはすでに石炭袋がせまつてゐる。知つてゐる。俺はまう、河に落ちてしまつてゐた。肩は濡れてゐた。)


***


(優しい海で、君と笑い合う)

〔 Ⅵ 〕

 雪、降りそうですね。
 ひっそり聴こえてきた声に、そうッスね。そう返して、けれど歩き続けた。そう云われればそんな気もして、何もないアスファルトの地面が白いそれに思われてきたりして、きしきしと音さえたててゆくようでもあった。けれどまだ白いそれも水の礫も降ってはいない。そのくらい寒い、というだけの話。そろそろお昼かもしれない。お腹が切なくなってきた気がする。

 変わらず空は低くて、右手には古ぼけた線路、錆びた鉄柵。左手には鬱蒼と茂った茶色の枯れ草、それを覆い隠せもしない、裸の木々が広がるばかりだった。鼻には化学物質染みた、間違えたように潮っぽい匂いが掠めていって、口の中は何故だか血生臭い。
 低い空の、低い雲の、閉じた世界の、時間の経過の反比例で暗くなってゆく光。陽光。頬を刺す冷気。凍てた吐息。
 それらだけがずっと先の先の道まで。何処までも続いていて、延びていて、終わりなく思えて、寒いところだなあと、やっぱりそれだけが口をついて出ていった。
 その一言以外、歩く二人には他に言葉もなかった。会話はとうに途切れていた。俺も彼も、無言だった。言葉は決して無意味なわけじゃなく、むしろ俺も彼ももっとなにか話すべきだったのに、寒いねとか降りそうですねとか、そんなことしか零せない。何か避けていて、そしてそんなものは当然に分かっていた。

 お互いに。
 どこまで、と。
 それを訊くのが、それを確信するのが、怖かったのだ。
 俺も、彼も。

 君は、馬鹿ですねと云った。水もなにもなくなったならば、ここで終わればいいんだよ。そう云ってのけた俺に対して君は云った。けれど別に、君は否定しなかった。肯定もしなかった。ただ受け止めただけだった。俺はそれに甘んじた。結論を遠ざけた。
 逃げるって、約束したけれど。
 けれど俺は、君まで道連れにしてどうこうなってやろうなんて、そんなところまで落ちてやるつもりなんて、本当に、そんな気は全くなかったのだ。
 本当に。
 けれどまだ、道は続いていた。続いてしまって、いた。

 何処まで、行ってくれるの。黒子っち。
 そう訊くことは躊躇われた。だって、付いてきてくれると約束したのは彼だ。約束を疑われては、彼はきっと、ぷんと頬を膨らませてまた怒ってしまう。そして彼は、約束を違うような人じゃない。俺は知っている。それは信頼だ。こればかりは、勝手な期待なんかじゃない。俺が黒子っちを好きな理由。尊敬する理由。すべて本物の話。
 けれど、けれど彼が、黒子テツヤが優しいのも俺に甘いのも、俺を好いてくれているのも。そしてなによりも誰よりも、俺の灯火みたいだったバスケの残滓に、亡骸に、なによりもの嘆きを抱いているのも、彼だったのだと。知っている。俺は知っている。
 優しい人だから。俺を見抜ける唯一の人だから。黒子テツヤ、だから。黒子っちだから。
 だから、こんな風に連れて行ってはだめだって、本当は分かっていたはずなんだ。
 こんなのは違うって。こんなのは、彼の優しさに付け込んでいるだけだって。
 それこそ、いちばん分かっていたはずなんだ。
 彼が彼のままであるから、俺は何よりも彼を尊敬しているのに。
 彼が彼のままであるから、俺を見捨てないというその事実に。
 俺は付け込んでいる。付け入っている。
 そしてそのことに、俺は気付いている。
 何も云えないくせに、気付いている。

(卑怯者)



 それでも、俺の躊躇いも不安も笑って置いてけぼりに、道は勝手に続いた。
 そして突然に開けた。
 左手に続いた枯れ木の波間は終わり、右手の錆びた鉄柵はいつの間にか線路ごといなくなっていた。代わりに、すぐに廃屋が現れた。昼間だというのにその全体は妙に薄暗く、そして寂しかった。
 古ぼけた硝子戸と、ひび割れ錆びきったトタン屋根はまるでイビツで、どこかタイボクノウロを思わ、不気味だった。窓はあるのに、その奥は漆を塗ったようにべったりと黒かった。何も見えなくて、見通せない。それほど暗く、黒い。のっぺりと。
 それが恐ろしかった。深淵とは程遠く、むしろ海底を覗くようだった。
 そしてその隣に、まるで両極端に、白い場所が開けていた。
 暗い場所と明るい場所が隣り合った、実に不自然すぎる場所だった。

「何かの工場跡、ですかね」

 ぽそり、彼が零す。
 恐らくそうなんだろう。鉄筋とコンクリート固めの、いかにもな鉄骨。むき出しの機材。建物たち。薄灰色をしていて、ところどころは錆びて、赤茶色に侵食していた。それらが大きく広場を囲い込み、その広場には、大量の白い砂山が出来ていた。それはまるで砂糖や塩を精製したあとのようで、真っ白なそれらが広くひろく、広大な敷地に拡げられていた。まるで新雪の跡みたいだった。雲に覆われているとはいえ、真昼間に開かれた一面の白は少し、目に痛かった。
 眩しかった。ちかちかした。

「駅に降りたときから思ってましたけど、この匂いって石灰ですよね? この白い粉みたいなの、塩みたいですけど、ちょっと違いますし」

 化学製品ぽい匂いします。すん、黒子っちが鼻を鳴らす。俺も思ってた。なんか、ニセモノっぽい匂いだよね。二人でさくさくと踏み入って、ぎゅっぎゅっ、白い山をこわごわ踏み締めた。見た目にそぐわず、硬かった。一握一握がアラレみたいに硬質だった。
 かり、しゃり、ちり。
 ふたりで、何度も踏んだ。

「工場長に怒られないッスかね?」
「工場長ってなんですか誰ですか」

 ぶふっ。可笑しそうに吹き出す仕草が、寒さに縮んでより小さく、果敢なく、愛らしかった。かわいいと、そう思った。だから、つと、指を伸ばした。彼に。
 そのとき彼は、膝を折りしゃがみこんで、白い礫に触れていた。さらさらと零れるかと思ったのに、やはりそれは硬そうで、ぽろぽろぼろぼろ、彼の指と指の隙間から落ちていっていた。不規則にばらばらと、落ちていっていた。白い粒はあまり光らなかった。鈍く煌めくだけで、光り輝いてはいなかった。
 だからそれは、やはりどこか偽物っぽく思えた。それなら、あの日あのとき、あの白い箱で見詰めた彼の涙のほうが、よっぽど光っていたなと思えた。思ってしまった。
 そう思って、失敗したと悟った。
 そんな綺麗な記憶、今思い出してはいけなかったのに、と。

 彼が振り返った。俺を振り仰いだ。柔らかく笑んで、「これ、雪というより砂ですね」そう云って、掌のなかの白い砂雪を俺に差し出した。笑っていた。風もない寒さなのに、静けさなのに、彼の淡水色の髪が、白さに眩しさを反射していた。温かさえ感じる、眩しさだった。
 なのに、寒くて。
 だからきれいだった。

「……じゃあ、ここは、冬の海ッスね」

 差し出されたその一握を指で撫ぜた。堅かった。ざらざらしていた。
 俺を見上げる彼は水のようで、やっぱり、ここは海だと思えた。
 ふたりきりの海だった。
 辿り着いた先の、暗がりと明るさの矛盾した、俺と黒子っちだけの。

 どこで。
 どこで、終わればいいのだろう。どこまで行ってくれるのだろう。どこまで俺を、選んでくれるだろう。そんな不安ばかりを抱えていた。怖かった。でも嬉しかった。俺は確かに今この瞬間、彼に選ばれていた。彼は俺を選んでその隣に立ってくれていた。だから嬉しかった 。それだけでいいと思えた。けれど、けれど。
 それでも、喪った事実だけがただ本当で。
 だから、ここだと。
 彼を放してあげられるなら、ここなのだと。
 そう思った。

 どこで、だなんて、どこでもなかった。俺が決めて、俺が終わらせなければならないのだと、そんな当たり前のことに、触れた一握の偽物の砂浜に、今、ようやっと。
 気付いた。
 気付かされた。

 空はどんどん暗くなる。真昼間なのに、いちばん太陽の照る、いちばん明るい時間のはずなのに。
 どんどん暗くなる。どんどんくすんでく。

 どこで終われるのかも知れずに。それでも君は、一緒に逃げようと云ってくれた。俺の目を見てくれていた。ばかやろうと、手を差し伸べて、泣いて、くれた。
 車輪の起こす振動のなかで、寄りかかられた肩の体温が。その呼吸の振幅が。深海の底を走るような鉄道が。その窓の向こうの夜明けとタイボクノウロが。
 並んで歩いて、ふたりで辿り着いた、ふたりだけの冬の海が。

 街燈の下。スポットライトの照明のようなその橙の光の下。振り返る表情の誠実さが。
 清廉さが。
 果敢なさが。
 思い返されては、その度に君の澄みきった淡い水色を見つけて。
 ああ、駄目だ、と。
 こんなのは、だめだ。やっと、思えたのだ。
 だから云った。
 だからやめた。
 辞めて、止めた。

「ねえ、黒子っち」

 俺は云う。できるだけ穏やかに云う。彼は発言でなく、瞳で返す。どうしましたか、黄瀬くん。その指の隙間から白い海が零れていく。落ちていく。鈍くくすんで、嘘の潮の香りで、本物でもないのに、冬の海の砂。ここが最後。云わなければならない。淡く暈けた夕闇の灯かりの中で、果敢なげに、立ち止まってしまった俺を振り返る君の後ろ髪、背中、ゆっくりと震える細かな睫、何も云わない瞳。水色の髪が街燈に透ける様。逃げたい。そう呟いた俺を見詰めるそのまなこの、奥の、奥の、深淵。真円。
 そして、あの秋の日に云えなかった言葉。単語。
 云わなければ、ならない。

「ねえ、俺、大丈夫なんスよ、黒子っち」

 大丈夫なんです。
 そう伝える。

「俺、死んじゃおうとか、そんなこと云わないから。ぜったいに、いわないから。だから、大丈夫だよ。安心して」
「……黄瀬くん?」

 突然に唐突に、訥々と紡がれ始めた俺の言葉に、黒子っちが静かに戸惑いをみせた。
 俺はそんな彼に愛しさを感じて、くすりと笑う。眉尻は八の字を描いて、垂れ下がり情けない。

「こんなところまで連れてきちゃって、ごめんね。逃げたいとか、いざとなったら終わっちゃえばいいとか、なんかもう、滅茶苦茶ッスよね俺。迷惑かけてごめん。……もう、いいッスよ。」
「……いい、って、」
「大丈夫なんスよ、だいじょうぶなんです。もうやめよう。帰ろう。だって俺、死んでやるつもりなんか更々ないし、黒子っちを巻き込んでどうこうなってやろうとか、死んでやろうとか、そんなこと絶対しねーもん。そこまで馬鹿じゃない」
「黄瀬くん、」
「逃げたいってのは本当だったけれど、でもそれで、なにかが変わるわけじゃない。死んでやる根性だって、別にない。黒子っちからバスケや生活や大切なもの全部取り上げて、俺と、とか、そんな在り得ないこと、するわけない」
「……」
「ほんとに、ほんとにごめんね、ありがとう、黒子っち」

 馬鹿な俺の、馬鹿な我侭に付き合ってくれて。

 彼は何も云わない。彼は何も伝えない。瞳の奥で、色のない深淵がゆらゆらと小さくたゆたうだけ。
 それが俺の敬慕の先だった。
 ほんとうに。
 なんと言葉を尽くしても足りず、謝り倒して尚取り戻せず。
 それでも、ただごめんねと。
 ありがとう、と。

「だからもう、ここでさようなら、しましょう」

 そうやって、綺麗に笑ったつもりだった。
 優しい優しい、誠のやさしさの、水色の瞳をまっすぐ見詰めて。

 いちばん綺麗に、笑えたつもり。
 いちばん無様に、笑えたつもり。

「もう二度と、俺の前に現れないで欲しいんス。自分から会いに行ったくせにって感じだけど、俺ももう、誠凜に行ったりしないから。探したりしないから。試合も二度と、見に行ったりしない、から」

 だからさ。
 ここで永遠に、俺とさようならしてください。
 もう、俺とは絶対、会わないでください。
 鼓膜には、自分の情けなく震える声だけが連ねて届いて、みっともなかった。鼻声で、格好悪く、か細く小さい。声。ぶるぶると、孤独と恐怖とそして不安とに、握られた拳は震えていた。けれどそんなものさえ、彼のために握られたものじゃなかった。
 どこまでも、俺は愚かだ。ばかだ。
 彼のことなんてなに一つ気遣えやしない。分かろうともしていない。こんな風に突っぱねて、彼の優しさも誠実も突き放して、頼ろうとしないで、そのくせお願い助けて笑いたくないって、そんな風にSOS出して、笑って、誤魔化して、涙でさえも隠してしまって。
 本当にもう、救いようがない。
 でも怖いんだ。こわくてこわくて、なにもみえなくて、つらくて、つらいことさえ分からなくなって、自分が今なにに何を思っていたのかさえ、何も分からなくなっていって。
 それでもただひとつ。
 あなたから見放されることが唯一に、絶対に、なによりも。
 こわい。
 こわくてたまらない。
 そんな不安には耐えられない。
 そんな恐怖に勝てるわけがない。
 だから、自分から手放そうと、そう思った。
 理不尽に君を裏切りながら。
 できるだけの誠意と敬意と愛を添えて。
 そう思った。

「俺、もうバスケできないんスよ。知ってるでしょう? わかってるんでしょう?」

 君は無言だった。
 俺は俯いた。瞼を下ろした。見詰め続けるなんて無理だった。視界に彼をいれたくなくて、自分の弱さや卑しさを知りたくなくて、逃げた。避けた。
 彼がどんな感情を乗せて、その深淵を雲らせているのかも理解しないで、放棄して。
 そうやって目を閉じてしまう。逃げてしまう。
 きっと君は、そんなことさえ見抜いているだろうけれど。

「バスケできない俺なんて、アンタにはなんの意味もない。そんなの、俺は耐えられない」

 だから捨てるんスよ。もうなんも要らないって、諦めるんスよ。
 息が詰まる。言葉も途切れる。無闇な静寂が、続く。
 鼓動が早くなるのを感じた。寒さでない震えが、咽奥から伝染して肩をずり下がって、動脈を侵して指先まで下りてきて。爪の先まで白く微細に、俺を苛んだ。侵した。
 耳鳴り。迫り上がる心臓。狭まる気道に、潰れる呼吸。明滅する瞼の裏。前髪の感触。灰色。寒さ。震え。無言。無音。恐怖。鼻先の贋物めいた潮の香り。どくん、鼓動、早い、ぐらぐら、ゆらゆら、目の中がたゆたう。海が見えた、気がした。
 不安。焦燥。
 何か云って、何も云わないで。何も見ないで、どうか見て。
 それでも、静寂。
 不安な心音。
 どれぐらいの時間が流れたのかも分からない、幾ばくかの、長すぎる白い吐息のあとに。
 そうしてようやっと、ゆっくりと、君が口を開く。

「……君はまた、そうやって、ボクを突き放そうとするんですか?」

 それはとても、静かな声音だった。
 灰色の無機物のなかで、その声は周囲にこだますることなく、真っ直ぐに俺の鼓膜を揺らした。

「君は、君はやっぱりなんにも分かっていないじゃないですか。あのとき、ボクは云いましたよね。ボクは神様でもなんでもない。ましてや悪魔でも魔王でもない。そう云ったのに、なんにも分かっていないじゃないですか」

 はあ。諦めたような溜息が漏らされた。
 その吐息に、大袈裟に俺の肩が跳ねた。

「バスケを辞めた君に用無しと言い捨てて、そうして去って行く、ボクはそういう奴なのだと、そう、云いたいんですか?」
「ちが、」
「違わないでしょう。そういうことじゃないですか」
「ちがう、」
「何がですか」
「ちがうんスよ、そうじゃない」
「だから、何が、ですか」

 彼の苛立ちと諦観と、そして呆れが微弱ながらも声音に見て取れて。
 その声を聞いてしまって。
 ほかのどんな恐怖よりもなによりも、最も恐れていたことを察知して予期してしまって。
 ひゅっ、と。
 咽奥が潰れかけて、呼吸が止まった。
 小さな悲鳴のように。
 僅かな叫喚のように。

「ちがう!」

 気付けば既に、叫んでいた。
 否定しなければならなかった。弁明にもならない、それでも必死の、譲れない否定を、俺は叫ばなければならなかった。

 さようならをしたかったのは本当で、けれど君が、俺を見抜いて知ってそれでも尚見捨ててくれたりしないのも、どこまでもが本当で、本物で、でも、だからこそ、だからこそ。
 だからこそ。
 絶対にそれだけは、絶対に、否定しなければ、ならなかったのだ。
 ちがうって。
 だって、違うんだ。黒子っちが悪い奴みたいな、そういうんじゃないんだ。そういう解釈じゃないんだ。
 俺が悪いんだ。俺が勝手に期待して、諦めて、でも見捨てられたくなくて、放してあげられなくて、連れまわして、一緒にどこまでも逃げて欲しくて、俺だけを選んで欲しくて。
 だからちがうんだ。黒子っちが悪いんじゃない。黒子っちがそんなひどい奴なわけがない。
 ひどい奴なのも、最低なのも、
 ぜんぶ。

 嗚咽が漏れた。それでもずっと、うわ言みたいに繰り返した。
 ちがう。そうじゃない。
 ちがうんだと。
 ちがう、そういうんじゃない。そういうことじゃない。ちがうんです、ちがうんスよ、ぜったいに。
 意味のない言葉ばかり嗚咽交じりで何度も繰り返して、否定して。

 けれど、答えはなかった。
 なにも応えを返してもらえず、伝わったのか、聞こえたのかという不安に負けて、俺はつに、ほんの少しだけ、俯けた顔を上げてみた。閉じたみなもの視界を開けみた。
 呆れの瞳も見捨てる言葉も、見下げるような諦めの表情も。ぜんぶ覚悟して。
 きらいって、だいきらいって、そういわれることさえかくごして。

 けれどそこには、予期していたような彼の姿はどこにもなかった。
 彼は、俺が目を閉じてしまう前と寸分違わぬ場所に居た。膝を抱えてしゃがみこんで、ただ静かに、俺を見上げていた。水より澄んだ、純度も高すぎて魚さえ死んでしまうような水色の瞳で、それを細めて、口角をゆるくすぼめて。
 笑っていた。
 俺を浸す冬の海の人が、とても近くで、笑っていた。
 白い砂浜が、彼の背後と俺の足元に広がっていた。

 それはきっと、安穏の優しさだったろう。やっと云いましたねって、少しイタズラが成功したような、そういう、無垢と安堵と優しさの、柔らかな笑い方だったろう。

 彼は立ち上がり、俺のすぐ目と鼻の先に立った。項垂れて背を丸めた俺を真っ直ぐに見詰めて、俺の瞳が白黒と瞠目を繰り返すのを見上げて、そしてやっぱり、柔らかくきれいに笑って。
 仕方がない人ですね、と。
 そんな言葉が聞こえてきそうな。
 その目尻の細まり方に、目を奪われた。

 知らぬ間に、雪が降っていた。

 ねえ黄瀬くん。静かに声は紡がれる。

「頬を、叩いてあげましょうか。あのときみたいに。次はぐーで」
「え、」
「君は別に、ここで終わらないんですよ」

 雪。
 君は優しく笑い続けている。微笑んでいる。
 俺の両の頬を、その両手で包む。
 冬の海に、雪が降っている。
 白い。
 君の柔肌が白く、君の立つ砂浜が白く、君に落ちる雪がまた、白く。
 君の髪と瞳と、笑い方だけが、海みたいに澄んで、水の色だった。
 綺麗だった。

「君は終わらないし、ボクだって君を置いていったりしません。君はボクの友人だ。ライバルなんです。そう、云ったでしょう? 忘れてしまいましたか? ボクはずっと君の隣に立ち続けますし、君の隣で君のライバルをしていたい。君のよき友人であり続けたい。君とちゃんと、生きていたい」
「うそだ、うそだよ、くろこっち」
「嘘じゃないです」
「だってそんなの、うそだ」

 俺、バスケ辞めるんスよ。もうできないんスよ。
 そんなの、もう、ライバルでもなんでもないじゃん。

 かちかちと、歯が鳴った。寒さのせいではなく、純粋な恐れから、戦慄いて、震えて、戸惑って、躊躇して、かたかた、かちかち、歯列の奥が鳴った。こわかった。云ってはだめなのに、言葉が滑り落ちた。

「バスケできない俺なんて、アンタぜったい好きなんかじゃないじゃん。ぜったい、だって俺、ぺらっぺらでなんもなくて、ケイハクで最低で、黒子っちと全然、違いすぎるんスよ? バスケなかったら、絶対アンタ、俺となんて、一緒にいたりなんて、」

 光にさえなれなかった俺だったのに、
 その上バスケそのものを出来なくなったなんて。
 そんな俺を、君が選んでくれるわけがない。
 だからそんなの、うそだ。うそっぱちだ。
 

 視界が滲んだ。端から淀んで、たぷたぷと波打って、身体そのものが水底に落ちたみたいに、どぷどぷと濡れそぼっていった。鼻の奥は熱く、萎んで、痛んで縮まった。それを振り絞るように、また、きつくきつく、目を閉じた。
 どんな言い訳をしたってどんな言葉を並べたって、結局のところがそれだ。それだけが俺の心だ。本音だ。俺の恐怖だ。逃げたかった理由だ。
 君とどこかへ行ってしまいたくて逃げてしまいたくて、
 けれど君とだけは終われなかった、その理由だ。

 俺は君に選ばれたかった。ずっと。ずっと。ずっと。
 鉄道に乗って天の川を下って海岸に辿り着いていつか石炭袋でお別れしても。
 それでも俺は結局、君に選ばれたかった。
 それだけの、話。

 なのに。そうやって、ただの独り善がりの恐怖なのに。勝手な驕りの苦悩なのに。

(君はきっと、見捨ててくれないんだろう)
(俺を殺しては、くれないんだろう)

 また、無言が続く。静寂が訪れる。
 俺の言葉のあとに、彼の言葉は続かなかった。
 ただただ、俺の痛ましさと、彼の呆れの沈黙とがあった。
 彼はついに、俺に怒り、黙り込み、静かに溜息をついた。

 ……と、思っていた。
 そう、予想していた。

 けれど降りたのは、というか降りかかったのは、俺の両頬の痛みだった。
 突然の鈍く引きつるような痛みが、包まれていたはずの俺の両頬に、強く強く広がっていった。というかなんか物凄い勢いで伸びていた。伸ばされていた。人生至上最高の伸び具合で両頬の皮と肉を伸ばされていた。
 え、なに。なにこれめっちゃ痛いんスけど。
 割りと結構、いやかなり痛い。めちゃくちゃ痛い。すげえ痛い。いや真面目に痛い。

「くろほっひいひゃい!」
「ふざんけんなばかにすんのもたいがいにしろ、です」
「ふえ?」
「君は、ボクに選ばれるためにバスケをしていたんですか? そうじゃないでしょう? それこそ違うでしょう? あんまり見くびらないで下さい。いくら黄瀬くん本人にだって、君や君のバスケを、そんな風に貶められるのは許せません。許しません。」

 あんまり頭よくないんですから、難しいこと考えなくていいんですよ君は。

 とても失礼なことを、とても優しい声音で云われた。
 やっぱりその顔は、笑みは、仕方ない人ですねって、そうして俺を許そうとする、俺の背中を押そうとする、俺と拳を合わせようとしてくれる、彼の、黒子っちのそれだった。
 笑い方だった。

 その笑顔に、仕草に、姿に。
 いつもどおり過ぎる彼の、なんでもないんですよ、そんなの。そう云っているみたいな全部に。
 全てに。総てに。
 今度こそ、瞳の奥が爆ぜて決壊して、鼻の奥の痛みは耐え切れなくなって、ぼろり、嘘みたいに大きな粒の、嘘みたいに熱い涙が、零れて滑って、落ちた。  屈んだ君が差し出した、その指の隙間から落ちてったあの、ニセモノの海の、嘘の白砂みたいに。
 ぼろぼろ、落ちていった。

「君は確かに、バスケを辞めるかもしれない。でも、君が選んだすべてがなくなるわけじゃない。そんなわけがない。君が好きだった全部が、そのまま君のなかに在るんですよ。なくなったり、しませんよ」

 ボクだってそうだ。ボクだって、君の隣に居ますよ。目の前に居ますよ。

「いつだってその腹にイグナイトしてあげますし、真正面から馬鹿野郎って叫んであげます。目の前に居ます。隣に立って、歩きます。ボクは影が薄いから、すぐに見失ってしまうかもしれませんけれど。けど、大抵は君が見つけてくれますし、大抵、ボクは君の近くに居ますよ」

 だって黄瀬くんは、目立ちますからね。
 おかしそうに笑った。君が笑った。両頬の痛みはとっくになくて、俺の頬を引っ張るそれは、ただ静かに温かに、俺の両頬を包む優しい掌に変わっていた。いとおしげに、俺の頬を包んでいた。
 鼻の奥は詰まって痛いし、頬はあたたかいし、目の奥は燃えてるみたいに熱い。眉間に寄って集まった苦痛も、全然解けない。
 だって俺は、こんな言葉は、知らない。
 こんな、こんな。

「君はよく、ボクに選んでと云います。違いますよ。君は、選ぶんだ。選んだんだ。君が選んだんだ。君には君だけの、君のためだけのバスケがあったんですよ、黄瀬くん。それはボクに選ばれるためなんて、そんな陳腐なもんじゃ足りないです。もっとすごいものです。すごいことです」

 そうでしょう? 小首を傾げて、彼が同意を求める。
 俺は動けずに、頷けずにいる。

「黄瀬くんが自分で選んで勝ち取ってきた、そんなすごいものが、全部が、なにかたったひとつを一度辞めてしまったからって、失くしてしまったからって、そっくりそのままなくなってしまうなんて、そんな馬鹿なことあるもんか」

 そんなのはボクが認めません。

 ぷんっ、と、見当違いの意気込みのように黒子っちは鼻を鳴らす。その姿がやっぱりいつもどおりの彼でしかなくて、可笑しく仕方がなくて、俺はぼろぼろ涙を流しながら、鼻水までずるずる言わせながら、けれど思わず、その言葉に笑ってしまった。なんスか、ソレ。鼻にかかって掠れた声で、だけど自然に笑ってしまう。笑えてしまう。笑いたく、なってしまう。
 笑った。 
 ああもう、この人は。なんなんスか。なんなの、どうしてこんな、
 こんな。
 いとも容易く、俺のこころをかっさらっていって、しまうの。

「おれ、おれさ、」

 鼻の奥が狭まって苦しい。うまく声が出なくてつらい。言葉尻が涙で淀んでかっこわるい。
 でも、そんなものは別にどうだっていいことだ。
 だってこの人が笑ってくれる。この人が両頬を包んでくれている。
 君が選んだんだって、そう。
 云ってくれる。

「おれさ、だってね、」
「はい」
「もっと、もっと、あんたとか、あおみねっちとか、かが、みっちと、か、」
「はい」
「みどりまっち、とか、むらさきっちともね、もちろんあかし、っち、とも、」
「はい」
「かさま、せんぱ、とかね、もっと、かいじょうの、みんなと、か、」
「はい」
「もっ、っと、」
「はい」
「もっとね、だって、おれ、もっと、」
「……はい」
「もっとばすけ、したかっ、たぁ、っ、」

 言い終わる前に。頬を撫ぜたその手が。指が。
 伸びて、耳のすぐ脇を滑って、首筋に交差した。
 そうしてそのまま、後頭部から体ごと引き寄せられた。彼の肩口に押し当てられた。
 鼻先を彼の香りが掠めた。
 優しかった。なつかしかった。喪われた何かに似ていた。

「知ってます。黄瀬君。誰よりも、知ってます」

 その声がくぐもっていた。
 彼は静かに、嗚咽をこらえていた。
 だから俺も、ようやっと慟哭した。

 あなただけ、とか、
 あなたとだけ、とか。
 そんなのは真っ赤な嘘だ。そんなのは何一つ本当じゃない。

 俺が欲しかったのは、いつだって、“あなたと共に”なんだ。

「欲しがらなくたっていいんですよ。だってそれはボクも同じだから。そんなのとっくに、いつでも叶えられる願いだったんですよ」

 ね、黄瀬君。
 ふたりだけの海で君が笑う。泣きながら笑う。

「ボクたちはどこまでも一緒ですよ。どこまでも、行けますよ。ね、一緒に行きましょう。だってライバルなんですから。君だって云ってたじゃないですか。ボクたち、親友なんですよ。ボク、君がだいすきなんですよ。ねえ、そうでしょう、黄瀬君。」

 それにボクのこと、尊敬しているのでしょう? 悪戯っぽく笑って、美しい一滴が、彼の頬を伝って落ちていく。

 ねえ君はどれほど分かっているんだろうか。君のたった一言で俺の世界が何度変わったのか、君はどれほど理解しているんだろうか。
 それでも、一緒にいてくれるんだね。
 いて、いいんだよね。
 ねえ、黒子っち。

「だから今は、」

 泣いてください。一緒に。

 その笑顔の後ろで、最果ての海が輝いた。

 ふたりだけの海のその海水は、彼の淡い水色でなく、俺と彼の一緒の涙だった。悲しみだった。
 どこまでも一緒に行きましょう、って、君が泣いた。
 俺は、うん、と頷いた。
 そうして選んだ。
 俺が、選んだ。



(You have lost nothig. )


#黄黒#長編

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