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,黒バス

雨の日の恋患い
桜の花が落ちているその姿を見詰めていると、隣で黄瀬くんが呟いた。

「はかなげ、とかそういう単語をこの前授業で読んだんスけど、桜の花びらがそうなんスかねえ」

 ボクは答えようもなく黙ってしまう。と、黄瀬くんは勝手に続けて桃っちの髪の色ッスねー、呆気なく話題を変えてしまって、考えて悩むだけとても腑に落ちなく悔しい。だったら訊くな。

 空は晴れている。青空より少し低い。寒さはもう残らず、春分には至っていた。「桜の花で合ってると思いますよ」ボクがやっとで返したときには彼はもう他人事できっと違うことを考えていた。ボクが振り向くとやはり他人だった。見知らぬ誰かしか其処にはいなかった。黄瀬くんは、いなかった。違う。いなくなったのはボクだ。ボクらは別々の高校に進学した。さようならはなかった。「然様ならば」などと、そんな諦めもなく、青空はあの日あの時彼と見上げたあの青の色とは程遠かった。今目の前に広がる眼前の色の方がひどく色濃くそして果敢なさには足りなかった。真っ青だった。桜は舞っていて、青を背景に散り散りと浮かんでは美しかった。空ではなく花弁が果敢なかった。

 けれども。

 ただ恐らく、あの日彼と見た桜は果敢なさに腐り落ちる散り方に近かった。それだけは確かだった。



 別の学び舎に通ったのち彼の存在の色合いについて考えることが増えていった。透明度はこの夕空よりも高かった。曙よりも冷えてみえて、実は夏空よりもひどく眩しいのだ。どうしてか知り尽くしているようで丸っきり分かってはいやしない後悔のようなものが強いと気付いた。色合いの喩えは浮かんでも黄瀬は何一つ彼の笑い方の理由ひとつでさえ説明できない。口惜しい、というよりもただ憂えるようだった。黄瀬は彼の笑顔を一体どんな瞳で見詰めていたろうかと考えた。思い出せなかった。それとも見たことさえなかったのか。

 高校入学。当たり前の青と桜。今年の空は格別に褪せていた。透きとおって高くもなく、桜色の輪郭をなぞるように縁取って、青を広げるだけの空だった。どこまでも続くようでその実黄瀬の視界のなかで校舎に妨げられて勝手に途切れている。真っ青だった。青峰の瞳の色に似ていた気がした。学び舎は彼とは別で、だから空も途切れていた。勝手に途切れていた。

 勝手に期待していたのは自分だったのかもしれないのに。

 黄瀬は我が身の身勝手さを思いながら校舎へ向かい歩いた。

 新入生のための催しごとはたくさんあって、黄瀬は当たり前の選択でバスケ部への入部届を作成した。記入しながら自分の名前を指の腹ではぞってみるとそっくりそのまま同じ音でもって名前を呼ばれた。見知らぬ女生徒で本人いわく同じクラスらしかった。

「バスケ部入るの?」

 適当に相槌を打てば彼女は自分の入部届にバスケ部と記入した。経験者ではないらしく黄瀬は辟易とした。何度繰り返した光景か知れなかった。

 ふいに窓の外を見遣ればまた青空が広がっていた。「明日雨らしいよ」女生徒が云う。黄瀬は眩暈がした。ああ、あの日黒子が追いかけた彼はこんなに高い青空の色をしていたのに確かに泣いていたらしかったのだ。らしい、というのは黄瀬はそのことを人伝えに聞いただけで未だに彼には青峰が絶望するとか嗚咽するだとかそんなことはまるで考えられもしなかったのだ。あの人はいつだって黄瀬に背中を見せて隣に並ぶ小さな背中に拳を突きつけて互いに笑い合っている憧憬の人でしかあり得なかったのだから。

 窓枠に閉じ込められて切り取られた青がひどく窮屈そうで、黄瀬はよっぽどその枠と嵌めこまれた硝子とを割ってしまいたくなった。隣では不躾な女生徒が猫撫で声をあげてこちらの機嫌を伺っている。黄瀬が生返事をすると何やらその幼染みた顔が近づいた。そして二人は口付けをしていた。どんな茶番だろうと黄瀬が目蓋の裏で冷えていると、眼前の入部届の欄で自分の名前がこちらを見ていた。いつかの黒子テツヤというただ一人の少年に見詰められていた。たった一人の少年が呼ぶ黄瀬の名前とその温度と振幅と、そして響く声音の色合いとが黄瀬をひどく惨めにさせた。そのまま見知らぬ女生徒と無人の教室でキスを続けた。

 青空なのに雨が降ったことがあった。お天気雨、というものだった。虹がかかるかもしれないと黒子を急かして外へ飛び出した。結局虹は出なかったがそのとき見付けた綺麗なものがあった。誰にも教えずに黙した。一生抱えていくかもしれなかった。
 どうして美しかったのかなど分からない。黒子テツヤは少年で、自分と同じ造りをしているはずだった。彼の頬から顎にかけてひとしずくが垂れて滑って落ちていった。雨は強くも弱くもなく、叩き付けるでもなく滑りもせずに、ただ一瞬の速さで打って垂れて彼や自分の身体を濡らしていった。顎にまで沿うと一滴はまるで彼の汗や涙や唾液やら彼の一部のひとしずくのようになって地面を目指して再び落ちていった。雨はぼたぼたと落ち方も乱雑だが、彼の体液らしく見える伝って落ちたそのしずくだけは、ぽたりぽたりと静かで厳かだった。そのとき黄瀬は虹のふもとに眠るらしいなにか大切なもの以上の誰かを見つけてしまった気になった。恐ろしく美しくてそして危ういものだった。だから黄瀬は黙して抱えた。お天気雨の記憶はきれいな記憶になった。

 それでも黒子は部活を辞めた。

 キスした女生徒は長くもたずバスケ部を辞め同クラスの女子から遠巻きにされていた。抜け駆け、裏切り。黄瀬は彼女が付き合った覚えもないのに周囲に触れて廻っていたことを知っていた。庇う事さえお門違いも甚だしく煩わしかった。

 教室で、授業中だった。ふと左を向いてみれば今日は曇天だった。暗いよ、黒子っち。雨が降らず、彼もこの学び舎には居らず、そして雨の日の青空のように、憧れの人が絶望に泣きそぼっていたことさえ黄瀬は知らなかった。自分はいつまでも蚊帳の外で眠る子供だった。美しい容姿をしていたからそれでも刺されはしなかったけれど、それでも、それでも大切なことのように思えた、自らの身の内を流れた様々な記憶や愛おしさは全て血として吸われて抜かれて奪われていった、そんな心地がしていた。蚊帳のなかで眠ってみたかった。



 桜の木の下で、並木道でともに歩いたことがあった。俺は左隣の彼に果敢なさについて問うたことがあった。応えに窮する彼に申し訳なく、わざとらしく話題を変えてみせて、すると彼は「桜の花で合ってると思いますよ」そう云ってくれた。

 彼は俺の話を聞いてくれるし軽んじない。それにとても誠実でいつでも見詰めてくれる。俺は笑ってくれるのを待つ。並木の下、街道、遊歩道、降る桜は色も薄く、この先この色が彼にとってのなんであるかを知れたらと思う。共に歩いていた記憶が彼にとってのなんでもないのだったら俺の負けだ。俺はお天気雨の日に見付けてしまっているから、それでも絶対負けはしない。彼は俺をどう思っていたのだろう。俺は青空の下で思い出に縋るのに彼はそうではないのだろう。彼は俺のあの日だけの虹より素敵なお天気雨の記憶に居る。笑っていない。笑っているのは、いつだって雨の日に笑っていたあの青空色の人の、隣でだけ。






(しどろもどろに脈打つ鼓動が在る。それでもまだこの恋は燻っている。けれど切り離せない。このままずっと、黙していだく。)

#黄黒

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