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,黒バス

それでも、終着駅
 電車を乗り過ごした。目的の駅がいつの間にか通り過ぎてしまっていて、仕方がないので本を読んでしまうことにした。終点まで行ってみようと、気まぐれな心がむくむくと湧き出てしまったのだ。だったら仕方がないだろう。黒子は眠気があるのに本を読み続けた。

 車窓の外が暗くなる。通り過ぎていく街燈の光は、微睡むには明るく、しかし光源としてはあまりに淡い。夜だ。夜が近い。黒子は手の中のハードカバーを撫でてみた。表紙は硬くて、そしてざらざらとしていた。まるで革張りのトランクのような質感で、はて自分は何の本を読んでいたろうかと不思議に思った。文字を目で追ってみて、開いている頁がまるっきり白紙なことにまず驚いた。そしてその背表紙を覗き込んで血の気が引いた。タイトル。「約束」と、書いてあった。「約束」というタイトルの小説を、確かに読んでいたらしかった。

 けれどもおかしい。黒子の読んでいたはずの文字は今はまるきりの白磁で、気付けば車窓の様相すら変わっていた。関東をひた走り回る、どこにでもあるようなメタリックな金属質の車内はいつの間にやら木目調の随分とレトロな、回顧的なそれに変わっていた。乗り換えたろうか。いや、終着駅はまだのはずだ。外を通って過がる街の光はもうどうやらひどく遠い。暗い。夜だ。夜になっていた。なってしまっていた。黒子は立ち上がり窓に齧り付いた。食い入るように窓の外を覗き込むと青い空が広がっていた。こちらからは、車内からはどうにも夜にしか見えないのに、外はどうしてか明らかな青空だった。濃密な純度の、鮮烈な青が延々と広がっていた。黒子はその青空の下でバスケットコート立つひとりの少年を見た。一人ではないようで、けれど独りで、走り回るでもシュートを打つでもなく、ただ寂しそうに空を見上げていた。横顔は青空に澄み切らず、憂いで翳っていた。

 黒子は夜の車窓から声を張り上げた。言葉を届けようと思った。黒子の胸もまたあまりに寂しかったからだ。早鐘を打つのは鼓動なのに、寂しさでつかえるのは喉元の苦しみだった。苦しかった。鼻の奥が焼けてしまいそうだった。腹の奥がまた、焼死体と見紛うような黒々とした炭と化して心ごと死んでしまいそうだった。だから必死に、窓を開けた。言葉を探した。届けるべき言葉を、届けられなかった誠意を、探して、探した。窓をたたいた。鍵を壊した。開いた窓から冷たい風が吹きこみ髪をなぶった。肩が戦慄いた。それでも目は閉じなかった。その冷気と空気とを吸い込んで、勢いよく発した。

 青峰くん!

 声は出なかった。
 だから、届かなかった。
 黒子の言葉はあの白紙の本と一緒にどこかへと行ってしまっていて、そしてそれと同時に一切合切の意味を失っていた。
 青空の下で、雨の降る彼の寂しさのなかで。青峰にとって自分は、あまりに無意味だったのだ。なにひとつ出来やしなかったのだ。
 夜の車両で終着駅を目指す自分。青空の下でただ顎をのけ反り空を仰ぐばかりの彼。
 二人はあまりに違いすぎた。
 交われもしなかった。
 電車は通り過ぎていった。

 黒子は窓を閉めた。嗚咽を噛み殺しながら必死に言葉を探した。なぶる冷気で肌が凍てていた。
 ハードカバー。本。はじめはあったのに、いつの間にかなくなってしまっていた。タイトルでさえ、こんなものだった自信がない。何を間違えてしまったのかも分からない。あのとき乗り過ごしてしまったのが悪かったのか、それとも電車に乗ってしまったことそれ自体が間違いだったのか。黒子には分からなかった。
 座席に置いたままだった鞄を掴み、ひっくり返した。中身を車内にぶちまけた。上着を脱いでポケットを探って、頭を掻き毟って、心の奥の内壁を鋭利な爪で引っ掻き回した。そうして探した。諦めきれなかった。それでも、言葉は見付からなかった。その行為の名前が後悔と知ったのは、それから数分してのことだった。目の前の座席に赤司が座っていた。彼が教えてくれた。「それは後悔と言うんだよ、テツヤ」

 君、名前でなんか読んでなかったじゃないですか。虚ろな声で黒子がうっそりと返す。すると赤司は目をくりりと丸めて首を傾げた。

「違う人間が呼んでいるんだ、呼び方が変わってもおかしくはない」

 おかしいでしょう。黒子は引っ繰り返した鞄の中身を元に戻しながら呟く。すると、そのなかのひとつ、教科書に手紙が挟んであった。黄瀬涼太より。書いてあった。黒子は目を見開いた。
 君は、赤司くんなのに。
 黒子は手紙の封を切った。まだ開いてすらいないことに驚いた。赤司がそれを見遣りながら片手間にハサミをくるくると回して見せた。

「僕が分かれてしまったことは、お前たちにとってはそんなに大きなことだったのかな」

 子供がねえどうして死んでしまうのと問い掛けるような純粋そうな瞳だった。

 黒子は答える。君のおかげで、ボクはあの場所へ行けたんです。そして口をつぐむ。それ以外は答えにならないと知っていたように思えた。だからもうそれ以上は何も言わなかった。封を切った手紙を読もうと、散らかしてしまった車内の床へ座り込んだ。黄瀬の字がそこにあった。綺麗な字をコピーしてみたんス。そう自信満々に言っていた、本人のものでは決してありえないいびつさの滲んだニセモノの字が並んでいた。綺麗に書こうとして平行線のバランスが崩れていかにも汚かった。こんな字よりも、黒子は彼の書く彼本来の角の丸いとめはねはらいのなっていない柔らかな子供っぽさの浮かぶ文字が好きだった。そういうことを、もっと伝えても良かったのかもしれない。初めてそう思えた。

「ねえテツヤ。お前は満足なのかい? 一人一人を変えていって。涼太を、真太郎を、大輝を、敦を、ひとりぼっちから救い出して、涙を与えて敗北を教えて、仲間の元へと背を押して」

 僕のことも、そうやって変えてしまおうと。
 そう思うのかい。

「それをひどい傲慢だと思うことは、一度としてないのかい」

 向いているからやる。それの何がだめなわけ。
 好きとか嫌いとか、そんな理由で俺はバスケをしていない。
 勝つことがすべてだったじゃないスか。
 もうお前のパスを、どう取っていいのかも分からないんだ。

 それを、否定してまで。
 お前は終着駅へと向かって。
 一体、なにがしたいの?

「テツヤは僕のことも、否定するのかい?」

 黒子は手紙を握りしめたまま蹲った。たてた膝の間に顔を俯せて目を閉じて再び嗚咽をこらえた。赤司は座席から立ち上がると扉を開いて立ち去ってしまった。その表情を絶対に見てしまわないようにと黒子はきつくきつく目蓋を下ろして綴じ込んだ。決めていたことがあった。謝らない。何も言わない。そんな資格はない。
 掌の中の手紙がくしゃりと音をたてた。黄瀬の言葉が綴られていた。俺、このチーム好きなんスよ。前よりもずっとバスケが楽しい。黒子っちは? 寂しくはないスか。辛くは、ないっスか。途中から、丸い角の癖が隠せていない文字。嘘も偽りもない彼の言葉が綴られる。語りかける。黒子はそれが嬉しい。そして悔しい。きっと全部自分のエゴだったのに。否定、したかったわけじゃ、なかったのに。そう言ってくれる人が居る。その人が居る。
 黄瀬くん。違いますよ、黄瀬くん。黒子は首を振り、独り言ちる。違うんです、黄瀬くん。
 君が海常でそう思えたのは、君の努力と心根とのおかげです。
 ボクは、ボクは。

(ただ、皆に。バスケを好きになって、好きなままやっていて欲しかった)

 笑っていて欲しかった。
 それぞれの場所で。

 終着駅の名前はまだ流れない。黒子は床に蹲りながら窓の外を見詰める。涙で視界がぼやけている。まだ、夜か。夜なのだろうか。窓の外には焔の光が明滅しては通り過ぎていく。燃え盛る火が外で明るさを取り戻していた。黒子は言葉を探さずに、本を掻き抱いた。抱き締めた。捨てはしない。破りもしない。ただ白磁の白さの頁に、雨のなかで笑う彼の涙をインクに、ひとつ約束を綴った。

 もうすぐ、駅に着く。






(それでもいつかたどり着く)
(執着した、駅)




#キセキ+黒 #短編

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