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黒バス
愚者の片想い
声が聞こえる。耳通りの良い声だ。それでいて澄んで透って俺の輪郭を震わせる。撫でた白さで産毛がわななくような、肌の質感さえも想像の外で確かに柔らかい。きせくん。あの人が呼んでいる。低すぎない。高すぎない。銀糸で織り込んだような繊細な声。銀の糸は雲の糸で、だから軽いし掴まらない。捕まえられない。
なに?思わずそっけない声が漏れた。すると用件を短く伝えられた。彼が去っていく。廊下の喧噪は彼の影の中に落ち窪んで溶かされていく。何も聞こえない。彼は俺を置いて歩き出した。待ってよ黒子っち。追いかけると幼児を尋ねられた。そんなものはないよと云えば、はあそうですか、それだけ、銀糸がほつれることなく言葉だけ。俺の鼓膜を震わす。耳の奥は幸せで、だから寂しい。孤独のようだ。目の前にも脇にも校舎中にも人間はいるのに、俺を慕う誰かもいるのに。なんて寂しいんだ。俺の鼓膜の奥、リンパ液に浸されるはずの音は、だって先ほどから彼の影に吸い込まれてなくなってしまった。俺には彼の吐息しか聞こえない。安らかな小さなそれしか聞こえない。歎息。溜息。幸せは彼のかたち。水色の色彩。銀糸の声に。孤独の世界。寂しさがなによりもの毒で俺を彼から離さない。
息が出来ない。
彼からの用件は部活の休みの言伝えだった。今日は体育館修繕のため部活はなしです使えないそうです。へえそうなんだ、じゃあ一緒に帰ろうよ。ボク図書館行きたいので多分道違います。図書「室」じゃなくて「館」なの?はい、読んでたシリーズもの、最後の巻だけこの学校置いていなくて。へえ、私立だしそこらへんきちんと揃えてそうなのにね、意外ッス。いえ、たぶん。黒子っちはそこで言い淀む、こともなくすらりと言い放つ。「たぶん、盗まれたんです」
借りパク? そういうことです。
廊下を終えて、下駄箱へ。中に靴と一緒に沢山の紙、紙、紙。手紙とも云う。でも俺にとってはただの紙だ。今日は6つ。色とりどり。ラベンダーの香りまでした。俺の靴が!ラベンダー臭になっちゃうッス! ボケてみた。彼はくすりともせずに、かわいいじゃないですかと云った。
どんな香りが好き?
玄関の敷居をまたぎ、校門までの会話。思案するような左隣の小さな顔に、夕陽にはまだ薄い、溶いた卵のようなつらりとしたやわい光が照りつけていた。影は髪の奥で彼の水色に朱を差し掛けている。まだ、早く。夕刻には遠すぎない。近すぎない。鼻腔の奥で痛みが伴った。寒い風が吹き抜けて、鼻先をなぶっていったからだ。焼けるようなそれに、どんな香りだってこの痛みの前ではにべもないなと笑えた。ラベンダーも紙も無意味だと云うことだ。そのことを残酷だと笑う人は何処に居るだろうか。
きっと。きっと世界中にいる。目の前の水色の人ではない。この人はそんな安易なことは云わない。きっともっとずっと、辛くて酷くて澄みきった言葉と睛とで以て、俺を見詰めて非難するに違いない。それが喜びに近い。別にドМとかでなく。でも大丈夫、俺は言葉にするものとしないものとの分別をつけすぎてしまえるから。そのことを笑う気概くらいあるのです。
道は夕陽に映えて明るく、しかし反面、その影にはまどろみよりも濃厚な黒が広がっては深まっていた。ぬかるみのように、タールを塗りたくった肌のように、深々とてらてらと、それはまるでまっすぐにただ道の脇の影だった。その電柱の、その鉄柵の、その窓枠の影を渡り歩いて、俺と彼とは道を行く。横断歩道にさしかかったとき、ふと後ろを振り返ると来た道は東だったようで、空には夜が、地には影が寂しさに縫いとめられて、まるでこちらをじっと見詰めてくるように思われた。追われているような心地がした。俺は何も言わずに前へと向き直り、わざとらしく彼の背中を急いて押した。そして手を引いた。どさくさ。横断歩道を渡って背後の赤信号を見届けると、彼は急がなくてもいいと云った。俺は急いでないスよと笑った。
ただ怖かっただけスよ。やっぱり俺は言葉にしない。
(言葉にしないまま、言葉にされた紙を握りつぶして香りを嫌悪して、想いをなかったことにすることばかりに長けてしまった。)
やっぱり、酷いよね?
図書館に着いた。市立図書館なんて初めて来た。白塗りの綺麗な壁にはところどころに錆が浮いていて、古いような新しいようなよく分からない心地がした。俺もなんか借りてみようかなあ、と呟くと、貸出カード持ってるんですか? 黒子っちが云った。なので借りるのはやめた。
広いような小さいような、よく分からない規模だった。学校の図書「室」に比べれば広いのかもしれないけれど、それでも2階しかない。「何階あれば広い方?」と訊くと「蔵書数に寄るんじゃないですか」と返された。それもそうだけれど、明確な規模は形で見たいし知りたかった。その方が分かりやすい。俺は分かりやすいのがいいと思う。なのに黒子っちは分かりにくい。なんでだろう。
分かりやすくいこうよ。俺は書架の間で目的の本を探す彼に云った。分かりやすいですよ、とても。黒子っちはろくすっぽこちらを見もせずにそう返す。この並び方とか、整頓のされ方とか。ボク、この図書館好きです。分かりやすくて、親切です。屈んで、いちばん下の段を見ている。小さな頭が、つむじが、見下ろされる。(いつでも見下ろせるけれど)
「そういうこっちゃねーんスけど」
「何がですか?」
彼は俺を見上げず、俺は書架に並ぶ本と本との隙間を見詰める。「いろいろッス」喉を詰まらせたように低く答えると彼は静かに笑った。君ってとてもわかりやすいですね。
「ただ単に、嫌だったんでしょう。ああいうのが」
ああいうのって。問うまでもなく、ラベンダーの香りが鼻先を記憶で燻る。俺は適当な本を手に取る。
「好きとか嫌いとか、それの押し付け合いだとか。」
小さな黒い虫がもぞもぞと蠢いているようなページをぱらぱらと捲りあげた。なにこれ日本語? マジ?
「あんな風に、想われることとか」
それだけの話ですよ。
「ね、分かりやすいでしょう」
「黒子っちは分かりにくいよ。俺は分かりやすい方が好きッス」
「それでいいんじゃないですか」
よくなかった。
俺は腹がたった。ぐっと喉の奥で熱い歎息のようなものをこらえ噛み締めた。
「だめ、ちがう。よくない」
「別にいいじゃないですか。好意を持つのも自由だし、持たれて迷惑に思うのも自由でしょう。お互いの勝手じゃないですか」
「ちがうって言ってんじゃん」
「黄瀬くんってわかりやすいくせに分かりにくいですね」
「だって、」
「黄瀬くんってひどいですよね」
あのラブレター、良い香りだったのに。
そのときになってようやっと、彼が俺の睛を見詰めた。
「それは関係ないじゃないスか」
「あ、やりましたよ黄瀬くん、探してた本ありました」
「ねえ」
「黄瀬くんも読んでみたらいいと思います。いい話ですよ」
どっちが。
どっちが、ひどいんだろうと思う。思った。そしたら、自然に腕が伸びていた。屈んでいるその小さな頭を強く押していた。縮む! と抗議されたけど知らなかった。縮んでしまえ。小さくなっちゃえ。
黒子っちなんか、俺の下駄箱に入ってしまえるくらいに、小さくなってしまえばいいんだ。
ラベンダーの香りなんてしないままに。
「いちばん分かりにくいのは黄瀬くんですよ」
沈むような息を吐かれたのでやめた。それもそうかと思った。やわい彼の髪からわざとらしく淫靡に指先を絡める素振りで、緩慢に躰も腕も離していった。
「好きじゃないんですよね?」
屈んだままで。俺を見上げてくる。その手に探していた本が抱かれている。満足げに、訳知り顔に、秘密を交わそうとするときみたいに、いたずらっぽく、小さく笑っている。
その笑顔で拒否している。
なにを。好きじゃないって。
問い返すこともなく。
「知らない。分からない」
アンタが何言ってんのかまるで分らない。そういう言葉を返して、ついぞ俺はその顔を見れなかった。
何が。誰が。誰を。訊かない。誰にも問わない。君も尋ねない。俺だって答えない。知らないものは答えられない。嘘だ。ごめん、本当は知ってる。君が知らないふりをするから、臆病な自分を隠しているだけだ。
ふと窓の外を見ると、夕空が暗闇に沈み始めていた。地球儀が安穏と夜に覆われていく。そろそろ帰らなきゃね。俺が呟こうとすると、黒子っちが「そろそろ帰らなきゃいけませんね」と云った。同じことを考えているようできっとひどく遠い思考をしていた。俺は残念でならなかったし、同時にほっともしていた。そして彼はきっとただ事実を云っているだけ。遠い。想いも思考も遠い。遠すぎる。遠ざけたのは果たしてどちらか。最初から近くもなかったか。どこからかラベンダーの香りがする。紙の饐えた匂いがする。職員の手によって窓にブラインドが引かれた。ああ、空まで閉じられた。蛍の光が流れないだけ、マシか。
#黄黒
#短編
2024.10.15
No.24
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声が聞こえる。耳通りの良い声だ。それでいて澄んで透って俺の輪郭を震わせる。撫でた白さで産毛がわななくような、肌の質感さえも想像の外で確かに柔らかい。きせくん。あの人が呼んでいる。低すぎない。高すぎない。銀糸で織り込んだような繊細な声。銀の糸は雲の糸で、だから軽いし掴まらない。捕まえられない。
なに?思わずそっけない声が漏れた。すると用件を短く伝えられた。彼が去っていく。廊下の喧噪は彼の影の中に落ち窪んで溶かされていく。何も聞こえない。彼は俺を置いて歩き出した。待ってよ黒子っち。追いかけると幼児を尋ねられた。そんなものはないよと云えば、はあそうですか、それだけ、銀糸がほつれることなく言葉だけ。俺の鼓膜を震わす。耳の奥は幸せで、だから寂しい。孤独のようだ。目の前にも脇にも校舎中にも人間はいるのに、俺を慕う誰かもいるのに。なんて寂しいんだ。俺の鼓膜の奥、リンパ液に浸されるはずの音は、だって先ほどから彼の影に吸い込まれてなくなってしまった。俺には彼の吐息しか聞こえない。安らかな小さなそれしか聞こえない。歎息。溜息。幸せは彼のかたち。水色の色彩。銀糸の声に。孤独の世界。寂しさがなによりもの毒で俺を彼から離さない。
息が出来ない。
彼からの用件は部活の休みの言伝えだった。今日は体育館修繕のため部活はなしです使えないそうです。へえそうなんだ、じゃあ一緒に帰ろうよ。ボク図書館行きたいので多分道違います。図書「室」じゃなくて「館」なの?はい、読んでたシリーズもの、最後の巻だけこの学校置いていなくて。へえ、私立だしそこらへんきちんと揃えてそうなのにね、意外ッス。いえ、たぶん。黒子っちはそこで言い淀む、こともなくすらりと言い放つ。「たぶん、盗まれたんです」
借りパク? そういうことです。
廊下を終えて、下駄箱へ。中に靴と一緒に沢山の紙、紙、紙。手紙とも云う。でも俺にとってはただの紙だ。今日は6つ。色とりどり。ラベンダーの香りまでした。俺の靴が!ラベンダー臭になっちゃうッス! ボケてみた。彼はくすりともせずに、かわいいじゃないですかと云った。
どんな香りが好き?
玄関の敷居をまたぎ、校門までの会話。思案するような左隣の小さな顔に、夕陽にはまだ薄い、溶いた卵のようなつらりとしたやわい光が照りつけていた。影は髪の奥で彼の水色に朱を差し掛けている。まだ、早く。夕刻には遠すぎない。近すぎない。鼻腔の奥で痛みが伴った。寒い風が吹き抜けて、鼻先をなぶっていったからだ。焼けるようなそれに、どんな香りだってこの痛みの前ではにべもないなと笑えた。ラベンダーも紙も無意味だと云うことだ。そのことを残酷だと笑う人は何処に居るだろうか。
きっと。きっと世界中にいる。目の前の水色の人ではない。この人はそんな安易なことは云わない。きっともっとずっと、辛くて酷くて澄みきった言葉と睛とで以て、俺を見詰めて非難するに違いない。それが喜びに近い。別にドМとかでなく。でも大丈夫、俺は言葉にするものとしないものとの分別をつけすぎてしまえるから。そのことを笑う気概くらいあるのです。
道は夕陽に映えて明るく、しかし反面、その影にはまどろみよりも濃厚な黒が広がっては深まっていた。ぬかるみのように、タールを塗りたくった肌のように、深々とてらてらと、それはまるでまっすぐにただ道の脇の影だった。その電柱の、その鉄柵の、その窓枠の影を渡り歩いて、俺と彼とは道を行く。横断歩道にさしかかったとき、ふと後ろを振り返ると来た道は東だったようで、空には夜が、地には影が寂しさに縫いとめられて、まるでこちらをじっと見詰めてくるように思われた。追われているような心地がした。俺は何も言わずに前へと向き直り、わざとらしく彼の背中を急いて押した。そして手を引いた。どさくさ。横断歩道を渡って背後の赤信号を見届けると、彼は急がなくてもいいと云った。俺は急いでないスよと笑った。
ただ怖かっただけスよ。やっぱり俺は言葉にしない。
(言葉にしないまま、言葉にされた紙を握りつぶして香りを嫌悪して、想いをなかったことにすることばかりに長けてしまった。)
やっぱり、酷いよね?
図書館に着いた。市立図書館なんて初めて来た。白塗りの綺麗な壁にはところどころに錆が浮いていて、古いような新しいようなよく分からない心地がした。俺もなんか借りてみようかなあ、と呟くと、貸出カード持ってるんですか? 黒子っちが云った。なので借りるのはやめた。
広いような小さいような、よく分からない規模だった。学校の図書「室」に比べれば広いのかもしれないけれど、それでも2階しかない。「何階あれば広い方?」と訊くと「蔵書数に寄るんじゃないですか」と返された。それもそうだけれど、明確な規模は形で見たいし知りたかった。その方が分かりやすい。俺は分かりやすいのがいいと思う。なのに黒子っちは分かりにくい。なんでだろう。
分かりやすくいこうよ。俺は書架の間で目的の本を探す彼に云った。分かりやすいですよ、とても。黒子っちはろくすっぽこちらを見もせずにそう返す。この並び方とか、整頓のされ方とか。ボク、この図書館好きです。分かりやすくて、親切です。屈んで、いちばん下の段を見ている。小さな頭が、つむじが、見下ろされる。(いつでも見下ろせるけれど)
「そういうこっちゃねーんスけど」
「何がですか?」
彼は俺を見上げず、俺は書架に並ぶ本と本との隙間を見詰める。「いろいろッス」喉を詰まらせたように低く答えると彼は静かに笑った。君ってとてもわかりやすいですね。
「ただ単に、嫌だったんでしょう。ああいうのが」
ああいうのって。問うまでもなく、ラベンダーの香りが鼻先を記憶で燻る。俺は適当な本を手に取る。
「好きとか嫌いとか、それの押し付け合いだとか。」
小さな黒い虫がもぞもぞと蠢いているようなページをぱらぱらと捲りあげた。なにこれ日本語? マジ?
「あんな風に、想われることとか」
それだけの話ですよ。
「ね、分かりやすいでしょう」
「黒子っちは分かりにくいよ。俺は分かりやすい方が好きッス」
「それでいいんじゃないですか」
よくなかった。
俺は腹がたった。ぐっと喉の奥で熱い歎息のようなものをこらえ噛み締めた。
「だめ、ちがう。よくない」
「別にいいじゃないですか。好意を持つのも自由だし、持たれて迷惑に思うのも自由でしょう。お互いの勝手じゃないですか」
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「黄瀬くんってわかりやすいくせに分かりにくいですね」
「だって、」
「黄瀬くんってひどいですよね」
あのラブレター、良い香りだったのに。
そのときになってようやっと、彼が俺の睛を見詰めた。
「それは関係ないじゃないスか」
「あ、やりましたよ黄瀬くん、探してた本ありました」
「ねえ」
「黄瀬くんも読んでみたらいいと思います。いい話ですよ」
どっちが。
どっちが、ひどいんだろうと思う。思った。そしたら、自然に腕が伸びていた。屈んでいるその小さな頭を強く押していた。縮む! と抗議されたけど知らなかった。縮んでしまえ。小さくなっちゃえ。
黒子っちなんか、俺の下駄箱に入ってしまえるくらいに、小さくなってしまえばいいんだ。
ラベンダーの香りなんてしないままに。
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「好きじゃないんですよね?」
屈んだままで。俺を見上げてくる。その手に探していた本が抱かれている。満足げに、訳知り顔に、秘密を交わそうとするときみたいに、いたずらっぽく、小さく笑っている。
その笑顔で拒否している。
なにを。好きじゃないって。
問い返すこともなく。
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何が。誰が。誰を。訊かない。誰にも問わない。君も尋ねない。俺だって答えない。知らないものは答えられない。嘘だ。ごめん、本当は知ってる。君が知らないふりをするから、臆病な自分を隠しているだけだ。
ふと窓の外を見ると、夕空が暗闇に沈み始めていた。地球儀が安穏と夜に覆われていく。そろそろ帰らなきゃね。俺が呟こうとすると、黒子っちが「そろそろ帰らなきゃいけませんね」と云った。同じことを考えているようできっとひどく遠い思考をしていた。俺は残念でならなかったし、同時にほっともしていた。そして彼はきっとただ事実を云っているだけ。遠い。想いも思考も遠い。遠すぎる。遠ざけたのは果たしてどちらか。最初から近くもなかったか。どこからかラベンダーの香りがする。紙の饐えた匂いがする。職員の手によって窓にブラインドが引かれた。ああ、空まで閉じられた。蛍の光が流れないだけ、マシか。
#黄黒 #短編