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恋と病熱と
思い出すのは、あの雨の日。けれどそれから、幾つものとしつきを重ねすぎてしまった。
だからもう、恨めと云われてもボクにはそれが出来ない。妬むことも憎むことももうなにひとつ出来やしない。そんなんでないのだ。彼等はそういう面でひどくずるい。ひどい。そして哀しい。ボクは俯いてしまうことすらできない。もうできない。だって彼等が俯いてしまっていたからだ。勝ったくせに、踏み躙ったくせに、君たちが俯いて唇を噛み締めたせいだ。なんだそれは。馬鹿にしているのか、失礼じゃないのか。そんなの、許せない。
そう思って、ボクはバスケを諦められなかった。彼等を諦められなかった。諦められないから、続けた。それ以外でもう、証明することもできなかったからだ。袋小路とも云う。やはりひどい。ずるい。ボクが諦められないなら、君たちだって諦めるな。
許せない。
ああ、それかもしれない。そういう感情だったのかもしれない。今更ながらにそう考えた。ボクは、彼らが許せなかった。彼らを俯かせる「なにか」が許せなかった。
例えばそれは、世界の外側から手を差し入れて、緩慢に種々さまざまに人々を拘束する法則かなにかで、ボクはそういう人知の及ばないような力にさえ許せないと考える傲慢な人間だったのだ。そんなものに屈したくはない。才能だとか優劣だとか、そういう簡単な二次熟語ひとつで世界が証明されるようならば、そんなものは、そんな世界はいらない。要らない。抗ってみせる。否定してみせる。許さない。絶対に。なにひとつ。受け入れてなんか、やらない。信じる? 美しさ? 理想? くそくらえ、です。そんな綺麗なものは求めていない。そんな優しいものは欲していない。ボクは傲慢だ。ボクが強欲だ。ボクはなににも謝らない。ボクは、君たちを、ボクの為に、諦めない。
君たちを諦めなければならないような世界なら、要らない。認めない。欲しくない。
許さない。
ボクはそこまで思い出して、考えて、ふと目の前の彼を見詰めた。
彼は泣いていた。いや、泣いてはいなかった。眦も別段、濡れてもいない。なのにどう見たって眉根が寄って、眉間の皺はいっそう痛ましげに深まって刻まり、歪んでいる。あれ、哀しそうだ、と今更気付いて、そうか彼は哀しいのかと考えた。彼の背後には曇天の鈍色が広がっている。雨が降りそうだ。もしかしたら雪かもしれない。吐息が白い。指先が戦慄く。恐怖よりも確実性を伴って、現実で爪先が凍る。あれ、冬か。冬、なんだ。そんなことにまで、今更ながらに思考が追いついた。そうか、ボクはもう、引退したんだ。雪が降ってしまう前に。終えてしまったんだ。
冬。
ふう、と確かめるみたいに吐息を空気に震わせた。煙より果敢なげに、薄靄を引いて白く広がって霧散していくボクの二酸化炭素は、消え入る前に彼のジャケットへぶつかった。それが小さな呆れの溜息に感ぜられたらしく、彼がひどく傷付いたような声で責めた。「なに言ってんだよ、お前」
ボクは答える。「言葉のとおりです」
まるで喧嘩腰の会話のように殺伐としている。彼は、青峰くんは、明らかに憤っていた。許せない。信じたくない。青の瞳の鮮烈さで、深淵で、そう語っているようだった。けれども、たとえそうだったとしても、ボクにはなにもできないのだけれど。
「受験生なんですよ。当然じゃないですか。引退なんてみんな普通にします」
「お前の言い方はそういうんじゃなかった」
「否定はしません」
「テツ、」
だから、どうしてそんなにボクを睨むのか。
「引退して、受験して大学に行くのは分かる。他のやつらと一緒だろ。でも、お前のは違うじゃねえか」
「そうですね」
睨んで凄んで、責め立てるような口調のくせに、瞳が、ひどいと泣いている。そう、見えた。
それこそ今更だと、ボクは笑わなかった。
「お前の言い方は、バスケそのものを辞めるって意味にきこえた」
「間違ってないです」
外なので、寒かった。冷えていた。街路灯は煌々と明かりを灯し、まだ6時を回らないというのに既に辺りは宵闇に近い。暗い。寒い。冬だ。いつかボクが、君に置いて行かれた季節だ。ボクが逃げ出した季節だ。
曇天が空に蓋をしていて、余計に暗い。そして低い。世界が狭い。窮屈だった。寒さを凌ぐためのコートは厚手で、温かいのに身体の内部ばかりは寒いままだった。内臓が冷やされていくのが分かった。お腹の底が黒く淀んでいくのが分かる。黒さは冴え冴えとしている。冷えている。ボクはコートの下のお腹を撫でてみた。そこに居たはずの「なにか」が今はもうすっかり空っぽでがらんどうで、その代わりにボクはバスケを辞めるのだと知っていた。決めていたのを、知っていた。
「……なんだか、君たちって、いつもいつもそうですよね。いつだって被害者の顔をして、周りを寂しそうに見詰めている。そんなつもりないくせに、ずるいとかひどいとか、そういう目で、ボクを責め立てる」
まあ加害者はボクも同じですけれど。平坦な声音で突然のようにボクが話し出すと、彼はますます眉根を寄せて、瞳を細めて、顎を引いた。自分を守ろうとするような、縮こまるような、怖がるような、憤るような表情とで、ボクを見下ろしていた。ボクの言葉の続きを待っていた。
「別に君たちのせいじゃないですよ。安心してください」
「じゃあ、なんでだよ」
「たぶん聴いても君は絶対に納得しないです」
「そんなの、きいてみねえと分から」
「選んで欲しかったからです」
主語がなかった。
それでも、伝わったのだろうか。青峰君は黙ってしまった。
「もう君たちを、君を、ボクは、許したんです」
嘘を吐いた。
許すなんて、そんな単語はまるで不正解だった。ボクが許せなかったのは君たちだけれど、君たちたちじゃない。青峰くん自身じゃない。そうじゃない。
君たちを諦めることを、強いられることだ。
「青峰くんが渡米すると聞いて、心底嬉しかった。諦めなくて、よかったって。こんな傲慢を貫き通して、いろんな人を傷つけて、それでも、ボクは、ボクのこの月日は、3年は、間違ってなかったんだ。そう、言ってもらえたような気がして」
すごく、嬉しかったんです。
救われた心地にさえ。
「だからもう、ボクはバスケを辞めるんです」
そのとき初めて、青峰くんが瞳の表面を濡らした。
ボクはそれをただ黙って見詰めていた。
同罪って言葉。同じ罪。共犯でこそなかったけれど、けれどお前だって加担者だ。お前だっておんなじだった。そういう言葉。自分自身に。そういうことを、理解していた。同罪の者同士で許すも何もあるはずがない。ボクは君たちと同じだ。むしろボクは、逃げだした。逃亡者だ。実行犯は君たちだったろうけれど、加担者は責任から逃げ出した。逃亡者は実行犯よりある意味でいちばんに最低だ。目を背けた。背を向けた。頭を抱えて耳を塞いで、見なかったことにしてなかったことにして、そうして膝を丸めて「許さない」って。自分を哀しみに暮れる登場人物に仕立て上げて。そういう始まり方を、ボクは、した。
被害者のつもりこそなかったけれど、それでも許せなかったのが本当だったのだ。
だから本当に。
許されたかったのもそうして救われたかったのも、ボク自身に他ならなかったのだ。
「青峰くんは、優しいですね」
あのあと、そう呟き返したボクに彼は何も言わなかった。舌打ちしかねない険しさで、それを裏切る涙の膜とでもってただボクを見下ろし、そしてやっぱりどこか哀しそうに責め立てるようにしているだけだった。
ボクもまた彼の正面に立ち続けた。
にこりとでも微笑んであげられたら良かったのだろうけれど、そんなことに意味がないことは知っていた。
*
「楽しくないですよ、負ければもっと」
勝つことが全てと鵜呑みにする。自分が傷つけられて初めて疑問を呈する。愚かだったと笑えるほどボクらは大人ではない。たかが10年とそこらを生きただけの人間に、正しさを判ずるこころなどない。違和感を丸呑みに、美酒に勝利を肴に。嬉しさがすべてで、楽しさがぜんぶ。子供だから。楽しかったでしょう。そのままでいたかった。ボクがそうだったなら、同じ子供の君らだって、おんなじだったはずなんだ。
どれほどの重荷だったろうか。考える。
勝ってしまえるって。
努力しなくていいって。
強いって。
どれほど辛かったろうか。どれほど苦しかったろうか。
ごめんなさい、それでもボクは逃げるしかなかった。
ボクも君らとおんなじだったから。
楽しいままでいたかったから。
ボクと君たちは本当にはなにひとつ変わりなかった。おんなじだった。どこまでも。平等だった。
そんなこと信じたくなかったのは、だからボクだ。
ボクが君たちを置いて行った。
(ごめんなさい、けれどボクはそう選んだ。ボクのために、君たちを諦められなかった。だからボクは謝らない。君を、バスケを選んだ君を、もう、)
#青黒
#短編
#未完
2024.10.15
No.27
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だからもう、恨めと云われてもボクにはそれが出来ない。妬むことも憎むことももうなにひとつ出来やしない。そんなんでないのだ。彼等はそういう面でひどくずるい。ひどい。そして哀しい。ボクは俯いてしまうことすらできない。もうできない。だって彼等が俯いてしまっていたからだ。勝ったくせに、踏み躙ったくせに、君たちが俯いて唇を噛み締めたせいだ。なんだそれは。馬鹿にしているのか、失礼じゃないのか。そんなの、許せない。
そう思って、ボクはバスケを諦められなかった。彼等を諦められなかった。諦められないから、続けた。それ以外でもう、証明することもできなかったからだ。袋小路とも云う。やはりひどい。ずるい。ボクが諦められないなら、君たちだって諦めるな。
許せない。
ああ、それかもしれない。そういう感情だったのかもしれない。今更ながらにそう考えた。ボクは、彼らが許せなかった。彼らを俯かせる「なにか」が許せなかった。
例えばそれは、世界の外側から手を差し入れて、緩慢に種々さまざまに人々を拘束する法則かなにかで、ボクはそういう人知の及ばないような力にさえ許せないと考える傲慢な人間だったのだ。そんなものに屈したくはない。才能だとか優劣だとか、そういう簡単な二次熟語ひとつで世界が証明されるようならば、そんなものは、そんな世界はいらない。要らない。抗ってみせる。否定してみせる。許さない。絶対に。なにひとつ。受け入れてなんか、やらない。信じる? 美しさ? 理想? くそくらえ、です。そんな綺麗なものは求めていない。そんな優しいものは欲していない。ボクは傲慢だ。ボクが強欲だ。ボクはなににも謝らない。ボクは、君たちを、ボクの為に、諦めない。
君たちを諦めなければならないような世界なら、要らない。認めない。欲しくない。
許さない。
ボクはそこまで思い出して、考えて、ふと目の前の彼を見詰めた。
彼は泣いていた。いや、泣いてはいなかった。眦も別段、濡れてもいない。なのにどう見たって眉根が寄って、眉間の皺はいっそう痛ましげに深まって刻まり、歪んでいる。あれ、哀しそうだ、と今更気付いて、そうか彼は哀しいのかと考えた。彼の背後には曇天の鈍色が広がっている。雨が降りそうだ。もしかしたら雪かもしれない。吐息が白い。指先が戦慄く。恐怖よりも確実性を伴って、現実で爪先が凍る。あれ、冬か。冬、なんだ。そんなことにまで、今更ながらに思考が追いついた。そうか、ボクはもう、引退したんだ。雪が降ってしまう前に。終えてしまったんだ。
冬。
ふう、と確かめるみたいに吐息を空気に震わせた。煙より果敢なげに、薄靄を引いて白く広がって霧散していくボクの二酸化炭素は、消え入る前に彼のジャケットへぶつかった。それが小さな呆れの溜息に感ぜられたらしく、彼がひどく傷付いたような声で責めた。「なに言ってんだよ、お前」
ボクは答える。「言葉のとおりです」
まるで喧嘩腰の会話のように殺伐としている。彼は、青峰くんは、明らかに憤っていた。許せない。信じたくない。青の瞳の鮮烈さで、深淵で、そう語っているようだった。けれども、たとえそうだったとしても、ボクにはなにもできないのだけれど。
「受験生なんですよ。当然じゃないですか。引退なんてみんな普通にします」
「お前の言い方はそういうんじゃなかった」
「否定はしません」
「テツ、」
だから、どうしてそんなにボクを睨むのか。
「引退して、受験して大学に行くのは分かる。他のやつらと一緒だろ。でも、お前のは違うじゃねえか」
「そうですね」
睨んで凄んで、責め立てるような口調のくせに、瞳が、ひどいと泣いている。そう、見えた。
それこそ今更だと、ボクは笑わなかった。
「お前の言い方は、バスケそのものを辞めるって意味にきこえた」
「間違ってないです」
外なので、寒かった。冷えていた。街路灯は煌々と明かりを灯し、まだ6時を回らないというのに既に辺りは宵闇に近い。暗い。寒い。冬だ。いつかボクが、君に置いて行かれた季節だ。ボクが逃げ出した季節だ。
曇天が空に蓋をしていて、余計に暗い。そして低い。世界が狭い。窮屈だった。寒さを凌ぐためのコートは厚手で、温かいのに身体の内部ばかりは寒いままだった。内臓が冷やされていくのが分かった。お腹の底が黒く淀んでいくのが分かる。黒さは冴え冴えとしている。冷えている。ボクはコートの下のお腹を撫でてみた。そこに居たはずの「なにか」が今はもうすっかり空っぽでがらんどうで、その代わりにボクはバスケを辞めるのだと知っていた。決めていたのを、知っていた。
「……なんだか、君たちって、いつもいつもそうですよね。いつだって被害者の顔をして、周りを寂しそうに見詰めている。そんなつもりないくせに、ずるいとかひどいとか、そういう目で、ボクを責め立てる」
まあ加害者はボクも同じですけれど。平坦な声音で突然のようにボクが話し出すと、彼はますます眉根を寄せて、瞳を細めて、顎を引いた。自分を守ろうとするような、縮こまるような、怖がるような、憤るような表情とで、ボクを見下ろしていた。ボクの言葉の続きを待っていた。
「別に君たちのせいじゃないですよ。安心してください」
「じゃあ、なんでだよ」
「たぶん聴いても君は絶対に納得しないです」
「そんなの、きいてみねえと分から」
「選んで欲しかったからです」
主語がなかった。
それでも、伝わったのだろうか。青峰君は黙ってしまった。
「もう君たちを、君を、ボクは、許したんです」
嘘を吐いた。
許すなんて、そんな単語はまるで不正解だった。ボクが許せなかったのは君たちだけれど、君たちたちじゃない。青峰くん自身じゃない。そうじゃない。
君たちを諦めることを、強いられることだ。
「青峰くんが渡米すると聞いて、心底嬉しかった。諦めなくて、よかったって。こんな傲慢を貫き通して、いろんな人を傷つけて、それでも、ボクは、ボクのこの月日は、3年は、間違ってなかったんだ。そう、言ってもらえたような気がして」
すごく、嬉しかったんです。
救われた心地にさえ。
「だからもう、ボクはバスケを辞めるんです」
そのとき初めて、青峰くんが瞳の表面を濡らした。
ボクはそれをただ黙って見詰めていた。
同罪って言葉。同じ罪。共犯でこそなかったけれど、けれどお前だって加担者だ。お前だっておんなじだった。そういう言葉。自分自身に。そういうことを、理解していた。同罪の者同士で許すも何もあるはずがない。ボクは君たちと同じだ。むしろボクは、逃げだした。逃亡者だ。実行犯は君たちだったろうけれど、加担者は責任から逃げ出した。逃亡者は実行犯よりある意味でいちばんに最低だ。目を背けた。背を向けた。頭を抱えて耳を塞いで、見なかったことにしてなかったことにして、そうして膝を丸めて「許さない」って。自分を哀しみに暮れる登場人物に仕立て上げて。そういう始まり方を、ボクは、した。
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「青峰くんは、優しいですね」
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