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優しい魔女の子守歌
「アル、あの魔女に会ったんだって?!」
背後からかけられた言葉に、立ち止まる。
始業の鐘が鳴る十分ほど前、めいめいに生徒たちが登校しだし混雑する校門前を、アルフレッドは歩いていた。声をかけてきたクラスメートの少年は、朝の挨拶もなしに、アルフレッドの肩を抱く。そして続ける。「すっげえじゃん!どんなだった?」
「魔女?」
訝しむように、そして何の話なのかと疑問符を浮かべながら、アルフレッドは鸚鵡返しに訊ね返す。生憎と、童話の世界に入り浸るほど夢見る少年ではないのだが。
「国家だよ、国!俺らの祖国と会ったんだろ?!」
国。祖国。その単語に、ふと、動悸が早まるのを感じた。警鐘にも似た胸の高鳴りが、ごんごんと、心臓を重たくノックする。思い返されるのは、新緑よりも青く、空よりも澄んだ、二つの円いグリーンアイズ。ひんやりと冷たい、初夏のような双眸に見詰め返される、あの心地が脳裏を掠め、アルフレッドはいつになく動揺した。そして、その動揺をひた隠しに、少年の問いに何でもない風を装って応対する。
「会ったっていうか、ちょっと挨拶しただけなんだぞ。」
そう、会っただけ。挨拶を交わしただけ。名前を呼ばれただけ。
あの美しい少年に、あの眼に、射止められただけ。
アルフレッドが「魔女」と呼ばれる少年と会ったのは、外交官である父に付き添って行った先の、とある古めかしい洋館でのことだった。赤煉瓦の壁に蔓延る蔓蔦が、懐かしい情緒や趣を醸す、年月をそのまま喰らったかのような、巨大な森に囲まれた、時間も空間も巨大な館。
呑み込まれそうなほどに鬱蒼と茂る、背の高い森に少しの息苦しさを感じながら、アルフレッドは洋館の門へと、父と共に立った。館からは、父を招いたと思しき男が歩いてくる。その男の横には、一人の少年が居た。線の細い印象のその少年に、何故か初めから、アルフレッドは目を奪われていた。
ようこそ、ミスター・ジョーンズ。そして初めまして、アルフレッド。二人を館へと招いた男が、詠うように云う。伸ばされた手を、父とアルフレッドは順に握った。
ふと、その横に佇む少年の視線が、肌に突き刺さった。
見られていた。
そのことに気付いたのか、男が大仰に腕を広げて、アルフレッドへと話しかける。紹介しよう、アルフレッド。彼は、我等が祖国、アーサーだ。
祖国。
反芻するように、反復するように、繰り返した。聞き慣れて、云い慣れている言葉。なのに、不自然に、胸の奥へと降りてこない言葉。初めて使うかのように、余所余所しい言葉。
そうだ。彼が私たちの国なんだよ、アルフレッド。
うまく言葉を呑み込めずにいるアルフレッドに、咀嚼を促すかのように、繰り返し、男は云った。
アルフレッドは少年を見詰める。少年もまた、アルフレッドを見詰めている。その双眸は、ひどく冷静に静寂に、沈むように深い。そんな印象を与えた。湖畔の傍の、静謐な森のように穏やかな、その緑の虹彩だった。
静かで底の知れない、美しいグリーンアイズ。
ふと、視線を外し、少年はアルフレッドの父に問う。
「お前の息子か?」
その声音や態度は、大の大人相手に引け目を一切感じることなく、ともすれば尊大にさえ受け取られかねないものだったが、臆することなく、少年は父の顔を真っ直ぐに捉えていた。
真っ直ぐに背筋を伸ばし佇む少年のその姿に、アルフレッドの中で憧憬の念が浮ぶ。
素直に、かっこいい、と感じた。
「そうか。お前にも、息子が出来たんだな。」
感慨深げに、そしてどこか寂しそうにそう呟く少年の表情は、幼い顔立ちを大きく裏切る憂いを帯びていて、ちぐはぐに噛みあわないそれらが、とても果敢無げだった。そして美しく、アルフレッドの瞳に写った。少年らしい容貌で、少年らしからぬ表情で、彼は立っていた。存在していた。不思議だった。こんな子供を、人間を、アルフレッドは知らなかった。
「アルフレッド、」
名前を呼ばれる。気付くと、彼の顔が、ほっそりとした白い輪郭が、自分を見詰めていた。真摯な瞳が、鋭利な刃のようにアルフレッドの瞳を射抜いていた。
貫かれて、身動きが取れない。
心臓が痛んだ。
「いい名だな。」
少年は、祖国は、魔女は。そしてアーサーは、そう呟くと、ひっそりと小さく、花の可憐さとはまた別種の、小さな祝福を小さく噛み締めるように、静かに笑みを浮かべた。
「王の名だ。」
それから、父と館の主人、そしてアーサーとの3人は、アルフレッドを置いて難しいことを話し出した。そのときのアルフレッドには、彼らがなんのために自分を連れてきて、そして目の前で話を始めているのかも判別していなかったが、幾ばくも年の変わらぬのに、大人に負けぬ威厳でもって会話に参加しているアーサーに、憧憬と畏敬と、そして言葉にし難い、形容しようのない気持ちをただ抱いた。その気持ちで胸がいっぱいになった。だから、彼等の会話の内容など、まるで耳に入らず、そして理解も出来ていなかった。
あの瞬間に、祖国と呼ばれる彼に自らが選ばれていたことも。
それからアルフレッドは、アーサーの住まう件の洋館に頻繁に出入りするようになった。
彼は、大きな館にほとんど一人で暮らしていた。下女が一人、住み込みで居るほかは、鬱蒼とした濃密な森の奥、時間を呑み込んだ古びた洋館に、たった一人で居た。たった一人で生活していた。
アルフレッドには、それがとても寂しく感じた。
いつだったか、その旨を伝えるとアーサーは笑って云った。「お前は本当に優しい子だな。」
嬉しそうにはにかむ彼を見て、気分は高揚するのに、何故か胸は痛んだ。苦しくなった。その感覚の名も、感情の名も、アルフレッドは知らなかった。
すっかりと互いに打ち解けたあるとき、早めに下校したアルフレッドは、アーサーの住む館へと向かった。送迎の車から降り、彼の部屋へと階段を上がる。すると、廊下の突き当たり、重たい二枚扉の向こうからひどく咳き込む声が聞こえた。
「アーサー?」
恐る恐る、彼の寝室の扉を押し開く。
木材の温かみの残る、懐かしい香りのする部屋だった。柔らかなミルク色の壁紙に、少しの煤や染みが残っており、重なった年月が伺えた。
そして、部屋の壁沿いの寝台に、アーサーは丸まっていた。
背を丸め、体を縮め、萎縮するように小さくなって、毛布に包まっている。そして激しく咳き込んでは、荒い息で呼吸していた。
「アーサー、具合が悪いのかい?」
部屋へ飛び込む。寝台に駆け寄り、彼の顔を覗き込んだ。毛布の隙間から見える顔は、ひどく青白かった。
「アルフレッド、」
足音に目を覚ましたのか、頼りなげな声音で、アーサーが口を開く。
「大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ。いつもの、発作、だから、」
途切れ途切れに、絶え絶えに、アーサーは答える。線の細い彼が、そうして言葉を弱く口にする様は、あまりに痛ましかった。見ているだけでこちらが苦しくなってくる。
「……病気なの?」
「ああ。あまり、長くはないな。」
何が、とは問えない。それが何を示唆するのか分からないほど、アルフレッドは子供ではない。
ただ、自分の中を、鈍い衝撃が駆け巡った。
「……そう、なんだ。」
沈黙。視線も交えられない気まずさが、部屋に充満した。いや、それを感じているのはアルフレッドだけで、アーサー自身はまるで気にしていないのかもしれなかった。
ただ、自分だけは、自分ばかりは、体を巡る衝撃の鈍痛に、痛くて辛くて堪らない。
「……あまり、気にしてくれるなよ。まだ何年か先までは平気だ。」
気遣うように、言葉をかけられる。俯いた顔を上げると、目の前に彼の顔が在った。青褪めて血の気も引いても尚、凛とした表情も、真っ直ぐに射抜く緑の瞳も健在だった。彼にはいつだって、威厳と気品が満ちていた。
それが、国たる所以なのかもしれない。
「ねえ、俺、今日は聞きたいことがあって来たんだ。」
小さく、彼が不安に思わないよう、小さく笑いかけた。
寝台の縁に腰掛けなおして、アルフレッドは質問する。
「アーサーは、どうして皆から魔女だなんて呼ばれてるんだい?」
くるりと、彼の瞳が丸まった。不思議そうな、疑問を浮かべているような表情になる。
「だって、アーサーは男だし、別に悪いことだってしてないんだぞ。」
なんで?アルフレッドは問う。
すると、次はアーサーが、口元に弧を描いて、不安や疑念を取り除くように小さく笑ってみせた。
「俺の前の〝祖国〟が、女だったんだよ。世代交替したことを世間が知らないままで、魔女って呼び名も一緒に定着したままなんだな、きっと。」
「……祖国は、アーサーの他にもいたの?」
「祖国は一人だけだよ。俺は、〝彼女〟の死を継いだ。もう百年も前の話さ。」
「百年……、」
「ああ。長かったけど、短かったよ。……それももう、終わりだ。やっと、やっと終わりだ。」
「おわ、り?」
声に出して、繰り返す。
おわる。おわり。終わり。
最期。
「アルフレッド、」
ふいに名を呼ばれ、思考が淀みかけていたアルフレッドの肩が、びくりと跳ねた。
アーサーは、一つ咳き込んだのち、ゆっくりと口にする。
「俺の死を継いで、祖国になってくれないか。」
*
昔の話をしてやるよ。
俺が、まだ人間だった頃の話さ。
俺は妾腹の子だった。しょうふく、分からないか?妾の子だよ。そう、めかけ。兄たちとは腹違いの兄弟だったんだ。
だからだろうな、俺は昔から、母にも兄にも、そして父にも疎まれて育った。歓迎されて生まれてきたわけじゃなかったらしい。疎まれてっていうよりは、ほとんど憎まれてたな。腕を折られたり、暖炉に突っ込まれたりなんてのはよくあることだったよ。迫害も同然だった。
このままじゃ死んでしまう、生きてかれないと幼いながらに感じたのか、俺は家を逃げ出した。森の奥で、野生児みたいにして、なんとか生き永らえた。
一人で怖くなかったのかって?
不思議と怖くはなかったな。暗闇よりも、森のざわめきよりも何よりも、人間の方がずっとずっと、怖かったよ。
そんなときに、森に彼女がやって来たんだ。
彼女は云った。「優しき孤独の子よ。孤独を癒える代わりに、一生を牢獄に捧げる勇気はあるか。」
勿論、なんのことかなんて分からなかったさ。意味が分からなかった。
でも、怖くはなくても、きっと寂しかったんだろうな。俺は、寂しかった。独りは嫌だった。愛されたかった。誰かに必要とされたかったんだ。
だから、彼女に答えた。「あります。」って。
独りから抜け出すために。
よく理解してもなかったってのにな。我ながら向こう見ずだったよ。
彼女に連れられて、俺は都に来た。そしてすぐに引き継ぎが始まった。なんのって、ああ、説明が足りなかったな。すまない。
彼女は〝国〟だった。祖国だった。魔女と呼ばれる、祖国だったんだ。そして、俺に次の祖国を、存在を引き継げって云っていたんだ。
俺は、それに了承した。
国という生き物は、誤解されがちだけど、不死ではないんだ。いつか死ぬんだ。世代を交替して、入れ替わって、次の国という存在を引き継ぐんだ。だから勿論、彼女の前にも祖国は居た。別の祖国が。同じ国という生き物だけど、別の人格の国が。
引継ぎが行われて、彼女は死んだ。俺は、人間である俺も死んだ。代わりに、〝国〟という存在のアーサーが生まれた。祖国は無事に引き継がれたんだよ。
国となった俺には居場所も知人も用意された。独りでなくなった。憎悪の念もなしに、普通の人間のように話しかけて、扱ってくれる人が沢山現れた。初めてだった。嬉しかった。きちんとした食事がある。存在していい場所がある。呼べば答えてくれる人が、隣に存在してくれる。そんな何気ないものが、本当に幸せだった。
でもな、いいことばかりでもなかったんだよ。
親しくしてくれる人。世話になった人。愛しいと思えた人。みんな、俺よりも先に歳をとって老いて、死んでいった。俺は取り残された。
俺はまた独りになった。
それは、いや、それが、国という長い時間を生きる者の、定めと苦しみだったんだ。彼女が云っていた牢獄ってのは、そういう意味だったんだ。
お前の親父さん、居るだろう。ミスター・ジョーンズ。あいつも、俺はほんの小さな子供の頃から知っていたよ。あいつが幼い矮躯から屈強な大人の成人男性へと育っていくのを、時間を経ていくのを、俺は見ていた。老いることもなく、見ていた。
孤独を癒えるために選んだ命だったけど、でも、俺はやっぱり、孤独だった。置いていかれて、独りになって、冷えていって、命だけが、続いていって。
そんなとき、お前の話を聞いた。あいつから。
あいつから聞くお前の話は、まるで太陽みたいに照って、明るくて、輝いていた。温かった。お前が活躍する日々の生活を聞くだけで、心の底の薄汚い孤独が、自然と癒されていくみたいだった。
幸福に包まれた、心根の真っ直ぐな、強くて優しい子供なんだって。
俺がそう在りたかったものを、全て持って生まれた子供なんだって。
だから、ただ話を聞くだけでこうも惹かれてしまうのだと、分かったんだ。
分かったら、もう決めざるを得なかったんだ。
強くて優しい、幸福の子。アルフレッド。
俺の死を継いで、祖国となってくれないか。
*
形容する言葉がない。言い表す表現が、適格に存在しない。アルフレッドには、答える術がない。どんな言葉を吐いたって、どれもが的外れでしかないのだ。
うれしい、さみしい、くるしい、こわい。どれも本当で、どれも嘘だ。
ただ、目の前の少年が、アーサーが、ひどく真剣で、真摯で、真っ直ぐにこの瞳を射抜いていることだけが間違いなかった。
「どうして、俺なんだい?」
震えるように問う。彼の瞳ばかりが、揺れない。移ろわない。
アーサーは、口元を緩めて、答える。
「国とは、置いていかれる苦しみを背負う、いわば人身御供だ。誰かが継がなければならないし、誰かが追わねばならない。」
でも。
言いよどむ。躊躇いがちに、続ける。
でもな。
「だからって、俺はお前が憎いから選ぶわけじゃない。決してそうじゃないんだ。アルフレッド。誤解しないで欲しい。」
アーサーは、そこで言葉を切った。真っ直ぐだった視線を少し泳がせて、下を見、逡巡の後、なにか思い切ったように、苦しげな表情で、再びアルフレッドの瞳を見詰めた。云った。
「俺は、お前が好きなんだ。だから、この身に背負う幸福も、不幸も、存在も、すべて渡したいんだ。」
お前に。お前だけに。
こんなこと云われても、お前は困るだろうけれど。小さくか細く、彼は零す。
凛と前を向いていたあの緑の瞳は、水晶体は、とても寂しそうだった。アルフレッドは、あんなに粛然と厳然と前を見据えていた少年の、とても脆弱で、敏感で、傷つきやすい部分へと踏み入ったような心地になる。
きっと彼は、こうやって、好意を誰かへと抱くことも伝えることも、怖くてならないのだろう。
祝福されずに生まれて。孤独のままの百年を生き永らえて。愛する人たちに、置いてゆかれて。
そしてもうすぐ、終わってしまう。
なんの愛の形も残せずに。
ふと気付くと、アルフレッドの目尻には、薄い光の膜のような涙が張っていた。ゆるゆると、それらは次第に視界を覆っていって、振り絞るような瞬きと共に、外界へと寂しく落ちて、降ってゆく。光る。膝の上へと、雫の染みを作る。
彼の命の寂しさを思い、アルフレッドは、泣いていた。
「お前は、本当に優しい子だな。」
静かに涙を落とすアルフレッドに、アーサーはただ、柔らかな笑みを向けるだけだった。
ありがとう、と。一言零すだけで。
*
「アルフレッド、十九の誕生日おめでとう!」
クラッカーが放たれ、軽快な破裂音と共に、アルフレッド・F・ジョーンズの十九の誕生日パーティーが開始した。
「ありがとう、皆!」
上等のスーツを着込み、大きな大輪の花束を抱えながら、アルフレッドは笑顔で開会のスピーチをする。広間は全てが生花で彩られ、壁には所狭しと色取り取りの風船が飾られていた。観葉植物の隣には、プレゼントの箱が鮮烈なビビッドカラーも鮮やかに。大きく山積みにされている。
黄色い歓声、きらびやかな笑い声。楽しげな空気に、祝福を手向ける友人たち。アルフレッドは、それらの幸福の光景を見詰める。目に焼き付ける。色褪せることのない、脳裏のアルバムへと焼き付ける。
この光景を、この瞬間を、俺は忘れない。そう呟いた。蒼い瞳は、真剣だった。真っ直ぐだった。淀みない決意が、そこには在った。
しかしすぐに、真剣なそれら表情は押し隠される。大切な瞬間と時間とを壊してしまわぬように、何事もなかったかのように、アルフレッドは振舞った。そして、手招きして彼の名を呼ぶ、友人たちの元へと走り寄って行った。
アーサーと出会ったあの日から、五年が経とうとしていた。
彼は、自分を優しい子供だと云った。
けれど、成長したアルフレッドは、そうは思わない。自分は優しいわけじゃない。ただ、祝福されて、幸福と優しさに包まれて生まれた、恵まれた子供だっただけだ。本当の孤独も知らないし、腕を折られる痛みも、心を殺される傷みも知らない。ただそれだけなのだ。
俺が優しいんじゃない。君が、優しいんだ。
暗い室内の中。パーティーもお開きになり、一人真夜中の自室でソファーに腰掛け、アルフレッドは座っていた。待っていた。
存在の寂寥。生まれた悲哀。俺の持たない、それら苦しみ。抱えて生きる、彼の百数年。
ふと、テラスの入り口に掛けられた、薄手のカーテンが揺れる。
こつ、と、靴音がした。
「誕生日おめでとう、アルフレッド。」
少しハスキーの入った、少年のような幼さを残した声。低すぎない、アルト。徹って、透ったそれらは、懐かしく、ひどく胸を締め付ける。アルフレッドの中のやわい部分を、深く深く、抉るように、甘美に響く。
アーサーの声だった。
彼の姿は、五年前から変わることなく、少年の幼さを残したそれのままだった。今ではアルフレッドの方が確実に背が高い。手を伸ばし、この腕の中へ抱き込んでしまえば、容易く折れてしまうのではないかと思わせるほどに、頼りなく、果敢無く、そして美しい矮躯だった。
ただ、その緑の双眸の真摯な真っ直ぐさだけが、凛として、自分を貫いて離さなかった。射抜かれていた。射止められていた。
だからきっと、こんな歳月など関係なしに、アルフレッドの中の答えなど始めから決まっていたのだ。
「ありがとう、アーサー。」
声変わりを迎えた青年の声で、アルフレッドは答えた。アーサーは切なそうに微笑む。きっと、その成長に、彼を置いていった多くの愛しい人間たちを思い起こしていたのだろう。
「アーサー、」
だからアルフレッドは、決めていた。
きっとずっと前から。
君に惹かれたあの出会いの瞬間から。
君を、俺は置いていかないと。
「君の祝福と呪いを、俺に贈ってくれないかい。」
アーサーの目が、見開かれる。瞠目する。揺られるカーテンの間に間に、その矮躯は見え隠れした。
きっと、彼は驚くだけでなく、後悔しているのだろう。そして同時に、ひどく苦しく、泣きたく、なっているのだろう。嬉しさに咽び泣く心を、必死に思いとどまっているのだろう。
たった一度の、愛を伝えた言葉が、受け入れられた瞬間を思って。
「いいのか、本当に。」
声は震えていた。躊躇い戸惑いと、切望と苦渋とに揺れていた。それは、聞き返しているというよりは、受け入れていいのかという、ひたすらの迷いに聞こえた。
「君の優しさを受け止めてあげられるなら、君の苦しみを終わらせてあげられるなら、俺は構わない。」
アーサー。
一歩を踏み出す。靴音を響かせて、テラスの向こうに居る彼へと近付く。
皮肉だね。
アルフレッドは笑った。切なげに微笑んだ。
君が百年を苦しんだおかげで、俺は君に出会えた。君を愛せた。
けれど。君がその苦しみを終えられることが、唯一の二人の恋文だなんて。
こんな狂おしい愛を、誰が知っているだろうか。
テラスのすぐ目の前で、アルフレッドは立ち止まった。すぐそこに、アーサーの姿が在った。愛しい人間の、愛しい少年の姿が在った。
「ありがとう、アルフレッド。」
細められる、彼のまなこ。緑の硝子の、美しい瞳が狭められて、優しさの笑みが、彼の白い輪郭全体を使って象られて、彩られて、幸福を形作られて。
この微笑みを見るためだけに、自分はきっと、生を受けたのだ。
身を屈めた。微笑む少年に、生涯でたった一人の少年に、アルフレッドは小さなキスを一つ、落とした。
「愛してるよ、アルフレッド。俺の担う永遠を、俺が背負う苦しみを、俺が抱く幸福を。すべて、お前に。お前だけに。」
アーサーの唇が、そう言葉を宿した。
そして、それが最期だった。
契約は成立し、アルフレッドは〝国〟となった。
その場に崩れ落ちた彼の少年の亡骸は、灰さえ残さず、消えていった。
それが、国と人間の、たった一つの恋文だった。
#アルアサ
#中編
2024.10.15
No.30
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背後からかけられた言葉に、立ち止まる。
始業の鐘が鳴る十分ほど前、めいめいに生徒たちが登校しだし混雑する校門前を、アルフレッドは歩いていた。声をかけてきたクラスメートの少年は、朝の挨拶もなしに、アルフレッドの肩を抱く。そして続ける。「すっげえじゃん!どんなだった?」
「魔女?」
訝しむように、そして何の話なのかと疑問符を浮かべながら、アルフレッドは鸚鵡返しに訊ね返す。生憎と、童話の世界に入り浸るほど夢見る少年ではないのだが。
「国家だよ、国!俺らの祖国と会ったんだろ?!」
国。祖国。その単語に、ふと、動悸が早まるのを感じた。警鐘にも似た胸の高鳴りが、ごんごんと、心臓を重たくノックする。思い返されるのは、新緑よりも青く、空よりも澄んだ、二つの円いグリーンアイズ。ひんやりと冷たい、初夏のような双眸に見詰め返される、あの心地が脳裏を掠め、アルフレッドはいつになく動揺した。そして、その動揺をひた隠しに、少年の問いに何でもない風を装って応対する。
「会ったっていうか、ちょっと挨拶しただけなんだぞ。」
そう、会っただけ。挨拶を交わしただけ。名前を呼ばれただけ。
あの美しい少年に、あの眼に、射止められただけ。
アルフレッドが「魔女」と呼ばれる少年と会ったのは、外交官である父に付き添って行った先の、とある古めかしい洋館でのことだった。赤煉瓦の壁に蔓延る蔓蔦が、懐かしい情緒や趣を醸す、年月をそのまま喰らったかのような、巨大な森に囲まれた、時間も空間も巨大な館。
呑み込まれそうなほどに鬱蒼と茂る、背の高い森に少しの息苦しさを感じながら、アルフレッドは洋館の門へと、父と共に立った。館からは、父を招いたと思しき男が歩いてくる。その男の横には、一人の少年が居た。線の細い印象のその少年に、何故か初めから、アルフレッドは目を奪われていた。
ようこそ、ミスター・ジョーンズ。そして初めまして、アルフレッド。二人を館へと招いた男が、詠うように云う。伸ばされた手を、父とアルフレッドは順に握った。
ふと、その横に佇む少年の視線が、肌に突き刺さった。
見られていた。
そのことに気付いたのか、男が大仰に腕を広げて、アルフレッドへと話しかける。紹介しよう、アルフレッド。彼は、我等が祖国、アーサーだ。
祖国。
反芻するように、反復するように、繰り返した。聞き慣れて、云い慣れている言葉。なのに、不自然に、胸の奥へと降りてこない言葉。初めて使うかのように、余所余所しい言葉。
そうだ。彼が私たちの国なんだよ、アルフレッド。
うまく言葉を呑み込めずにいるアルフレッドに、咀嚼を促すかのように、繰り返し、男は云った。
アルフレッドは少年を見詰める。少年もまた、アルフレッドを見詰めている。その双眸は、ひどく冷静に静寂に、沈むように深い。そんな印象を与えた。湖畔の傍の、静謐な森のように穏やかな、その緑の虹彩だった。
静かで底の知れない、美しいグリーンアイズ。
ふと、視線を外し、少年はアルフレッドの父に問う。
「お前の息子か?」
その声音や態度は、大の大人相手に引け目を一切感じることなく、ともすれば尊大にさえ受け取られかねないものだったが、臆することなく、少年は父の顔を真っ直ぐに捉えていた。
真っ直ぐに背筋を伸ばし佇む少年のその姿に、アルフレッドの中で憧憬の念が浮ぶ。
素直に、かっこいい、と感じた。
「そうか。お前にも、息子が出来たんだな。」
感慨深げに、そしてどこか寂しそうにそう呟く少年の表情は、幼い顔立ちを大きく裏切る憂いを帯びていて、ちぐはぐに噛みあわないそれらが、とても果敢無げだった。そして美しく、アルフレッドの瞳に写った。少年らしい容貌で、少年らしからぬ表情で、彼は立っていた。存在していた。不思議だった。こんな子供を、人間を、アルフレッドは知らなかった。
「アルフレッド、」
名前を呼ばれる。気付くと、彼の顔が、ほっそりとした白い輪郭が、自分を見詰めていた。真摯な瞳が、鋭利な刃のようにアルフレッドの瞳を射抜いていた。
貫かれて、身動きが取れない。
心臓が痛んだ。
「いい名だな。」
少年は、祖国は、魔女は。そしてアーサーは、そう呟くと、ひっそりと小さく、花の可憐さとはまた別種の、小さな祝福を小さく噛み締めるように、静かに笑みを浮かべた。
「王の名だ。」
それから、父と館の主人、そしてアーサーとの3人は、アルフレッドを置いて難しいことを話し出した。そのときのアルフレッドには、彼らがなんのために自分を連れてきて、そして目の前で話を始めているのかも判別していなかったが、幾ばくも年の変わらぬのに、大人に負けぬ威厳でもって会話に参加しているアーサーに、憧憬と畏敬と、そして言葉にし難い、形容しようのない気持ちをただ抱いた。その気持ちで胸がいっぱいになった。だから、彼等の会話の内容など、まるで耳に入らず、そして理解も出来ていなかった。
あの瞬間に、祖国と呼ばれる彼に自らが選ばれていたことも。
それからアルフレッドは、アーサーの住まう件の洋館に頻繁に出入りするようになった。
彼は、大きな館にほとんど一人で暮らしていた。下女が一人、住み込みで居るほかは、鬱蒼とした濃密な森の奥、時間を呑み込んだ古びた洋館に、たった一人で居た。たった一人で生活していた。
アルフレッドには、それがとても寂しく感じた。
いつだったか、その旨を伝えるとアーサーは笑って云った。「お前は本当に優しい子だな。」
嬉しそうにはにかむ彼を見て、気分は高揚するのに、何故か胸は痛んだ。苦しくなった。その感覚の名も、感情の名も、アルフレッドは知らなかった。
すっかりと互いに打ち解けたあるとき、早めに下校したアルフレッドは、アーサーの住む館へと向かった。送迎の車から降り、彼の部屋へと階段を上がる。すると、廊下の突き当たり、重たい二枚扉の向こうからひどく咳き込む声が聞こえた。
「アーサー?」
恐る恐る、彼の寝室の扉を押し開く。
木材の温かみの残る、懐かしい香りのする部屋だった。柔らかなミルク色の壁紙に、少しの煤や染みが残っており、重なった年月が伺えた。
そして、部屋の壁沿いの寝台に、アーサーは丸まっていた。
背を丸め、体を縮め、萎縮するように小さくなって、毛布に包まっている。そして激しく咳き込んでは、荒い息で呼吸していた。
「アーサー、具合が悪いのかい?」
部屋へ飛び込む。寝台に駆け寄り、彼の顔を覗き込んだ。毛布の隙間から見える顔は、ひどく青白かった。
「アルフレッド、」
足音に目を覚ましたのか、頼りなげな声音で、アーサーが口を開く。
「大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ。いつもの、発作、だから、」
途切れ途切れに、絶え絶えに、アーサーは答える。線の細い彼が、そうして言葉を弱く口にする様は、あまりに痛ましかった。見ているだけでこちらが苦しくなってくる。
「……病気なの?」
「ああ。あまり、長くはないな。」
何が、とは問えない。それが何を示唆するのか分からないほど、アルフレッドは子供ではない。
ただ、自分の中を、鈍い衝撃が駆け巡った。
「……そう、なんだ。」
沈黙。視線も交えられない気まずさが、部屋に充満した。いや、それを感じているのはアルフレッドだけで、アーサー自身はまるで気にしていないのかもしれなかった。
ただ、自分だけは、自分ばかりは、体を巡る衝撃の鈍痛に、痛くて辛くて堪らない。
「……あまり、気にしてくれるなよ。まだ何年か先までは平気だ。」
気遣うように、言葉をかけられる。俯いた顔を上げると、目の前に彼の顔が在った。青褪めて血の気も引いても尚、凛とした表情も、真っ直ぐに射抜く緑の瞳も健在だった。彼にはいつだって、威厳と気品が満ちていた。
それが、国たる所以なのかもしれない。
「ねえ、俺、今日は聞きたいことがあって来たんだ。」
小さく、彼が不安に思わないよう、小さく笑いかけた。
寝台の縁に腰掛けなおして、アルフレッドは質問する。
「アーサーは、どうして皆から魔女だなんて呼ばれてるんだい?」
くるりと、彼の瞳が丸まった。不思議そうな、疑問を浮かべているような表情になる。
「だって、アーサーは男だし、別に悪いことだってしてないんだぞ。」
なんで?アルフレッドは問う。
すると、次はアーサーが、口元に弧を描いて、不安や疑念を取り除くように小さく笑ってみせた。
「俺の前の〝祖国〟が、女だったんだよ。世代交替したことを世間が知らないままで、魔女って呼び名も一緒に定着したままなんだな、きっと。」
「……祖国は、アーサーの他にもいたの?」
「祖国は一人だけだよ。俺は、〝彼女〟の死を継いだ。もう百年も前の話さ。」
「百年……、」
「ああ。長かったけど、短かったよ。……それももう、終わりだ。やっと、やっと終わりだ。」
「おわ、り?」
声に出して、繰り返す。
おわる。おわり。終わり。
最期。
「アルフレッド、」
ふいに名を呼ばれ、思考が淀みかけていたアルフレッドの肩が、びくりと跳ねた。
アーサーは、一つ咳き込んだのち、ゆっくりと口にする。
「俺の死を継いで、祖国になってくれないか。」
*
昔の話をしてやるよ。
俺が、まだ人間だった頃の話さ。
俺は妾腹の子だった。しょうふく、分からないか?妾の子だよ。そう、めかけ。兄たちとは腹違いの兄弟だったんだ。
だからだろうな、俺は昔から、母にも兄にも、そして父にも疎まれて育った。歓迎されて生まれてきたわけじゃなかったらしい。疎まれてっていうよりは、ほとんど憎まれてたな。腕を折られたり、暖炉に突っ込まれたりなんてのはよくあることだったよ。迫害も同然だった。
このままじゃ死んでしまう、生きてかれないと幼いながらに感じたのか、俺は家を逃げ出した。森の奥で、野生児みたいにして、なんとか生き永らえた。
一人で怖くなかったのかって?
不思議と怖くはなかったな。暗闇よりも、森のざわめきよりも何よりも、人間の方がずっとずっと、怖かったよ。
そんなときに、森に彼女がやって来たんだ。
彼女は云った。「優しき孤独の子よ。孤独を癒える代わりに、一生を牢獄に捧げる勇気はあるか。」
勿論、なんのことかなんて分からなかったさ。意味が分からなかった。
でも、怖くはなくても、きっと寂しかったんだろうな。俺は、寂しかった。独りは嫌だった。愛されたかった。誰かに必要とされたかったんだ。
だから、彼女に答えた。「あります。」って。
独りから抜け出すために。
よく理解してもなかったってのにな。我ながら向こう見ずだったよ。
彼女に連れられて、俺は都に来た。そしてすぐに引き継ぎが始まった。なんのって、ああ、説明が足りなかったな。すまない。
彼女は〝国〟だった。祖国だった。魔女と呼ばれる、祖国だったんだ。そして、俺に次の祖国を、存在を引き継げって云っていたんだ。
俺は、それに了承した。
国という生き物は、誤解されがちだけど、不死ではないんだ。いつか死ぬんだ。世代を交替して、入れ替わって、次の国という存在を引き継ぐんだ。だから勿論、彼女の前にも祖国は居た。別の祖国が。同じ国という生き物だけど、別の人格の国が。
引継ぎが行われて、彼女は死んだ。俺は、人間である俺も死んだ。代わりに、〝国〟という存在のアーサーが生まれた。祖国は無事に引き継がれたんだよ。
国となった俺には居場所も知人も用意された。独りでなくなった。憎悪の念もなしに、普通の人間のように話しかけて、扱ってくれる人が沢山現れた。初めてだった。嬉しかった。きちんとした食事がある。存在していい場所がある。呼べば答えてくれる人が、隣に存在してくれる。そんな何気ないものが、本当に幸せだった。
でもな、いいことばかりでもなかったんだよ。
親しくしてくれる人。世話になった人。愛しいと思えた人。みんな、俺よりも先に歳をとって老いて、死んでいった。俺は取り残された。
俺はまた独りになった。
それは、いや、それが、国という長い時間を生きる者の、定めと苦しみだったんだ。彼女が云っていた牢獄ってのは、そういう意味だったんだ。
お前の親父さん、居るだろう。ミスター・ジョーンズ。あいつも、俺はほんの小さな子供の頃から知っていたよ。あいつが幼い矮躯から屈強な大人の成人男性へと育っていくのを、時間を経ていくのを、俺は見ていた。老いることもなく、見ていた。
孤独を癒えるために選んだ命だったけど、でも、俺はやっぱり、孤独だった。置いていかれて、独りになって、冷えていって、命だけが、続いていって。
そんなとき、お前の話を聞いた。あいつから。
あいつから聞くお前の話は、まるで太陽みたいに照って、明るくて、輝いていた。温かった。お前が活躍する日々の生活を聞くだけで、心の底の薄汚い孤独が、自然と癒されていくみたいだった。
幸福に包まれた、心根の真っ直ぐな、強くて優しい子供なんだって。
俺がそう在りたかったものを、全て持って生まれた子供なんだって。
だから、ただ話を聞くだけでこうも惹かれてしまうのだと、分かったんだ。
分かったら、もう決めざるを得なかったんだ。
強くて優しい、幸福の子。アルフレッド。
俺の死を継いで、祖国となってくれないか。
*
形容する言葉がない。言い表す表現が、適格に存在しない。アルフレッドには、答える術がない。どんな言葉を吐いたって、どれもが的外れでしかないのだ。
うれしい、さみしい、くるしい、こわい。どれも本当で、どれも嘘だ。
ただ、目の前の少年が、アーサーが、ひどく真剣で、真摯で、真っ直ぐにこの瞳を射抜いていることだけが間違いなかった。
「どうして、俺なんだい?」
震えるように問う。彼の瞳ばかりが、揺れない。移ろわない。
アーサーは、口元を緩めて、答える。
「国とは、置いていかれる苦しみを背負う、いわば人身御供だ。誰かが継がなければならないし、誰かが追わねばならない。」
でも。
言いよどむ。躊躇いがちに、続ける。
でもな。
「だからって、俺はお前が憎いから選ぶわけじゃない。決してそうじゃないんだ。アルフレッド。誤解しないで欲しい。」
アーサーは、そこで言葉を切った。真っ直ぐだった視線を少し泳がせて、下を見、逡巡の後、なにか思い切ったように、苦しげな表情で、再びアルフレッドの瞳を見詰めた。云った。
「俺は、お前が好きなんだ。だから、この身に背負う幸福も、不幸も、存在も、すべて渡したいんだ。」
お前に。お前だけに。
こんなこと云われても、お前は困るだろうけれど。小さくか細く、彼は零す。
凛と前を向いていたあの緑の瞳は、水晶体は、とても寂しそうだった。アルフレッドは、あんなに粛然と厳然と前を見据えていた少年の、とても脆弱で、敏感で、傷つきやすい部分へと踏み入ったような心地になる。
きっと彼は、こうやって、好意を誰かへと抱くことも伝えることも、怖くてならないのだろう。
祝福されずに生まれて。孤独のままの百年を生き永らえて。愛する人たちに、置いてゆかれて。
そしてもうすぐ、終わってしまう。
なんの愛の形も残せずに。
ふと気付くと、アルフレッドの目尻には、薄い光の膜のような涙が張っていた。ゆるゆると、それらは次第に視界を覆っていって、振り絞るような瞬きと共に、外界へと寂しく落ちて、降ってゆく。光る。膝の上へと、雫の染みを作る。
彼の命の寂しさを思い、アルフレッドは、泣いていた。
「お前は、本当に優しい子だな。」
静かに涙を落とすアルフレッドに、アーサーはただ、柔らかな笑みを向けるだけだった。
ありがとう、と。一言零すだけで。
*
「アルフレッド、十九の誕生日おめでとう!」
クラッカーが放たれ、軽快な破裂音と共に、アルフレッド・F・ジョーンズの十九の誕生日パーティーが開始した。
「ありがとう、皆!」
上等のスーツを着込み、大きな大輪の花束を抱えながら、アルフレッドは笑顔で開会のスピーチをする。広間は全てが生花で彩られ、壁には所狭しと色取り取りの風船が飾られていた。観葉植物の隣には、プレゼントの箱が鮮烈なビビッドカラーも鮮やかに。大きく山積みにされている。
黄色い歓声、きらびやかな笑い声。楽しげな空気に、祝福を手向ける友人たち。アルフレッドは、それらの幸福の光景を見詰める。目に焼き付ける。色褪せることのない、脳裏のアルバムへと焼き付ける。
この光景を、この瞬間を、俺は忘れない。そう呟いた。蒼い瞳は、真剣だった。真っ直ぐだった。淀みない決意が、そこには在った。
しかしすぐに、真剣なそれら表情は押し隠される。大切な瞬間と時間とを壊してしまわぬように、何事もなかったかのように、アルフレッドは振舞った。そして、手招きして彼の名を呼ぶ、友人たちの元へと走り寄って行った。
アーサーと出会ったあの日から、五年が経とうとしていた。
彼は、自分を優しい子供だと云った。
けれど、成長したアルフレッドは、そうは思わない。自分は優しいわけじゃない。ただ、祝福されて、幸福と優しさに包まれて生まれた、恵まれた子供だっただけだ。本当の孤独も知らないし、腕を折られる痛みも、心を殺される傷みも知らない。ただそれだけなのだ。
俺が優しいんじゃない。君が、優しいんだ。
暗い室内の中。パーティーもお開きになり、一人真夜中の自室でソファーに腰掛け、アルフレッドは座っていた。待っていた。
存在の寂寥。生まれた悲哀。俺の持たない、それら苦しみ。抱えて生きる、彼の百数年。
ふと、テラスの入り口に掛けられた、薄手のカーテンが揺れる。
こつ、と、靴音がした。
「誕生日おめでとう、アルフレッド。」
少しハスキーの入った、少年のような幼さを残した声。低すぎない、アルト。徹って、透ったそれらは、懐かしく、ひどく胸を締め付ける。アルフレッドの中のやわい部分を、深く深く、抉るように、甘美に響く。
アーサーの声だった。
彼の姿は、五年前から変わることなく、少年の幼さを残したそれのままだった。今ではアルフレッドの方が確実に背が高い。手を伸ばし、この腕の中へ抱き込んでしまえば、容易く折れてしまうのではないかと思わせるほどに、頼りなく、果敢無く、そして美しい矮躯だった。
ただ、その緑の双眸の真摯な真っ直ぐさだけが、凛として、自分を貫いて離さなかった。射抜かれていた。射止められていた。
だからきっと、こんな歳月など関係なしに、アルフレッドの中の答えなど始めから決まっていたのだ。
「ありがとう、アーサー。」
声変わりを迎えた青年の声で、アルフレッドは答えた。アーサーは切なそうに微笑む。きっと、その成長に、彼を置いていった多くの愛しい人間たちを思い起こしていたのだろう。
「アーサー、」
だからアルフレッドは、決めていた。
きっとずっと前から。
君に惹かれたあの出会いの瞬間から。
君を、俺は置いていかないと。
「君の祝福と呪いを、俺に贈ってくれないかい。」
アーサーの目が、見開かれる。瞠目する。揺られるカーテンの間に間に、その矮躯は見え隠れした。
きっと、彼は驚くだけでなく、後悔しているのだろう。そして同時に、ひどく苦しく、泣きたく、なっているのだろう。嬉しさに咽び泣く心を、必死に思いとどまっているのだろう。
たった一度の、愛を伝えた言葉が、受け入れられた瞬間を思って。
「いいのか、本当に。」
声は震えていた。躊躇い戸惑いと、切望と苦渋とに揺れていた。それは、聞き返しているというよりは、受け入れていいのかという、ひたすらの迷いに聞こえた。
「君の優しさを受け止めてあげられるなら、君の苦しみを終わらせてあげられるなら、俺は構わない。」
アーサー。
一歩を踏み出す。靴音を響かせて、テラスの向こうに居る彼へと近付く。
皮肉だね。
アルフレッドは笑った。切なげに微笑んだ。
君が百年を苦しんだおかげで、俺は君に出会えた。君を愛せた。
けれど。君がその苦しみを終えられることが、唯一の二人の恋文だなんて。
こんな狂おしい愛を、誰が知っているだろうか。
テラスのすぐ目の前で、アルフレッドは立ち止まった。すぐそこに、アーサーの姿が在った。愛しい人間の、愛しい少年の姿が在った。
「ありがとう、アルフレッド。」
細められる、彼のまなこ。緑の硝子の、美しい瞳が狭められて、優しさの笑みが、彼の白い輪郭全体を使って象られて、彩られて、幸福を形作られて。
この微笑みを見るためだけに、自分はきっと、生を受けたのだ。
身を屈めた。微笑む少年に、生涯でたった一人の少年に、アルフレッドは小さなキスを一つ、落とした。
「愛してるよ、アルフレッド。俺の担う永遠を、俺が背負う苦しみを、俺が抱く幸福を。すべて、お前に。お前だけに。」
アーサーの唇が、そう言葉を宿した。
そして、それが最期だった。
契約は成立し、アルフレッドは〝国〟となった。
その場に崩れ落ちた彼の少年の亡骸は、灰さえ残さず、消えていった。
それが、国と人間の、たった一つの恋文だった。
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