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愛されなかった方の男の話
1.
「なーんだ、ぴんぴんしてるじゃん。」
イギリスが自殺未遂をした、ということは、たちまちに隣国へと広まった。フランスの耳にも当然のようにすぐに届いた。病院にすぐに搬送され、事なきを得たというからどんなものなのかと思いきや、目の前の男は、イギリスは、静かにカフェテラスの椅子へ腰掛けている。香る紅茶を片手に、優雅に会議前のお茶を楽しむ男は、ちら、とこちらを一瞥しただけで、何の反応もよこしはしなかった。その様子に少しの違和や苛立ちを覚えつつも、向かいの席へ、断りもなくフランスは座る。ケーキセットを注文。そして、また違和感。
イギリスが、何も言わない。
「なんだよ、何黙ってんのお前。」
フランスの放つ言葉、動作、行動全てに対し、不快感を丸出しにしては、暴言暴力罵詈雑言の限りを尽くす男が、フランスの勝手ともとれる振る舞いに、何も言わない。視線を向けない。口を開かない。まるで関心も示さず、ただ、黙っている。
「別に。座りたきゃ座ればいいだろう。」
やっぱり、おかしい。
ぴんぴんしているというのは見かけだけで、もしかして脳に障害でも残ったのか?疑念が浮かぶ。確かめようと、わざとその顔に、頬に、手を伸ばす。いつもの彼なら、「触るなクソヒゲ死ね」くらいは平気で言い放つ。フランスは、それを期待して、指を曲げた。指の腹が、確かな感触を伴って、イギリスの頬に触れた。イギリスは何も言わない。あの太い眉毛も吊りあがらない。寄って、皺を刻むこともない。
そのことに、フランスの脳内に耳鳴りのような早鐘が鳴り響いた。
まずいと、叫びが聞こえた。
イギリスは、その円い緑の瞳をくるりと寄せて、自分の頬に触れる、フランスの手の平の先を見詰めた。そして、静かに言った。「以前のような反応を期待してるんなら、無理だぜ。俺は、お前への記憶と感情を捨てたからな。」
もちろん、フランスにはいったい彼が何を言っているかなど、分かりもしなかった。
「何言ってんの、お前。」
「最低限のデータを残して、ほとんど全部捨てたからな。今の俺に何したって、別に俺は何も思わねえよ。お前は国の一人、隣国フランス。それだけのデータしか、今の俺にはない。」
だから、何されたって、何の感情も湧かない。
まるでせせら笑うように言って、イギリスはフランスを残してカフェを出て行こうとする。フランスは、そのまま座り続けている。言葉を反復して、必死に理解しようと努めて、そして、「もうそろそろ会議の時間だぜ、」扉の前に立つ彼の、色も温度もない声音を耳に、同じように立ち上がるしか出来なかった。
「記憶を、失くされたんだそうです。」
世界会議の合間に、日本はそう言った。「記憶喪失か?」フランスは動揺をひた隠しに問い返す。先程のイギリスの冷ややかな緑の瞳が、声音が、頭に張り付いて取れなくて、不安や疑念疑問ばかりを量産し続けていた。
日本は首を振る。
「記憶はあるようなんです。歴史も、自分が国であることも、きちんと理解されています。けれど、あらゆる記憶に伴った感情を、感情の伴った記憶を、全て失くされているんだそうです。」
思い出が一切ない。そう言った方が分かりやすいかもしれません。日本は静かに言った。黒曜石の瞳は、ひどく悲しげだった。フランスは、その悲しみの瞳に反するように、何故か怒りのようなものが湧き立って止まらなかった。
「なんだ、それ。」
「フランスさん、」
「何アイツ、勝手に、」
そんな馬鹿なことになっているんだ。フランスは、嘲笑するような笑みと、それに反した震えの声で、呟いた。ちぐはぐな男の態度に、日本は俯く。また、その黒い虹彩が悲しげに、きゅっと縮まった。水晶体が薄くなった。
「このことは、皆知っているのか、」
「……恐らくは。」
ただ。日本は言い淀む。フランスはいぶかしむが、無闇に先を促したりはしなかった。数秒の間のあと、その思い唇は開かれた。静かに、開かれた。
「ただ、アメリカさんは、まだ知らないそうです。」
フランスは、深い嘆息を吐いた。
これは、会議後には一悶着ありそうだな、と。
予想通り、イギリスとアメリカは言い争いを始めた。いつもだったらイギリスも負けじと声を張り上げるのに、今目の前に起こっている諍いは、アメリカが一方的に喚くだけの悲痛に滑稽なものでしかなかった。周りの者は遠目にそれらを傍観するのみで、誰も仲裁しないし、触れないし、そして、見ようと、していなかった。
イギリスが、違ってしまった。そのことに対する様々な思惑が、広い円形の会議室に充満していった。それは、窒息の域にまで達していて、ただただ無闇に、居心地が悪かった。フランスは吐き気さえ感じた。
ただ一人、イギリスだけが無表情に佇み続けていた。
会議が終わり、窒息の窮屈な空気が、その扉と共に開け放たれなくなってゆく。各国は各々に散り、部屋を出て行った。足音が重なった。途端に、空間には光が戻ったようだ。酸素がある、とフランスは呼吸した。その隣でもくもくと資料を片付け鞄に仕舞い込み、イギリスは立ち上がる。フランスはそれをただ横目に見遣った。
「イギリス、」
アメリカが、円形の机の向こうで、こちらに視線を送っていた。何故、という言葉と、裏切り者、という紛糾とを無言で発しながら、フランスに、イギリスに視線を向けていた。フランスはまたそれに嘆息して、「イギリス、」隣から去ろうとするその男の腕を取った。
「ちょっとお茶してかないか。」
昔の記憶だ。振り返ればそれは、いくらだっていくつだって出てくる。その中で一際汚れた薄汚いものがある。何度も触れて撫でて叩いたから、皺が出来てて、見目は悪い。なのに、だから、ひどくいとおしい。そういう記憶。その中には、大抵、イギリスが居たのだ。笑っているのだ。皮肉に、悲しげに、怒り顔に、傲慢に、時折、花咲くように。
けれど、目の前の彼は、そんな風に笑う、褪せた記憶の中の彼とは全くの異物でしかなかったから、フランスは困ってしまった。苦しんでしまった。怖くなってしまった。
だから、不躾に、こんなことしか訊けない。「どうして、記憶を失くしたんだ。」
イギリスは片目を眇めて、ひどく退屈そうに答えた。
「俺自身は憶えてない。ただ、手紙にはこう書いてあった。“愛されなかった記憶なんていらない”と。多分そういうことだろ。」
小さな、少し内装の凝ったカフェで、二人は紅茶とコーヒーを飲んだ。イギリスの瑣末な仕草1つ1つまで、フランスは用心深く眺めていたが、そのどれもが普通の彼だった。平常の、いつもどおりの彼の行為だった。
ただ、緑の虹彩は、こちらを見ない。見ようともしない。以前と同じようにはフランスを見てくれなかった。
「愛されなかったって、そんなことが書いてあったのか。」
どこまで卑屈に歪んだ思考回路をしてるんだか、と、苦笑いしようとして、失敗する。 イギリスは、「でも、本当のことだろう。俺は“憶えてない”が、知ってはいるぜ。お前にされたこともお前の吐いた毒も、お前が俺を愛さなかったことも。全部。」
憎憎しいほど、彼らしい、彼らしからぬシニカルな笑みを浮かべて言った。
沈黙が落ちた。充満するでもなしに、それは流れて薄らいでゆくが、しかし確実に、フランスの喉を裂きかけた。血は出ないのに、呻き声も出ないのに、フランスはひどく傷んだ。他人事のように我が身の記憶を語るイギリスを、哀れにすら思う。同時に、我が身の不実さをも。ひどく哀れに思う。
なんと、なんと滑稽な二人なのだろうと。
「じゃあ、」
小さく笑う。一呼吸おく。そして、フランスは問うた。
「愛せば、俺がお前を愛せば、お前は記憶を失くしたりなんか、しなかったのか?」
「知らねえよ。」
憶えてねえんだから。切って捨てるように、容赦なく返される。
「別に、」
いつか、小さなイギリスが、フランスの膝で眠っていた記憶。それが目の前に蘇る。あのとき、その膝は温かくて、体は熱く、柔らかで、フランスは、自分は確かに愛しさを抱いていた。そのはずだった。
「別に俺は、お前のことを嫌ってはいたけど、憎んではいなかったのよ?」
「ふうん。」
炭酸よりも尚あっさりと返される。フランスは続ける。
「でも、俺たちは国だろ?」
「そうだな。」
「人じゃないんだよ。」
「……。」
「人じゃないから、愛する理由とか、ないんだよ。」
嘘だ。
心の隅で、自らが答える。
お前は今、嘘を吐いた。
「それはつまり、生産性の問題か?」
動悸がした。鼓動が高鳴った。自らに暴かれた自らの嘘が、黒い液体を吹く。
欺瞞の色に似ていた。
それらを確定、フランスは苦笑してみせた。「違うよ。」
「そうじゃなくて、意味の問題じゃなくて、――」
じゃあ、何の問題?
嘘吐きの自分は、次は何を騙している?
「……価値の問題か。」
イギリスが、フランスの二の句を継いで呟く。「俺は、愛される価値のない人格だったんだな。」
彼の手の中の、紅茶の波紋が揺れて悲しい。机の上の二つの陶器のカップは、冷たく静かで、哀しい。フランスはその哀しさと静けさと、そしてイギリスの吐いた言葉とに、何も答えらずにいた。何も言えなかった。そうではないと、否定の単語や品詞は、ついぞ、口の上に転がることがなかった。どうして?何故?違うと、そんなこと言っていないと、言ってやれば、それが一番のはずだろう。
うそつき。
心にこだまする。
「心配すんなよ、俺は傷ついたりしないから。」
動揺を隠しきれていないフランスをよそに、イギリスは笑った。鼻で笑うようでも、無理して笑うようでも、心から喝采するようでもなく、ただ簡素に笑った。
「俺は、お前のことなんか知らない。知らない奴に愛されなくたって、当然だ。」
ならばなぜ、そんなにも無感動を装った風に、佇むのか。
俺が嘘吐きなら、こいつだって嘘吐きだ。フランスはそう糾弾した。けれど、確実に傷ついたのは、どう考えても自分の方だった。
「話はもういいだろう。俺は帰るぞ。」
そしてまた、今朝のように、彼はフランスを置いて立ち上がる。
お前に価値がなかったわけじゃない。フランスは、目の前の空席に呟く。
(お前は確かに何かに愛されていたはずなんだ。俺にだけじゃない。お前は、選ばれてたはずだ。そうだろう。そのことにお前が気付いてなかっただけだ。お前が、お前が愚かだったんだ。)
本当に?
(本当に?)
声が、重なる。幼少期の自分の声だ。美しい姿で、醜い彼を抱いては突き放して、善がっていた、自分の声だ。残酷な子供の声だ。
(愚かだったのは、俺なんじゃないの?)
(お前が、イギリスを否定させたんじゃないの?)
幼かった俺は、いくらでも彼を愛せた。いつだって俺は、彼の一番の隣にいたのだから。
フランスの声は、輪唱するように続いてゆく。
(そうだ、お前を愛せたのは、俺だけだったのに。)
なのに。
一番に隣に居た俺が、一番にお前を選ばなかった。
(それは、人間の親が子を突き放すのと、同じことなんじゃないの?)
フランスの手元にあるカップには、もう何も入っていない。イギリスの残していったカップには、紅茶がたゆたうことなく静まり返っている。店内には音もない。ただ静謐で、自分の咎を暴こうとする、自らの声ばかりが、繰り返し、繰り返し、
繰り返し。
(過信?驕り?優越感?)
(お前を選ばない俺。俺を選ばないお前。)
だのに、隣に居ることを許されるよな、その立ち位置。
(永遠に互いを所有するような、その感覚。)
それは何ものにも替え難くて。
(だから俺は、それがよかった。)
(それを失いたくなかった。)
(それでいいんだと、思っていた。)
「お客様、コーヒーのお代わりはいかがですか?」
店員のソプラノが耳を通る。慌てて、フランスは顔を上げ、笑みを浮かべ、「メルシー」そう返す。その笑みの薄皮一枚下で、声は続く。傲慢な子供の声が続く。
(愛されなかった子供を殺したのは、)
(過去のお前を殺めたのは、)
コーヒーが注がれる。立ち上る香りが、鼻腔をくすぐった。
フランスは、笑みを深くする。
(どうやら、俺だったようだよ、イギリス。)
カップに添えた手は、温かくて、冷えていた。
(もう会えない。)
(俺を選んで、選ばない、お前に。)
永遠に失ったものを想って、フランスの笑みは暗く暗く、いっそう深く落ち窪んでいった。
It is not troubled as much as possible,
but there are also no marks as much as possible.
────────────
2.
休憩時間の諍いだった。
紙コップが倒れて、中のコーヒーが机を染めて伝う。床を濡らす。その黒の上で、アメリカが激しく激昂していた。イギリスを睨み付けて、宣言するように大声を上げる。
「今の君を、俺は絶対認めない。」
対するイギリスは、冷ややかな眼差しと面持ちでアメリカを見ていた。席を立ち上がるでもなく、視線は自然と見上げるようになるのに、アメリカは、見下して、見下ろされている気分になり、いよいよその怒気は強さを増していった。
「……別に、お前なんかに認められなくたって構わない。」
水のように澄んで、氷のように透って、刃のように鋭利に、イギリスは返す。
アメリカは、それを馬鹿にされたと受け取る。
「ちがう、君は、君はここで怒るはずなんだ、俺に言い返すはずなんだ!」
「それは“前の”俺だろう。」
「今の君も前の君も、同じイギリスじゃないか!!」
机を拳が叩きつける。円形の会議室も、机み、椅子も、空気までもが、びりびりと震動して、振幅して、遠巻きに見詰める各国たちを慄かせた。
だのに、イギリスの瞳は揺れない。響かない。そして何も伝わらない。
その薄い唇が、ひっそりと形よく開かれる。アメリカを刺してしまおうと、蛇のような毒の孕む言葉が、首をもたげて紡がれた。
「お前、まだ分からないのか?」
「“前”のイギリスは、お前らが殺したんだよ。」
イギリスは、笑っていた。吊り上げられた口角が、弧を描いた。会議室の全てを嘲笑するような笑みを浮かべていた。
アメリカは、その笑みに口を閉ざす。続けられる言葉が、彼のその、心の臓を抉る。
「殺した奴等が違うだのなんだの、うるせーんだよ。お門違いも甚だしいぜ。」
くつくつ。笑い声。細められるグリーンアイズは、鈍く美しく、禍々しく、光る。
アメリカはその笑い声が自分を辱めるためのものだと知った。気付いた。そして、どうしようもないほどに、激しい怒りばかりを覚えた。顔に血が集まり、赤く染まっていくのを感じる。羞恥にも似て、嫌悪にも似て、困惑にも似た、それ。
なにも云えない。何も、言い返せない。返答して応答して、元のイギリスを取り戻さなければならないはずなのに、何も。言葉一つ。
出なかった。
イギリスは笑うのをやめると、ひどく退屈そうに席を離れた。
「ありゃー、大昔の大英帝国さんそのままやんなあ。俺が大嫌いなアイツに戻りよったわ。」
アメリカたちの一方的な諍いを遠目に見ていたスペインが、ざわめきを取り戻した休憩中の会議室に一言放った。「……俺、今のイギリス好きだったのになあ……、なんか、哀しいな。」その一言にイタリアが返す。「俺はどっちもこえーよチクショー。」ロマーノが弟の隣で呟いた。その脇の席で、全てを視て聴いていた日本が、不安げに、憂いを帯びた瞳で俯く。音で発せずに、彼の名を呼ぶ。その小さな吐息の呼び声にすら反応し、喜んでいた彼はもう、いない。
取り残されたアメリカは、そのまま午後の会議を欠席した。
(愛されなかった頃の君。)
会議室でのスペインの言葉が蘇る。「大昔の大英帝国」そのままで、「いつかの愛されなかった」記憶のイギリス。それを失くしたくて、記憶を手放した君。アメリカは、一人自宅付近のカフェで考え続けた。窓辺の向こうの雑踏が、雑音が、何故かひどく心地よかった。不安な現実に、それらはアメリカを一人でない安堵に包んだ。今、一人になりたくなかった。独りになりたくなかった。誰かと居たかった。願わくば、自分を愛してくれた彼に、会いたかった。
けれど、彼は違ってしまっている。
(誰にも愛されなかった頃の君。)
(誰も愛さなかった頃の君。)
自分は、そんな彼を知らない。
彼は自分を、アメリカを愛してくれていた。自惚れでなく、それは本当の全てだった。そして、アメリカに、彼は確実に愛されていた。アメリカが存在した時には、既に、いつかの愛されない、愛さないイギリスは、存在しなかったのだ。
だから、それはつまり、
(俺が、)
(俺が、生まれる前の、俺と会う前の、君……?)
その一言に、思考と感情とが集約し収斂していく。
これが、鍵なのか。
イギリスはいつも泣いていた。辛くても、苦しくても、嬉しくても、幸せを感じても、彼は決まって、それしか術を知らないように、泣いていた。幼いアメリカは、そんなイギリスに触れてはこの人に笑みを浮かべて欲しくてたまらなかった。いつだって、彼が泣くたびに、涙を流すたびに、眉根を寄せるたびに、笑って欲しかった。喜んで欲しかった。守ってあげたかった。アメリカは、イギリスを愛していた。
そうさ、君は、愛されていたんだ。
記憶を放り出して本当の独りになることなんか、そんな必要なんか、
(どこにもなかったのに!)
自宅に戻り、アメリカは彼の写真を手にした。フレームから取り出して、ざらりとした写真の光沢と質感とを生身で触れながら、延々と考え続けた。どうしてと叫びだしいそうになる思いを、必死に押さえつけた。
抑え付けれられた叫びが、縛られて締め付けられて、歪んでたわんで、涙を誘う。垂らす。アメリカの青い瞳が濡れる。ぽたぽたと。手の中の写真に染みを作る。
(でも、知っているんだ、)
(愛を知った君を、突き落として、愛の亡者に仕立てたのは、)
他ならない、自分なのだと。
雨の日。泣き崩れる君。その愛に後ろ足で砂をかけて裏切った、自分。
(徹底的に君を殺したのは、俺なんだ。)
懺悔にもならない。贖罪にすら程遠い。君を追い詰めて亡者にして殺戮した、自分。
何かを言い募る資格など、本当ははなからありはしないのだ。
(でも、でも、)
それでも。
突き放したのが自分なのなら、
(殺したのが俺だって云うのなら、)
(君を救えるのも、)
(君を愛せるのも、)
(きっと、)
(きっと!)
「おごってんじゃねえよ。」
今週に入って三度目の訪問だった。イギリス本国の彼の自宅を、アメリカは仕事を放り出してまで、幾度にも亘って訪れ続けた。玄関横に咲き乱れる薔薇の香りは、既に憶えてしまっていた。芳烈な香りに包まれて不快そうに顔を歪める彼の表情もまた、共に。
不快、というよりはそれはあからさまな敵意と同じだった。憎悪にも似て、嫌悪に近かった。わけの分からない害虫を見つけ出して、その存在を嫌悪するのと同じ目尻だった。
「驕りなんかじゃないよ。」
アメリカは着ているスタジアムジャンパーの裾を握り締めた。隠し切れない敵意の威圧に、彼から伝わる剥き出しの拒否に、どうしようもないほどの自身への否定を感じ取り、恐れた。こんな風に、イギリスから全身の否定を受けたことは、今までなかった。
怖かった。
アメリカは、はっきりとした恐怖を感じた。
それでも、自分は、彼を取り戻さなければならない。
自分が愛した彼を。
だから、言葉を返す。
「驕りなんかじゃ、絶対にないよ。」
驕りなどではない。この思いは、真実だ。
イギリスは玄関扉に手をかけて、物質的にアメリカを拒絶しながら返す。苦笑のような、嘲笑のような、侮蔑のような笑みを伴って。「じゃあ、なんだよ?」
「同情か?憐れみか?それとも自己満足か?」
口元が、童顔の彼の造りに似つかわしくなく吊りあがる。子供が老獪の笑みを象るような、そんな狂った矛盾を孕んでいた。アメリカの肩が、強張る。
「ああ、自己陶酔か。ナルシストなんだな、お前。」
知ってたけど。
くつくつと、狂狂と。くるくると、屈屈と。
歪んで嬉々として、イギリスが笑う。
アメリカは、またいつかの会議室での諍いのときのように、羞恥で全身の血が顔へと集中するのを感じた。高潮し、染め上がる顔面と反比例して、体は強張り、冷えて、動けなくなってゆく。筋肉は繊維ごと凍てついたように縮み上がった。
こんなの、彼ではない。
否定の意思と、敵意。剥き出しの拒絶。
イギリスは、こんな人ではなかった。
(俺が、)
スニーカーを履いた足を踏みしめる。落ちた葉を下に、地面を強く踏み、強張った全身に力を入れた。自分がやらなければならないのだ。俺が彼を、
(俺が彼を、救ってあげなくちゃ、)
風が、イギリスのくすんだ金糸の髪を揺らして撫ぜた。二人の沈黙を撫で上げて、アメリカの決意のあとを押す。
「……まあ、客人に茶を出すくらいならしてやるさ。毎回追い返したんじゃ、紳士の名が廃るしな。」
入れよ、と促される。拒絶の意で半分閉じられていた扉が、アメリカに向かって開け放たれた。それが、アメリカには、イギリスの心に踏み込む許しを得られたのと同義と思われた。飴色の光を帯びた玄関の中は、彼が記憶を捨てる前にいつか見たソレと同じだった。飾られた花こそ、季節の移り変わりと共に変わってはいたが、それでも、彼が以前と同じように、花を活ける彼のままであることに変わりないことを教えてくれていた。それは、今目の前のイギリスの中に、以前のイギリスがまだ生きているのだという安堵と安心を、アメリカに与えた。
匂いも温度も、家に満ちた静寂も、全て総て凡て、変わりないのだ。
まだ、イギリスは居る。それが希望と願望とに拍車をかけた。
だから、靴棚の上の花に安堵を見つけたアメリカは、その横を何の気兼ねもなく通り過ぎた。
そして、胸倉を掴まれて、扉に押し付けられた。
強かに背を打ちつけ、苦悶の声が漏れ出る。胸倉を掴む手が上へと伸びて、首が、上着ごと締め上げられた。次は声すら出なかった。反射的に閉じられた眼を開いた先には、殺意を浮かべて、豊かに鋭利に、笑んで凄むイギリスの顔が、底の知れない緑の瞳が、在った。
「な、にを、」
声が掠れた。喉仏が押され、うまく発音が出来ない。
「お前との思い出は全部捨てたが、お前がどういう性格をしていたか、大体憶えてる。」
天井の丸い飴色の光が逆光になって、薄暗く仄暗く、イギリスの顔の輪郭を浮かび上がらせた。逆光の先に笑うイギリスは、ひどく楽しそうで、そして、ひどくつまらなさそうだった。
「お前、俺を救おうとか何とか考えてるだろう?」
白い歯が見え隠れする。言葉と一緒に、それらがアメリカの腸(はらわた)を食い千切ろうとしている。
アメリカは、息を呑んだ。
「俺、は、」
「独善的でお優しい合衆国さんは、俺を元に戻してあげようとか、記憶を取り戻してややろうとか、あまつさえ、俺を愛してやろうとか、そういうことを考えてるんだろう?」 戦慄に、つと光を滑らす、白い歯。域が出来ない。刺された図星に、水晶体が縮んで、血が出そうに、なる。
苦しい。
「知ってるよ、お前がそういう奴だって、」
ぐ、と、締め上げられる力が加えられる。逆光になった彼の顔が、薄ぼんやりとけぶってきた。眼の中に涙が滲んできていた。彼の姿を、うまく視認できない。
「俺は、」
だからかもしれない。
だから、その瞬間の彼の表情が、
「知っているよ。」
ひどく哀しげで、寂しそうで、なのに穏やかに、笑っていたように思われて。
以前の彼がよく浮かべていたそれと、あまりに同じで。
八の字に歪められた太めの眉毛に、潤んで細められて優しく笑みで象る表情が、あまりに懐かしすぎて。
生理的に溜まっていた涙が、一滴、アメリカの頬を伝って落ちた。
「でもな、」
涙が落ちることで、視界がクリアになる。そしてその視界の中には、先程の懐かしきイギリスの笑みはもう、ない。幻っであったかのように、跡形もなく。何処にも見当たらない。あるのはあの、全身でアメリカを拒絶し嘲笑う彼の姿だけだ。
イギリスは続けた。アメリカの首を締め上げながら、続けた。
「俺はもっと知ってるぜ。お前が俺を否定したから、俺は記憶を捨てたんだって。」
右手が、首元から離れてゆく。そしてその手が、アメリカの背後のドアノブを回した。
そのまま扉は開け放たれ、支えを失ったアメリカの身体は、背中を強かに打ちつけながら、玄関の外へと転がり出てゆく。そのとき、脇に咲いていた薔薇の棘が、アメリカの頬を一筋、裂いた。
痛みに耐えながら、彼を見上げる。地面に倒れながら、どうにか、何かを彼に伝えようと、淡水魚のように口を開閉する。
けれど、何も出なかった。酸素と二酸化炭素が、無為に供給されただけだった。
アメリカを見下ろして逆光になって、その表情さえも見せないイギリスが、言い放つ。
「帰りな、Mother Fucker。」
アメリカの視線も思考も言葉も声も、何も届かないまま、拒絶の扉は閉められた。
閉ざされた。
The place where he should have been born.
────────────
3.
秋の夕暮れは寂しい。夏の夕暮れが愛しいのと同じほどに。秋の夕暮れはひどく寂しい。哀しい。一人でいることを知ってしまって、一人でしかないことを思い知る、そんな涼しい風が吹く。ひぐらしが唄う。日本はそう考える。縁側に腰掛けて、拳を柔く握り締める。一人であることを思い知る季節。透った赤い空。雲が薄く伸びてゆく。赤に染めて地平線に溶ける。寂しい夕暮れ。
けれど、一人ではなかった。隣にはイギリスが座っていた。
イギリスは、垣根の向こうの空をじっと見詰めている。椿の葉の、深い緑の向こうに、赤い血だまりのような太陽が下から徐々に落ちて溶け出して、形を失ってゆく。それを、緑の虹彩を朱に染められて、イギリスが見詰めている。口は固く閉じられていて、瞳は真っ直ぐに、真摯に、開かれて。
何を、考えておられるのですか。日本はそう問おうとして、しかし憚れてやめてしまう。何も言わずに隣り合う、今この一瞬がひどく尊く思われた。無粋に無闇に、壊してしまいたくなかった。
すると、図ったように、イギリスが代わりに口を開いた。「一緒に、」
「一緒に、旅してみたい。」
こちらを水に、イギリスは云う。ただ瞳は遠くを、太陽を、あるいは地平の先を見詰めたままで。
「旅、ですか。」
虚をつかれ、日本は彼を見上げながら鸚鵡返しに返答する。彼からこういった呟きが漏れるのは、なかなかないことだった。
「どこをですか?」
「宇宙。」
口元がにんまりと弧を描いていた。なのに、目尻が優しかった。悪戯のように、イギリスは日本に笑いかけた。ようやっとこちらを向いた。
日本は、それが嬉しくて笑い返す。そうして続ける。
「では、銀河鉄道を共にゆきましょうか。」
してやったり、という風に柔和に云ってみせる日本の顔を見て、イギリスは疑問符を浮かべた。赤い光は斜めに影を長く落とす。その円形の下半分は既に地平へ呑まれ、ゆらゆらと頼りなげに零れて崩れていた。
もうすぐに、夜が訪れる。
「童話ですよ。我が国の。」
ああ、とイギリスは納得する。幾分か背の低い日本を見下ろして、頭をもたげ、頷いている。「いいな。銀河を旅するのか。」その金糸の前髪が、鈍く美しく、硝子の繊細さで透って光った。
日本は、それを眩しく思う。
「はい。二人の友が、天の川を旅するお話です。」そう云って、日本はまた沈む夕陽へと視線を向ける。
垣根の下、ヨモギやハコベが蔓延る場所、今は紫陽花の蔦が絡まるその茂みから、コオロギの細い鈴の音が鳴り出した。
その音に乗って、イギリスが答える。「Milky Way,」
「いいな。ロマンチックだ。」
「二人は、本当のさいわいを探しに行くのです。」
「うん。」
「北十字座、」
手で、空を指す。十字を点で打って、結ぶ。
「蠍座、」
指した先の天蓋の空は、既に暗い。視線の先にはまだ太陽が居るのに、頭上には夜が広がっている。
「サウザンクロス、」
そしてその太陽の傍らに。一つ、一番星が輝いている。
「そして、様々な星と光と物語が、彼らを包みます。」
美しいお話です。二人は頭上の夜を見上げた。星の輝きはまだ、薄く遠い。
日本は、今すぐに二人で天の川を見たいと思った。
「その話は、」
「はい?」
ふと、コオロギとひぐらしの音に消え入りそうな声音で、イギリスが呟いた。問うた。
「その話は、二人の友人は、最期どうなるんだ?」
日本の唇が、薄く開く。
*
「あれは、秋の会話でした。そして、その秋の先、その冬の夜に、イギリスさんは記憶を失くされました。捨てられました。私は、あの人に何も届けられなかった。だからきっと、あの人は凡てをなかったことにしてしまったのですね。
私と共に旅したいと云ってくれたあの人は、その切ない笑みの裏で、全てを憎んでいた。妬んでいた。恨んでいた。そして、何よりも、好いていた。愛していた。それはさながら、哀れな片恋のように。
あなたの本当のさいわいを、私は共に探したかった。今更と笑われることでしょう。それでいいです。それが正しい。私はあなたに、何も、何も与えなかった。何も届けられなかった。でも、あなたは青い鳥を見つけられない小さな子供だった。あなたの横には在ったのです。確かに在ったのです。それを伝えなかったことが、私の罪です。」
*
その月の世界会議は都心のオフィスビルで行われた。最上階の会議室で各国はいつもどおりの応酬を繰り返していたが、それは何処かよそよそしさを孕んだ、日常の幸せだった。日本はその空気に呑まれるようにして、俯く。人知れず、溜息をつく。少し体調が優れない。理由は知れていて、だからといってどうすることも、彼には出来なかった。それが歯がゆく、同時に情けなかった。
午前の議題がまとまらないまま、時間は正午を指す。めいめいに昼食を取りに各国は散って行った。
日本は、席に腰掛けながら、少し離れた席の彼を一瞥して、すぐに視線を戻してしまう。そしてまた更に、自らを情けなく思う。
咎を背負う気概もないのか、自分は。
俯く。眼を閉じる。足音が会議室の外へと向かってゆく。自分はどうしてか動けない。じっとして、動かずに着席し続ける。
しばらくそうしていると、ふと、こちらへ足音が近付いてくるのが分かった。
目を開く。書類の束が、目の前に在った。それらに影が落ちている。「日本、」顔を上げると、そこにはイタリアが居た。
「お昼だよー、一緒に食べようよ!」
綻ぶように、イタリアは笑った。
「今日はここら辺で会議あるっていうからさ、美味しいカフェ探しといたんだー、」
ビルから出た先、イタリアはそう云いながら日本の手を引いてゆく。
「今日はドイツさんはよろしいのですか?」
「なんかオーストリアさんとお話があるみたいだから、今日はいいんだー。」
「そうですか、」
「うん。」
手を繋いだままに、二人は黙った。黙って歩いた。イタリアは口笛を吹く。日本はそれを聴きながら、どこかほっとした。安らいだ。不思議な人だ、と笑いかけた。しかし、その笑みを振り返らないままに、先にイタリアの口と言葉とが開かれた。「ねえ、日本、」
「最近、元気ないよね。」後姿のままにイタリアは云う。日本は、戸惑うように唇を結ぶ。閉じて噛み締めて、目の前の彼の、言葉の続きを待つ。「どうして?」
「そう、見えますか?」日本は小さく云う。
「うん。」イタリアは、前を向いて、日本の手を引いて、歩いてゆく。細くはあるが、頼りなくはない厚さを持つその背中を見詰め、何故だか泣いてしまいそうな心持で一杯になってしまった。イタリアの低すぎない声は、ひたすら温かかった。いつか共に夕陽を見た、愛すべき友とはまた、違う声。彼ではない。しかし、あなたもまた、私の友であり、私を見てくれていたのですね、と。鼻の奥が熱くなった。イタリアは続けた。
「ねえ、俺、日本は悪くないと思うよ。」
大きな通りに出る。人の行き交いが多くなる。だが、二人は手を離さなかった。昼の日の、真上から降りるその光に、強すぎない影が出来た。手を繋いだ二人の影は、その手を繋いでいた。当たり前のように。
そのことが、どうしてこんなにも愛しくてならないのか。
「自分を責めないで。」
その言葉が、どうしてこんなにも苦しくてならないのか。
「あのさ、」
イタリアは立ち止まった。つられて、日本も立ち止まる。
「あいつが、イギリスが自分の幸せに気付けなかったのは、あいつの咎でしかないよ。日本のせいじゃないよ。」
いつもの穏やかな彼には似つかわしくないほどの、強い意志と意思の籠もった、強い言葉だった。
「イタリアくん、でも、私は、」
「自分の幸福は、」
ぎゅうっと、強く手を握り締められる。イタリアは振り返らず、日本は言葉を続けられず、雑踏の話し声は耳を素通りして、ただ繋いだ指先だけが、熱く、熱く。
「自分の幸福は、与えられるものじゃないよ。」
イタリアの言葉は続く。
「愛は、与えられるものじゃないよ。」
声が、戦慄いていた。
日本には、その思いも表情も伺い知れない。いつかイギリスの思いも苦悩も愚かしさも、全て理解しきることの出来なかった自分には、何一つ、きっと察せられない。
けれど、目の前の熱い指先の彼が、イギリスを思って苦しんで傷ついていることだけは、ひどくひどく、傷むほどに、伝わって、分かってしまった。
「俺は、それを知っている。」
彼は、イギリスのために悲しんでいた。
自分と同じように。
「でも、イタリア君、」
もし彼が、青い鳥を見つけられないのではなく、青い鳥が存在することすら知らない子供だったのなら。
それは、それはきっと、
「それはきっと、あまりにも悲しいじゃ、ないですか。」
鼻の奥が熱くなり、目の前が透明に澱んで、歪んで、ゆっくりとたゆたった。涙が溢れたことを日本は悟った。ああ、泣いてしまう。こんなところで、こんな思いで、誰も理解できずに、誰の思いも守れずに、私は、泣いてしまう。泣いてしまうのか。
「だって子供は、子供は、知らないまま、自らの手で青い鳥の首をへし折ってしまったのだから、」
瞼を強く強く下ろして、視界を絞る。俯いて、涙を落とす。後悔と、悔恨と、苦痛とを、切り離す。切り離せない感情を、そうと知りながら、搾り出して、涙に混ぜて、落として、落として、
そして、その雫を、目の前の青年が救い上げた。
俯いて涙を流す日本に、イタリアは向き合って、その濡れた頬を撫ぜた。
「ねえ日本、」
悲痛の表情を互いに浮かべ、悲哀の感情を互いに共有して、二人は、二人の友は見詰め合った。
その存在と記憶の確かさを、確かめた。
「欲しいものは、与えることでしか得られないから、」
痛ましく、傷ましく。温く、優しく。
イタリアは笑った。
「だから、皆、寂しいんだよ。」
It goes a vega for search together with you.
Dearly Beloved.
#アルアサ
#フラアサ
#中編
#島国同盟
2024.10.15
No.31
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1.
「なーんだ、ぴんぴんしてるじゃん。」
イギリスが自殺未遂をした、ということは、たちまちに隣国へと広まった。フランスの耳にも当然のようにすぐに届いた。病院にすぐに搬送され、事なきを得たというからどんなものなのかと思いきや、目の前の男は、イギリスは、静かにカフェテラスの椅子へ腰掛けている。香る紅茶を片手に、優雅に会議前のお茶を楽しむ男は、ちら、とこちらを一瞥しただけで、何の反応もよこしはしなかった。その様子に少しの違和や苛立ちを覚えつつも、向かいの席へ、断りもなくフランスは座る。ケーキセットを注文。そして、また違和感。
イギリスが、何も言わない。
「なんだよ、何黙ってんのお前。」
フランスの放つ言葉、動作、行動全てに対し、不快感を丸出しにしては、暴言暴力罵詈雑言の限りを尽くす男が、フランスの勝手ともとれる振る舞いに、何も言わない。視線を向けない。口を開かない。まるで関心も示さず、ただ、黙っている。
「別に。座りたきゃ座ればいいだろう。」
やっぱり、おかしい。
ぴんぴんしているというのは見かけだけで、もしかして脳に障害でも残ったのか?疑念が浮かぶ。確かめようと、わざとその顔に、頬に、手を伸ばす。いつもの彼なら、「触るなクソヒゲ死ね」くらいは平気で言い放つ。フランスは、それを期待して、指を曲げた。指の腹が、確かな感触を伴って、イギリスの頬に触れた。イギリスは何も言わない。あの太い眉毛も吊りあがらない。寄って、皺を刻むこともない。
そのことに、フランスの脳内に耳鳴りのような早鐘が鳴り響いた。
まずいと、叫びが聞こえた。
イギリスは、その円い緑の瞳をくるりと寄せて、自分の頬に触れる、フランスの手の平の先を見詰めた。そして、静かに言った。「以前のような反応を期待してるんなら、無理だぜ。俺は、お前への記憶と感情を捨てたからな。」
もちろん、フランスにはいったい彼が何を言っているかなど、分かりもしなかった。
「何言ってんの、お前。」
「最低限のデータを残して、ほとんど全部捨てたからな。今の俺に何したって、別に俺は何も思わねえよ。お前は国の一人、隣国フランス。それだけのデータしか、今の俺にはない。」
だから、何されたって、何の感情も湧かない。
まるでせせら笑うように言って、イギリスはフランスを残してカフェを出て行こうとする。フランスは、そのまま座り続けている。言葉を反復して、必死に理解しようと努めて、そして、「もうそろそろ会議の時間だぜ、」扉の前に立つ彼の、色も温度もない声音を耳に、同じように立ち上がるしか出来なかった。
「記憶を、失くされたんだそうです。」
世界会議の合間に、日本はそう言った。「記憶喪失か?」フランスは動揺をひた隠しに問い返す。先程のイギリスの冷ややかな緑の瞳が、声音が、頭に張り付いて取れなくて、不安や疑念疑問ばかりを量産し続けていた。
日本は首を振る。
「記憶はあるようなんです。歴史も、自分が国であることも、きちんと理解されています。けれど、あらゆる記憶に伴った感情を、感情の伴った記憶を、全て失くされているんだそうです。」
思い出が一切ない。そう言った方が分かりやすいかもしれません。日本は静かに言った。黒曜石の瞳は、ひどく悲しげだった。フランスは、その悲しみの瞳に反するように、何故か怒りのようなものが湧き立って止まらなかった。
「なんだ、それ。」
「フランスさん、」
「何アイツ、勝手に、」
そんな馬鹿なことになっているんだ。フランスは、嘲笑するような笑みと、それに反した震えの声で、呟いた。ちぐはぐな男の態度に、日本は俯く。また、その黒い虹彩が悲しげに、きゅっと縮まった。水晶体が薄くなった。
「このことは、皆知っているのか、」
「……恐らくは。」
ただ。日本は言い淀む。フランスはいぶかしむが、無闇に先を促したりはしなかった。数秒の間のあと、その思い唇は開かれた。静かに、開かれた。
「ただ、アメリカさんは、まだ知らないそうです。」
フランスは、深い嘆息を吐いた。
これは、会議後には一悶着ありそうだな、と。
予想通り、イギリスとアメリカは言い争いを始めた。いつもだったらイギリスも負けじと声を張り上げるのに、今目の前に起こっている諍いは、アメリカが一方的に喚くだけの悲痛に滑稽なものでしかなかった。周りの者は遠目にそれらを傍観するのみで、誰も仲裁しないし、触れないし、そして、見ようと、していなかった。
イギリスが、違ってしまった。そのことに対する様々な思惑が、広い円形の会議室に充満していった。それは、窒息の域にまで達していて、ただただ無闇に、居心地が悪かった。フランスは吐き気さえ感じた。
ただ一人、イギリスだけが無表情に佇み続けていた。
会議が終わり、窒息の窮屈な空気が、その扉と共に開け放たれなくなってゆく。各国は各々に散り、部屋を出て行った。足音が重なった。途端に、空間には光が戻ったようだ。酸素がある、とフランスは呼吸した。その隣でもくもくと資料を片付け鞄に仕舞い込み、イギリスは立ち上がる。フランスはそれをただ横目に見遣った。
「イギリス、」
アメリカが、円形の机の向こうで、こちらに視線を送っていた。何故、という言葉と、裏切り者、という紛糾とを無言で発しながら、フランスに、イギリスに視線を向けていた。フランスはまたそれに嘆息して、「イギリス、」隣から去ろうとするその男の腕を取った。
「ちょっとお茶してかないか。」
昔の記憶だ。振り返ればそれは、いくらだっていくつだって出てくる。その中で一際汚れた薄汚いものがある。何度も触れて撫でて叩いたから、皺が出来てて、見目は悪い。なのに、だから、ひどくいとおしい。そういう記憶。その中には、大抵、イギリスが居たのだ。笑っているのだ。皮肉に、悲しげに、怒り顔に、傲慢に、時折、花咲くように。
けれど、目の前の彼は、そんな風に笑う、褪せた記憶の中の彼とは全くの異物でしかなかったから、フランスは困ってしまった。苦しんでしまった。怖くなってしまった。
だから、不躾に、こんなことしか訊けない。「どうして、記憶を失くしたんだ。」
イギリスは片目を眇めて、ひどく退屈そうに答えた。
「俺自身は憶えてない。ただ、手紙にはこう書いてあった。“愛されなかった記憶なんていらない”と。多分そういうことだろ。」
小さな、少し内装の凝ったカフェで、二人は紅茶とコーヒーを飲んだ。イギリスの瑣末な仕草1つ1つまで、フランスは用心深く眺めていたが、そのどれもが普通の彼だった。平常の、いつもどおりの彼の行為だった。
ただ、緑の虹彩は、こちらを見ない。見ようともしない。以前と同じようにはフランスを見てくれなかった。
「愛されなかったって、そんなことが書いてあったのか。」
どこまで卑屈に歪んだ思考回路をしてるんだか、と、苦笑いしようとして、失敗する。 イギリスは、「でも、本当のことだろう。俺は“憶えてない”が、知ってはいるぜ。お前にされたこともお前の吐いた毒も、お前が俺を愛さなかったことも。全部。」
憎憎しいほど、彼らしい、彼らしからぬシニカルな笑みを浮かべて言った。
沈黙が落ちた。充満するでもなしに、それは流れて薄らいでゆくが、しかし確実に、フランスの喉を裂きかけた。血は出ないのに、呻き声も出ないのに、フランスはひどく傷んだ。他人事のように我が身の記憶を語るイギリスを、哀れにすら思う。同時に、我が身の不実さをも。ひどく哀れに思う。
なんと、なんと滑稽な二人なのだろうと。
「じゃあ、」
小さく笑う。一呼吸おく。そして、フランスは問うた。
「愛せば、俺がお前を愛せば、お前は記憶を失くしたりなんか、しなかったのか?」
「知らねえよ。」
憶えてねえんだから。切って捨てるように、容赦なく返される。
「別に、」
いつか、小さなイギリスが、フランスの膝で眠っていた記憶。それが目の前に蘇る。あのとき、その膝は温かくて、体は熱く、柔らかで、フランスは、自分は確かに愛しさを抱いていた。そのはずだった。
「別に俺は、お前のことを嫌ってはいたけど、憎んではいなかったのよ?」
「ふうん。」
炭酸よりも尚あっさりと返される。フランスは続ける。
「でも、俺たちは国だろ?」
「そうだな。」
「人じゃないんだよ。」
「……。」
「人じゃないから、愛する理由とか、ないんだよ。」
嘘だ。
心の隅で、自らが答える。
お前は今、嘘を吐いた。
「それはつまり、生産性の問題か?」
動悸がした。鼓動が高鳴った。自らに暴かれた自らの嘘が、黒い液体を吹く。
欺瞞の色に似ていた。
それらを確定、フランスは苦笑してみせた。「違うよ。」
「そうじゃなくて、意味の問題じゃなくて、――」
じゃあ、何の問題?
嘘吐きの自分は、次は何を騙している?
「……価値の問題か。」
イギリスが、フランスの二の句を継いで呟く。「俺は、愛される価値のない人格だったんだな。」
彼の手の中の、紅茶の波紋が揺れて悲しい。机の上の二つの陶器のカップは、冷たく静かで、哀しい。フランスはその哀しさと静けさと、そしてイギリスの吐いた言葉とに、何も答えらずにいた。何も言えなかった。そうではないと、否定の単語や品詞は、ついぞ、口の上に転がることがなかった。どうして?何故?違うと、そんなこと言っていないと、言ってやれば、それが一番のはずだろう。
うそつき。
心にこだまする。
「心配すんなよ、俺は傷ついたりしないから。」
動揺を隠しきれていないフランスをよそに、イギリスは笑った。鼻で笑うようでも、無理して笑うようでも、心から喝采するようでもなく、ただ簡素に笑った。
「俺は、お前のことなんか知らない。知らない奴に愛されなくたって、当然だ。」
ならばなぜ、そんなにも無感動を装った風に、佇むのか。
俺が嘘吐きなら、こいつだって嘘吐きだ。フランスはそう糾弾した。けれど、確実に傷ついたのは、どう考えても自分の方だった。
「話はもういいだろう。俺は帰るぞ。」
そしてまた、今朝のように、彼はフランスを置いて立ち上がる。
お前に価値がなかったわけじゃない。フランスは、目の前の空席に呟く。
(お前は確かに何かに愛されていたはずなんだ。俺にだけじゃない。お前は、選ばれてたはずだ。そうだろう。そのことにお前が気付いてなかっただけだ。お前が、お前が愚かだったんだ。)
本当に?
(本当に?)
声が、重なる。幼少期の自分の声だ。美しい姿で、醜い彼を抱いては突き放して、善がっていた、自分の声だ。残酷な子供の声だ。
(愚かだったのは、俺なんじゃないの?)
(お前が、イギリスを否定させたんじゃないの?)
幼かった俺は、いくらでも彼を愛せた。いつだって俺は、彼の一番の隣にいたのだから。
フランスの声は、輪唱するように続いてゆく。
(そうだ、お前を愛せたのは、俺だけだったのに。)
なのに。
一番に隣に居た俺が、一番にお前を選ばなかった。
(それは、人間の親が子を突き放すのと、同じことなんじゃないの?)
フランスの手元にあるカップには、もう何も入っていない。イギリスの残していったカップには、紅茶がたゆたうことなく静まり返っている。店内には音もない。ただ静謐で、自分の咎を暴こうとする、自らの声ばかりが、繰り返し、繰り返し、
繰り返し。
(過信?驕り?優越感?)
(お前を選ばない俺。俺を選ばないお前。)
だのに、隣に居ることを許されるよな、その立ち位置。
(永遠に互いを所有するような、その感覚。)
それは何ものにも替え難くて。
(だから俺は、それがよかった。)
(それを失いたくなかった。)
(それでいいんだと、思っていた。)
「お客様、コーヒーのお代わりはいかがですか?」
店員のソプラノが耳を通る。慌てて、フランスは顔を上げ、笑みを浮かべ、「メルシー」そう返す。その笑みの薄皮一枚下で、声は続く。傲慢な子供の声が続く。
(愛されなかった子供を殺したのは、)
(過去のお前を殺めたのは、)
コーヒーが注がれる。立ち上る香りが、鼻腔をくすぐった。
フランスは、笑みを深くする。
(どうやら、俺だったようだよ、イギリス。)
カップに添えた手は、温かくて、冷えていた。
(もう会えない。)
(俺を選んで、選ばない、お前に。)
永遠に失ったものを想って、フランスの笑みは暗く暗く、いっそう深く落ち窪んでいった。
It is not troubled as much as possible,
but there are also no marks as much as possible.
────────────
2.
休憩時間の諍いだった。
紙コップが倒れて、中のコーヒーが机を染めて伝う。床を濡らす。その黒の上で、アメリカが激しく激昂していた。イギリスを睨み付けて、宣言するように大声を上げる。
「今の君を、俺は絶対認めない。」
対するイギリスは、冷ややかな眼差しと面持ちでアメリカを見ていた。席を立ち上がるでもなく、視線は自然と見上げるようになるのに、アメリカは、見下して、見下ろされている気分になり、いよいよその怒気は強さを増していった。
「……別に、お前なんかに認められなくたって構わない。」
水のように澄んで、氷のように透って、刃のように鋭利に、イギリスは返す。
アメリカは、それを馬鹿にされたと受け取る。
「ちがう、君は、君はここで怒るはずなんだ、俺に言い返すはずなんだ!」
「それは“前の”俺だろう。」
「今の君も前の君も、同じイギリスじゃないか!!」
机を拳が叩きつける。円形の会議室も、机み、椅子も、空気までもが、びりびりと震動して、振幅して、遠巻きに見詰める各国たちを慄かせた。
だのに、イギリスの瞳は揺れない。響かない。そして何も伝わらない。
その薄い唇が、ひっそりと形よく開かれる。アメリカを刺してしまおうと、蛇のような毒の孕む言葉が、首をもたげて紡がれた。
「お前、まだ分からないのか?」
「“前”のイギリスは、お前らが殺したんだよ。」
イギリスは、笑っていた。吊り上げられた口角が、弧を描いた。会議室の全てを嘲笑するような笑みを浮かべていた。
アメリカは、その笑みに口を閉ざす。続けられる言葉が、彼のその、心の臓を抉る。
「殺した奴等が違うだのなんだの、うるせーんだよ。お門違いも甚だしいぜ。」
くつくつ。笑い声。細められるグリーンアイズは、鈍く美しく、禍々しく、光る。
アメリカはその笑い声が自分を辱めるためのものだと知った。気付いた。そして、どうしようもないほどに、激しい怒りばかりを覚えた。顔に血が集まり、赤く染まっていくのを感じる。羞恥にも似て、嫌悪にも似て、困惑にも似た、それ。
なにも云えない。何も、言い返せない。返答して応答して、元のイギリスを取り戻さなければならないはずなのに、何も。言葉一つ。
出なかった。
イギリスは笑うのをやめると、ひどく退屈そうに席を離れた。
「ありゃー、大昔の大英帝国さんそのままやんなあ。俺が大嫌いなアイツに戻りよったわ。」
アメリカたちの一方的な諍いを遠目に見ていたスペインが、ざわめきを取り戻した休憩中の会議室に一言放った。「……俺、今のイギリス好きだったのになあ……、なんか、哀しいな。」その一言にイタリアが返す。「俺はどっちもこえーよチクショー。」ロマーノが弟の隣で呟いた。その脇の席で、全てを視て聴いていた日本が、不安げに、憂いを帯びた瞳で俯く。音で発せずに、彼の名を呼ぶ。その小さな吐息の呼び声にすら反応し、喜んでいた彼はもう、いない。
取り残されたアメリカは、そのまま午後の会議を欠席した。
(愛されなかった頃の君。)
会議室でのスペインの言葉が蘇る。「大昔の大英帝国」そのままで、「いつかの愛されなかった」記憶のイギリス。それを失くしたくて、記憶を手放した君。アメリカは、一人自宅付近のカフェで考え続けた。窓辺の向こうの雑踏が、雑音が、何故かひどく心地よかった。不安な現実に、それらはアメリカを一人でない安堵に包んだ。今、一人になりたくなかった。独りになりたくなかった。誰かと居たかった。願わくば、自分を愛してくれた彼に、会いたかった。
けれど、彼は違ってしまっている。
(誰にも愛されなかった頃の君。)
(誰も愛さなかった頃の君。)
自分は、そんな彼を知らない。
彼は自分を、アメリカを愛してくれていた。自惚れでなく、それは本当の全てだった。そして、アメリカに、彼は確実に愛されていた。アメリカが存在した時には、既に、いつかの愛されない、愛さないイギリスは、存在しなかったのだ。
だから、それはつまり、
(俺が、)
(俺が、生まれる前の、俺と会う前の、君……?)
その一言に、思考と感情とが集約し収斂していく。
これが、鍵なのか。
イギリスはいつも泣いていた。辛くても、苦しくても、嬉しくても、幸せを感じても、彼は決まって、それしか術を知らないように、泣いていた。幼いアメリカは、そんなイギリスに触れてはこの人に笑みを浮かべて欲しくてたまらなかった。いつだって、彼が泣くたびに、涙を流すたびに、眉根を寄せるたびに、笑って欲しかった。喜んで欲しかった。守ってあげたかった。アメリカは、イギリスを愛していた。
そうさ、君は、愛されていたんだ。
記憶を放り出して本当の独りになることなんか、そんな必要なんか、
(どこにもなかったのに!)
自宅に戻り、アメリカは彼の写真を手にした。フレームから取り出して、ざらりとした写真の光沢と質感とを生身で触れながら、延々と考え続けた。どうしてと叫びだしいそうになる思いを、必死に押さえつけた。
抑え付けれられた叫びが、縛られて締め付けられて、歪んでたわんで、涙を誘う。垂らす。アメリカの青い瞳が濡れる。ぽたぽたと。手の中の写真に染みを作る。
(でも、知っているんだ、)
(愛を知った君を、突き落として、愛の亡者に仕立てたのは、)
他ならない、自分なのだと。
雨の日。泣き崩れる君。その愛に後ろ足で砂をかけて裏切った、自分。
(徹底的に君を殺したのは、俺なんだ。)
懺悔にもならない。贖罪にすら程遠い。君を追い詰めて亡者にして殺戮した、自分。
何かを言い募る資格など、本当ははなからありはしないのだ。
(でも、でも、)
それでも。
突き放したのが自分なのなら、
(殺したのが俺だって云うのなら、)
(君を救えるのも、)
(君を愛せるのも、)
(きっと、)
(きっと!)
「おごってんじゃねえよ。」
今週に入って三度目の訪問だった。イギリス本国の彼の自宅を、アメリカは仕事を放り出してまで、幾度にも亘って訪れ続けた。玄関横に咲き乱れる薔薇の香りは、既に憶えてしまっていた。芳烈な香りに包まれて不快そうに顔を歪める彼の表情もまた、共に。
不快、というよりはそれはあからさまな敵意と同じだった。憎悪にも似て、嫌悪に近かった。わけの分からない害虫を見つけ出して、その存在を嫌悪するのと同じ目尻だった。
「驕りなんかじゃないよ。」
アメリカは着ているスタジアムジャンパーの裾を握り締めた。隠し切れない敵意の威圧に、彼から伝わる剥き出しの拒否に、どうしようもないほどの自身への否定を感じ取り、恐れた。こんな風に、イギリスから全身の否定を受けたことは、今までなかった。
怖かった。
アメリカは、はっきりとした恐怖を感じた。
それでも、自分は、彼を取り戻さなければならない。
自分が愛した彼を。
だから、言葉を返す。
「驕りなんかじゃ、絶対にないよ。」
驕りなどではない。この思いは、真実だ。
イギリスは玄関扉に手をかけて、物質的にアメリカを拒絶しながら返す。苦笑のような、嘲笑のような、侮蔑のような笑みを伴って。「じゃあ、なんだよ?」
「同情か?憐れみか?それとも自己満足か?」
口元が、童顔の彼の造りに似つかわしくなく吊りあがる。子供が老獪の笑みを象るような、そんな狂った矛盾を孕んでいた。アメリカの肩が、強張る。
「ああ、自己陶酔か。ナルシストなんだな、お前。」
知ってたけど。
くつくつと、狂狂と。くるくると、屈屈と。
歪んで嬉々として、イギリスが笑う。
アメリカは、またいつかの会議室での諍いのときのように、羞恥で全身の血が顔へと集中するのを感じた。高潮し、染め上がる顔面と反比例して、体は強張り、冷えて、動けなくなってゆく。筋肉は繊維ごと凍てついたように縮み上がった。
こんなの、彼ではない。
否定の意思と、敵意。剥き出しの拒絶。
イギリスは、こんな人ではなかった。
(俺が、)
スニーカーを履いた足を踏みしめる。落ちた葉を下に、地面を強く踏み、強張った全身に力を入れた。自分がやらなければならないのだ。俺が彼を、
(俺が彼を、救ってあげなくちゃ、)
風が、イギリスのくすんだ金糸の髪を揺らして撫ぜた。二人の沈黙を撫で上げて、アメリカの決意のあとを押す。
「……まあ、客人に茶を出すくらいならしてやるさ。毎回追い返したんじゃ、紳士の名が廃るしな。」
入れよ、と促される。拒絶の意で半分閉じられていた扉が、アメリカに向かって開け放たれた。それが、アメリカには、イギリスの心に踏み込む許しを得られたのと同義と思われた。飴色の光を帯びた玄関の中は、彼が記憶を捨てる前にいつか見たソレと同じだった。飾られた花こそ、季節の移り変わりと共に変わってはいたが、それでも、彼が以前と同じように、花を活ける彼のままであることに変わりないことを教えてくれていた。それは、今目の前のイギリスの中に、以前のイギリスがまだ生きているのだという安堵と安心を、アメリカに与えた。
匂いも温度も、家に満ちた静寂も、全て総て凡て、変わりないのだ。
まだ、イギリスは居る。それが希望と願望とに拍車をかけた。
だから、靴棚の上の花に安堵を見つけたアメリカは、その横を何の気兼ねもなく通り過ぎた。
そして、胸倉を掴まれて、扉に押し付けられた。
強かに背を打ちつけ、苦悶の声が漏れ出る。胸倉を掴む手が上へと伸びて、首が、上着ごと締め上げられた。次は声すら出なかった。反射的に閉じられた眼を開いた先には、殺意を浮かべて、豊かに鋭利に、笑んで凄むイギリスの顔が、底の知れない緑の瞳が、在った。
「な、にを、」
声が掠れた。喉仏が押され、うまく発音が出来ない。
「お前との思い出は全部捨てたが、お前がどういう性格をしていたか、大体憶えてる。」
天井の丸い飴色の光が逆光になって、薄暗く仄暗く、イギリスの顔の輪郭を浮かび上がらせた。逆光の先に笑うイギリスは、ひどく楽しそうで、そして、ひどくつまらなさそうだった。
「お前、俺を救おうとか何とか考えてるだろう?」
白い歯が見え隠れする。言葉と一緒に、それらがアメリカの腸(はらわた)を食い千切ろうとしている。
アメリカは、息を呑んだ。
「俺、は、」
「独善的でお優しい合衆国さんは、俺を元に戻してあげようとか、記憶を取り戻してややろうとか、あまつさえ、俺を愛してやろうとか、そういうことを考えてるんだろう?」 戦慄に、つと光を滑らす、白い歯。域が出来ない。刺された図星に、水晶体が縮んで、血が出そうに、なる。
苦しい。
「知ってるよ、お前がそういう奴だって、」
ぐ、と、締め上げられる力が加えられる。逆光になった彼の顔が、薄ぼんやりとけぶってきた。眼の中に涙が滲んできていた。彼の姿を、うまく視認できない。
「俺は、」
だからかもしれない。
だから、その瞬間の彼の表情が、
「知っているよ。」
ひどく哀しげで、寂しそうで、なのに穏やかに、笑っていたように思われて。
以前の彼がよく浮かべていたそれと、あまりに同じで。
八の字に歪められた太めの眉毛に、潤んで細められて優しく笑みで象る表情が、あまりに懐かしすぎて。
生理的に溜まっていた涙が、一滴、アメリカの頬を伝って落ちた。
「でもな、」
涙が落ちることで、視界がクリアになる。そしてその視界の中には、先程の懐かしきイギリスの笑みはもう、ない。幻っであったかのように、跡形もなく。何処にも見当たらない。あるのはあの、全身でアメリカを拒絶し嘲笑う彼の姿だけだ。
イギリスは続けた。アメリカの首を締め上げながら、続けた。
「俺はもっと知ってるぜ。お前が俺を否定したから、俺は記憶を捨てたんだって。」
右手が、首元から離れてゆく。そしてその手が、アメリカの背後のドアノブを回した。
そのまま扉は開け放たれ、支えを失ったアメリカの身体は、背中を強かに打ちつけながら、玄関の外へと転がり出てゆく。そのとき、脇に咲いていた薔薇の棘が、アメリカの頬を一筋、裂いた。
痛みに耐えながら、彼を見上げる。地面に倒れながら、どうにか、何かを彼に伝えようと、淡水魚のように口を開閉する。
けれど、何も出なかった。酸素と二酸化炭素が、無為に供給されただけだった。
アメリカを見下ろして逆光になって、その表情さえも見せないイギリスが、言い放つ。
「帰りな、Mother Fucker。」
アメリカの視線も思考も言葉も声も、何も届かないまま、拒絶の扉は閉められた。
閉ざされた。
The place where he should have been born.
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3.
秋の夕暮れは寂しい。夏の夕暮れが愛しいのと同じほどに。秋の夕暮れはひどく寂しい。哀しい。一人でいることを知ってしまって、一人でしかないことを思い知る、そんな涼しい風が吹く。ひぐらしが唄う。日本はそう考える。縁側に腰掛けて、拳を柔く握り締める。一人であることを思い知る季節。透った赤い空。雲が薄く伸びてゆく。赤に染めて地平線に溶ける。寂しい夕暮れ。
けれど、一人ではなかった。隣にはイギリスが座っていた。
イギリスは、垣根の向こうの空をじっと見詰めている。椿の葉の、深い緑の向こうに、赤い血だまりのような太陽が下から徐々に落ちて溶け出して、形を失ってゆく。それを、緑の虹彩を朱に染められて、イギリスが見詰めている。口は固く閉じられていて、瞳は真っ直ぐに、真摯に、開かれて。
何を、考えておられるのですか。日本はそう問おうとして、しかし憚れてやめてしまう。何も言わずに隣り合う、今この一瞬がひどく尊く思われた。無粋に無闇に、壊してしまいたくなかった。
すると、図ったように、イギリスが代わりに口を開いた。「一緒に、」
「一緒に、旅してみたい。」
こちらを水に、イギリスは云う。ただ瞳は遠くを、太陽を、あるいは地平の先を見詰めたままで。
「旅、ですか。」
虚をつかれ、日本は彼を見上げながら鸚鵡返しに返答する。彼からこういった呟きが漏れるのは、なかなかないことだった。
「どこをですか?」
「宇宙。」
口元がにんまりと弧を描いていた。なのに、目尻が優しかった。悪戯のように、イギリスは日本に笑いかけた。ようやっとこちらを向いた。
日本は、それが嬉しくて笑い返す。そうして続ける。
「では、銀河鉄道を共にゆきましょうか。」
してやったり、という風に柔和に云ってみせる日本の顔を見て、イギリスは疑問符を浮かべた。赤い光は斜めに影を長く落とす。その円形の下半分は既に地平へ呑まれ、ゆらゆらと頼りなげに零れて崩れていた。
もうすぐに、夜が訪れる。
「童話ですよ。我が国の。」
ああ、とイギリスは納得する。幾分か背の低い日本を見下ろして、頭をもたげ、頷いている。「いいな。銀河を旅するのか。」その金糸の前髪が、鈍く美しく、硝子の繊細さで透って光った。
日本は、それを眩しく思う。
「はい。二人の友が、天の川を旅するお話です。」そう云って、日本はまた沈む夕陽へと視線を向ける。
垣根の下、ヨモギやハコベが蔓延る場所、今は紫陽花の蔦が絡まるその茂みから、コオロギの細い鈴の音が鳴り出した。
その音に乗って、イギリスが答える。「Milky Way,」
「いいな。ロマンチックだ。」
「二人は、本当のさいわいを探しに行くのです。」
「うん。」
「北十字座、」
手で、空を指す。十字を点で打って、結ぶ。
「蠍座、」
指した先の天蓋の空は、既に暗い。視線の先にはまだ太陽が居るのに、頭上には夜が広がっている。
「サウザンクロス、」
そしてその太陽の傍らに。一つ、一番星が輝いている。
「そして、様々な星と光と物語が、彼らを包みます。」
美しいお話です。二人は頭上の夜を見上げた。星の輝きはまだ、薄く遠い。
日本は、今すぐに二人で天の川を見たいと思った。
「その話は、」
「はい?」
ふと、コオロギとひぐらしの音に消え入りそうな声音で、イギリスが呟いた。問うた。
「その話は、二人の友人は、最期どうなるんだ?」
日本の唇が、薄く開く。
*
「あれは、秋の会話でした。そして、その秋の先、その冬の夜に、イギリスさんは記憶を失くされました。捨てられました。私は、あの人に何も届けられなかった。だからきっと、あの人は凡てをなかったことにしてしまったのですね。
私と共に旅したいと云ってくれたあの人は、その切ない笑みの裏で、全てを憎んでいた。妬んでいた。恨んでいた。そして、何よりも、好いていた。愛していた。それはさながら、哀れな片恋のように。
あなたの本当のさいわいを、私は共に探したかった。今更と笑われることでしょう。それでいいです。それが正しい。私はあなたに、何も、何も与えなかった。何も届けられなかった。でも、あなたは青い鳥を見つけられない小さな子供だった。あなたの横には在ったのです。確かに在ったのです。それを伝えなかったことが、私の罪です。」
*
その月の世界会議は都心のオフィスビルで行われた。最上階の会議室で各国はいつもどおりの応酬を繰り返していたが、それは何処かよそよそしさを孕んだ、日常の幸せだった。日本はその空気に呑まれるようにして、俯く。人知れず、溜息をつく。少し体調が優れない。理由は知れていて、だからといってどうすることも、彼には出来なかった。それが歯がゆく、同時に情けなかった。
午前の議題がまとまらないまま、時間は正午を指す。めいめいに昼食を取りに各国は散って行った。
日本は、席に腰掛けながら、少し離れた席の彼を一瞥して、すぐに視線を戻してしまう。そしてまた更に、自らを情けなく思う。
咎を背負う気概もないのか、自分は。
俯く。眼を閉じる。足音が会議室の外へと向かってゆく。自分はどうしてか動けない。じっとして、動かずに着席し続ける。
しばらくそうしていると、ふと、こちらへ足音が近付いてくるのが分かった。
目を開く。書類の束が、目の前に在った。それらに影が落ちている。「日本、」顔を上げると、そこにはイタリアが居た。
「お昼だよー、一緒に食べようよ!」
綻ぶように、イタリアは笑った。
「今日はここら辺で会議あるっていうからさ、美味しいカフェ探しといたんだー、」
ビルから出た先、イタリアはそう云いながら日本の手を引いてゆく。
「今日はドイツさんはよろしいのですか?」
「なんかオーストリアさんとお話があるみたいだから、今日はいいんだー。」
「そうですか、」
「うん。」
手を繋いだままに、二人は黙った。黙って歩いた。イタリアは口笛を吹く。日本はそれを聴きながら、どこかほっとした。安らいだ。不思議な人だ、と笑いかけた。しかし、その笑みを振り返らないままに、先にイタリアの口と言葉とが開かれた。「ねえ、日本、」
「最近、元気ないよね。」後姿のままにイタリアは云う。日本は、戸惑うように唇を結ぶ。閉じて噛み締めて、目の前の彼の、言葉の続きを待つ。「どうして?」
「そう、見えますか?」日本は小さく云う。
「うん。」イタリアは、前を向いて、日本の手を引いて、歩いてゆく。細くはあるが、頼りなくはない厚さを持つその背中を見詰め、何故だか泣いてしまいそうな心持で一杯になってしまった。イタリアの低すぎない声は、ひたすら温かかった。いつか共に夕陽を見た、愛すべき友とはまた、違う声。彼ではない。しかし、あなたもまた、私の友であり、私を見てくれていたのですね、と。鼻の奥が熱くなった。イタリアは続けた。
「ねえ、俺、日本は悪くないと思うよ。」
大きな通りに出る。人の行き交いが多くなる。だが、二人は手を離さなかった。昼の日の、真上から降りるその光に、強すぎない影が出来た。手を繋いだ二人の影は、その手を繋いでいた。当たり前のように。
そのことが、どうしてこんなにも愛しくてならないのか。
「自分を責めないで。」
その言葉が、どうしてこんなにも苦しくてならないのか。
「あのさ、」
イタリアは立ち止まった。つられて、日本も立ち止まる。
「あいつが、イギリスが自分の幸せに気付けなかったのは、あいつの咎でしかないよ。日本のせいじゃないよ。」
いつもの穏やかな彼には似つかわしくないほどの、強い意志と意思の籠もった、強い言葉だった。
「イタリアくん、でも、私は、」
「自分の幸福は、」
ぎゅうっと、強く手を握り締められる。イタリアは振り返らず、日本は言葉を続けられず、雑踏の話し声は耳を素通りして、ただ繋いだ指先だけが、熱く、熱く。
「自分の幸福は、与えられるものじゃないよ。」
イタリアの言葉は続く。
「愛は、与えられるものじゃないよ。」
声が、戦慄いていた。
日本には、その思いも表情も伺い知れない。いつかイギリスの思いも苦悩も愚かしさも、全て理解しきることの出来なかった自分には、何一つ、きっと察せられない。
けれど、目の前の熱い指先の彼が、イギリスを思って苦しんで傷ついていることだけは、ひどくひどく、傷むほどに、伝わって、分かってしまった。
「俺は、それを知っている。」
彼は、イギリスのために悲しんでいた。
自分と同じように。
「でも、イタリア君、」
もし彼が、青い鳥を見つけられないのではなく、青い鳥が存在することすら知らない子供だったのなら。
それは、それはきっと、
「それはきっと、あまりにも悲しいじゃ、ないですか。」
鼻の奥が熱くなり、目の前が透明に澱んで、歪んで、ゆっくりとたゆたった。涙が溢れたことを日本は悟った。ああ、泣いてしまう。こんなところで、こんな思いで、誰も理解できずに、誰の思いも守れずに、私は、泣いてしまう。泣いてしまうのか。
「だって子供は、子供は、知らないまま、自らの手で青い鳥の首をへし折ってしまったのだから、」
瞼を強く強く下ろして、視界を絞る。俯いて、涙を落とす。後悔と、悔恨と、苦痛とを、切り離す。切り離せない感情を、そうと知りながら、搾り出して、涙に混ぜて、落として、落として、
そして、その雫を、目の前の青年が救い上げた。
俯いて涙を流す日本に、イタリアは向き合って、その濡れた頬を撫ぜた。
「ねえ日本、」
悲痛の表情を互いに浮かべ、悲哀の感情を互いに共有して、二人は、二人の友は見詰め合った。
その存在と記憶の確かさを、確かめた。
「欲しいものは、与えることでしか得られないから、」
痛ましく、傷ましく。温く、優しく。
イタリアは笑った。
「だから、皆、寂しいんだよ。」
It goes a vega for search together with you.
Dearly Beloved.
#アルアサ #フラアサ #中編 #島国同盟