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夜汽車のすべて


 我が国の作家の作品で、死者を運ぶ鉄道の物語があるんです。日本が云った。イギリスは、うちにも似たよなやつがある、と返した。

「死者が運ばれて、あの世へ、天の国へ逝くんだよな。」
「はい。」
「じゃあここも、そうなんだろうか。」

 イギリスは辺りを見回した。日本とイギリスは、振動に揺らされながら、コンパートメントの座席へ座っていた。向かい合わせに、互いの顔を見詰めていた。窓の外は暗く、時折、ぽつぽつと赤い灯が見える。それが、車内を寂しく照らしては、すぐに通り過ぎて消えていった。洋燈の明かりに車内はほんのりと染まってはいるが、それは外からの赤い光に負けるほど、淡く頼りないものだった。
 振動は、どこまでも穏やかに、一定に、続いた。

「私たちのほかには、誰もいないようですね。」

 自分たちの周りの座席をきょろきょろと見回して、日本が言う。イギリスは座席に敷かれたびろうどの感触を撫ぜた。なめらかだった。

「夢なのか?」
「…わかりません。」

 一際、大きく車体が揺れた。
 ごとん。

「その物語は、」

 最後、どうなるんだ?イギリスが訊ねた。日本は、外をじっと、見詰めて、また、イギリスへと視線を戻した。

「友は神の国へ、主人公は現実へと帰ります。」

 赤い光が、炎のように過ぎ去る。
 澄んだ明かりだった。橙にも似た色は、日本の黒い瞳の表面を輝かせた。イギリスの緑色の水晶体を照らした。それを互いが互いに、美しいと感じた。

「じゃあ、俺たちは、どちらかが逝くのかもな。」

 友達なら、だけど、イギリスの声にならない(できない)呟きを、日本は確かに聞き取った。そして、寂しそうに笑った。イギリスはためらいがちに続ける。

「日本は、どっちがいい?」

 逝くのと、帰るのと。

「私は、」

 車輪のリズムが、沈黙に摩り替わった。日本は黙ってしまった。それを、イギリスは安堵と後悔で聞いた。訊かなければよかったと、その一言が頭をしめた。
 イギリスは、臆病だった。壊してしまうような問いかけならなくていい。確かなものなど、いらない。目の前で曖昧に笑っていてくれるだけでいい。(何を笑おうと、何を思考しようと、何を悲しもうと。何を嬉しがろうと。なんでもいい。)
 俺から離れないでくれ。それだけを、イギリスは考える。

「何があなたを、一人にさせるのですか。」

 暗がりに、彫りの浅い相で、日本が笑みを象る。
 イギリスが分からない、と答えた。

「私たち、大切なことを、あえて、避けていますね。」

 会話ができてない。

「だって、いらないだろう。」
「どうしてですか、」
「なくしてしまうだろう。」
「なにをですか、」
「壊してしまうだろう。」
「…壊してしまったのですね。」

 もう、すでに。

「だから、怖いのですね。」
「…そうかもな。」

 でも、と、日本はそのてのひらを、泳がせて、イギリスのそれに被せた。イギリスは悲しそうに顔を歪ませる。触らないでくれ。離さないでくれ。そう瞳が訴えていた。日本に届くかどうかは、定かでない思いだった。窓の外でまた、赤い灯が過ぎる。二人を照らす。

「でも、もうすぐこの汽車は、夜を過ぎます。」

 そうしたら、きっとあなたは帰らなければいけない。

「大丈夫だよ、日本。俺たちは国だ。死んだりしない。」

 だからお前は、逝ったりしない。

「違います、違います、イギリスさん。そうではないのです。」

 重ねられた手が、熱い。

「私たちは、今、話さなければならないのです、きっと。」
「だけど、日本、俺はもう、失いたくない。あんな思いはしたくないんだ。」
「承知しております。けれど、私たちは、」

 洋燈が、ひときわ明るく輝いた。

「…お話を、しましょう。イギリスさん。」

 イギリスは、真摯な瞳から目を背けた。黒曜石のようなあの瞳のまたたきが、イギリスは好きで、そして苦手だった。暴かれるのは拒むくせに、理解されたがる、彼はまた、臆病だった。日本はそれを知っていた。受け止めていた。彼が何を恐れるのか知りたかった。そして、それを、拒まれた。今まさに。

「俺は、だって、愛したんだ。」
「はい。」
「あいつを、心から、」
「はい。」
「初めて、」
「…はい。」

 日本は、相槌を打つだけだった。
 イギリスは、次第に声をくぐもらせていった。視線は窓の向こうの闇へ遣る一方、その硝子に映る日本の表情へと集中されていた。彼の声も表情も、揺らがなかった。それがまるで、受け止められているような感覚に似ていて、イギリスの目尻は濡れていった。滴は柔らかな水晶のように、頬を撫でてすべり落ちてゆく。日本はそれを見詰めて、そして、何も言わなかった。

「愛したのに、」
「なんで、」

 言葉は、一端口火を切れば、とめどなく溢れていく。

「ちくしょう、」

 イギリスは、握られた日本の拳を、強く握り返すことしか出来なかった。

 今更の感情だと言う。自分たちは国なのだから、関係ないのだとも言う。愛した自分が馬鹿だったのだと言う。俺は、誰も愛してなどないないとも、言う。日本はそれら全てを聞いていた。嗚咽は、あまりに純然に響いて、果敢なく、尊かった。痛々しいとも見えた。包むことさえ出来ない彼の悔やみに、日本は傷ついた。そしてとある言葉を浮かべた。口にした。

「“おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか、”」
「…にほ、ん?」
「“ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸いになるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう。”」
「…、それ、」

 イギリスは、鼻の詰まった声で、訊く。

「小説、の?」
「はい。」

 ずず。鼻をすする、子供じみた、仕草。それが、なんとも愛らしく、不釣合いだと日本は考え、続けた。

「友人である二人は、共に探す旅に出ると誓います。」
「…何、を、」
「“本当のさいわいを”」

 ごっ、と、風の音が大きく耳をつんざいた。
 いつの間にか、窓が開け放たれていた。車体を撫で上げる風が、窓から躊躇うことなく吹き込む。二人の髪が踊り、ばさばさと波打った。風は温かかった。

「日本、」

 イギリスは、涙を風にさらわれながら、問う。

「私も、あなたも、国です。知っています。」

 それを、今更どうすることもできない。

「もちろん、あなたが一心に愛したあの方も。」
「日本…?」

 窓から、直接、赤い光が差し込む。通り過ぎる。二人の柔肌が照らされる。

「だから、愛せない者が、在る。愛してはいけないものが在ってしまう。」
「でも、」
「私は、」
「あなたと同じ存在であることが、私は嬉しい。」

「イギリスさん、一緒に探しに行きましょう。」

 握られていた拳が解かれる。ほどかれで、てのひらは上を向き、差し出される。それは、受容だった。そして導きだった。救いに似た、愛のてのひらだった。
 イギリスは泣くのをやめた。泪は風にあおられ、とうに乾いていた。嗚咽も漏れない、感情の波に、すべてが揺すられていた。知らなかったものを、知ってしまった。知ってもいいものを、初めて知った。何も言えなかった。言葉も生まれなかった。産まれるのは感情だけだった。そしてそれを為す形は、ついに得られなかった。
 ただ、その手をとることしか。


(ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さるとおもう。)


#短編#島国同盟

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