or 管理画面へ

,るろ剣

やさしさの、通り雨

 ととと、と瓦屋根が軽快なリズムを奏でた。雨だ。雨が降り出した。

 剣心はこれまた軽快な足音を立てて、とたとたと廊下を駆けて行く。「洗濯物、洗濯物」歌い上げるように、慌てた素振りの横で呟く。廊下を抜けた先、庭には洗いざらしの敷き布と、神谷道場の人間の肌着や細々とした洗濯物が隙間なく干されていた。久しぶりの晴れだったから多めに干したのだ。そこに、急なにわか雨がやって来た。台所で野菜を洗っていた剣心は、雨どいを叩く小さな音にすぐに気がつき、ととと、と、同じような軽い音を立てながら庭へと駆けて行った。

 軒下に、ほとんどが乾きつつあった洗濯物たちを避難させる。最後の敷き布を縁側に置いたときには、急いでいたせいか少しのため息が漏れた。先ほどまでは晴れに晴れていたのに。白い布生地からは太陽の香りがまだほのかに残っている。大気には湿った風が徐々に徐々に浸透しつつあるのに、この洗濯物からは暖かな日差しのぬくもりが残っているようだった。
 あたたかい、と、縁側に腰を下ろし、敷き布に鼻先を埋めてみて、剣心はひとりごちた。そのまま板張りにごろりと横になってみる。敷き布にくるまってみる。珍しいことをしているな、という自覚があった。何かに甘えているような素振りだった。胸がすぅ、とほの暖かにぬくもる気がした。あたたかい。この家は、あたたかい。

 雨の音が、ぱらぱらと。続いて止まない。

 真っ白な敷き布に顔を埋めたまま、目を閉じてみた。瞼の裏には、雨の音ともに、真っ暗な情景が浮かび上がっていた。
 
 そこは太陽の沈みきった森の中だった。墓石が見える。るろうにをしていた、何年か前のとある場所の光景だ。流れるままに身を委ね、ふと見つめた情景だ。常緑樹の生い茂る森の奥に、ぽつねんとひとつの墓石がそびえていたのだ。誰ぞの墓か、参った形跡もなく、打ち捨てられたように荒れている。太陽は沈みきり、灯りは剣心の持つ提灯のみだった。その灯りも、墓のたつ森の奥、陰の隅までは映し出せない。不気味といえば不気味だったのかもしれない。けれど剣心には、その光景はむしろ、ただうらさみしいだけの、小さな哀切に満ちた場所に思えた。寂しそうだったのだ。打ち捨てられたことがか、こんな場所に死して取り残された死者のことがか、何かにかは分からない。ただひとつ、さみしい場所だと、そう思ったのだ。
 
 剣心は歩みを止めて、墓から少し離れた場所の木の根に腰を下ろした。今夜はここで眠ろうと思った。
 剣心の眠りは浅い。夢見が悪いわけでも休めていないわけでもないが、なんだか、こんなさみしい場所でなら、その浅い眠りも、打ち捨てられた墓場の悲しさと共に、泥のように深く沈み込んで眠れるような気がした。

 刀を抱きしめ、そっと目を閉じる。そうして少しして、頬にひとしずくが当たった。雨だ。小雨が降ってきた。それほど強くはない。強くなりそうもない。小さな通り雨。

 ぱたた、と、森を打つ。木の葉を叩く。その滴が、剣心の頬に落ち、十字傷を撫でて滑って、顎を伝って、落ちていった。

 途端。

 なにか、声が聞こえた。

 驚きで瞼を上げると、少し寝入っていたのか、剣心は縁側で敷き布にくるまって丸くなっていた。ゆるゆると起き上がり、声のした方を探す。探して、気付く。ああ、道場の方だ。弥彦の声だ。稽古の途中なのだろう、威勢のいい掛け声を発している。続いて竹刀の、ぱーんっ、という、薪を割ったような小気味のいい精錬な音が響く。薫の声も聞こえる。
 剣心は縁側で半身を起こしたまま、しばしその音に聴き入る。雨の音が、そのなかに混ざる。ぱらぱら。弥彦の掛け声。薫の声。雨の音。瓦屋根を叩く、雨の音。

 ふと、夢に見た墓場の情景が思い返される。

 あそこは、とても寒かった。暗かった。寂しくて、悲しい場所だった。そのかたわらで、自分が眠っていた。果たしてあのとき、自分は深く眠れていたろうか、もう思い出せない。ただそこは、とても自分に似つかわしい場所に思えた。こんな風に、あたたかいと呟いて、太陽の香りのする、洗いざらしの敷き布にくるまれて眠るような、そんなことは考えもしなかった。思いつきもしなかった。そんな日々の中で、ただ流れていた。そのはずだった。

 それが今、自分は。

 ここに帰ってこようね、と、ひとまわりも離れた娘に微笑まれた。一度はさようならをした場所だった。それでも、生きようという心と共に、剣心はこの家に、この場所に、このあたたかな場所に、帰ってきていた。それが全てだった。自分は、帰ってきたのだ。ここに。帰っていいと、ここに居ていいのだと、微笑まれたのだ。

 それは果たして、赦しにも似たような。

 雨の音が続く。弥彦と薫の掛け声も、まだまだ止みそうにない。
 剣心はもう一度敷き布に顔を突っ伏し、そして離れると、取り込んだ洗濯物を丁寧に畳み始めた。その頬の十字傷には、涙のような雨のひとしずくは、伝わなかった。


(やさしい記憶をつくってゆく)


#緋村さん #短編

back