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,るろ剣

生まれたての春を殺す

 春を何度繰り返しても、慣れぬものがある。
 
 笑顔は苦手でなくなつた。浮かべるのすら難しかつたのに、今となつては処世術でさえある。浮かべていれば、たといその場しのぎの不実であつても、おおかたが許される。赦してもらえる。踏み込みすぎねばよろしい。そのための笑顔だ。そんなだから、苦手であることさえ失くしてしまつた。そのことを哀しむ人間は、居ない。己でさえも、ああ些末であると、笑いもしない。微笑み。生きてくための術。あの雪の日に失つたかと思つていた其れが、ただ繰り返す春の先、俺の生きる術にすげ替えてくれる。

 では何が慣れぬものか。

 その笑みを信じてくれる、本物である。

 流れる足の向く先、困り果てた人など星の数ほど居た。ただ草鞋の鼻緒が切れただけの者も居れば、一瞬先の命の行方さへ惑う者も居た。ひとりひとり、ひとつひとつ、そのひとときに触れて、何か助けにはなれぬかと、手を伸ばした。さうすると、不審に思ふ者さへ居れど、たいていは、おずおずと己が手は握り返される。その結果、礼を云ふ者も、罵声を浴びせ追ひ立てる者も、十人十色、種々さまざま。

 そのなかで、につこりと、花開くやうに笑みかける人間が、居る。

 おそろしきことに。

 こんな、流れるだけの人間を、心から信じきるにんげんが。

 その笑みは、空恐ろしい。心底から、我が身のふるまいを信じ切っている、その笑みに恐怖する。
 大袈裟か。しかし、この手の温度を、その人間は「やさしい人なのね」と握り返した。俺はそうだろうかと、困り果てて空々しき笑みを浮かべた。やさしさを感じ取るのは、その人間がやさしいからだらうと、俺は「あなたが優しいのです」さう言葉にする。

 すると、その人がまた微笑む。「あなたに逢えて良かつたわ」

 俺はまた戦慄する。

 いけない。良くない。

 こんな男に、そんな笑みは、よくない。

 罰の意識が昇る。胸の底が軋む。

 こわいのは、笑みではないと気付く。

 其れを見ないふりをする。

 俺はすぐにその手を離す。俺はすぐにその温度を忘れようとする。

 知つてしまつたのは、いつかこの手で壊すかもしれない恐怖と、いつか喪うことを理解した後悔だ。

 やさしさはこわい。
 えがおはなれない。

 雪の日に、あの静かな雪の降る日に、俺はまた、この手のひらのなかのものを、みんな失う。

 春が来ない。何度も来るのに、めぐりめぐる季節が、春を呼ぶのに。


 俺の頭上には、雪がちらつく。


#抜刀斎 #掌編

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