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memento mori




 もし自分が死んでしまったら。

  それまでに何ができるだろうか。悲しむ人はいるだろうか。いてくれたら、少し、いやだいぶ嬉しい。
  残していく人は、数知れないだろう。この手にあまるだろう。あの人は残されてった先にどうしているだろうか。きっとあの人は、ピッコロは自分の幸福を願ってくれている。幸福のまま死ねたらあなたへの愛になるだろうか。そんなことを、生命倫理学の途中に考えていた。その考えは一日中悟飯の頭にへばりついて取れなかった。週末、スクールも休みなので神殿へ泊りがけで遊びにいった。その道中、夕空にきらりと宵の明星が輝いていた。一番星だ。呟きながら空を飛行する。足元には広くて狭い下界が広がる。空は西にかけて藍色のびろうどが敷かれてゆく。太陽が沈む。空中に留まりながら、ただ夕陽がとろりと地平に溶けてゆくのを見守った。神殿に着いたのは日が落ちてからになってしまった。
  更け始めた夜に訪れた悟飯を、神であるデンデは快く迎え入れてくれた。「夕方には着くつもりだったんだけど、今日は夕焼けが綺麗だったもんで、遅くなっちゃった」後ろ頭を照れ隠しのように小さく掻きながら悟飯は云う。デンデは笑った。「分かります。今日の夕陽は格別に綺麗でしたもんね」

  今日は面白いものを見つけたんです。デンデはいつものように好奇心旺盛な風に言った。神殿のなか、地下への回廊を降りていった先。そこには先代の神たちの集めた蔵書がまとめられた書庫がある。精神と時の部屋の構造によく似たその部屋は、果てがないようにただ真っ白く空間が広がって、白磁の書架が整然と立ち並んでいる。「迷子になりそうだから、ここには必ず、ミスター・ポポと一緒にくるんです」神様でもこの際限のない空間は把握しきれていないようだった。それほど広い書庫だった。


 「たぶん、先代の神様たちの記録のようなものだと思うんですけど……」

  書庫の出入口付近には、小さな机と椅子が立て付けられていた。そしてその上には、いくつかの書物が重ねて置かれている。恐らくデンデの読み途中のものだろう。その重ねられた書物のいちばん上、古びて赤茶けた革張りの表紙の本を一冊手に取り、デンデは云った。「これ、なんだと思います?」
  手渡されて、ぱらぱらとページをめくる。表紙の古びた装丁とは反して、中は日に焼けてもかび臭くもなく、クリーム色の綺麗な上質紙が綴られていた。次々とページをめくる。
すると、中には端正な文字ですらすらと、整然としてなにかの単語が羅列されているのが分かった。
  単語はひとつひとつに長尺があるものの、読み進めるうちになんとなくそれが何を示しているのかが分かってくる。
  「これって、名前?」
  「そうなんです、名前が載ってるんです」デンデが答える。「それも、ただ名前が並んでいるわけではないみたいなんです」
  ぱらぱら。めくってもめくってもページは終わりを告げない。見た目どおりならば、すでにめくられるページ数は尽きてるはずだ。本には終わりがなかった。ひたすらに名前が綴られていた。
 「これ、どうやら死んだ下界の方たちの名前が載っているみたいなんです」


  そのあと、時間も忘れて悟飯はデンデとその本について話し合った。なぜこんな記録があるのだろう。どのくらい前から記録されているのだろう。先代の神で記録は絶えているのだろうか。いつまでも終わりのないページ、この不可思議な構造はどうなっているのだろう。ミスター・ポポが夕餉の知らせにくるまでふたりはその本に夢中になっていた。

  「死」についてまとめられた、神の蔵書。いままでに死んでいった人間のおびただしい数の名前。そこにいつか、自分も載るんだろうか。悟飯は思う。神殿のベッドの中だった。ミスター・ポポが用意してくれた客間に悟飯は居た。あの本のことが忘れられなかった。もう一度書庫に行って眺めたい気もするが、夜更けにがさごそと人の家を、ましてや神の住まいを歩き回るのは気が引けた。おとなしく寝台のなかで羽毛の心地よさに身をゆだねる。睡魔はすぐそこまで来ているようで、なかなか悟飯をいざなうことはしなかった。
  そういえば、今日はまだあの人に会っていない。
  どこかへ出かけていると、デンデは言っていた。ここに住まうようにはなったが、ふらりと独り、出かけてしまうことがあるあの人は、ときどきこうして悟飯とすれ違う。
  もしも僕が、あの本に名前が載る日が来たならば。
  あの人はときどき――ほんの気まぐれでもいい。その名前を眺めてくれることは、あるのだろうか。
  考える。考えて、すぐに確信する。あるだろう。きっとあるんだろう。優しい人だから。気まぐれなんてものでなく、垣間見るなんてものでもなく、そっとページを開き、ときどきでも、見詰めてくれるんだろう。孫悟飯の名前を。
  そこまで考えると、なんだかとてもくすぐったいような気分になった。胸が心地よさに踊った。死を想うことで、こんなふうになるのはどうしても不謹慎に他ならないのに、あの人の優しさを、優しい視線を、名前に触れるだろう指先を思うと、みぞおちから食道にかけて、するりと甘さが流れ落ちてゆくような、そんな心地よさが先立つのを止められなかった。
  そうしてついつい眠りから遠ざかりがちな夜を過ごしているうち、寝台から離れた窓辺に大きな影が映った。
  あれ、と思う間もなく、影はするりと窓を飛び越し室内へと入る。常人よりも長身のその人は、まぎれもなく、たった今悟飯が胸に描いていたその人だった。

 「ピッコロさん」

  思わず身を起こし、かの人の名前を呼ぶと、寝台の横へ降り立ったその人は一言だけ、静かに呟いた。「あの本は、そう眺めるな」
  どうしてですか。訊き返すまえに、また呟かれる。「死に浸るな」
  お前は今、生きているのだから。
  上半身を起こしただけの状態で、寝台の上で、隣に立つかの人を見上げる。その表情は、宵闇に溶け込んで見えない。だが声音は分かる。静かだった。静謐で、丹念で、そして優しかった。
 「分かりました」
  悟飯は答える。声が客間に反響する。
 「けれど、もし僕が星になったとき、」
  あの本に名前が載った時は、きっとその名前を撫でてやって下さいね。
  すると、頭上に大きな手のひらが、ひらりと舞って降りてきた。
  躊躇うことなく、迷いなく。悟飯の頭を、その手が撫でる。撫で上げて、髪をすくわれて、前髪ごとくしゃくしゃにされる。
 「撫でるくらい、今、やってやる」
  くしゃくしゃにされた髪のまま、悟飯は茫然とする。
  珍しいこともあるものだ。
  ふふ、笑いが漏れた。
  憮然とした彼の顔は、悟飯には見えなかった。
 「ピッコロさんは優しいなあ」
  星になる前に、あなたを残してゆく前に、
  たくさん、この頭を。その大きな手のひらで。撫でてくしゃくしゃにして欲しい。
  悟飯は心からそう思った。



#魔師弟 #短編

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