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幸福の席
「はい、座って、座りなさいー」
始業ベルの音が鳴り、教師が扉をくぐって入ってくる。講義室の至る場所へ散り散りになっていた生徒たちが、各々の席へと戻ってゆく。自分の席を立たず、簡単な予習をしていた悟飯は、その様子をつぶさに見詰めていた。蜘蛛の子を散らす、の逆回転を見ている心持ちだった。ざわめきが潮騒のように引いては寄せて返す。教師が静かになさいと声を張る。隣の席で、女生徒が黄色い声をひそひそと上げる。(新しいネイルの色が、と先ほどから話題はそればかりだ)後ろの席では男子生徒が宿題を見せろと近隣の生徒にねだっている。悟飯は卓越した聴覚と感覚でそれらざわめきを全身で感じる。
初めは、落ち着かなかった。こういうさざめきの多い、人の気や騒めきに満ちた場所にはあまり慣れていなかった。全身が緊張して、こわばって、うまく座り続けることも難しかった。今は、そうでもない。慣れたせいでもあるし、これが一般の人々の世界なんだと理解できているからだ。人間は、こうやって騒々しさのなかで色めき立ったり、黄色い声を上げたり、笑い合ったり、ときに衝突しあったり野次を飛ばしあったりするものなのだ。
長らく「人」の「普通」からかけ離れた生い立ちのまま、「他人」と接する機会を逸してきた悟飯には、そのことがようやく理解できるようになった。
悟飯の席は決まっている。円錐に広がる講義室の、半ばの席、黒板の正面、中央。一番講義が聞きやすく、ノートの取りやすい位置。いつもそこが、悟飯の席で、定位置だ。講義が重なった友人に合わせて時折場所をずれることはあるものの、基本的に悟飯の席はそこだった。決まっていた。「あんたもほんとう、真面目よねえ」友人が笑って云った。悟飯も笑った。それが僕の取り得ですから。そう返すと「やっぱ真面目よ」肩を叩かれた。
悟飯の席は決まっている。いつも同じ場所で、時折友人に揶揄されたりからかわれたり、笑い合ったりしながら、同じ場所に座って、講義を聴き、ノートを取る。
平和の居場所だと知っている。
「でね、こんど重要文化財に指定されてる地域へ校外実習へ行くんだ」
終業のベルと共に帰宅した悟飯は、帰りがてら神殿へと立ち寄っていた。その日習った授業を、ノートを広げて、神であるデンデと共有するのがほぼ日課になりつつあった。
デンデはいつもにこやかに、そして楽しそうにして悟飯の話を聞いている。下界の知識を仕入れられるだけでなく、悟飯の生活の端々にひっそりと住まう、幸福の断片を分けてもらうことが、なにより嬉しいという風にして、悟飯の話に嬉々として耳を傾け続けていた。
「ぼくもその地域については古い文献を読み続けていたところだったので、とてもためになります」
デンデは笑ってそう返す。神らしからぬ、まるで普通の子供のするようなくだけた笑みで、悟飯の話に相槌を打つ。「校外実習、終わったらまた感想聴かせて下さいね」
ここでも、悟飯の席は決まっている。
神殿の中庭。白のパラソルの広げられた、神殿の色合いに溶けるような、これまた見事な白磁の円卓と円椅子。そこに座るデンデ。その右隣が、悟飯の席。
意図して決め合った場所ではない。何度か通っているうちに、自然に決まった暗黙の互いの定位置だった。デンデが左に、悟飯が右になり、円卓にノートを広げ、知的好奇心を埋め合うような、無邪気そうな談話を交わす場所。その席。悟飯の席。
悟飯の席は決まっている。
「そういえば、ピッコロさんはまだ戻られないんでしょうか」
ふと、話のちょうど節目のあたり、デンデが思い立ったように呟いた。周りをきょろきょろと見回し、伺っている。
悟飯もそれは、先ほどから何度かちらちらと考えていたことだったが、かの人の気配は近くにはまるで察知されない。まだ戻る様子はないようだった。
「どこに行ったか知らないの?デンデ」
「ええと、一応聞いてはいるんですけど、そんなに長引く用事でもないと仰ってたので、まだなのかなって」
「そっか」
かの人が、どこか寄り道をして道草を食うとも思えない。ふたりはなんとはなしに黙って、同時にミスター・ポポの出してくれた紅茶へと手を伸ばした。あち、と少しデンデが舌を出した。基本的に水だけを摂取するナメック星人である彼には、熱湯には及ばずとも、熱いお茶というのはどうにも難しいのかもしれない。ナメック星人って猫舌なのかな。悟飯は上の空で考えた。
「じゃあ、僕はそろそろ、」
「あ、もうこんな時間だったんですね」
それじゃあ、また。悟飯が笑うと、また来てください。デンデも笑った。
悟飯は、こっそりと、かの人に会えなかった一抹の淋しさを感じながら、神殿をあとにした。
悟飯の席は、家でも決まっている。
食卓を囲むとき。リビングでくつろぐとき。眠る際のベッドの場所だって、当たり前に決まっている。
(当たり前かあ)
戦いが終わり、世界に再び平和が戻ったときから、悟飯の席は、場所は、一日のずれもなく、不幸の影すら帯びず、決まっていた。定まっていた。あたたかにぬくもって、優しく悟飯をいざなっていた。
こんな日々を夢見ていた。
隣に座る人。相槌を打ってくれる誰か。自分の横で広がる笑い声。周囲に流れる、幸福の空気。余韻。自分の座る場所の、その穏やかさ。
(ああ、こんな日々が、僕の欲しかったものだったんだ)
その尊さに、その夜、悟飯はひとり、涙した。
なぜ、泣く必要があるんだ。
声が聴こえた気がした。
それは鼓膜からひどく遠く呟かれているのに、不思議と、凛としてまっすぐに悟飯のこころを揺らした。「かなしいのか」と声は悟飯へ問い掛け続けた。
かなしいからじゃないです。しあわせ、だからです。
目を固く瞑ったまま、涙に目尻を濡らして、悟飯はそう返す。
「幸せなら、笑っていればいいだろう」
理解に苦しむという口ぶりで、けれどどこか不安そうにして、声は続く。
しあわせでも、涙って流れるものなんですよ。
悟飯は呟く。けれど口は動かない。音は空気を震わせない。これは、かの人と通じ合った時にだけ出来る、こころのなかでの会話だ。
ああどこで見てらしたんですか。恥ずかしい。
悟飯が憮然として呟くと、声の主は黙ってしまう。のぞくつもりはなかった。そしてそう、小さな声で返してくる。悟飯はそれを黙認して、呟きを返し続ける。
僕、明日は学校休みなんです。
「それがどうかしたのか」
明日、またそちらに行ってもいいですか。
「いちいち許可など必要ないだろう」
今度はちゃんと、神殿に居ますか?
「明日は一日居る」
じゃあ、最近見つけた美味しい滝壺のお水を持って、伺いますね。
「分かった」
そこで言葉は、会話は途切れた。
ベッドのなかの、温もりのなか。ゆるく丸まって、ゆるく息をする。胸の奥がぎゅうと締め付けらのに、どうしてか温かい。幸せでも、涙は出るんですよ。流れるんですよ。誰に言うでもなく、呟く。今度は言葉にする。声にのせて言の葉に紡いでしまえば、それはより一層真実味を帯びて悟飯の耳を震わせる。
悟飯の席は決まっている。
明日は、またあの白磁の円卓のもと、左隣にはデンデが座っている。そして自分が座り、その右隣にはかの人が悠然として腰かけているだろう。ミスター・ポポが入れてくれたお茶を飲み、自分が汲んできた水を、白磁の陶器で、ふたりに振舞ってもらう。そうして、次はなんの話をしようか。デンデと顔を見合わせる。かの人は、ピッコロは黙っている。その沈黙は重くない。その黙した言葉は、視線は、確かに自分たちを見詰めていてる。彼はいつだって自分の隣で黙している。そして確かな存在で見守ってくれている。幸せなら笑えばいいと、不器用な言葉をときどき、かけてくれる。
悟飯の席は決まっている。
かの人が、ピッコロが隣で自分を見詰めてくれている。
(君には幸福の席がある)
#魔師弟
#短編
2024.10.15
No.60
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「はい、座って、座りなさいー」
始業ベルの音が鳴り、教師が扉をくぐって入ってくる。講義室の至る場所へ散り散りになっていた生徒たちが、各々の席へと戻ってゆく。自分の席を立たず、簡単な予習をしていた悟飯は、その様子をつぶさに見詰めていた。蜘蛛の子を散らす、の逆回転を見ている心持ちだった。ざわめきが潮騒のように引いては寄せて返す。教師が静かになさいと声を張る。隣の席で、女生徒が黄色い声をひそひそと上げる。(新しいネイルの色が、と先ほどから話題はそればかりだ)後ろの席では男子生徒が宿題を見せろと近隣の生徒にねだっている。悟飯は卓越した聴覚と感覚でそれらざわめきを全身で感じる。
初めは、落ち着かなかった。こういうさざめきの多い、人の気や騒めきに満ちた場所にはあまり慣れていなかった。全身が緊張して、こわばって、うまく座り続けることも難しかった。今は、そうでもない。慣れたせいでもあるし、これが一般の人々の世界なんだと理解できているからだ。人間は、こうやって騒々しさのなかで色めき立ったり、黄色い声を上げたり、笑い合ったり、ときに衝突しあったり野次を飛ばしあったりするものなのだ。
長らく「人」の「普通」からかけ離れた生い立ちのまま、「他人」と接する機会を逸してきた悟飯には、そのことがようやく理解できるようになった。
悟飯の席は決まっている。円錐に広がる講義室の、半ばの席、黒板の正面、中央。一番講義が聞きやすく、ノートの取りやすい位置。いつもそこが、悟飯の席で、定位置だ。講義が重なった友人に合わせて時折場所をずれることはあるものの、基本的に悟飯の席はそこだった。決まっていた。「あんたもほんとう、真面目よねえ」友人が笑って云った。悟飯も笑った。それが僕の取り得ですから。そう返すと「やっぱ真面目よ」肩を叩かれた。
悟飯の席は決まっている。いつも同じ場所で、時折友人に揶揄されたりからかわれたり、笑い合ったりしながら、同じ場所に座って、講義を聴き、ノートを取る。
平和の居場所だと知っている。
「でね、こんど重要文化財に指定されてる地域へ校外実習へ行くんだ」
終業のベルと共に帰宅した悟飯は、帰りがてら神殿へと立ち寄っていた。その日習った授業を、ノートを広げて、神であるデンデと共有するのがほぼ日課になりつつあった。
デンデはいつもにこやかに、そして楽しそうにして悟飯の話を聞いている。下界の知識を仕入れられるだけでなく、悟飯の生活の端々にひっそりと住まう、幸福の断片を分けてもらうことが、なにより嬉しいという風にして、悟飯の話に嬉々として耳を傾け続けていた。
「ぼくもその地域については古い文献を読み続けていたところだったので、とてもためになります」
デンデは笑ってそう返す。神らしからぬ、まるで普通の子供のするようなくだけた笑みで、悟飯の話に相槌を打つ。「校外実習、終わったらまた感想聴かせて下さいね」
ここでも、悟飯の席は決まっている。
神殿の中庭。白のパラソルの広げられた、神殿の色合いに溶けるような、これまた見事な白磁の円卓と円椅子。そこに座るデンデ。その右隣が、悟飯の席。
意図して決め合った場所ではない。何度か通っているうちに、自然に決まった暗黙の互いの定位置だった。デンデが左に、悟飯が右になり、円卓にノートを広げ、知的好奇心を埋め合うような、無邪気そうな談話を交わす場所。その席。悟飯の席。
悟飯の席は決まっている。
「そういえば、ピッコロさんはまだ戻られないんでしょうか」
ふと、話のちょうど節目のあたり、デンデが思い立ったように呟いた。周りをきょろきょろと見回し、伺っている。
悟飯もそれは、先ほどから何度かちらちらと考えていたことだったが、かの人の気配は近くにはまるで察知されない。まだ戻る様子はないようだった。
「どこに行ったか知らないの?デンデ」
「ええと、一応聞いてはいるんですけど、そんなに長引く用事でもないと仰ってたので、まだなのかなって」
「そっか」
かの人が、どこか寄り道をして道草を食うとも思えない。ふたりはなんとはなしに黙って、同時にミスター・ポポの出してくれた紅茶へと手を伸ばした。あち、と少しデンデが舌を出した。基本的に水だけを摂取するナメック星人である彼には、熱湯には及ばずとも、熱いお茶というのはどうにも難しいのかもしれない。ナメック星人って猫舌なのかな。悟飯は上の空で考えた。
「じゃあ、僕はそろそろ、」
「あ、もうこんな時間だったんですね」
それじゃあ、また。悟飯が笑うと、また来てください。デンデも笑った。
悟飯は、こっそりと、かの人に会えなかった一抹の淋しさを感じながら、神殿をあとにした。
悟飯の席は、家でも決まっている。
食卓を囲むとき。リビングでくつろぐとき。眠る際のベッドの場所だって、当たり前に決まっている。
(当たり前かあ)
戦いが終わり、世界に再び平和が戻ったときから、悟飯の席は、場所は、一日のずれもなく、不幸の影すら帯びず、決まっていた。定まっていた。あたたかにぬくもって、優しく悟飯をいざなっていた。
こんな日々を夢見ていた。
隣に座る人。相槌を打ってくれる誰か。自分の横で広がる笑い声。周囲に流れる、幸福の空気。余韻。自分の座る場所の、その穏やかさ。
(ああ、こんな日々が、僕の欲しかったものだったんだ)
その尊さに、その夜、悟飯はひとり、涙した。
なぜ、泣く必要があるんだ。
声が聴こえた気がした。
それは鼓膜からひどく遠く呟かれているのに、不思議と、凛としてまっすぐに悟飯のこころを揺らした。「かなしいのか」と声は悟飯へ問い掛け続けた。
かなしいからじゃないです。しあわせ、だからです。
目を固く瞑ったまま、涙に目尻を濡らして、悟飯はそう返す。
「幸せなら、笑っていればいいだろう」
理解に苦しむという口ぶりで、けれどどこか不安そうにして、声は続く。
しあわせでも、涙って流れるものなんですよ。
悟飯は呟く。けれど口は動かない。音は空気を震わせない。これは、かの人と通じ合った時にだけ出来る、こころのなかでの会話だ。
ああどこで見てらしたんですか。恥ずかしい。
悟飯が憮然として呟くと、声の主は黙ってしまう。のぞくつもりはなかった。そしてそう、小さな声で返してくる。悟飯はそれを黙認して、呟きを返し続ける。
僕、明日は学校休みなんです。
「それがどうかしたのか」
明日、またそちらに行ってもいいですか。
「いちいち許可など必要ないだろう」
今度はちゃんと、神殿に居ますか?
「明日は一日居る」
じゃあ、最近見つけた美味しい滝壺のお水を持って、伺いますね。
「分かった」
そこで言葉は、会話は途切れた。
ベッドのなかの、温もりのなか。ゆるく丸まって、ゆるく息をする。胸の奥がぎゅうと締め付けらのに、どうしてか温かい。幸せでも、涙は出るんですよ。流れるんですよ。誰に言うでもなく、呟く。今度は言葉にする。声にのせて言の葉に紡いでしまえば、それはより一層真実味を帯びて悟飯の耳を震わせる。
悟飯の席は決まっている。
明日は、またあの白磁の円卓のもと、左隣にはデンデが座っている。そして自分が座り、その右隣にはかの人が悠然として腰かけているだろう。ミスター・ポポが入れてくれたお茶を飲み、自分が汲んできた水を、白磁の陶器で、ふたりに振舞ってもらう。そうして、次はなんの話をしようか。デンデと顔を見合わせる。かの人は、ピッコロは黙っている。その沈黙は重くない。その黙した言葉は、視線は、確かに自分たちを見詰めていてる。彼はいつだって自分の隣で黙している。そして確かな存在で見守ってくれている。幸せなら笑えばいいと、不器用な言葉をときどき、かけてくれる。
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