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,エヴァ

鏡の向こうにもきみはいない


「鏡の向こうに行ってみたい」
  シンジがそう呟くのでカヲルはふ、と呼んでいた楽譜から瞳を逸らした。その顔を見遣って「どうしてだい?」尋ねてみる。シンジは明後日の方向に意識を傾けながら「鏡は正反対の世界が繋がっているから」とだけ答えた。カヲルはそれを聞き届けると「ここは嫌かい?」また尋ねた。今度は返事はなかった。暗黙の肯定というやつだ、とカヲルは楽譜を置いて、シンジの隣に立った。
  ここが嫌かどうかなんて、愚問だ。彼はいつだって嫌悪を胸に潜めて世界に立ち続けている。立ちすくんでいると云う方が正しいか。彼はここではないどこかにゆきたくてたまらなくて、ここではないどこかならといつも俯いている。それは夢物語だよ。現実に存在する人間はみな口を揃えてシンジにそう諭す。いい加減にしなさい。誰かは叱りさえする。それでもシンジは、ここではないどこかを夢想する。止められないのだ。だってここには、「自分」が居る。大嫌いな自分が。
  結局のところ、シンジがゆきたいのは「ここではないどこか」ではなく、「自分がいない世界」なのかもしれない。
  カヲルはそれを重々承知した上で、彼の隣に腰かけた。「もし鏡の向こうにゆけたら、」彼の夢物語に付いてゆく。
 「そこには僕はいるんだろうか」
 「いるよ、カヲル君はそのままでいるんだ」
 「正反対の世界なのに?」
 「カヲル君はそのままでいいから、だからいいんだ」
  カヲル君は。自分は違う。
  自分は正反対に引っ繰り返って、そうして存在してなければならない。
 「でもそれでは鏡のなかにはならないよ」
 「いいんだ、どうせ空想なんだから」
  どうせ自分とは離れられないのが、現実なのだから。
  カヲルは口の端を笑みに象ったままシンジの横顔に見入った。ああ君は。
 「存在するのは、それほど辛いことなんだね。君にとっては」
 「……」
 「夢想のなかに希望を見出して、現実のなかに絶望を抱く。傷つきやすい君らしいよ」
 「……」
 「きっと寂しさはなくせないだろう。それでもいいと、僕は思うよ。君らしさは、なによりも尊くて、貴いよ」
  だからそんなに、自分を責め立てる必要もないだろう。
 「カヲル君」
  カヲルは笑んだ。隣に腰かけたまま、空を見上げた。「君のままで居ることは、鏡の向こうへゆける可能性よりも、きっと稀少で、奇跡で、美しいことだよ。シンジ君」そう語り掛ける。シンジは泣きそうに顔を歪ませて、折り曲げた膝のなかにその顔を隠してしまう。「カヲル君、お願いだよ」
 「そんな言葉、鏡のなかから出て来てから、言ってよ」
  カヲルは笑ったままでいた。


(同じ場所には、居られない)


#カヲシン #掌編

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